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2015.07.15 Wednesday

木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その2

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     本日も、木原活信著 いのちのことば社刊 『「弱さ」の向こうにあるもの』第2章 「弱さと居場所」から、引用しながらご紹介してみたい。

    大学に居場所のない学生

     本章の冒頭、居場所がないということを訴える学生の話が出てくる。日常、この世代の学生に触れていても気づくことである。大勢の学生が楽しそうにクラブだ、サークルだと青春を謳歌している中で、一人ぽつねんと寂しそうに離れて座る生徒がいる。そういうのは大学の教員としては、案外気になるのだ。
     イエスは自分には場所がなかったけれど、私たちに居場所を用意するというのだ。
     この場所(トポス)という言葉は、不思議な響きのある場所である。端的に言うなら、社会福祉(実践)とは、「誰にでも居場所(トポス)を与えること、あるいはそれを作り出すこと、特に居場所のない人に場所を提供すること」である。(『「弱さ」の向こうにあるもの』 p.34)
     いま、世俗の仕事では、学生関係の世話(就職の世話から、お悩み相談(これはあまりない)まで)をしているが、最近のこの仕事関係での学内外会議の話題は、大学生の保健室登校である。大学のキャンパスには来るのだが、保健室によってからでないと、あるいは保健室で一休みして、それから、教室に出没する学生さんがいるのである。国公立大学でもそうである。

     そして文科省の肝いりで、学習に障害がある学生への支援を大学がきちんとすることが求められる時代になっているのだ。詳しくは、全国の国公私立大学長あて文書でもある発達障害のある児童生徒などへの支援について をご覧いただきたい。

     この居場所の問題は、N.T.ライトの最新刊「クリスチャンであるとは」第3章、互いのために造られて という部分で触れられている人間は人間と共に生きるようにつく荒れていて、そして、それは神が三位一体としておられるからこそ、その形に似るものとしてコミュニティを求めるのではないか、というあたりとの関係があるようにおも合われる。

    誰しもがソーシャルキャピタルが必要
     居場所といえば居場所なのだが、個人を取り巻くソーシャル・ネットワークといってもいいと思う。FacebookやGoogle+やTwitterは、ソーシャル・ネットワークのメディアであるが、ソーシャル・ネットワークそのものではない。


    昔のSNS(うまい)の道具

     ソーシャル・ネットワークとは、その人そのものの生活を支え、わずかではあるが個人では解決がしにくいような日常的な問題に対して、その解決の補助を可能するような人間関係の紐帯の事である。それが、R.D.レインという精神科医によると、普遍的な人間的欲求であるという。そのことに関して、木原さんは次のように書いている。
     独創的な思想を20代後半から次々と発表して「反精神医学」といわれた著名な精神科医RDレインはこのことを見事に言い表して、こう説明した。
     
     すべての人間存在は、子供であれ大人であれ、意味、即ち他人の世界の中での場所を必要としているように思われる。・・・少なくとも一人の他者の世界の中で、場所を占めたいというのは普遍的な人間的欲求であるように思われる。」(『自己と他者』志賀・笠原訳 p.167)
    (同書pp.35-36)
     先の話で言えば、最近行政界隈で当たり前のことばになったソーシャル・キャピタル(社会的人間資本)はソーシャル・ネットワーク上に発生する資本であり、個人の生活をより豊かにするものである。ひきこもりなどの問題は、このソーシャル・ネットワークがなくなることを意味するのである。あるいは大きく毀損されることを意味するのである。この社会的資本があるから、個人は自己の存在意義を確認できるのであり、個人は自分自身の生における意味や役割を見出すことができるようには思う。しかし、本書の後半で出てくるが、これに依存しすぎて、依存関係になる場合がある。その場合は、基本的に境界線を明確にし、依存関係を適切なものにしていく必要がある。

    居場所はありますか?
     個人にとっての居場所があるか、という問いである。これはリアル空間における居場所ではなく、どちらかというと認知空間における居場所であると思う。
     それでは、読者の皆さんには本当の居場所があるかと問われれば、どうであろうか。あるとすればどこに。先に引用したレインによると、もし居場所がないというなら、人間の本質的な欲求が満たされてないことを意味している。これが精神的な病の根幹にあるとレインは主張する。確かに、物理的な場所ではなく、他人の世界の中で、場所(意味空間)を必要としている感覚はわかるように思う。夫婦にとっては配偶者、子供にとっては親、学校では友人、恋人であろう。(同書 p.38)
     教会は家だと言われ、居場所だと教会は主張する。しかし、教会の主張としては居場所であるが、実際にそうでない教会も案外多いのではないか。いや、正確に言うとある特定の人々にとっての居場所になってはいるけれども、そこから外れた人々にとっての居場所になっていない教会はあるかもしれない。

     先日Love Wins祭り( Love wins AKA アメリカ連邦最高裁同性婚祭り ワズw ) のときにご紹介した動画を再掲しておく。この人は、私たちのメンバーなので、この教会に入ってよい、この人は私たちのメンバーでないので、入ってもらったら困る、とさすがに、海兵隊上がりや非番の警官をアルバイトで用心棒(Bouncer)として雇っているアメリカのダウンタウンのガラの悪いバーもどきの厳密な管理をしている教会はないかもしれないが、本人がカミングアウトした瞬間に、ボタンが押されて、戦闘機のゼロゼロ脱出システムのように、教会外に掘り出すことはないかもしれないが、じわじわと来会しにくくされ、追い出すような包摂力のない日本の教会は全くないとは言えないし、実際そのような被害にお会いになった方を何人か存じ上げている。そういえばこの間、コメントいただいたマダムLさんなんかもアメリカの教会でそういう目にお会いになられたかも、である。


    ベトナム戦争期活躍したF104のゼロゼロ射出システム
     

    教会の門の前に立つこわもても用心棒さん United Church of ChristのCF


    どこぞの教会にはあるかもしれない、新来会者射出システム United Church of ChristのCF

     まぁ、高齢者ばかりの教会に若者は居辛いし、若者ばかりのノリノリ、ウェーイの教会は、高齢者につらいだろう。その意味で、教会は特定年齢層や特定の社会集団が固まってないことが望ましいのだが、キリスト教人口が異様に少ない、そして、個別教会の構成人数が少ない現実日本の教会はそうなっていないことが多いので、この辺が難しいところである。

    弱さを知る必要
     まぁ、この前ご紹介した本田司祭の講演内容

    日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた

    日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた 質疑応答と感想

    ではないが、受苦ということは非常に大きい意味があると思う。だからといって、「受苦しているから、はいそれバプテスマと同じです」ということまでは思っていないが、世俗社会からの隔離、排除などによる視線移動が苦しんだ人の内部で、起きている可能性は否定できない。それが理不尽なものであればあるほど、自己を超えた存在を訪ね求めることも考えられるからである。

     イエスは、徹底的に弱い存在になられ、死を通られたということ、そして休まれたというあたりのことは、ナウエンの美しい文章で、そして、翻訳者小渕さんの名訳で、「ナウエンと読む福音書」の最後の部分でうまくまとめられている。これもまた是非お勧めしたい本ではある。この部分を考えるためには読まれることをお勧めする。
     (引用者補足 イエスが弱い赤ん坊として生まれた)その明確な答えはよくわからないが、恐らく、いくつかの理由があると思う。
     その一つは、本当の理解者は、貧しさ、人生の辛さ(辛酸)弱さを知っている(体験している)必要があるということであろう。イエス自身は、最も小さいものになったことを通して、人間の弱さ、苦しみを理解できる、つまり、共感共苦(コンパッション)ができることを教えている。(同書 p.40)
     個人的には、最近まで、ピエタの意味があまりピンとこなかった。ナウエンを読むまで、本当にわからなかったのである。しかし、この受苦のキリストの意味、傷つき、痛んだキリストの意味をナウエンと読む福音書を読み、コンパッションを読み、わが家への道を読む中で、このことが少しづつわかるようになってきた。この裂かれたキリストと裂かれたパンは理念的に説明は受けてきたが直感的にあぁ、なるほど、となったのは、本当につい最近の事である。それだけ、外見的には幸せな人生を送らせてもらっていたのだ、と思う。


    ミケランジェロ作ピエタ(Wikipedia様から)

    支えられる体験
     信仰する、という動詞にπιστεύω(ピステオー)という語があるが、この後は他人に信頼して寄りかかるという意味がある。まさしく、弱くなっているからこそ、弱いからこそ寄りかかるのである。しかし、近代を支配した勝利主義的概念が支配する近現代においては、この弱くなることを許さない、老人でも若作りをする。その結果、以下の「とわに美しく」のようなスプラッター・コメディ状態になりつつある。プラセンタだのコエンザイムだののCF見ていると、もはやコメディである。70過ぎて30歳代に見えたら気色悪いではないか。


    とわに美しく(もはやスプラッターコメディであった)

    もう一つは、支えられるということそのものの中に深い意味があるのかと思う。本来、何物にも支えられる必要のないものが、あえて自ら支えられる状態になるということ、ここに深い神秘が隠されているのではないだろうか。(中略)このように支えられるという実践(実体験)は近現代には軽んじられるものであるが、人間の大切な神秘であるように思えてならない。(同書 p.41)
     まぁ、力学でもそうであるが、作用が動くためには作用点が必要で、作用点では、我々はある面で支えられているのである。そういうことを考えると、もう少し、最近復活させた富士山とシナイ山の連載ではないが、完全に訪問者として我らのところにやってくる神に我等はもう少し支えられ、神を信頼し神に依存するための知恵を深める必要があるかもしれない。



     まだまだ、続く。




    評価:
    木原 活信
    いのちのことば社
    ¥ 1,728
    (2015-07-08)
    コメント:お勧めする。

    評価:
    ロバート・D. パットナム
    柏書房
    ¥ 7,344
    (2006-04)
    コメント:名著である。

    評価:
    ヘンリ・ナウエン
    あめんどう
    ---
    (2008-04-30)
    コメント:再版が出ないだろうか。その日を心待ちにしている。

    コメント
    >教会は家だと言われ、居場所だと教会は主張する。しかし、教会の主張としては居場所であるが、実際にそうでない教会も案外多いのではないか。

    これは「あるある」ですねえ。
    教会は家だ!というから
    教会に家=ホームを求めていっても そこはハウスだった。てな。

    >いや、正確に言うとある特定の人々にとっての居場所になってはいるけれども、そこから外れた人々にとっての居場所になっていない教会はあるかもしれない。

    高齢者主体で 若者に居場所がない教会がほとんどだと思いますが、

    新興宗教系キリスト教だと 賛美やらなんやら 年寄に居場所がない教会もあり。


    外に開かれて活動をしている 一見開かれている教会でも 実は 中にはいると すでに 牧師取り巻きだけがもりあがっていて その他の信者はさみしい思いをしているところも。


    ホームレス、ニートひきこもり・・皆居場所を求めている。教会はその居場所になりえる場所です。
    また 活躍できる場にもなりえる。


    もてなし も大事だけれど もてなされるより一員となりたいはず。


    もてなす側だけが もりあがってるだけな場合も多々あるのが現状。 ボランティアしかり。
    (本田さんや奥田さんのところは しっかり活動なさってるし、共苦しようとしてることは その話し方か感じ取れます。 たまに・・講演と テレビでいいとこみせる系演出うまい人もいますから・・中にはいらないとわからにところ。)



    もてなす喜び・・ もてなされるつらさ。

    本当は仲間になりたいのに。

    ひきこもり他だけでなく 社会の中でトポスがみつからず 小さくされた人々の
    So call弱者の中に 眠っている力を引き出すのが教会だともうのですがね・・



    その点 創価学会のほうが はるかに 共喜共苦 している・・・。


    キリスト教信者が増えないわけは そこにあるのかと。


    • Ken
    • 2015.07.15 Wednesday 23:29
    Kenさま コメントありがとうございました。

    >教会は家だ!というから
    >教会に家=ホームを求めていっても そこはハウスだった。てな。


    なんか、教会ビニールハウス論とか書きたくなりそうなコメントですね。なんかアイディアもらっちゃったかも。

    >外に開かれて活動をしている 一見開かれている教会でも 実は 中にはいると すでに
    > 牧師取り巻きだけがもりあがっていて その他の信者はさみしい思いをしているところも。

    「外に開かれている」をどう考えるかですよね。外部者が来やすい、外部者にも理解可能である、ドアは閉まってはいない、外部からの攻撃を受ける気もある、・・・・この辺を一つの語で示すから、お題目と内実が違うかも、ってのもあるかもですね。

    カルト化した教会ってのもあって、そこは、デムパの皆さんが牧会者やリーダーのお取りまきになって、私はパウロ、私はケパ、私はアポロに状態のところもありますしね。まぁ、ガタイや身なりは大人でも、内実乳幼児の方もいていいので、その辺悩ましいですが、乳幼児がそうであるように、乳幼児ほど、ご自分を大人扱いすることを要求されますから。

    >たまに・・講演と テレビでいいとこみせる系演出うまい人もいますから・・中にはいらないとわからにところ。

    そらそうですね。一瞬では見分けがつかんこと多いですねぇ。

    〉小さくされた人々の So call弱者の中に 眠っている力を引き出すのが教会だともうのですがね・・

    そうですね。そうあってほしいですが、日本では、西洋道徳、西洋倫理として教会が区別なく導入された背景が今になっても、影響し続けているのがねぇ。

    新興宗教系の方がご指摘の通り、共感共苦しておられるというのはあるかもしれません。この背景お、基本、日本でのキリスト教が、ある面、旧武士階級の皆様方に相当する人々にとって、封建的な東洋道徳、東洋倫理より優れた西洋道徳、西洋倫理として移植型で受け入れた、ということがあるかもしれません。

    個人的には、今のかたちのキリスト教と呼ばれるものの信者さんは増えなくてもいいかなぁ、と思う部分も無きにしも非ずです。まぁ、イエスは、倫理を解き、道徳を説く今のキリスト教をご覧になったら、何とおっしゃるかと思います。

    コメントありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2015.07.16 Thursday 05:34
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