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2015.07.04 Saturday

日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた

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     すみません。この記事は異様に長いです。中身がいいので、切るに忍びないので、今回は一気にご紹介。

    日本宣教学会第10回全国研究会で、本田哲郎さんのお話を聞いてきた。本田哲郎さんは、聖書学者でありながら、釜ヶ崎でホームレスのための奉仕をされた知る人ぞ知る方である。

     では、そのお話をご紹介したい。見出しは、読みやすさのためにミーちゃんはーちゃんが適当にいれたものである。

    -----------

     宣教の途中で、いろいろ野次が飛んでくることは多い。しかし宣教にあたって、皆さん方は、飛んで来る野次に負けないでほしい。本日のお話は、物議をかもすかもしれないけど、一度受け止めてほしい。


    物議をかもす発言連発の本田司祭


    宣教といいつつキリスト教を伝えてませんか?
    本来伝えるべき福音ではなく?

     ところで、宣教というとき、我々は、福音をつたえようとしているのか、キリスト教を伝えようとしているのかを考えるべきではないだろうか。現代において、宗教としてのキリスト教を述べる意味があるのだろうか。イエスが言われたのは、「行って、福音を告げよ」ということである。しかし、キリスト教では、それがいつの間にか、「行って、宗教としてのキリスト教を述べ伝えよ」という具合に転換しているのではないか。

     宣教は種まきだろうか、刈り入れだろうか、を考えると、小さくされている人たちとの連帯し、刈り入れをすることが本来の宣教ではないだろうか。そして、信者にすることだけが宣教なのだろうか?これを考えてみたい。

     現在、聖職から、信徒にゆだねられていく傾向は、広く一般にみられる傾向である。牧師、司祭、宣教師だけが伝道・宣教する人だったものが、現在はそれに信者も関与していくことになっているのではないだろうか。

    (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
     確かに、Missionalという概念はこれに属するだろう、とおもう)

     しかし、信徒の側にしてみれば、どこからするのか戸惑うばかりであり、いろんなことで心配している。例えば、質問に答えられるだろうか。宣教のために、神学講座を受けるとか、聖書注解を読んだ方がいいのか、どのような聖書注解を読むのか。では、信徒が今から勉強して間に合うか、と聞かれると、それは無理であろう。特に、ギリシア語、ヘブライ語、ラテン語など、基本的には、間に合わないだろう。3年やって、漸く辞書を引きひ聖書が読める程度にしかならない。専門家が行き詰って、どうしようもなくて、アマチュアに渡している感じがある。しかし、専門家が行き詰っているのに、その専門家がやった方法を模倣しようとする信徒たちが多い。これでは息づまるに決まっているのではないか。専門家がやってダメなことをアマチュアがやってもうまくいかないのではないか。

     ところで、イエスが望んだ神の国の実現とはなんだろうか。ローマ書によれば、正義(義)であり、よろこびであり、平和であるはずなのだが、教会内でどこまで浸透しているだろうたか。

    (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
     この辺、NTライト「クリスチャンであるとは」の前半と深いかかわりがありそうである)

     これまでの宣教というのは、一種の教会と他宗教、教会間の一種の陣取り合戦のようなものでしかなく、その結果を自慢げに言うようなものではなかったか。 

     伝道、宣教とは何か。本講演では、それを問いたい。キリスト教を広めること、受洗者を作ることだろうか。そうであるとすると、これまで専門家がやった方法で、失敗した方法論をやればいい。行き詰まりは解決しないし、状況はよりひどくなる。

    搾取する側にいたキリスト教

     ところで、キリスト教が幅を利かせてきた西側の先進諸国は発展途上国を搾取し、現地の文化と社会を破壊しなかっただろうか。銃器を売り渡し、死の商人をし、途上国の民の労働のみを奪ったたのがキリスト者でなかったか。これらのことをやった所謂先進国の指導者はその大半が幼児洗礼受洗者であるキリスト者の一部ではないか。

     先進国は、経済発展と称し、抑圧の経済を教えているが、それでいいのだろうか。

     宣教、伝道とは本来福音を知らせることだろう。では、福音、聖書とは何かを考えてほしい。宗教枠を超えた会衆の救済のことを伝えるものではないか。キリスト教の枠なしでも、人々はわかるのではないか。マルコ福音書15章において、マルコはイエスの肉声とそれを記録しようとしたのではないか。

    【口語訳聖書】
    マルコ
     15:2 ピラトはイエスに尋ねた、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは、「そのとおりである」とお答えになった。
     15:34 そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
    悔い改めとメタノイア
     ところで、神の国は近づいた、は完了形である。ちょっと手を伸ばしたら、そこにあるのが神の国という理解である。イエスは、神の国はあなた方の間にある、とはいわなかったろうか。福音を受ける唯一の条件はメタノイアである。このメタノイアという語は従来、悔い改めと訳されてきたが、この言葉の語源から考えると、メタは、「こえる」、「かえる」、「うつす」を示す言葉メタに由来しており、ノイアの原型ヌースは、筋道を立てて行動しはじめる始点のとこである。私は、ぬーすを視座と主張したい。これらの語から考えるに、メタノイアとは、低みに身を置き、そこから見つめ直すことではないか。

     つまりメタノイアは、低みに自分自身をおき、その低みからの視座に移ることであり、「悔い改め」としたのはまずかったかもしれない。福音を受けるためには、メタノイアすることが重要である。メタノイアとは、「低みに身を置くこと」であって、悔い改めとして、それまでの信仰を棄てたり、強制的に捨てさせることをするのはまずいのではないか。例えば仏教徒に関しては、仏教の所属教派から他の宗教であるキリスト教に移させるのは、まずいのでないか。本来、その人の過去の履歴は、問わないものが福音というものだろう。

    本当に現在のキリスト教は普遍的か?
     キリスト教が普遍だという説があるが、そんなウソを言うってはならないのではないか。普遍ならば、他の宗教とケンカは起きないはずである。しかし、現実には、これまで喧嘩し続けているではないか。他の宗教と争ってばかりいる。その意味で、キリスト教に普遍性があるわけではない。我々は、キリスト教こそ全世界に広がるという希望を持っているが、イエス自身はそのようなことは求めてない。福音の普遍性を求めているはずなのに。もう一度虚心坦懐に聖書を見直すなら、福音がわかり、それに従って、わかるようになるのではないか。メタノイアを「悔い改めよ」という訳にしてしまったために失ったものがある。実際には、メタノイアが実践されてみて初めて、あることの重要性が見えてくる場合がある。その意味でメタノイアは、物理的な視座の移動を伴っていると言えるだろう。

     洗礼も受けてない民衆を山上の説教で、天国はその人たちのものであるとイエスは言っているものではないか。天国は教会の信徒のものではないだろう。イエスは新しい宗教を起こしたわけではない。あくまで、ユダヤ教徒の自覚のうちで、イエスは神の国を述べたのではなかったであろうか。

    ユダヤ教徒と思っていた初期キリスト者

     クリスチャンの語源のクリスティアノイは、もともとラテン語のギリシア語変換で、そもそも教会外の人が言い出した言葉である。聖霊降臨があっても弟子たちは、ユダヤ教の自覚のままであったであろう。今思っているキリスト教は、コンスタンティヌス期以降のコンスタンティヌス型のキリスト教であり、ローマの国教化以降の話であり、その意味で初代教父もイエスの視線とずいぶんずれた上から目線の話であったのではないだろうか。

     イエスが、ユダヤ教のアブラハムの神、イサク、ヤコブの神の枠組みで律法を守れと言ったイエスがいるのではないか。その意味で、イエスは、ユダヤ人として、ユダヤ教徒としての祈りをしていた。特に、エロイ・エロイ・レマ、サバクタニ、という語は明らかにユダヤ教の線に乗っている。

     使徒たちにしても、使徒言行録をみると、彼らはそのままユダヤ会堂におり、ユダヤ教徒として伝道している。しかし、紹介したのは、従来のユダヤ教を超えた立場であるイエスキリストである。その意味で、明らかにユダヤ教徒のユダヤ教からの改宗をもくろんだわけではなく、宣教したのではないか。つまり、新しい神でも新しい宗教でもなく、彼らが信じている神を説いた。三位一体の説明は、イエスのヨハネ福音書に記載されている、で十分ではないか。

    【口語訳】ヨハネ
     14:16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
     14:17 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
     14:18 わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。
     14:19 もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。
     14:20 その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。

     イエスご自身は、このようにも言っておられる。
    【口語訳】
    ヨハネ福音書
     10:37 もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。
     10:38 しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」
    信仰のみって・・・
     ヤコブを藁の書だとかいう人々もいるが、パウロとヤコブは同じことを言っている。信頼して歩みを起こすことがピスティスである。信仰があると言いながら、困った人々に何も手だてをしないのは本当に信仰といえるのだろうか。パウロは信じるだけで救われるとは言っていない。イエスが歩んだように自分もやってみることを進めているのではないか。歩み始めてみて始めて、そこで、気が付くことがあるのではないか。

     実践してみるとき、その時信仰が分かるのではないか。いうだけ言って、あとはよろしくではわからないものがあるだろう。しかし、この行いも、人間の知恵から出たものではない。神を信頼して歩みを起こすことが大事だろう。ピスティス・ピスティオーとは、体をゆだねるように信頼すると言えるのではないだろうか。

    福音と現代のキリスト教の分離

     福音を今のキリスト教と切り離して考える必要があるのではないか。キリスト教と福音は別物ではないか。今ここでは、少し切り離して考えてほしい。福音そのものとは、世界各地の土着の信仰を切り捨てて、イエス・キリストを出発点とする信仰に切り替えるものとは思えない。

    (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
     この辺、スコット・マクナイト「福音の再発見」の前半と深いかかわりがありそうである)

     民族の宗教を奪い、そもそもの信仰を切り離し、隠してしまうと、自分のアイデンティティを失うことにもつながる。それぞれの民族宗教を否定することは文化破壊、アイデンティティを失わせることになっているだろう。それはイエスが主張したこととは違うものではないか。ヨーロッパ型キリスト教がアメリカで変容する中で、もともとその地方で信じられていた、地元の宗教からキリスト教へ改宗を求めるようになった、そして、それが宣教と思われるようになったのではないだろうか。

    (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
     この辺、創世記の神のかたちに造られた、ということと、かなり深い関係がありそうな気がしている。そして、神の息が吹き込まれた、ということと、後に出てくるが、神の種がまかれるということ、NTライトが「クリスチャンであるとは」の第2章隠された泉を慕って Hidden Springに示されている霊性の泉の話あたりと関係しそうである。)

     先進国は、発展途上国を先進国の奴隷状態に陥れただけではないか。主の祈りでは、「私たちが天国に行けますようにと祈れ」と主張していないのではないか。主の祈りのイメージから言えば、御国が地上に来るはずなのに、我々は、天国に行けるようにと、勝手に読み替えている、あるいは、切り替えているのではないか。

    天国理解について

     十字架にかかっているときに、強盗に「今日お前は楽園(パラダイス)にいる」としか言ってない。天国理解にかかわる記述は、それだけではないか。死んでからの事は、よくわかっていないわけであるから、それは、主の御手に任せたらいい。死んだら天国に行く、ということには子どものうちは騙されるが、理性が発達した大人はそうはいかない。

    (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
     この辺、N.T.ライトのSurprised by Hope(現在翻訳作業中らしい)で触れられた死後理解の話と、かなり深い関係がありそうな気がしている。そして、それが西洋社会でずれているというライトの指摘と重なるものを感じた。)

    臨死体験と死後の世界とは別物じゃね?

     死んでからその世界を見てきた人がいるのか?確かに、臨死体験はあるが、それは臨死であって、死んでない体験である。死ぬ前の話でしかない。コロサイの手紙のキリストにあって( エン クリストゥー)で、天にあるものも、地にあるものも、見えないものも見えるものも、キリストと一体だ、といっているのではないか。
    【口語訳】コロサイ
    1:16 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。
     1:17 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。
     この御子にあってつくられた、ということが復活ではないか。まさに、この世のいのちで終わりでない。見えない神のかたち(エイコーン)、それがキリストではないだろうか。

    (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
     この辺、スコット・マクナイトの福音の再発見でも出てくる。そして、神のかたちという理解と創世記理解との重なりを考えていくと、終末論は従来のものと違うのかもしれない。)

    異教の民の宗教と信仰とイエス

     イエスは、わざわざ、フェニキア生まれの異教のカナンの女性の中に彼女の信仰を認められたのではないだろうか。彼女はユダヤ教徒ではない。彼女の踏み込んだ行いがあなたを開放した、ということではないだろうか。

     狂気につながられたゲラサ人を開放したのち、ゲラサ人がイエスについていきますと言ったのに、彼に「家に帰れ、そして、異邦人であり、別の信仰を持つ家族のもとに帰れ、そして自分の身に起きたことを話せ」といっている。イエスは自分のところに残り、イエスと一緒にいなくてもいい、とまでおっしゃっておられることの意味は何かあるのではないだろうか。

     ゲラサ人は豚を飼う人々である。つまり、ユダヤとは宗教も異なる人々であり、癒された人をその人が持っていた宗教に返したことは着目すべきであろう。

     家人が病気であった百人隊長に対しては、イエスは言って直してやろうと言ったのに、「お言葉だけで十分ですと」という百人隊長に、これほどの信仰を見たことがない、とイエスは異教徒の信仰を認めている。我々は、キリスト教徒だけが本当の信仰がある、と勘違いしていないか。本来、その人が抱えている問題からの開放、即ち福音を告げ知らせるのが、伝道なのではないか。

    宣教とは小さくされたものへの呼びかけと関与

     宣教とは、宗教としてのキリスト教の伝達ではなく、貧しく、小さくされたものへの呼びかけとそれらの関与と参入が福音であろう。

     皆さんには、虚心坦懐に福音書を読み直してほしい。イエスは、特定の宗教に属する人に呼び掛けているではなく、すべての人に呼び掛けてはいないだろうか。キリスト教は普遍的な真理を語る宗教であるということは、一種のウソといっていいだろう。普遍という言葉の通りやってない。なぜなら、自分と違う考えの人を認めないことをしている以上、普遍ではありえない。

    (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
     この辺、定義の問題からして、普遍は一部の中の普遍は、特殊でしかなく本来の普遍ではないよなぁ、言葉の定義から行ってそうだよなぁ、と本田司祭のことばの鋭さに、驚いてしまった。それだけ、ミーちゃんはーちゃんは、思い込みで、混乱してしまっているのであろう。)

     福音宣教とか、宣教とかいう、その中身は何か。 福音を知らせることなのか、キリスト教を伝える伝道なのか、ということは考えた方がいい。もう少しいうと、種まきの発想であるのか、収穫の発想であるのかを考えた方がよい。

    種まきの譬えをどう理解するか?

     よく伝道は種まき型の発想をする人がいる。この形の伝道を考えると、芽生えるための種を入れることから始まる。つまり、持っているもが持たないものへという上から目線の構造を持っている。

     この種まき型で、自分が種まく人になっちゃう上から目線の考え方は、キリストの価値観とは大きく違う。福音宣教は種まきです、と我々は聞かされてきた。この考え方では、持っている人は持たない人に憐れみと、御言葉を分け与えることが務めだ、とこれまで理解してきた部分があったし、自分自身そうであった。


    (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
     この辺、バーバラ・ブラウン・テイラーの「天の国の種」の話を思い起こしてしまった。丁度、このあたりの事に関して、非常に興味深い、また印象深い解釈をバーバーラ・ブラウン・テイラーは述べている。お勧めする。)


     つまり、教える(種をまき)、育てる、守るが教会のしてきたことである。あるいは、学校、幼稚園、福祉施設を作り、囲い込んどいて、しっかり種をぶち込む形が宣教だったのではないか。この囲い込みの枠から出るな、というやり方で宣教をしてきたと言えるのではないか。これで福音が本当に伝わるのだろうか。

     ところが、神の国、神の正義=抑圧からの開放であるはずではないか。ほっと一息、ため息が付ける、ほっとするのが、福音だろう。ローマ書の中現われた福音とは、正義、よろこび、平和として示されているのではないか。

    【口語訳聖書】ローマ書
    14:17 神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。
    14:18 こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受けいれられるのである。
    14:19 こういうわけで、平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではないか。
     キリストの宣教は種まく人のイメージで語られてきた。ソウワーという聖書協会の雑誌があるが、それが示すように、宣教とは、これまで、種まきすることだ、というがいねんが植えつけられてしまったのではないだろうか。そもそも、この場所のギリシア語では、種に区別がなされていないのである。落ちた場所が違うにも関わらず、原文をきちんと見ると、全く同じになってなっている。

     しかし、このたとえ話では、道とか荒地とか、いばらの中とか、まさかこんなところに、撒くはずがないところに、この種まく人はまいているのである。その意味で、そんなあほなことをする人はいないだろう。そう考えると、この譬えは、農作業の譬えではない。御言葉、神の受肉は、これっぽっちしかないようなところにも、御言葉の種はまかれたことを示しているのではないか。

     イエス、父である神、聖霊なる神が、すでにすべての人に種を撒かれているのではないか。どこにでも撒いておられるのだ。すべての人のところにまかれているのではないだろうか。

    (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
      先にも述べたが、この辺、創世記の神のかたちに造られた、ということと、かなり深い関係がありそうな気がしている。そして、神の息が吹き込まれた、ということと深い関係性があり、さらに、NTライトが「クリスチャンであるとは」で主張している、第2章 隠れた泉を慕って Hidden Springに示されている霊性の泉の話あたりと関係しそうである。)

     種まきのためにキリスト者は派遣されているのだろうか。正義と平和と喜びということは、普遍的に存在するのではないだろうか。キリスト者がしないと絶対にできないことではないのではないか。釜ヶ崎の新左翼がしていることがすごく、他の労働運動関係団体が来てもらって困るというような新左翼集団が義を実現しようとし、人をものすごく大切にしている。

    (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
      先にも述べたが、この辺、NTライトが「クリスチャンであるとは」の第1章 この世界を正しいものに Putting the world to rights で主張しているあたりと関係しそうである。)

    愛するとは何か?

     われわれは、愛すると言葉に騙されてきたのではないだろうか。確かに、敵を愛せとイエスは言った。しかし、キリスト者として、それを本当にしてきたことがあるか。自分を愛するという感覚を持っているだろうか。私たちがしているのは、自分を大切にしたい、大切にされたいということではないだろうか。愛すると訳されている語は、大切にされることであり、それが、アガペー、アガパオーの意味であり、16世紀に日本に来た伴天連たちは、聖書の部分訳で、御大切と言い換えた。気仙語訳では、お大事(おでーじ)と訳出されている。山浦さんは「愛」という語があるのをわざわざ知りながら、お大事という語を使ったのだろうか。愛さなきゃダメなんだ、となるから苦しむことになる。愛することなどできないから、苦しみを倍加させる。そして、教会に来て苦しみを抱える。これが福音であるのだろうか。そんなことはないだろう。

     Iコリント13章は、愛に関して書かれているが、愛は耐えることがないと訳されているが、本当に愛は途絶えてないと言えるだろうか?

     人を大切にすることならできるかもしれない。しかし、愛は途絶えることはないと実現不可能な表現に訳し続けてきた教会の責任は大きいかもしれない。愛せないということで悩む必要はないだろう。むしろ、人を、他者を大切にしているか、しようとしているかが問題である。

    (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
      先にも述べたが、この辺、NTライトが「クリスチャンであるとは」の第3章 互いのために造られて Made for each other で主張しているあたりと深く関係しそうである。)

     過激とみなされる組合活動の中にも、ザビエル以降の福音の効果が表れているのではないだろうか。日本には、キリスト教や聖書やナザレのイエスと接触することのないまま過ごした人の方が多い。しかしその中でも、良い実があったし、よい実を結び木があったし、今なおあるのである。日本においては、むしろこの方が圧倒的に多いと言えるだろう。神の国は種まきは要らないと言っているわけではない。神が種まきをしてくださっている。

     聖書の中に多種多様な種の譬えば多い。よい種、毒麦の種、からしだね、が出てくる。教会ができるはるか以前から、教会とか宣教師によらず神の国の種は撒かれていたのではないか。種まきとは、神の子が人となった受肉の事であろう。それを種まく人の譬えで語っているのではないだろうか。マタイ福音書では13章の中に出てくるが、この部分は神の国の見えない神秘を語る部分である。マタイ福音書10章が、どう伝道するかの方法論である。

    種とは何か?
    神の受肉したことば、ナザレのイエスではないか?


     種をまく人は神の御言葉を撒くのである。神のみことばとは、聖書のことばというよりは、言葉である方、ホ・ロゴスを撒くのである。

     ヴァチカンの聖書研究所の研究者は、“ことば”というのは、人間となったものであると言っている。わたしたちが目で見てわかる、聞いてわかる、触れてわかるからことば。言葉というからには受肉した存在なのである。受肉しているものが言葉である。“ことば”にあたるギリシア語に対応するヘブライ語は、ダバールであり、ダバールは、できごと、この世界で実現したことであり、歴代誌はダバールから由来する語から来ていて、彼らが実際に体験したことなのである。その意味で、ホ・ロゴス、すなわちダバール、日本語で“ことば”とされるものは、受肉したナザレのイエス以外になく、ヨハネの福音書1章は、はじめにことばである方、受肉した言葉、出来事となった方があった、と理解するのがよいのではないかと思う。即ち、種は、ホ・ロゴスであり、受肉したナザレのイエスで、このお方はどこにでもある方でもあるのではないか。

    (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
      この辺、NTライトが「クリスチャンであるとは」の第1部でも散る表現 声の響き、という語で主張していることは、ナザレのイエスの声でもあるし、ナザレのイエスからの呼びかけであると思う。)


     種まく人の譬えは、受肉の神秘を通して、すべての神秘の中にすべての人の中に種として撒かれている、ということを表しているのだろう。ローマ書の中で、イザヤ書65章を引用しながら、次のように言っている。

    口語訳聖書ローマ書
    10:20 イザヤも大胆に言っている、
    「わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、
     わたしを尋ねない者に、自分を現した」。
     
    口語訳聖書イザヤ書65:1
    65:1 わたしはわたしを求めなかった者に
    問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に
    見いだされることを喜んだ。
    わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。

    口語訳聖書 エレミヤ
    31:33 しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。
     31:34 人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。
    宣教とは何か?
     では、宣教としており組むべきことは何か。それは、連帯であろう。小さくされている人々との連帯ではないか。

     小さくされている人々に関してであるが、努力して小さくされることはないし、努力で小さくは、なれない。周りの人の評価が下がってきて、他者によって小さくされているのである。しかし低くされることで、鋭い感性を持って立ち上がる、しっかりと両足で経って、低みから見直す。何を悔い、何を改めるべきか見出すことが大事ではないか。苦しむ人々に対して連帯し、連帯、差別に対決する人々との連帯をするとき、私たちは、大いなる実りを見るのではないか。彼らとの連帯により、彼らの立ち上がりと彼らが直面する構造についての気づき知らせることが宣教ではないか。神と共に働く働きこそが刈り取りであり、福音宣教といえるのではないか。社会の底辺にいても、すべての人にみのりの時が来ているわけではない。底辺に立つことの理解の深化を認め、平和と喜びと正義を実現することが重要ではないか。

     もちろん、福祉や救済という上からのかかわりにとどまる人もいる。社会正義や人権に関する感覚が研ぎ澄まされておらず、援助によって差別行動を強めることもある。メタノイア(低みに身を置き、視点を移動させること)が徹底していないことも多いかもしれない。

    (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
    この辺、木原活信著 「弱さ」の向こうにあるもの とつながるような気がする。)

     
     このメタノイア(つまり低き所からの視点への異動)を行うために、すでに実りをもたらしている人から学び、実を刈り取ることが重要ではないだろうか。連帯とは相手と同じ立場に立つのではなく、できるだけ歩み寄ることだろう。ただし、絶対に他人と同じ立場にはなりえない。他者の立場には立てないのである。他者の立場に立ったつもりでの言動、これが差別と抑圧を生むのではないか。立ったつもりで寄り添わせてもらうしかないと言える。

     相馬司教という方が、理解するとは、understandingなんだよなぁ、とカラカラ笑っておられた。人の下に立つ、低みに立つことで、理解ができると言えるだろう。同じ水平的な位置のところではダメなのだ。 Stand under othersができて初めて、理解ができ、コミュニケーションが成立すると言えるだろう。




    前方に陣取るキリスト教出版関係者w

     感想は、次回 質疑応答と合わせて掲載予定。


    評価:
    Tom Wright
    SPCK Publishing
    ¥ 1,530
    (2011-05)
    コメント:文句なしにいい。日本語訳が、『クリスチャンであるとは』あめんどう刊

    評価:
    スコット・マクナイト
    キリスト新聞社
    ¥ 2,160
    (2013-06-25)
    コメント:中の人だけど、実に良いと思うから、出版した。

    評価:
    バーバラ・ブラウン テイラー
    キリスト新聞社
    ¥ 2,376
    (2014-03)
    コメント:絶賛である。

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