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2015.07.06 Monday

日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた 質疑応答と感想

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     この記事では、先日お伺いした日本宣教学会での本田哲郎司祭の基調講演の質疑応答部分をご紹介し、最後に、ミーちゃんはーちゃん的感想をご紹介したい。


    質疑応答

    Q他の宗教世界にも神の種がまかれているとおっしゃったが、もしそうだとして、新約聖書、旧約聖書から新しい視点を得たという個人的経験を大事にしてきたことをどう考えたらよいのか。どこかで聖書に触れて、聖書に出会うことなくして、種は育たない、実らないのではないだろうか。他の宗教でもいいとなると、聖書の意味はどう考えるのか。

    A本田司祭

     聖書って、神経質に読む必要がないのではないだろうか。それよりもむしろ、目の前にいる人と出会う人との関わり、を考える必要があるのではないだろうか。文字文化に慣れてない先輩(人々)たちも案外おられる。現在原罪の日本でも文字文化に慣れてない人は多い。本を読む勇気がない人たちが結構いるし、本を読みましょう、聖書を一緒に読みましょうと言うことが失礼にあたる場合もあるだろう。また、外国から来られた方で、日本に来て長くないので日本語になじみがないために、牧師とか神父の説教がぱっと理解できない人々もおられる。 
    (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
     キリストが受肉したいきたことばになったように、われわれがキリストを受けたものとして受肉した生きた言葉になり、そして、聖書の内容をキチンといえば、それが宣教になるのではないでしょうか、ということをおっしゃりたいんだろうなぁ、と思った。聖書を読む読まないが問題ではなく、聖書の主張が、相手に届くことがもっと大事ではないか、ということをおっしゃりたかったんだろうなぁ、と思った)

     人と人の出会いはもっと大切にした方がいいかもしれない。何を尊重すべきかということをもう少し考えた方がよいかもしれない。教皇フランシスは、泣く人と共に泣き、喜ぶ人ともに喜べ、と通常と順番を変えて敢えて語ったがこれは意外に重要な指摘かもしれない。

     悲しみに共感できている人であれば、その友人の喜びがわかる。喜ぶ人ともによろこんでいるからといって苦しみがわかるといえるのだろうか。しかし、受難のキリストがあって、復活のキリストがあるのではないだろうか。聖書学者をやってきて、思うことは、聖書は読まなくてもいいかもしれない。自分の到達したところ、到達した理解で十分なのではないだろうか。ローマ書で、パウロは次のように書いている。
    【口語訳聖書】ローマ書
    13:8 互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。
    13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。
     つまり、自分自身が大切にされたい様に他者を大切にすることが神の戒めを守ることであり、不当な仕打ちをしないことが、律法の完全順守といっているのではないか。イエスも、ヨハネの福音書の記載では次のように言っているだろう。

    口語訳聖書 ヨハネの福音書
    13:34 わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
     13:35 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。
     愛ではなくて、互いに大事にしあいなさい、ということで律法を完全に守ることになるなら、そもそも、聖書がなくてもいいじゃないか。これだけで十分でないか。愛せなくてもいいが、互いに大切にしなさいということが大事なのではないだろうか。

    Qバプテスマを授けることをどう理解するか?

    A本田司祭
     身を沈めることとは、自らを低みにおくことである。我々は、私を含めて、バプテスマというと、罪を洗うことをばかりを考えていた。そうではなく、ばぷてぃぞーの語源から考えると、水の中に身を沈めることである。ということは、低みに身をおくということであろう。

     イエスのヨルダン川の洗礼式は、その意味で非常にシンボリックである。ヨルダン川の上流側、川上ではなく、小汚い死海に近いところでイエスは受けておられる。水が汚れているところでのバプテスマであるという理解から、罪を洗うのではなく、身を沈めさせることであり。死ぬことを意味していたのだろう。バプテスマはキリスト教に埋葬される儀式であると考えるとき、あのヨルダン川の泥水をくぐることではないか。洗礼の本来的な意味はそこにあるだろう。実際に低みにいる人、死んだような状態に置かれた人は、洗礼を受けたようなものではないか。こう考えると、洗礼は必ずしも受けなくていいかもしれない。イエスの弟子たちは、イエスが栄光を帯びるその時が来たら、一人は右に一人は左につけるようにと、抜け駆けしようとした。その弟子たちに向かって、私の杯を飲み、洗礼を受けることができるのか、と聞かれたのは、ゲッセマネの園での苦しみと、洗礼(死ぬこと)を共にすることができるか、と聞かれたのではないか。そう考えると、洗礼とは、受難の象徴である。その意味で、ここでいう洗礼とは、自分が受けたような幼児洗礼と比べ物にならない。儀式として思い出すためにすることは否定はしないが、それがないとダメ、ということにはならないのではないだろうか。

    Qイエスご自身が、神を愛し人を愛しなさいとシェマーを引用している部分があるが、神を愛せは当然であり、むしろウェイトは、人を愛せにあるのではないかということを思うがお考えをお聞かせください。

    A本田司祭
     神は人を通して働かれることを忘れてはならない。父と子と聖霊の関係を大切にしている。シェマーは、申命記6章4節以下の規定である。

    【口語訳聖書】 申命記
     6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。
     6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。
     6:6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、
     6:7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。
     6:8 またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、
     6:9 またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。
     6:10 あなたの神、主は、あなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに向かって、あなたに与えると誓われた地に、あなたをはいらせられる時、あなたが建てたものでない大きな美しい町々を得させ、
     6:11 あなたが満たしたものでないもろもろの良い物を満たした家を得させ、あなたが掘ったものでない掘り井戸を得させ、あなたが植えたものでないぶどう畑とオリブの畑とを得させられるであろう。あなたは食べて飽きるであろう。
     6:12 その時、あなたはみずから慎み、エジプトの地、奴隷の家から導き出された主を忘れてはならない。

    同じ申命記10章17節では、

    【口語訳聖書】申命記
     10:17 あなたがたの神である主は、神の神、主の主、大いにして力ある恐るべき神にましまし、人をかたより見ず、また、まいないを取らず、
     10:18 みなし子とやもめのために正しいさばきを行い、また寄留の他国人を愛して、食物と着物を与えられるからである。
     10:19 それゆえ、あなたがたは寄留の他国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で寄留の他国人であった。
    と、寄留者を愛すること、大事にすることを言っておられる。そして、神の望みを果たすことが神を愛すること、大切にすることであることを考えるとき、それは別物ではないかもしれない。愛することの具体的記述は申命記10:12節にあり、

    【口語訳聖書】申命記
    10:12 イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、
     10:13 また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。
    (ミーちゃんはーちゃん的感想
     幸いを得ること、これこそが福音ではないか。)

    Q本田先生は、聖書を読み愛しながら読まなくていい、とおっしゃる。聖書を読むよりよりむしろ大切なのは連帯であるとおっしゃる。そして、神が望んである他人を大切なことをしろとおっしゃっておられる。それでは、普段何しておられるのか。礼拝を守っておられるのか。聖書を毎日読んで心の糧にしているのか。

    Aミサは労働者と一緒に労働者のミサというのをやり、オープンコミュニオンとして実施している。火曜日の晩に、趣味のミサと私が呼ぶシスターたちがやっているミサがあるが、これもできるだけ早くなくしたいと思っている。釜ヶ崎に行った当初、毎日ミサをやっていたのだけれども。
     ミサは、日曜日のみにしようとしており、火曜日の趣味のミサも早くなしにしたいと考えている。普段は、主に野宿している人の散髪をしており、1日3時間ほどで30人くらいの散髪をしている。ほかにも、反失業連絡会 共同代表 NPO釜ヶ崎支援機構などで働いている。
    (ここで、質問した牧師が、「聖書をお読みになって、こころの糧を得られているのではないですか?」と言質を得ようと食い下がる。この食い下がったことに関して)
     聖書から今日の指針を読み取ろうなんて、せこいことは考えてない。(会場大爆笑)イエスと会うか会わないかの方がよほど重要であり、人との出会いの方が、もっと大事であると考えている。

    (ミーちゃんはーちゃん的感想
     幸いを得ること、これこそが福音ではないか。)

    感想
     いやぁ、すごかった。凄みがあるのだ。それは、応答などの中で、思い付きでしゃべっていることが明らかにわかる感じの発言の中に、ギリシア語、ヘブライ語の意味が空でポンポン出てくる聖書理解の凄みに加えて、現実に貧しい人の中で生きようとして、その人たちの痛みに直接向かい合い、そして共になくということをしている人物の凄みがあり、研究室の中にこもって、ひたすらヘブライ語、ギリシア語原典を紐解き、神学書を紐解いているタイプの人物にはない現実に直面した人物故の凄みみたいなものが伝わるのだ。

     なんか頭良すぎて、頭おかしい、とでも言いたくなるほどの凄みである。

     ただ、サクラメントであるバプテスマの軽視、他宗教のままでもよいではないか、聖餐式のオープン・コミュニオン、聖書なんか読む必要があるのか、という実に挑発的な表現などは、本田司祭の文脈を無視すると危険発言になりかねない部分があり、是認できかねる人もいるだろう。それが、質疑応答で、元神学校の教師をしていて牧師をされていた方の一種いらつきすら感じた質問というか、ミーちゃんはーちゃんには完全に詰問にすら聞こえた質問の、「毎日聖書を読むことが大事で、毎日読むことで心の糧を得ておられるのではないですが?」という叫びにも似た質問に現われていたと思う。

     この講演を聞きながら、これらに関して、少し考えたことを書いてみたい。

    ■サクラメントであるバプテスマの軽視に見える発言
     カトリックでは堅信献身礼という成人として教会というコミュニティに迎え入れられる儀式をするらしい。しかし、カトリックもルター派も原則バプテスマは、乳児洗礼である。プロテスタント派の一部のように、成人洗礼に対するこだわりはない。あるグループにおいては極端なこだわりがある。殊に日本では、コンスタンティヌス型のキリスト教や国家と一体化したキリスト教国になったことがないため、殊に明治以降衛生環境が急速に改善し、乳幼児死亡率が急激に低下する中でに、洗礼を受けずに死亡する乳幼児が減り、近代の脱宗教化した法制度が成立した前後にキリスト教が日本で復活した為に、教会墓地への埋葬の問題が深刻化しなかったため、ある面、乳児洗礼が必要ではなかったという側面がある。プロテスタント派の一部が成人洗礼の重要性を強硬に主張する人たちからすれば、古代教父が言ったようなとりあえず何でもいいから子どもが生まれたら水に浸けてバプテスマしておけ、といったような態度はとうてい受容できないだろう。しかし、幼児洗礼で、訳も分からず水に漬けられた、あるいは水をかけられた人は本当にバプテスマを受けたと言えるのか、神の前にメタノイア(神自らが低みに身を置かれたこと、この地でのイエスの受肉を含む)をしていると言えるのか、という疑問にいたり、まぁ、そうであるとするならば、イエスに従いたいという思いを持つ人々でありながら、形としてのバプテスマを受けることに抵抗がある人の場合、あえて、それを強いることに意味があるのか問題を考えると、どうなんだろう、ということ位ではないか、と思う。

     そして、この理解が、本田司祭をして、異端審問官を招くことになることがわかっていても、オープンコミュニオンに踏み切らせたのだろうと思う。まぁ、異端審問官の方もご納得の上で、御帰りになられたようであるから、今なお続けられているのだと思う。

    ■他宗教でもよいではないか発言
     第二バチカン公会議以降、他宗教への容認がカトリックでは進んでいるやに聞く。ちゃんと追っかけているわけではないので、よくは知らないが。もし、イエスに出会って、イエスが好きで、神が好きであっても、その人が言い出しもしないのに、なかば強制的に、強圧的に説得してキリスト教に改宗させることにどれほどの意味があるのか、という疑問ではないか、と思う。これを読み違うと、本田司祭は万人救済説だ、何もしなくてよいし、他宗教の人でも神の国に登って行って、入れるのだ(聖書をよく読むと天国に上っていって入れるというこの物言いは不正確であることはわかるが、あまりに特定の考え方に慣れ過ぎていると、そのことの不正確さが分からなくなる場合があったし、本田司祭もかつてそうだったと言っていたし、ミーちゃんはーちゃんもつい最近までそう思い込んでいたことはここで告白する)と誤解することになる。もし、信仰を強いることで、その人が価値を置き、その人が属する既存の社会や価値体系から分断し、その人自身を支えるソーシャルネットワークやソーシャルキャピタルを大きく毀損するとするならば、そこまでのことは本当にイエスは求めたか、というと、求めてないのではないか、ということを聖書解釈の中から導き出した結論であると思う。それが、基調講演の冒頭で、本田司祭が我々は、福音を伝えずに、キリスト教というものを伝えてしまったのではないか、という疑念につながっているのだと思う。

    ■聖書を読む必要はない発言
     これは、近代キリスト教界人の悪弊である「何が何でも文字としての聖書を読むことが大事ではないか」というか暗黙の仮定への異議申し立てであるとミーちゃんはーちゃんは見た。ある種の学習障害がある人(文字操作ができない、文字操作が不得意)という人は必ず存在する。生まれつき障害を神に負わされた人々(Challenged)、高齢のため読めない人、一定の年齢に達し手から視力を失った人、様々な事情と理由で文字としての聖書に触れることができない人々は存在する。文字を読め、聖書を読め、と普通の事のようにそれを強いることは、本当に妥当なのだろうか、と思うことはある。そして、無理強いをして聖書のことば、イエスのことばに触れさせたところで、無理強いをするなら、その受肉した言葉であるはずのイエスのことばは、無理強いをされた人に残らないのではないか、ということをおっしゃりたかったんだろうなぁ、と思う。

     それよりも、キリスト者が聖書を読み、聖書を理解しているのであれば、そして、それを自分自身の中で受肉しているのであれば、その自分自身を他者にさらすことで、受肉した言葉をあなた自身が示せばよいではないか、それこそがイエスがしたことではないのか、イエスの弟子だとあなたが言うのなら、それをすればよいではないか、といわれたかったのだろう。

     もし、あなたがイエスのことばを認めるというのであれば、マタイ25章に出てくる、病の人、飢えかわく人、死にそうな人を見る中で、その中におられるイエスと出会い、あなた方が覚えている聖書のことばに照らしてどう行動するのかが問われているのではないか、とおっしゃりたかったんだろうと思う。

     ところで、薄い本だが、いい本の中に、ジャン・ヴァニエという人の「人と出会うこと」と「小さき者からの光」という本があるが、人と会うことの意味に関してお読みになられたいなら、是非読まれたらよいと思う。良い本である。お勧めする。


     我々は、現代という学校教育があり、文字教育が進められた結果、誰もが一応は文字が読めることになっている(必ずしもそうとは限らないのだが)ため、聖書が読めるということは当たり前のことになっているが、これは、ついぞ、この100から150年くらいの事である。それ以前の1800年くらいは、ほとんどの人が聖書を読めなかったし、そもそも聖書を手にすることなど思いもよらないことだったのだ。グーテンベルグ聖書なんて、高過ぎで庶民が変えるものではなかった。その背景を考え、それでも神の民であった人々は居たわけである。みんながルターやカルヴァンのようではなく、聖書の文字を自分で読むこともできない無名のキリスト者の存在をどう考えるか問題で、現在もなお、その無名のキリスト者はいるのではないのか、ということをどう考えますか、ということだと思う。

     自分の母親のことで恐縮であるが、母親が、「最近聖書を読めない、難しすぎて読んでも分からないから、どうしたらいいのか?」と聞かれた。これに対して、「そんなの読まなくていい。気分が収まるなら、そうしてもよいが、読めないのに無理して、読んだ気になるよりは、主の祈りを覚えたらいい。そして、ヨハネ3章16節くらいは暗唱聖句で覚えているだろう。それらをじっくり繰り返し思い出したら、それでいい」といったら、それでも聖書は読まないといけないのではないか?だとしたら、『日本人のための聖書物語』でも読んだらいいのか?」と聞かれたので、「したきゃしたらいいけど、それ聖書と思って読むなら、やめといた方がいい。神学書でも、日本人のための聖書物語でも所詮解説に過ぎないから」と返したことを思い出した。もう、日本人キリスト教界関係者は、「文字としての聖書を読まなければならない強迫神経症」に陥れられている方もおられようである。それから解放することが、本当の福音なのかもしれない。


     最後の質疑応答の噛み合わなさっぷりったら、パリサイ人とイエスの問答、ニコデモとイエスの問答はさもこのようなものではなかったか、とリアルで再現されたのを見たような気がした。

    全体としての感想
     ナウエンの本に「光への道、闇への道」というこぐま社から出ている本があるが、あの中に老人しか持ちえないユーモアというのか、ウィットがあること指摘している部分がある。もう何も失うものがない人物、そういう色気のない人物、特に老人だけが持ちうる着飾っていない素の人間の持つ強さとユーモアのセンスを感じた。

     ケセン語訳の山浦さんも、本田哲郎司祭も実にこの種のユーモアセンス抜群で、質疑応答はめちゃくちゃ面白かった。特にプロテスタント族との質疑応答の噛み合わなさっぷりが面白くかった。あぁ、プロテスタントは現実よりも、聖書の中に文字に拘泥している種族なのだ、と自分自身を含めて思わされた。

     しかし、本田司祭、これだけ言語センスと解釈センスがすごくいにもかかわらず、自分自身で、ちょっとボケが入っているから、って予防線張るのはちとズルくないですか。今度から、どっかで話す時に、「私はね、若年性ボケ、天然ボケが入ってますから、まぁお許しを」ってやろっかなぁ、と思った。まぁ、このブログの読者の方であれば、ミーちゃんはーちゃんが天然ボケ満載であることはよくご存じの事かとは思うが。w

    後日談

     前回の記事で、本田司祭とNTライトの聖書読みが似ていることを指摘したところ、南の国のコメント王子(本田司祭の本を読まれたようである)から、鋭い突っ込みが来た。聖書読みが両社で似ているのに、なぜ、小さくされたものという語の「された」ということから一転突破型のように本田司祭はラディカル(ウルトララディカル)であり得るのに、ライトはそこまでラディカルではないのか、というある種当然の疑問を頂いたのである。

     とりあえず、疲れていたので(すいません。出たその日に記事をアップする必要が諸般の事情であったので)ざらっとしたお答として、
    本田さんの国内向けオンリーでの活動と、NTライト先輩の大西洋の両岸での活動あたりにあるのではないか、と
    とは書いたことに対して、南の国のコメント王子様からは、

    本田神父は以前と変わらない…言い方を変えれば一貫している、とも言えますが、新しさはほとんど感じません) 本田神父は伝統を否定して独自路線(福音の原点への回帰路線?)に進む傾向が強く、NTライトは伝統を問い直しつつも(その意味でリベラル)、伝統への敬意を失わない(その意味で福音派)傾向の中で 福音の原点に立ち返ろうとしているように思えます。そこらへんにライトの美しさを大切にする姿勢を強く感じるのです。(中略)ミーちゃんはーちゃんが言うように、本田神父は局所的であり、それに対しライトは大局的というか欧米を中心に世界のキリスト教と対話しようとしているように思えます。
    といただいた。これはその通りだと思います。昨日放送、土曜日再放送の「こころの時代」を見ていただいても、基本同じことしか言っていなかったですから本田司祭は、ぶれてなかったです。これはいいので、この「こころの時代」は、その主張を丸受けするためだけでなく、実際の自分自身を見直すためにも、必見アイテムだと思う。

     あと、もう少しいえば、本田司祭は、カトリック教会という枠組みの中での伝統と容認と胴にもならない現実に依拠した普遍(カトリック)が受け入れ可能なある特殊形態としての正義、平和、よろこびを目指していて、ライト先輩そのものは、できるだけ一般化した形の中で、美でもあり、義であり、平和でもあり、霊性でもある、神の完成された姿の意味を、聖書と神の主張(クリスチャンであること)が現代社会においても意味を成すとうことを、護教的に示そうとしているに思う。

     その意味で、本田司祭には、ナウエンと同様、痛みや弱さへの関心が強く、ライト先輩は美に関する関心が深い、ということだと思います。それでいいのではないかと思う。人それぞれが違って想像されているし、本田司祭に響く人もいるし、ライト先輩により近いものを感じる人もいるのでしょう。

     個人的には、N.T.ライト先輩には強く惹かれる。しかし、そうであっても、人に過ぎないし、そこでの聖書理解はどうしても限りがあるものになる。それは本田司祭においてもそうである。面白いからといって、その人の主張を全部支持しているわけではないし、そうする必要もないと思っている。一旦受け止め、そして、自分自身が聖書と神とのかかわりの中で自分らしい聖書理解を作ればよいのだと思っている。

     この前京阪○○神学会(○○は秘密、伏字)で「一信徒から見たライトを語る」というテーマでお話する機会を頂いた時に、中澤啓介先生がわざわざ東京から来られて(当日話始めることの御姿を見たので急にめちゃ緊張した)、「ライトは従来の枠から半歩しか進んでない。半歩だけ進んだものを見せているのではないか」という趣旨のことをご発言であった。このメタファーで言えば、本田司祭は、2歩3歩どころか、100m先か、200m先位、実際にエイや、やっちゃえ、って走っている感じかなぁ、と思った。質疑応答まで聞いていると、我々は案外近視眼的になっていて、従来の枠組みがあり、その枠組みにあまりに拘束されていて、本田司祭みたいに自由に枠組みを離れて行ける人が少ないということかなぁ、と思った。確かに、皆が皆、本田司祭したら、キリスト教界大混乱にもなるとは思う。しかし、このようにいろんなお立場の方があるのが、神の種がいろんなところにまかれている、ということでもあるのかもしれないと思う。ただ、世間から小さくされてしまっている人のところにも、割とのびのび育てる人のところにも。

     20151128追記 ある方の指摘を受け字句の修正をしました。



    評価:
    ジャン・ヴァニエ
    聖パウロ女子修道会
    ¥ 864
    (2008-10)
    コメント:良い。名作。絶賛

    評価:
    ジャン・バニエ
    あめんどう
    ---
    (2010-08-20)
    コメント:良い。絶賛。おすすめ。

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