2015.07.27 Monday
『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (29)
『富士山とシナイ山』学ぶシリーズは本ブログの最長連載記録を更新が確実となっている中となっているが、本日もしつこく小山晃佑 著『富士山とシナイ山』から、本日も、引き続き同書の17章「神とバアルの間をよろめきつつ踊る」から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ からどうぞ。
凶作と旱魃と信仰
日本の神も、基本豊穣神であり、バアル神とは同一ではないが、その性質はよく似ている。基本、降水と豊穣の神とは結びついている。日本の神事でよくもちいられる注連縄についている白い紙(垂 シデ)は、雷の象徴であり、雨の象徴である。その意味で雷は”かみなり”であり、豊穣のため雨の神が鳴らしている太鼓の様なものと考えられてきた節はある。
注連縄と垂
横綱についている垂candy-botan.cocolog-nifty.com様から転載
農業者にとって、降水の有無は旱魃と直結し、灌漑の有無にかかわらず、雨水による水分供給は農業にとって極めて重要なのである。
前9世紀の北イスラエル王国のギレアドの人、預言者エリヤは、イスラエルの民とバアルの預言者集団と対決した。中国古典史を読んでいると、政権の転覆というか王朝の変遷は、基本、この飢饉問題、民衆の飢餓問題と密接に結びついている。その意味で、王朝が変わる時、天命が古い王朝から新しい王朝に移る旨、下り、その結果政権の転換が発生することを革命(変革の命令が天から天命として下った)と理解されてきたようである。あなた方はいつまで二つの考えの間で迷っているのか。主が神ならば、物語の発端は長期間にわたる旱魃である。中国の皇帝だったら、このようなとき、天の信任を失って引退するだろう。 (『富士山とシナイ山』 p.317)
主に従え、バアルが神ならば、バアルに従え。
(列王記上 18章21節)
その意味で、干ばつや天候不順とそれに伴う凶作が東洋とりわけ中国文化圏や漢字文化圏では政権交代の大きな要因となってきたといえる。日本でも、平安期から鎌倉期の王朝の遷移や江戸期から明治期の王朝の遷移は、明らかにこの天候不順と密接に政権交代が結び付いている。つまり、凶作であるのは、天が現政権にお怒りであり、それが政権打倒の印だ、と理解されているのだろうと思う。まぁ、226事件の時も、凶作を発端としているように思う。
つい最近まで、旱魃になると、ため池文化圏の農村地帯では、水盗りの問題等から血の雨が降りかねない(殺人事件が発生しかねない)雰囲気は結構見られたようである。それが、台風が雨を連れてくると、一気にその緊張が緩和するらしいことは、つい数年前に雨が降らず、農業用水ダムの水位が下がったときに農村地帯で調査した時にひしひしと感じたことが思い起こされる。
煩わすものと呼ばれたエリヤ
エリヤは旧約聖書世界の中でも最大の預言者の一人である。イエスが十字架上で死にかけている時、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と読んだ時、エリヤを読んでいると人々は言うほど、身近な大預言者がエリヤだったのである。
【新改訳改訂第3版】マルコそれほどの預言者でありながらエリヤは、「イスラエルをわずらわすもの」と呼ばれてしまったのである。
15:34 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
15:35 そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。
エリヤはこうした態度(引用者註 主とバアルとを両天秤にかけるかのようなやり方)を断固として拒否した。それ故エリヤはアハブにとって扱いにくい存在であり、アハブはエリヤを「イスラエルを煩わすもの」(列王記上18章17節)と呼んだ。(中略)預言者エリヤはイスラエルの民の霊的及び文化的平穏をかき乱した。ここで用いられている「煩わす者」(オヘール)という語は、アラビア語的背景を媒介して、泥で真水を汚すことを意味した。(同書 p.317)預言者というのは、現状に不満をならす革命分子的存在なのであり、結構面倒な存在であるのである。それこそ、預言者はある意味、嫌われ者であり、支配者にとっては困った存在でもあったので、多くの預言者の血が流された、とイエスが行っている通りなのである。
海の通商大国フェニキアと南の軍事大国エジプトに挟まれた小国イスラエルという国際政治情勢の中で、どのようにサバイバルを図るかに悩まされたイスラエル王国の国王アハブにとって、結婚も政治的(安全保障と関連が深い)なものであり、他国との国際関係で生きざるを得ない状況の中に預言者が「バアルに現をぬかすな」という預言者の存在は耐えられなかったし、オヘールという語が意図的に旧約聖書内でつかわれていることは、ある面、当時の国際政治においても、エリヤ先輩は、結構鼻つまみ者であったような印象を伝えているような気がする。
豊穣神バアル
農業者にとって、豊穣というのは素朴な喜びの源泉であることは、最近になってようやく分かった。収穫がなければ、サバイバルも出来ないし、将に土地が産物をならせることは1年に1回の事であることが多い(二毛作とかは除く)ため、その年の収穫の寮・不良で、その翌年の生き方すべてが決まってしまうが、しかし、農業者にとってみて、現在のこの時代でも農業者自身が打てる手は少ないのである。その意味で他者(天候)に依存して生きざるを得ないのである。となると、豊穣神の存在ということを想定したくもなる気持ちもわからなくはない。
バアル(字義どおりには主人あるいは所有者を意味する)はカナン地方の豊穣神である。バアル心は特に植生に雨を送って成長させる神とみなされてきた。バアルは大地に雨(精液)を送って、収穫を保証する。(中略)バアル祭儀と関連していたのがいわゆる聖娼制度である(列王記15章12節、申命記23章18節)。聖娼たちは神殿で暮らしていた。(同書 p.318)土地の豊穣と生の問題のメタファーを重ねることに関しては、古来から行われてきており、北欧神話、ギリシア・ローマ神話にあっても、この地母神信仰は非常に大きな影響を与えていることは、神話学とかの基本的文献を見ることですぐに察知される。
本記事冒頭でふれたように、日本の神事においても、この地母神的信仰はところどころに顔を見せて居り、女性神が割と多く日本神話においても女性神が豊穣神と結びついている例は案外多い様な気がする。日本で、聖娼制度があったかどうかは定かではないが、性行為と神事はかなり密接に結びついていることは、筑波山で行われていたとされる歌垣の伝説や筑波山自体が男体山と女体山からなっていることで、夫婦和合の象徴として理解されてきたこと、あるいは、信じにおける神子の数多くの登場など、様々な点で共通のものを持っているように思う。
豊穣神バアルとYHWH
以下紹介している小山先生のお書きの文章を読んで、主の主とヤハウェを旧約聖書で呼ぶことの意味を少し考えた。
エリヤはバアルが特定の機能の世話をするだけの並の神ではないと分かっていたが、バアルがイスラエルの礼拝するヤハウェと混同されるようなことは絶対にあってはならないことも分かっていた。イスラエルの神なる主、ヤハウェは民に穀物と雨と葡萄酒を与えるが、豊穣神として礼拝されることは拒否する。(同書 p.318)旧約聖書の中に、主の主という表現がYHWHを表す表現として多用されている。そして、先にも小山先生の書籍からの引用でご紹介したようにバアルという語も、そもそもは主または主人、所有者という意味があったのである。しかし、YHWHであらわされる方は、その主人と呼ばれる存在よりもはるかに大きく、それらを支配する存在であることを「主の主」と呼ぶことで示しているように思う。その意味で、「主の主」という呼び方には特殊な意味がありそうな気がしている。あくまで、気がしているだけである。より具体的に言えば、「主の主」というのは、偶像である神々を含め、すべてのものを包括する、あるいはそれらのものを支配する存在であることを主の主という表現は示しているように思われる。ただ、ここで言う支配は、通常日本語で想定される支配とは違う。包括的存在であるということであるが、これに関しての詳細は、後述する。
更に、小山先生は、異教の神と聖書の神の違いを、性と生の行為者であるか、いや、むしろ性と生の創造者であるかの違いであり、その面で、両者の間に大きな違いがあることを示している。
真の神は宇宙的活力の表示ではない。この神は生殖行為をするよりはむしろ創造する。神は性を創造するが、自ら性行為に参加することはない。自然の活動に対する神の関わり方は超越活動である。聖書的洞察は、創造者が真の神であるのに対して、豊穣神は偶像の一つだということである。生産性の増加が人間共同体において絶対的位置を占めてはならない。真の神の審判の下にとどまるべきである。エリヤは主張する、民の生活(歴史)に深い関心を寄せる神は創造者であり、自然内の万物の創造者であると。(同書 p.319)この記事を読みながら思ったことは、聖書の神は、自らが多くの神々の一つであることされることを拒否し、一つにして唯一の神であり、ここ個別の存在の自由な動きを受け止めつつ、すべてのものに関する責任を自らのものとして受け止める(支配する)存在であるということである。
われわれは、支配するというと、結末まで神経を張り巡らせ、細かなことに関与し、口をさしはさみ、手を出すというイメージがあるかもしれないが、聖書で言う支配する、あるいは神の国という概念は、この地に住む人々や存在、被造物の自由な行動と生存、活動を認めつつ、その最終的な結末を自らのうちに受け止めるということであるように思う。この辺り、結構多くのキリスト者の中でも誤解があり、神の介在がかなり細かな点においても常時行われるという理解をお持ちの方も多いようである。ちょうど、スコア譜がありそのスコア譜通りに演奏を演奏家に強いるようなイメージをお持ちの方が案外多いと思うのであるが、どうも旧約聖書を読む限りそういうことでもないようである気がする。実は、事前に主旋律を提示しておき、後は演奏家に任せるようなカデンツァ的な取り扱い、あるいはジャズのセッション的な対応が多いような気がする。
ある面、人間による、アドリブの縁起というかアドリブで行われるその演奏を関心をもって楽しんでおられるような神のイメージが個人的にはある。しかし、最終的な結末を自らつけるという威厳と尊厳をもちながら、ではあるけれども。
バアルと神の間をよろめく人間と歴史
人間は、神を知っていても目先に見える豊かさに心動かされてしまい、それと神との区別や峻別が不可能になりやすいこと、それが現在もなお起きていることに関して小山先輩は次のようにお書きである。そして、それがキリスト者の中でも起きかねないことを。
エリヤはバアルを拒否する。しかしバアルは人間の歴史内に踏みとどまる。歴史考察法の一つは、歴史をヤハウェとバアルが対決する物語としてみることであ る。豊作経験は人類にとって第1義的関心事であり、神秘の感覚と産物の増加の喜びに包まれている。(中略)ホセアによる自然の豊かな産物を巡って湧き出る判断の混乱の記述は、前8世紀に劣らず今日のの世界にも応用されうる。半端もののキリスト者として、ミーちゃんはーちゃんは自らが神のものであると知りながら偶像崇拝的な要素をもつことを否定はしないし、否定はできない。これは正直な感想である。であるからこそ、常に自らのうちにある、この偶像崇拝的なものに関して、正面切ってみすえないといけないと思っているし、対決するというか批判的にとらえないといけないと思っている。人間は鼻に神から息を吹き込まれた程度のものである。所詮その程度のものである、ということをこの前久しぶりに見たNHK教育テレビの「こころの時代」という番組で、内村鑑三に関して鈴木範久さんがお話しになっているのを見ながら、改めて感じた。彼女(イスラエル)は知らないのだ。穀物、ぶどう酒、オリーブ油を与え、バアル像の材料に使った金銀を惜しみなく与えたのが私だ、ということを(ホセア書2章10節)歴史において我々は常にヤハウェとバアルを経験するであろう。我々は両者の間をどっちつかずによろめき踊る儀礼を演じている。エリヤは我々を正視して、こ んなふざけた踊りはやめろと命じる。それでも我々は踊りをやめない。我々の知る歴史は常にこうした偶像崇拝の可能性と現実を含んでいる。偶像崇拝の全き除去の実現は、我々の知る歴史が終末を迎えたときに限られる。(同書 p.320)
内村はぶれの多い人物であったことが知られている。右に左にという感じで、揺れまくった人物であったようでもある。しかし、彼は、そうであったけれども神に生涯と自らの生を賭けた、キリストに賭けた(預けた、寄り掛かった)人物であったと思う。
このどっちつかずの態度、あるいはぶれのある態度を取り続けることは、この地上で続かざるを得ないことは素直に認めたい。しかし、キリスト者の希望はこの地上の生そのものにあるわけでなく、神が与える最終的な終末にあるというのが、キリスト者の希望であるというのが、聖書の主張であろうと思う。そのことは、このブログ記事で絶賛紹介しているN.T.ライト先輩の『クリスチャンであるとは』でも紹介されているところである。現在は店頭在庫限りとなっているらしいが、最新情報では再刷決定の模様である。
小山先輩は「我々の知る歴史が終末を迎える」とお書きであるが、これは、「我々の知る歴史が完成を迎える」という意味であり、クロノスとしての時(原子時計だろうが、日時計であろうが、時計というもので測られるような時間そのもの)が意味をもたなくなり、歴史的時間と結び付けられた時間という概念があまり意味をもたなくなるということではないか、と思う。
豊穣崇拝と偶像崇拝と軍備
聖書の神は増加と豊穣を喜び祝福される神であり、それを祝福される神である。それは、創世記1章の冒頭の次の言葉からもわかる。
【口語訳聖書】創世記しかしながら、その増加、豊穣そのものを神とし、神の座に据えることは拒否する。さらに、生存権を超えて、自らを含め他者を小さくされたものとすること、圧迫すること、殺戮する様な行為に関しては神は激しく否定されなければならない事を聖書の神は、「あなたがたのうちにある在留異邦人を愛せ」ということばで示して居られるように思う。
1:22 神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」。
しかし、この命令を中世から近代にいたるまでのキリスト教は守ってこなかった。なぜならば、キリスト教世界の中にあった在留異邦人であったユダヤ人を守るどころか、小さくされたものとし、圧迫し、殺戮したことはよく知られていることである。ある面、キリスト教は、自分の都合のいい様にカットアンドペーストで、読んできたような気がする。
そして、それは自国民優先主義の結果の自国民増加主義、自民族集団の権益増強のためであったことは、自国民、自民族、自グループ中心とする一種の偶像崇拝でもあったように思う。しかし、同じことをアジア大陸や東南アジア諸国で他人に勝手に名前を付け、資源を奪い、他者の文化と言語を禁じ、日本語をしゃべることを何の疑問もなく強いた国があったことを我々は忘れてはならないと思う。このブログでも紹介したが、踏んだ方は忘れるが、踏まれたほうは忘れてくれないのである。
赦しますが、忘れません を考えて
続々 「赦しますが忘れません」
この辺りの事情に関して、小山先輩は次のようにお書きである。
聖書の神は増加そのものを断罪することはない。増加が偶像崇拝的になるのは、増加が共同体の諸要素を抑圧あるいは圧迫することによって獲得されるときである。増加至上主義は極端になると人身御供を要求する。いかなる形式のものであれ、天皇崇拝は何らかの人身御供を要求する。天皇崇拝傾向が発現するのに、必ずしも天皇の人格は必要ではない。今日諸国が軍備増強に取りつかれていることが豊穣願望と偶像崇拝との相関性の明白な実例である。(同書 p.322)ここでふれられている天皇崇拝とは、「必ずしも天皇の人格は必要ではない。今日諸国が軍備増強に取りつかれていることが豊穣願望と偶像崇拝との相関性の明白な実例である」とお書きのように、所謂自国の防御とか、自国の権益の確保を言い募り、他国を小さくすることに関する技術でもある軍事技術を中心とし、自民族や自分たちのグループの豊かさ(経済的なものだけではない、価値があると思うものによって構成されるすべての豊かさ)確保のために、偶像となりかねない軍事技術や軍備そのものを依存してしまう(すなわち、崇拝してしまう)という、側面があるように思う。
依存症が人間生活に破壊的な影響力を持つように、霊的、経済的、政治的・・・な諸側面における依存症は、人間に破壊的な影響をもつようである。残念なことであるが。それは、キリスト教徒であってもである。なぜなら、人間は不完全なものであり、それであるが故に安易に容易に手に出来る者に依存してしまうからである。
このシリーズ、まだまだ続く。
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