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2015.07.25 Saturday

木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その4

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    基本的人権とは何か

     世の中に、より高位(メタ概念)の公理系から導かないと、トートロジー(循環論法)担って、結局何も言っていないことになるという議論はいくつかある。典型的には、「人権」とか人間の「尊厳」とかいうものが、典型的にそのたぐいのものである。この辺りに関して、木原さんは次のようにお書きである。
     人間は特別な存在であり、人間にはあらかじめ備わった「尊厳」が在るからであると言うが、その尊厳とは何かがあいまいなのである。この人間の尊厳こそが、実は、自明のように言われる基本的人権の根拠である。これは、神聖にしておかしてはならない権利とも言われるが、なぜおかしてはならないのか、これもあいまいである。
    (中略)
     この「尊厳」は憲法に於いても記載されているが、それが何かとあいまいにならざるを得ない。今日の社会福祉の規範、法律においても同様である。(『「弱さ」の向こうにあるもの』 pp.70-71)
     例えば、世の中の測定にまつわる度量衡に関する概念には、幅を利かせているものに、ポンド・ヤード法系とメートル系の二系統あるが、なんで、ポンド・ヤード系を選択するのか、その根拠は何か、と言われてそれは、実はそうであると決めたから、としか言いようがないのである。つまり、これがメタ概念である。つまり、ポンド・ヤード法からはどうこねくり回してもメートル系の体系には論理的に移行できないのである。移行するためには屁理屈というメタ概念を要する。


    メタデータによるメタシステムの例
    メタシステムは、いわゆるビッグデータとか、データベーススキーマと深い関係にある


    メタデータとファイルの関係(日経ITProから転載)

     通貨の計数システムが12進60進であるのか、10進を用いるのかは、これも英やで決めるしかなく、クォータ(1/4)が日常言語でどの程度利用されるかによって、12進が便利か10進が便利かが決まる。クォータシステムが多用される英語圏では、12進の方が有利である。



    クオーターシステムがとられているUS Map System

     これと同じように、メタ概念がなければ、メタの下位概念だけでは相互参照の世界になり、より高位のメタ概念に下位の概念からは移行できない仕組みとなっているとしか言いようがないのが、現実社会なのである。

     しかしながら、個別性が重視される世界では、このメタ概念がないという前提が暗黙に想定されるため、相対の議論に陥ってしまいメタ概念にすら到達できないという課題を持つことになる。

    メタ概念がないとどうなるか
     メタ概念を導入するに失敗した事例が、木原さんの本には出てくる。なぜ、人を殺してはならないのか、という根源的な問いに対して、相対的な下位概念だけの論理をこねまわしても、結局トートロジーに陥るしかなかった大学教員の事例である。
     これは先のテレビ番組の某教授の論理形式や説明方法に問題があるのではなく、実は理路整然と歯切れのいい論理展開しようとすると、ある一定の仮説(前提)をもって来なければ明確に説明がつかず、無理に説明すると論理的には成り立たない話なのである。それは、動物や他の生物の中でも人間だけに特別に尊厳がある、という仮説(前提)である。(pp.72-73)
     もちろん、この背景には、対話相手との間に、メタ概念が存在するという共役部分があるかどうかが鍵概念になる。おそらく、このうまく説明ができなかった大学教員は、相手との間にメタ概念に関する一時的合意がないことを前提にせざるを得ず、その結果論理破たんを起こすトートロジーに陥ってしまったのだろうと思う。

    人間の尊厳の起源としての聖書の概念
     人間の尊厳の起源は、人間同士の中からは出てこない。そういうことの中から出てこないから、人間が社会的な生産能力や社会への貢献だけではなられ、そういう生産性に寄与できない人や社会貢献できない人を評価できず、その結果、それらの人が社会の外側におかれる事が生まれるのではないだろうか。
     実際、人間の尊厳は、日本では明治以来から紹介されており、それを自明なものとして受け止めてきた。その際、「天賦」の原理、即ち聖書由来の原理である。人間の尊厳とは、普遍的な概念になり、社会福祉では法律の条文の根幹をなす用語にも登場するものとなっているが、そのもともとは聖書が起源であるといってよいのである。(p.73)
    そうなると、障害者とか、病者とかは社会の重荷でしかなく、それらの人たちは尊厳がないかのように誤解されることになる。あるいは、社会の「平均的」でない人たち、飛び出した人たち、障害を持つ人々、奇人変人と呼ばれる人々や、セクマイと呼ばれる人たちや、ホームレスの人たちなどは、その尊厳すら脅かされかねないことになる。そのあたりのことを、一時期流行ったフォレスト・ガンプという映画はうまく描いていると思う。ガンピズムなんて言葉がありましたなぁ。今でいえば、このガンプ君、自閉症候群の可能性が高い。


    フォレスト・ガンプの予告編
    「ガンピズム」の画像検索結果
    ガンピズム と題された本

    聖書的人権論をめぐる欧米の理解
     Low and Order等のアメリカの裁判ドラマを見ていればわかることであるが、アメリカの場合、憲法に定められた人権というものが法曹界での基準となっている。それは、人間の間の法律論の世界の中で、前提になってしまっていて、そこは忘れられているのである。

     以下の動画で出てきているJack McCoyは一応アイルランド系の警官の息子で、カトリック信者であり、人権派で、過去学生運動にも積極的に関与してきた地方検事という設定となっている。



    Low and Orderのワンシーン

     この動画で見られるように、ジャック・マコイ自体は、人権派の検察官であるという設定であり、人権は宗教問題と切り離し、あくまで法律の前提として考えているということになっている(あくまで設定上)。近時アメリカで同性婚が連邦裁判所で認められた、ということに関しても、他州で認められた同性婚に関して、同性婚を認めていない別の州政府が、他州でも止められた同性婚を否定することが憲法問題として争われたのである。他州が認めた同性婚者であるからと言って法の支配の観点から、社会から排除され得ないとしたのがその判決の意図である。この背景には、これらの同性婚者であっても法的には人権があり、 それを同性愛者であることを以て社会から排除するのは憲法修正第1条の観点から見て、適切でないという判断が下されただけである。同性婚の消極的容認で あって、同性婚を合法化する制度化が積極的に推進されていると誤解して騒いでいる人たちが居られるようである。それは筋が悪い議論である、と思う。

     ところで、この件に関しては、将に、木原さんが以下でお書きのとおりである。
     多くの日本人には意外に思えることであるが、人間の尊厳の根拠は、聖書に基づく前提に成り立っているものなのである。無論だからと言って現代の欧米人ですら、それほど日常的に意識しているものではない。(同書 p.74)
    人権自体が前提になり、社会の前提として人権を想定することで、人権思想そのものを生み出した聖書理解から切り離されてしまったのである。そして、今回のように、同性婚をめぐる問題になったとき、聖書から導きだされた人権の問題が、同じく聖書が否定している同性愛の問題と正面でぶつかるから、国論を二分するかのような議論になるし、アメリカでは国を挙げてのから騒ぎとなるのである。

     しかし、この辺の部分を読みながら、N.T.ライト先輩の第2章冒頭の隠れた泉と水道の話しを思い出してしまった。ぜひ、『クリスチャンであるとは』もお求め下され。

    人の尊厳に関するの聖書の根拠

     では、人間の尊厳に関する聖書的根拠はどこか、といえば、創世記の最初で人間がどのようにして人間になったか、という部分に帰着するしかない。
     「神である主は土地(アダマ)のちりで人(アダム)を形造り、その鼻にいのちを吹きこまれた。そこで人は生き物になった」(創世記2:7)という記載がある。先の説明と合わせて、人間の特殊性として、人間が土地からつくられ、神の「いのちの息」を吹きこまれて「生きものとなった」という特別な尊厳のある存在であると聖書に記されている。つまり、これもまた、神の尊厳が根拠となっているのである。(同書 p.76)
     人間の実に神の霊が吹き込まれ、いのちの息が吹き込まれたが故に人は人となり、人に唯一の尊厳が与えられている根拠になっているのである。

     しかし、このアダムの話を読むたびに、塩屋の神学校の大先生とキラキラネームに関してツィッター上で対話したことを思い出した。アダムというキラキラネームにどんな字をあてるか、である。
    男でアダムも無理があるが、どうせなら、「土地」 とか「土」と書いて、アダムと読ませるのはありかも。
    と書いたら、塩屋のオサレな先生からは
    たぶん、ちょっと放送コードに引っかかるかも知れないけれども、土人アダムがもっともヘブル語にかなったキラキラ名か。
    というお返事が来た。まぁ、しょせん我等は土人、土の人の末である。だからこそ、地理学は面白い(そこ持っていくかという突っ込みは御無用で御座る)。

     
    おれたちひょうきん族のキャラクターだった『あだもちゃん』

     まだまだ続く。




    評価:
    木原 活信
    いのちのことば社
    ¥ 1,728
    (2015-07-08)
    コメント:絶賛お勧め中である。

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