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2015.07.13 Monday

NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その10

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     今回は、引き続き、NTライト著 「クリスチャンであるとは」の第4章 この地の美しさのために からご紹介したい。

    回復された美しい世界
     終末映画、Apocalyptic MovieやApocalyptic Artの影響で、終末は恐ろしいものであるかの如くに言われていることが多い。まぁ、黙示録の世界は、その様な記述がみられることは確かではある。


    Apocalyptic Artに描かれた連邦議事堂

     しかし、その最終的に到来する神の新創造というのか、神の回復というのか、真の創造というのか、真に回復された(購われた、救出された)世界はは美しい事も同時に黙示録は語る。そこにライト先輩はわれわれの目を向けさせる。
     救出のために来られる神、さらには創造を完成させ、正していく神という考え方は、古代イスラエルのもっとも偉大な預言者の一人の名で呼ばれる『イザヤ書』で強調されている。その第11章は世界がただされた状況を描いている。狼が子ヤギと共に伏し、海を覆う水のように地は神の栄光で満ちる。(『クリスチャンであるとは』p.69)
     神の究極の目的は何かを考えると、神の義の完成であると最近は思っている。神の裁きとは、不埒な人間にただただ、大激怒、怒りを発することでもなく、神と人間との間で、義が神によって示される、神が義を完成することではないか、と思っている。ライト先輩が引用しているのは次の部分である。

    【口語訳聖書】 イザヤ
     11:6 おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、
     11:7 雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、
     11:8 乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。
     11:9 彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。
     その意味で、レフトビハンドとかは、終末と呼ぶのはどうかと思う。終末に向かう序曲であって、レフトビハインドで描かれた世界そのものは黙示録が言う終末そのものではない。むしろ、黙示録の再台にして最重要の主張は、破壊ではなく、神による回復と和解であると思っている。

     ベトナム戦争を題材にした映画に「地獄の黙示録 (原題Apocalypse Now 終末なう か いまここに在る終末)」というコッポラの作品があるが、それよりもあの戦争の本質を象徴的に描いて見せたのは、Good Morning Vietnum(グッド・モーニング・ヴェトナム)という作品のサッチモことルイ・アームストロングのWhat a wonderful worldの挿入歌が流れる中で、軍靴でアジアに足を踏み込み、人々の安寧な生活をWhat a wonderful worldの局を聞きながらアメリカ兵が破壊して行った過去の悲惨な戦争の経験ではないかと思う。サッチモが歌うWhat a wonderful worldの曲を背景に示されるアメリカ軍の横暴ではないがベトナムでの様子というのが、あまりに印象的で、このシーンは、涙なしには見ることができなかった。


    サッチモのWhat a wonderful worldが出てくるGoodMorgning Vietnum

     なお、このGood Morning VietnumはアメリカABCの朝の長寿番組Good Morning Americaのパクリである。以下は、ヒラリーダフ登場のシーン





    神に向かうサインポスト
     サインポストは、道しるべとか道標、指標と呼ばれるものである。第2次世界大戦中、とりわけ欧州戦線では、連合国側(国連軍側)の機械化部隊の移動速度が極めて高速であったため、このサインポストが多用された。


    アメリカのテレビ映画M☆A☆S☆Hで再現された
    朝鮮戦争の頃の米軍仕様のSignpost
    『イザヤ書』は、唯一の創造主なる神がご自分の美しい世界を救いだそうとし、正そうとしている物語を語ることでその問いに答えている。その物語は、これから本書でさらに深く追求するが、現実の世界はまさに、さらに大きな美、さらに深い真理を示す指標(Signpost)であると告げている。(同書 p.70)
     ここで、ライト先輩は、神が究極の終末の目的としている神の支配の世界が美の世界、真実の美の世界、真実の真理の世界、真実の儀の世界、真実の関係が回復する世界であることを示そうとしておられるようである。現代の世界での美や正義は、その神の世界へのプレリュードであるのだろうと思う。Facebook上での読書会で、定食屋の前に出ている食品サンプル(名古屋圏の特産品らしい)やスーパーやデパートの試食コーナーとか、まぁいろいろ出ていたが、カッコよく言うと、プレリュードだと思う。全体の構造をコンパクトにまとめて、これからの簡単な楽劇のサマリーというか論文のアブストラクトみたいにコンパクトにしたものだからである。


    YoYoMaによる バッハのチェロ組曲 Prelude


    食品サンプル(沖縄お重)

    食品サンプル化する真空パック化鏡餅

    完全なものとは何か?聖書無謬論との対比
     N.T.ライト先輩は、神の終末が既に完成していることを紹介しながら、それが人間が完全に現実のものとしえないことを次のような文章で示しておられる。
     この物語の要点は、最高傑作が既に存在していることである。作曲家の頭の中に既に存在している。現時点で、楽器も演奏家もそれを奏でる準備ができていない。しかし準備ができた時、すでに手元にある楽譜、すなわちあらゆる美とあらゆる謎を含む現在の世界は、最高傑作の神聖なパート譜であることが明らかになる。いま手にしているパート譜で欠損している部分は、全体と合わさって素晴らしいものとなる。(中略)現在、ほぼ完璧に思え、ほんの小さなかけでしかないと思える音楽も完成に至るだろう。(同書 p.71)
     この部分を読みながら、聖書無誤論・聖書無謬論との対比を考えた。ミーちゃんはーちゃんが以前、尊敬してやまない津ののらくら者先輩からのチャレンジを受けて、このSimply Christianを読む前に、聖書無誤論を論じた時、バッハのゴールドベルグ変奏曲を例にしながら、聖書無誤論を論じたことがある。詳細はこちらの記事をご覧いただきたい。

    ミーちゃんはーちゃんと聖書無誤論

     結局、真のゴールドベルグ変奏曲は作曲者バッハの頭の中にしかなく、いま聞くゴールドベルグ変奏曲は、何らかの解釈が入ったり、録音技術の限界や、音響技術の制約で完全に再現されていないのと同じように、神のことばそのものは無誤なんだけど、日本語に翻訳されたり、英語に翻訳されたり、ヘブライ語やギリシア語にされた瞬間に無誤ではなくなるという側面を持つのではないか、というのが上記ブログ記事の基本主張である。


    グレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲

    真理とは知りうるのか問題?
     真理とは何か、それははたして人間は知りうるのか問題はこれまでいろいろ議論されてきた。そのことに関して、N.T.ライト先輩は次のように主張している。
     「真理とは何か」「どのように知ることができるのか」という問いは、ほとんど主要な哲学の中心的なテーマである。それは私たちをさらに深い問いに引き戻す。思想家たちが問い続けているやっかいな問いである。「真理」とは何を意味するのか。そのとき、「知る」とは何を意味しているのか、というものである。(p.72)
     世俗の仕事の世界のことで恐縮であるが、科学の側というか、学問の側では、これに関して一応結論が出ていて、不確定性原理というのがある。結局、真実のものは、量子力学的に何とも言えないという大変残念な結論に至ってしまっている。つまり、観測って、知るって何よ、って世界の中で結局何も言えないではないか、ということがあるかもね、という話なのである。

     まぁ、学問しても所詮それは仮説の範囲にすぎないんじゃない、と言うことになってしまいかねない恐ろしさがあることを知りつつ、学問をしている人たちは、どうしたら現実に接近できるのか、というアイガー北壁を登る様な気のめいる作業をしているのである。

     なら辞めればいいという話はあるが、まぁ、登り始めたら降りるのも大変なので、居りれないという部分もあるし、まぁ、そういう困難なことが面白いからやっているという側面もあるのだ。知られてないちょっとしたことを発見した(知った)というひそやかな喜びも。これがなくなると学問するのはつらい。成功方程式だけを追っていくのは学問ではないし、面白くもない、と個人的には思っている。


    アイガー北壁を登る登山家

    2項対立図式化したがる愚
     真理ということを持ち出すと、すぐアメリカ型の教育や思考スタイルの影響を受けた人々は、すぐイエスかノーかという、アメリカの法廷テクニック的な真理追求の世界に持ち込みたがる。それでは、白か黒かしかなく、グレーがない世界になるではないか。誰もFAXアートを美しいとは思わないだろう(たまにこういう病気の人はいる。ミーちゃんはーちゃんも過去アスキーアートにはまったことはある)。世界は色で満ち溢れているのに。

     なお、アスキーアートに関して言うと、画面出力やレーザープリンタなど、昔のIBMのラインプリンターのように重ね打ちできない出力装置(昔はホラリス定数をコントロールすることで、重ね打ちが可能であった)を前提にアスキーアートが構成される結果、割と陰影が薄くなったのは残念であると思っている。


    当時の重ね打ち可能なラインプリンターで作成されたスポック博士のアスキーアート

     アスキーアートの話しではない。本論にもどす。

     私があえてこの事を言うのは、人生の意味や神の存在の可能性についての議論が、単純な考えから離れてより複雑なものになるため、だれもが不平を言いだすことが多いからだ。この世界(中略)は、真理への、現実への、確かなものについての探求においては、単純なイエスかノーかの判断を赦さない。それなりの複雑さがあり、それなりの単純さがある。学べば学ぶほど人間は驚くべき複雑な被造物であることが分かる。(同書 p.73)

    誰も、2項対立的な世界にすれば議論が簡単になるからと行ってそれに問題を縮約したがる近代のアメリカ文化に影響を受けた形の議論に落とし込みたがる。実に下らん世界であると思っている。そして、正邪論争に縮約化してしまうのだ。問題はそんなに簡単なことか、そんなに簡単にしてしまって、問題をきちんととらえているのか、とライト先輩はおっしゃっておられるようである。
     もっと二項対立に単純化した枠組みに無理やり押し込んで「はい、終わり」にしないで、もっと真理とは何か、人間とは何か、聖書とは何か、ということをじっくり考えたらいいのに、とおっしゃっておられるようである。この概念は大事なのではないか、と思っている。

    真理と事実の混乱
     さて、左記の二項対立で考える概念の背景には、事実と心理の混乱がある。法廷で争うことができるのは事実、Factのみであり、「真実」や「真理」ではない。争うことができるのは事実、検証可能なFactのみであるのだ。
     前世代の西洋文化では、真理は綱引きのロープのようだった。ある人たちはすべての真理を、油は水より軽いとか、2足す2は、4のように証明できる「事実」へと縮小しようとした。別の人たちは、すべての真理は相対的であり、真理を主張するとどれも、暗に権威を暗示しているに過ぎないと信じた。普通の人は(中略)真理とは何かが大切だと知ってはいても、不確かな感じしか持てていない。
      「真理」が意味すること、意味すべきことは、何についてはなしているかによって異なってくる。(p.75)
    この辺り、A Few Goodmen のなかで嫌味オヤジさせたら最高にうまいジャック・ニコルソン分するCarnel Jessupeが面白いことを言っている。 You can not handle the truth!と弁護側弁護士の士官役のトム・クルーズに、「お前さんみたいなやわな馬鹿もんには、真実扱う資格なんざねぇ。こっちとら銃弾飛んでくる中でそれに銃持ってドンパチやっとんじゃ」と悪態をついているが、これは一変の重要なメッセージを含んでいるのだ。ジェセップ大佐(ニコルソン)が言うように、「銃をもって、いのちを預かれば真実を扱う資格があるかどうか」の当否は別として、我々はあまりにも軽々しく真理、真理といい募っているかもしれないという反省は必要である。
     我等は神ならぬ人間でありその人間が真理と称されるものを扱うことの妥当性は考えられてよいだろう。


    A Few Goodmenのワンシーンから

    「知る」ということ

     知る、というのは一般的な言葉であるが、案外、この「知る」ということを別の言葉で表すことというのは、非常に難しいのである。 
     「知る」ということが何を意味するかも、同じように調べる必要がある。すでにほのめかしているが、より深い真理を「知る」とは、人を「知る」様なもので、長い時間がかかり、多くの信頼が必要であり、試行錯誤が求められる。(同書 p.76)
     これに関しては、Knowing God(邦訳 『神について』)というJ.I.パッカー先輩の名著がある。知るということは、ある面で言うと人格的なものであり、奥深いものであることを同書でパッカー先輩はお書きになって居られ、非常に人間が人間であるために重要なこととしてお示しである。
     われわれは簡単に知っているというが、実は、見ている、見たことがあるという程度の意味であり、それは知っているうちに実は入らないのではないかと思っている。そうであるにもかかわらず、我々は見たことがあることを、知っているといいがちな存在の様である。実に残念なことであるが。

    「知る」とは「愛する」こと

     N.T.ライト先輩は、先にJ.I.パッカー先輩がお書きになられたことをもとに、「知る」ことは「愛」であるとおっしゃっておられる。個人的には学問分野では、「喜び」である。というのは、この喜びがなければ、学問というアイガー北壁をよじ登る様な罰ゲームはやってられないのだ。そこに何かがあると思うから、他の方の論文を拝読し、データを集め、分析し、それでもカスしか出ないという無数の経験をし、その上で、辛うじて見つけた新しい事実(それはワムシとかミドリムシの新種ということもあるだろうし、煮ても焼いても食えそうもない小惑星)ということがあることを発見しても、うれしい人には嬉しいのである。だから、学者は他の人が聞いてくれようと聞いてくれなかろうと、話し始めたら止まらなくなり、聴衆全員がもう忍耐の限界で寝ていても、延々としゃべり続けるのである。まぁ、こういう長講釈爆弾する学者は冷遇されるが。
     こうした、より深く、より豊かな意味で知るということは、より深く、より豊かな真理を伴うことを意味するが、それを一言で言い表すなら「愛」である。しかし、そこに入る前に深呼吸し、ある物語の中心に飛び込まなくてはならない。その物語は、クリスチャンの伝統に従えば、私たちの希求する義、霊的であること、かかわり、美、そしてまさに真理と愛の意味を与える。そのためには、神について語ることから始めなければならない。(p.77)
     ここで、義や、美や、関係性、霊性に関してその根源たる神について、語りあう必要があると思うし、ぜひこの本で、N.T.ライトの主張を耳を傾けながら、神と聖書と語りあってほしいと思っている。



    評価:
    ---
    ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント
    ¥ 3,980
    (2002-08-21)

    評価:
    J.I.パッカー
    いのちのことば社
    ---
    (1978-07)
    コメント:改訳版が出るらしいです。心待ちにしています。

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