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2015.07.04 Saturday

木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの を読んだ その1

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     本日から、木原 活信著 いのちのことば社刊『「弱さ」の向こうにあるもの』をご紹介したい。



    著者らしさがよく現れた本
     基本的にこの本は、著者が弱さを抱える人々との関わりあるいは支援に実務家として、そして研究者としてもあたってきた経験から、キリスト教的な意味で、「弱さ」をどう受け止めるか、ということに関して、学術的ではなく、かなり具体的な日常の視点でまとめた本である。また、本書は、一種著者の自叙伝的な側面を持ちつつ、聖書と社会福祉とのかかわりを、ナウエンなどの所論を下敷きにしながら、弱き人々と共に生きるとはどういうことか、他者を愛するとはどういうことか、をコンパクトにまとめた書物であると言えよう。また、時々に引用されるPopsやJ-Pops(といっても、最近のものというよりは著者らしく、いまやクラッシックになりつつあるPopsであるが)が著者が無類の音楽好きであることを示している。ただ、惜しむらくは、ナウエンをかなり読んだ人をならば、あぁ、これはナウエンのこの辺の思想を受けたものだ、ということは類推がつくが、そうでない人にとっては、もう少し詳しく知りたいと思っても知ることができないという意味では、少し不親切な本ではある。まぁ、ナウエンの研究書に関しては、別の書物があるので、それを読んでくれ、ということであろうが。

     詳細はおいおい、いつものように引用しつつ、紹介していくが、強さを絶対善と暗黙に仮定する現代社会の社会通念の中で、弱さの問題、人間のはかなさの問題をどう考えるかを著者の経験などに基づき、具体的事例なども示しながら、示唆を与える本である。この本は、来年のオフィスふじかけ賞の有力候補ではないか、と思う。

    弱さの逆説
     木原さんは、弱さの問題をパウロの視点から次のように説きおこす。
     私は個人的に、使徒パウロという人物にあこがれる。あんな勇敢で大胆で聡明で、そして強い信仰の人になってみたいと本気で思ってきた。しかしパウロの人生のカギになっているのは、この勇敢さや強さではなく、むしろ「弱さ」そのものであったと気づく様になったのは、実は最近の事である。推測するに、パウロという人が人生をかけて格闘したのが、この「弱さ」であったようである。(『「弱さ」の向こうにあるもの』p.15)
     確かに、パウロには、障害ある種の弱さの問題に付きまとわれたといえよう。これは木原さんがご指摘のように、肉体のとげ(それがなんであるかはわからないし、それを詮索することは知的スポーツとしては面白いが、結論が出ない問題の一つである)がその一つであると同時に、パウロ自身が認めるように、イエスと同時代・同一空間を共有しながら、しかし、使徒的役割を果たしながらも、直接的には弟子であることはなかった、あるいは、なれなかったという弱さを抱えつつ生きた人物である。その意味で、パウロは、非常に大きな働きをしつつも、その心のうちにイエスの直接の弟子であった12弟子たちには、常にどこかで引け目を感じ続けて生きていた人物でもある。

    弱さにおいて働く神
     繁栄の神学とか、反知性主義的な社会が生み出した強さの神学はある面で、自己中心的な聖書理解(ミーちゃんはーちゃんの用語で言う「オレ様神学」)になりかねないものがある。その自己中心的な聖書理解は、神の前に自分自身を明け渡していることになっているかどうか問うたほうがよいのではないか、ということに関して、次のように木原さんは書いておられる。
     神の恵みが完全に表れる姿、それはむしろ「弱さ」の中にこそあるという、このパウロのメッセージは、そう簡単に実感できないばかりか、理解すらできないかもしれない。物理的には、人間が無力であると、つまり無力の状態の器であると、それだけ神の力が増しやすい。つまりからの器であればあるほど、神の力が宿りやすいということで、ある面理に適っているともいえる。
    (中略)
     「○○力」の形成・獲得というのは、メディアを通じて我々の中に飛び込んでくる。現代の力や強さへのあこがれは相当のもので、その前提にあるのは、強くなければならないという「まなざし」である。(中略)しかし、強くありたいというのと、強くならねばならないというのは、別問題である。(同書 pp.18-19)
     この部分を読み「○○力」の表現を見ながら、今の大学の置かれた即戦力型の能力開発を重視しようという類の話しを思い出してしまった。結局、パスカルが言うように、人間本来が「考える弱き葦」であることを忘れ、問題に対して、当座5年とか10年位のクイックフィックス(短期的な解決策、安易な解決策)を当てはめる力を持ついわゆる社会にすぐ役に立つ「強い人間」を促成栽培で育てる事ばかりに目が言っているような教育が求められている気がしてならない。「弱き葦でありつつも、柔軟性を持つ人間」を育てることではなく、「堅くて強さをもつ一種融通のきかないコインの様な人間」を育てることが今は大学にすら求められているのかもしれない。まぁ、コインは通貨以外にも使い道がないわけではないが。


    近代の教育システム批判の漫画


    勝ち続ける人生、
    陽のあたるところだけを歩もうとする人生
     個人的には、繁栄の神学、強さの神学が好きではない。正しい間違っているかどうかは知らないが、このブログの中で何度も好きでないことをふれてきた。なぜ、個人的に好きではないかはあまり真面目に考えたことがなかったのだが、その理由が木原さんのお書きになられたもので少し感じるところがあった気がした。
     亡くなられたミュージシャンの尾崎豊さんは、当時の若者にカリスマ的な影響を与えた歌手であるが、「僕が僕であるために勝ち続けなければならない」といった。それは、ある面で、現代社会の風潮や世相を彼なりのことばで反映したものだと思う。自らを自らの力で生き抜くこと、つまり、自らが人生の主人であり神であると考えると、確かに勝ち続けることによってしか自分を正当化できない。(中略)そういう人にとって弱さを認めることは、自己否定以外の何物でもない。(同書 p.19)
     繁栄の神学、強さの神学は、下手をすると、「自らを自らの力で生き抜くこと、つまり、自らが人生の主人であり神であると考えると、確かに勝ち続けることによってしか自分を正当化できない」強さこそ正義であり、正義であるが故に、自分の本来の主人であるべき神を忘れ、一人の弱き葦であるべき人間という自分自身が神として正当化されうることにつながりかねない危うさを持っているからである。つまり、自己反省というもののない、反知性主義とつながっているからである。

     そのため、藤掛さんがオフィスブログで触れられた「背伸びした生き方」「強行突破型の生き方」「神が祝福してくださるから何も心配はいらない」という、「塔を建てる前にその費用を考えないような生き方」に突き進んで行きかねないものを持っているからではないか、と思っている。そのことを本書を読みながら感じた。

     個人的には、尾崎豊よりも息子が幼稚園の頃好きだった下側の動画、ジャム・ザ・ハウスネイルの挿入歌「猫が猫であるように、犬が犬であるように、全身、全霊(神が造りたもうた)ボクでありたい」(3分10秒あたりから)と思っている。


    勝続けなければならないと主張した尾崎豊


    ジャム・ザ・ハウスネイル
    猫が猫であるように、犬が犬であるように、全身全霊ボクでありたい という歌詞が印象的だった

    人間存在の意味
     人間の存在をどう考えるか、というと、近代の社会が産業社会であることを要請されたこともあり、産業社会にどう貢献できるか、ということだけが課題になってきた。その面で、人間の評価は、生産性とそれにどう貢献できるかということで評価されることが大きかった。

     最近はあまりこの分野をしていないのであるが、世俗の仕事で過去教えたこともある、Operations Research(作戦計画に由来する語)や経営科学などは、この生産性をどう企業や組織内であげていくかということに血眼になる学問体系であったし、これらの学問体系は社会から需要されていることもあり、無批判にこの生産における価値を人間の価値のかなり大きな部分であるとして、Presumption(暗黙の前提)やAxiom(公理)としてきた側面があると思う。まぁ、そこに焦点を絞ってのみ、研究をしていた、という位の側面はあると思う。そのあたりの事に関して、木原さんは、次のように書く。
     そもそも生産性のみが役に立つということが、すべてを図るモノサシかというと、これには疑問がある。いや、もしそれしかないというのなら、そこには問題が生じるように思う。役に立つということを考えるには、多様な基準があってしかるべきではないかと思う。
     我々の現代社会は、ただ行動や能力(doingやhaving)で評価してしまう。しかし果たしてそれが絶対の基準なのか。いやむしろ、ただ存在すること(being)を見つめると視点とまなざしを持たなければならないのではないか。これこそ現代社会が最も忘れてしまっている視点ではないだろうか。(同書 p.26)
     経営科学やOperations Researchが日本に初めて入った1960年代は、計数可能な生産性の側面にばかり目が行っていたが、現代では若干、この辺の暗黙の前提に関してかなり緩和されてはいるような気がするが、しかし、これらの学問分野の多くの前提自体は、計量化、定量評価可能なものにかなりウェイトを置いて着目し、その最大化を図るという側面がある。

    計量志向を揶揄するマンガ

     実際には、企業の役割や意味は、こういう社会に対する生産によるアウトプットのみで評価できるわけではない。それは、公害という不幸な経験を通して、企業活動や生産の社会への負の外部性、あるいは、フィランソロピーのような活動による社会への正の外部性なども評価されねばならないと考えられるようになってきたからではあるが。

    多様な価値観・創造の多様性

     ミクロ経済学の生産理論や生産関数論で取り扱われるように、近代は均質性、同質性という大きな前提を置き、人々に関しても、財やサービスという市場で取引されるものも、同質性を前提とした大量生産、大量消費による規模の経済(たくさん作れば、平均生産費用と限界生産費用が減るというメリット)が享受されることにより社会はより豊かなものになってきたし、それが、近代社会発展のからくりでもあった。大雑把に言えば、であるが。

     しかし、それは、リスクの拡大という負の外部経済を社会に残したことは、企業コンプレックスの撤退に伴い財政的にも経済的にも疲弊している地方の企業城下町を見れば明らかである。典型的には、あてにしていた工場が企業の生産物市場の国際化に伴い海外移転した町では、シャッター通りが広がる。あるいは、トヨタの経営状況が悪くなると、税収が一気に激減し、年度途中で予算が回らなくなった事案に直面した、愛知県内の公立教育機関の先生の話をお聞きすると、実にこのようなどこか一つに地域経済が大きく依存しているということの危うさはわかる。もっとわかりやすい例でいえば、何らかの理由で、東海道新幹線が止まると、東京駅がマヒするという日本社会の危うさは、近時もリアルで経験された方もあろう。
     単一な価値観ではなく、多様な価値観が認められる世界、このことは役に立つということ、弱さを考える上でもキーになるように思う。冷静に考えてみると、案外、役に立つと思っていたことは大したことではなく、むしろ役に立たないと考えがちなことが役に立つことは大いにあるのではないだろうか。(同書 p.27)
     その意味で、複線的な社会であることが望ましいにもかかわらず、真理は一つ、解は一つしかなく、自分の持つ理解以外は不正解とする視野狭窄を生み出しかねない近代の概念に我々は毒されているのかもしれない。




    神に出会う場所
     自分自身に自信がある人は、神そのものを必要としないのではないかと思う。そもそも、自分自身では何とかならないことがある、というある種の弱さが認められなければ、神は本来的には必要なくなる。神に出会うためには、この弱さが必要なのかもしれない。

     農業社会から工業社会に変容し、サービス化社会に変容する中で、社会生活がある程度予測可能、制御可能になってきたのであるし、社会に潜むリスクを回避する仕組み(FX市場などや証券および商品先物市場など)や、社会的弱者の救済方策も不十分ながらも、一定程度整備がされてきた結果、昔の人なら、その声を聴きたいと願ったか細い声である神の声の必要がなくなるということである。人間の力ではどうしようもない大きな変動(メタ概念が支配する変動)に対し、「神よ、なぜこのようなことが起きるのですか」と問うのは、ごく自然かつ日常的なことであったであろう。それが、大概のことが予測可能になった、制御可能になったと思い込んでいる社会(本当はそうであると強弁できないことは、技術者としては良く思う)においては、このように自分の弱さを思い至るのは、地震や火山噴火、災害などが発生した時だけ、となりかねない。この結果、この災害や、人間の力を超えた現象に直面し、どうしようもない時にのみ人間にとってもメタ存在である神の名が持ち出される(日常的に人間にとってのメタ存在である神のことを普段考えていないわけだから、持ち出されるという表現がふさわしい)ことになる。

     現在の世俗の仕事では、農業者の方とのおつながりもあるので、農業者の方とお話ししていることも多い。農業者の方は、日常的に、気象など、この自分ではどうにもならない環境に直面しているが故に自分自身の弱さを感じておられるのだなぁ、と思うことが多い。なに、農業者を理想化しているわけではないが、自分を超えたものの存在はより身近に感じる機会は多い、というだけのことではある。

     ナウエンは、With Open Hands(日本語訳では、『両手を開いて』 女子パウロ会)で、人間は、コイン(自分の努力や成果)をしっかり握りしめた状態で、そして神に向かっているという表現がある。如何にそのコインが神の目から見たときに、無きに等しくても、それを手放すことが難しいことを指摘し、本来、神が差しのべた手を受け止めるためには、その握りしめたコインを手放す必要があるにもかかわらず、それを離せないことを指摘した文章がある。それと同じことを、木原さんは、弱くもろい器であることを自ら認める、という表現でご指摘になっているような気がする。
     弱さを通して私たちが学ぶことは、結局は、誰かが弱いというのでなく、私たち人間は、共通に弱くもろい器だということではないかと思う。そして、それは決してマイナスではない。むしろ逆説的ではあるが、「役に立つ」とは何なのか、それ自体にも改めて疑問を持つことで、生命や生きることの神秘を教えられる気がする。弱さに目を向け、ケアし、ケアされ時に、役に立つ、役に立たないということを超越させる存在そのものに目を向ける何かがある。
     そして弱さとは、人間の深さと同様に奥深い。そして、その深い井戸のかなたには、人間を超えたスピリチュアルなものがある。私の場合、それは弱さを受け止め担うイエスそのものである。「弱さ」こそ究極の神に出会う深遠な場所、そう思えてならない。(p.29)
     しかし、「深い井戸のかなたには、人間を超えたスピリチュアルなものがある」という表現は、最近刊行されたN.T.ライト著「クリスチャンであるとは」(あめんどう刊)の冒頭最初にあるか細い声、声にならない超え、残響としての声を思い出させる。

     人間が様々な方策を弄し、これぞ完璧な社会、問題がない社会を造ろうが造るまいが(個人的には、それは神がなければ、結果的にはバベルの塔と同じことであると思うが)、我々にその残響のような声として、私はここにいる、ということを神は我らに語りかけておられるし、それが十字架の上で見る影も無くなった姿をさらしたナザレのイエスがその弱弱しい姿、そして、裂かれた姿をさらすことで、私はここにいるということをナザレのイエスは神の人間に対して開かれた姿を示しておられるのだと思う。ナウエンと読む福音書のイエスの死と十字架に関する部分は、これらのことを如実に示していると思う。下記リンクで示す、『ナウエンと読む福音書』、『クリスチャンであるとは』も、是非お勧め致します。

     ところで、ここで、木原さんは「井戸」という概念を取り上げておられるが、これは上沼昌雄さんの著書『闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神』で取り上げられているメタファーと通じるものがある。

     続きは来週土曜日公開予定。これまた、長期連載覚悟である。お付き合いいただけたら、これ実に幸甚。



    評価:
    ヘンリ・ナウエン
    あめんどう
    ---
    (2008-04-30)
    コメント:絶賛致して居る。

    評価:
    上沼昌雄
    いのちのことば社
    ¥ 1,944
    (2008-09-24)
    コメント:村上春樹の小説などを引用しながら、闇の中にいる我等、そこに訪う神のみ姿で示されている。非常に印象深い。

    評価:
    木原 活信
    いのちのことば社
    ¥ 1,728
    (2015-07-08)
    コメント:お勧めしてます。

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