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2015.07.22 Wednesday

木原活信著「弱さ」の向こうにあるもの を読んだ その3

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     本日は、木原 活信著 いのちのことば社刊『「弱さ」の向こうにあるもの』をご紹介したい。今回で第3回目である。

    コンパッションと小さくされたもの
     善きサマリア人の譬えからの部分で、木原さんは、次のように書いている。サマリア人とは誰なのか問題を考える際に極めて重要な視座を与える部分だと思う。
     つまり、このたとえ話は、嫌われ者で真の援助者になるには程遠いと思われたサマリア人だけが、逆説的であるが、苦しむ者の傍らに、ただ一人寄り添うことができたというストーリーである。(中略)ただ、「かわいそうに思って」(コンパッション −断腸の思いで共感、共苦して)近寄ってきたのである。祭司やレビ人と対照的である。
     この「かわいそう」と書かれた言葉は、ギリシャ語のスプランクニゾマイという特殊な用語で、相手の痛みに対して、自分のはらわたがよじれるほど、つまり自分の身体が痛むほどの強い反応を示すような表現である。聖書の中で、この表現はキーワードの一つである。(『「弱さ」の向こうにあるもの』p.46)
     この前の日本宣教学会の本田司祭の基調講演の内容(詳細はこちら 日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた )ではないが、ある面、善きサマリア人は、ユダヤ人から小さくされたものであったのであろう。勝利者として手を差し伸べるでもなく、成功者として手を差し伸べるとしてでもなく、やむにやまれず、手を差し伸べた感じではなかったか、と思われる。この弱さの中に、生きた人物がナザレのイエスでもあった。世間から打ち捨てられた人々、取税人や遊女と呼ばれた売春婦、サマリア人、羊飼いや遊牧民、病気の人々や重篤な皮膚病を抱えた人、物乞いや身体障碍者の人々と対話し、そして、挙句の果てに、「食いしん坊の大酒のみ」今でいえば「パーティピープル」とか「パーティフリーク」と揶揄された人であったのである。まぁ、その意味で下記の礼拝説教題の様な人々として当時のユダヤ人からは捉えられていたと思うのである。


    ある教会の説教題

     主流派や成功者からは相手にされない群衆たちに対して、まさにかわいそうに思われたのが、ナザレのイエスであったのである。
    新改訳聖書
    マタイ 9:36 また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。

    口語訳聖書
    マタイ  9:36 また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。
     上記二つの引用部分で新改訳聖書では「かわいそうに思われた」と訳出され、口語訳聖書では、「深くあわれまれた」と訳されている語がスプラングニゾマイ σπλαγχνίζομαι なのである。その意味で、イエスは、善きサマリア人のように、小さくされた人々であり、その小さくされたナザレのイエスが小さくされた人々とともに、生きることで、ここに神の国がやってきた、ということを示したのが、イエスが主張した、「あなた方のうちに神の国がある」宣言であったのだろうとは思う。

    ウエメセ援助者とキリスト教会
     援助者としての教会や教会人と援助者の関係について、木原さんは次のように書いておられる。
     この「良きサマリヤ人」のたとえ話は、自分の正しさを示そうとして「私の隣人とはだれか」とイエスに質問した律法学者に語られたものである。「隣人とはだれか」と問うなら、自分を中心とした援助する側の枠組みでしか考える事が出来ない。しかしそれは、結果的に冷徹な傍観者と化してしまう。現代の教会やクリスチャンにも、何かこれと共通する点はないだろうか。その立場からは、援助される人、痛み苦しみなど、なかなか想像できない。自らを援助者と自負するものに、援助される側の真の苦しみを理解することはできにくい。(同書 p.47)
     明治期以降、日本のキリスト教は、海外の豊富な資源、豊かな神学的背景に依拠して伝道してきた。もちろん、明治期以降への日本の伝道者が全てそうだとは一般化して言う気もないし、そのつもりもないが、その一部やその精神性の中に、自分たちの持っているものがあまりに素晴らしいものなので、未開の東洋人(アメリカ人の目から見て)に憐れみの心で、それを是非とも分かち合いたい(分け与えたい)という思いがあり、文脈ガン無視の体系の中で、未開の東洋人に若干ウエメセで援助するという雰囲気になった人もあるだろうし、その感覚を持った人々もいたであろう。憐れみやかわいそうに思う、の意味が根本的に違うと思うが。

     NHKこころの時代で、先日再放送された筑豊田川で弱くされた、あるいは、小さくされた人々に長らく奉仕された犬養牧師の再放送で、犬養牧師自身が自分自身の伝道の方法論や態度の中に、この救済者の目があったことを素朴に認めておられた。一種のメサイアコンプレックスがあったことを認めておられた。

    苦悩に向き合うことと安易に用いられる「がんばれ」
     個人的には、日本的な語感の中で用いられる「がんばれ」という言葉が大嫌いである。半分、時に未だに抑鬱症状が出るからかもしれないが、頑張れないものはがんばれないのであるし、頑張れという他人の意思に沿って生きることほど、つまらないものはない、と思っている。それで世の中が回らなければ、世の中が回らなければいいのであり、大体そういう時には、だれか困った人が勝手に言わなくても頑張ってくれちゃう、とあきらめてしまえば、かなり楽に生きられる。
     木原さんは、この辺のことを中島みゆきのJ-Popsを引用しながら、次のように書いておられる。
     シンガーソングライターの中島美由紀さんの楽曲の中でも異色の「ファイト」という一曲をご存知であろうか。この歌詞をよく吟味すれば、解釈が困難で、実に奇妙な詩であることに気づく。
     冒頭の歌詞の内容は、実話に基づく話だそうである。中島さんのラジオ深夜番組に”あの子は中卒だから仕事を任せられない”と言われた少女かあの悔しさに満ちた字で書かれた手紙が届いた。その日の放送で、中島さんはこの少女に「がんばりましょう、努力すれば道は開ける」というような、言ってみればありきたりの言葉をかけてその場を済ませていたという。しかし、その少女の本当の苦悩に向き合うこともせずに、きれいごとで済ませてしまっていたのではないかとの多いが、この歌の一つの通奏低音になっているようである。
     続く歌詞には、奇妙と思えるセリフが独白の様な形でつづられている。(同書 p.49)
     まぁ、中島みゆきさんの「ファイト!」は、こんな曲である。


    中島みゆき ファイト

     大体中島みゆきの歌詞には、理解不能なものが多い(と思っている)。その昔、人生幸朗師匠が突っ込んでいる映像をテレビで見た記憶がある。その中でも、「責任者出て来い」といいたくなるような歌詞ではある。

     まぁ、歌詞の当否は別として、「がんばりましょう、努力すれば道は開ける」というのは、アメリカ型の反知性主義社会がもたらした負の側面である。この前提には、すべての人は等しく人権だけでなく、能力や才能や特性も同じであるという産業化時代、あるいは近代という時代が生んだもの、あるいは啓蒙思想の負の側面が含まれており、非常に反知性的な前提である。人はそれぞれ違う、という側面を無視しているため、逆上がりができない、したくない、その意味を理解できない人間に逆上がりをすることを強い、宗教的な理由でエビ・イカ・タコ・カニ・ポークが食べられない人間にもこれらを食することを強要する人々を生み出し、微積分学と全く無縁の生活を過ごす所謂文化人が、私は使ったことがないから、という理由のみでπ=3と全ての小学生に教えよと、ご主張になられる。そこまで言うなら、ネイピア数(e =2.71828....)も3にしてしまえばよい。実に反知性主義的なものも生み出した時代が近代であった、と思う。

     中学時代の教師が、「君たちには無限の可能性がある」とかいうことを卒業式付近に言っていたことがあるが、それは「君たちには無限の失敗の可能性がある」ということでもあるのだ。この成功するという方側面しか見ないこと、個人がその諸条件抜きに平等であるという悪しき前提を生んだのが、近代という時代であった。

     努力する機会すらない人に、まさにそれは失礼な話であるしそんな社会で生きることは、非常に劣悪な罰ゲームでしかない。

     しかし、ここで皆様にご質問したい。「神は人間に頑張れ、とのたもうであろうか?」と。

    自己を愛しすぎる若者たち
    自己が愛せない若者たち

     大学という現場にいると、まだ思春期の不安定さを引きずった学生たちに出会う。しかし、今の学生を見ていると意識高い系と呼ばれる自己肯定感、自己絶対感のある学生と、そうでない学生とに、ある程度分類できるような気がする。というか、中間層が減ったというべきか。

     中国人学生には、自己肯定感、自己絶対感のある学生が多く(例えば、プログラムが現実にできなくても、「プログラムはできます、簡単です」と言い放ち、ある程度できるのかと任せても、できておらず、できたとしてもプログラムのバグを指摘をしても、「これで問題ありません」とクライエントの意向と仕様をガン無視で言い放つ学生もいる)という例には、日本人学生の中でこのタイプの人々で出会う比率と比べると、5倍以上多い気がする。

     日本人学生の自尊心の低さを木原さんは次のように書いておられる。
     自己を大切にし、尊重することは人間にとって当然であり、その前提に立って、それと同様に他者を愛しなさい、ということなのである。
     だが改めてこの事を取り上げなければならないのは、その当然であるはずの前提が、今崩れてきていることを危惧しているからである。特に日本の若者の自尊心の低さの状況は深刻である。(同書p.53)
     意識高い系の人々のように自己を愛しすぎる学生、自己を大事にしすぎる学生は、それはそれでいろいろ珍妙な事件を起こしてくれるが、自己を大事にできない学生の方が、少し対応に困るし、対応のための時間はかなりかかる。まぁ、仕事なのでご対応はするが、かなり、手間をとられることは確かである。そして、本人は意図してないにせよ、違った意味で周りを振り回してくれるのである。大学に合格しても引きこもってしまう学生、論文を書けないと悩んでしまって一歩も進めなくなる学生など、カウンセリングの必要な学生がかなりの確率で発生するのである。これも大学が大衆化してしまった結果の一つであると思っているが。
     
    意識高い系症候群

     最近、意識高い系の学生がいるという話を息子や娘から聞く。結構うっとうしいらしい。まぁ、学生を見てもこの手はうっとうしい。講義中正々堂々と、TOEIC600点攻略法とかいう本を読んでいて、意識高い系学生を演出しておられるので、こういう学生には、オヤジの実力を見せつけてやることにしている。なんかこんな本も出ているらしい。



     個人的には、ソーシャルメディアが発達してきてから、人とバーチャルにつながりやすくなって、この種の意識高い系症候群患者の皆様が増えてきたような気もするが、カルトではないかと噂が流れた、東京のどこぞにあった東京○○○○の教会は、この種の意識高い系患者の皆さんがたくさんおられたようである。そして、意識高い系症候群患者の皆さんで集まって、教会活動をしていたもようでもあり、最後の方は、意識だけが高く現実の処理能力が低いため、目が当てられない状態になったのではないか、と思っている。
     ある場合は、短絡的であるが、承認の量や数に自分の幸福感が直結していることがある。(中略)それ(Facebook)がなにゆえ多くの現代人の心をひくのかという理由の一つとして、承認要求というものがその背後にあるのではないか、と思っている。(中略)学生たちが言っているような、「いいね!」の数が気になって仕方がないということは実感できない。けれども、頻繁に利用している人の中にはそうなっている人が少なくないようである。また別のSNSのTwitter等では、自分の書き込みを定期的にチェックしているフォロワーの数が指標になったり、友達の数を競って「数友」という現象まで起きたりしているという。(同書 p.56)
     意識高い症候群患者の皆様の問題は、スイフトのガリバー旅行記のラピュタ人のような宙に浮いたことしか言わない、言えない人たちなので、構想力はあっても、結果的に実行力と実力が伴っていないので、生活が破たんしたり、計画が破たんしやすいという傾向を持っていることである。


    天空の城ラピュタの原型のガリバー旅行記の挿絵

     こういう人への対応は、基本、皆さんご存知の『バルス祭り』をするに限る。しかし、ムスカ君は、結局意識高い系の原型なのね。昔は、こういう意識高い系のうっとうしい人たちを気障と当ててキザと読ませた。昔から意識高い系はうっとうしい、気に障る存在だったのである。


    バルス祭りの模様


    意識高い系にあるあるフレーズ

     個人的にFacebookやツィッターを使っているが、個人的には、広告宣伝のためのマーケティングツールだとしか思っていない。ピンポイントでピンポイントに必要な人への情報伝達ツールであると思って使っている。このブログは、その意味で、ピンポイントではない。ある面マスメディア的な広く浅くのメディアでしかないと思っている。まぁ、あと電子化しておくとだれかが予想外の単語検索で拾ってくれるので、一種の掲示板、ルターが贖宥状を張ったとされる大学の掲示板代わりの教会の扉の代わりだと思っている。ツイッターは、単語型のマスメディアの代替品だと思っている。

     しかし、Facebookはクローズドな世界で、かなり突っ込んだ議論ができるので、個人的にはバーチャルなディスカッションツールとして使う方がいいと思っている。

    リアル世界での承認の代替品としてのヴァーチャル承認
     マズローが指摘するところによると、人間の基本的欲求(その順序は国や文化によって違うという批判はあるが)の一つに承認要求というのがある。この商人が現在は、SNSなどの存在によって代替されているのではないか、というあたりの事に関して次のように木原さんは書いておられる。
     承認は、人間の表面的な行為をはかるだけである。先にも述べたように、現代人の最も深刻な状況というのは、その人のなした「行為」(doing)ではなく、その人自身の「存在」(being)としてありのままの姿をそのままで受け入れっられ、愛される間隔が喪失されていることであると思えてならない。つまりその人の行為がもし認められなかったら、自分存在自体やその存在価値が危うくなってしまうことになる。これは深刻である。承認欲求の裏には、このような存在への承認とでもいうべき基本的信頼感が欠落している裏返しがあるのではないかと感じることがある。(同書 p.57)
     ここで触れておられるDoingとBeingとの概念の関連の深い概念として、八子さんが書いておられた記事を受け、Becomingという概念をふれた本ブログのブログ記事 Doing Being Becoming Creating そして Recreation  という記事で思うところを書いたことがある。

     ここで、木原さんは承認欲求の裏側に基本的信頼感の欠落の問題として書いておられるが、そもそもが、集団への帰属意識の希薄化とそれに伴うリアルな人間ベースでのソーシャルネットワークの衰退が背景にあるのだと思う。つまり、これらのサイバー空間上でのネットワークに依存する人々は、最後の希望の地 Last Resort として、このサイバー空間に依拠しているのかもしれない。リアル空間でこのソーシャルネットワークを形成できなかった人々なのだから。

     秋葉原で自動車で突っ込んで何人もの人々を傷つけた方も最後の希望の場は、教会でも、地域社会でも、仲間でもなく、ネットであったし、最近ドローン少年として知られることとなった中学生なども、要するにネットの動画配信が彼にとってのラストリゾート(最後の希望の地)であった可能性があるのである。



    Last ResortというアメリカABCテレビのテレビドラマの予告編

     実に無益なことだと思うが、日本では、その個人が通過した、あるいは一時的に属する組織をあまりに過大評価する傾向を持つ人々が実は案外多いのではない か、と思う。学生の就職指導をしていて思うのだが、いわゆる一流企業を目指す学生が多いのである。そして、1回戦エントリーシート段階で、お祈りメールを 受け取ってしまい、そして、自信を無くす学生が多い。個人的には、経団連なんかと全く関係のない中小企業をまず選択し、協定を守る所がないところを受験 し、ある程度自信をつけておいてから、一流企業を目指す方がよい、と毎年繰り返し説明するので、最近は飽き飽きしている。

     大学入試でもそうで、大学の教育内容に関係なく、難易度ランキングや社会的評価だけを判断基準に大学が選択されているのである。それに何の意味があろうか。まぁ、大学人でも、この種のランキングで、おしり叩かれ、無意味な繁忙感だけが最近は続いている。

      いずれにせよ、会社と個人は内包関係ではあるが、等号関係ではないし、卒業大学と個人も内包関係ではあるが、等号関係でないのに、そのことが無視され、肩 書だけでものを語ろうとする人があまりに多く、看板倒れになっている方とお出会いすることも少なくない。そういう方とはお付き合いは避けている。

     大体出身校や所属組織で語ろうとする方ほど、案外その人に中身がないのである。その肩書きが外れたら、ぬれ落ち葉になっちゃう中高年のおっちゃんと同じではないか。企業をご卒業になられたら、大企業で、部長をしていようが役員をしていようが、関係なくなり、その人の内実が問われる点で同じである。このあたりの誤解が早く解けないか、と思うがなかなか解けないのだね。これが。

    成功や業績と無縁の神の評価
     旧約聖書の神は、基本的に弱いもの、弱いものへと向いているのである。上智大学の

    上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 前半

    上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 後半

    でも触れていると思うが、旧約聖書のYHWHは、弱いものへと降りてくる神なのである。そもそも、アカンたれの小さいものと呼ばれるイスラエルという民族を選び、ダビデという末息子を選び、見映えの良かったサウルを人格崩壊させ退け、自国民中心主義自国民のみ繁栄主義をとるのではなく、トーラー(律法)において、その民の中にいる在留異国人を保護させ、やもめの保護規定を置くという神でもある。

     新約においても、ナザレのイエスは、人々が相手にしなかった反ユダヤ社会的勢力の一員であった人々、つまり、取税人や犯罪者、サマリヤ人やカナン人のところにイエスは行っているのである。その意味で、スコット・マクナイト先輩やN.T.ライト先輩がご指摘のように、旧約聖書とナザレのイエスに至る一本の連続体が聖書には存在するようである。
    ここで大切な事は、人間の承認要求は、成功や業績という結果である行為を基準にすると、時として不充足感にさいなまれたり、結果的に果てしなく満たされない空虚感となってしまうことがあるということである。(中略)ところが神のまなざしは常に正確であり、不変である。しかも重要なことは、それは人間の行為ではなく、存在そのものに向けられるという点である。つまり成功しようがしまいが、その存在beingに対して、「尊い」と承認してくれるのである。(同書 p.67)
     繁栄の神学が個人的に嫌いであることは、これまで述べ続けてきた。それは、基本的に旧約聖書から連綿として続く神の正確と一致しないというか、そのある一部分だけを取り上げ、ものすごくバランスの悪い、人間よりの評価を重視する、世俗的な成功や豊かさを求め、それをもとに他者を評価し、そして、信徒を突き動かす性質を持ち、そして、本来人間を開放すべき福音が教会の公同パターンに閉じ込める呪いのようなものに変わるからである。

     このような囚われ人に開放を告げ知らせるはずの福音が、福音で無くなるのはどうかと思うし、すべての被造物の存在そのものが存在することに対して、「見よ、これらのものは良かった」と言い給いし神のイメージとは、繁栄の神学とその影響下にある人々が指し示しておられる神とはずいぶん違うかもしれない、と思うのである。

    まだまだ続く。




    評価:
    木原 活信
    いのちのことば社
    ¥ 1,728
    (2015-07-08)
    コメント:お勧めしている。

    評価:
    スコット・マクナイト
    キリスト新聞社
    ¥ 2,160
    (2013-06-25)
    コメント:イスラエルから現代に至る一貫した神の性質に関して書かれていて、本来の福音とは何かと考える手がかりになる書物

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