<< 2015年6月のアクセス記録とご清覧御礼 | main | 公開講座のご案内 >>
2015.07.01 Wednesday

工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その6

0
     
    Pocket

     本日も、また工藤信夫著 真実の福音を求めて から引き続きご紹介したい。本日は第7章「日本人のメンタリティと疎外」についてである。

    自己の意見表明をしない日本人
     海外に行ってみて思ったのは、自己の意見や意思を表明しておかないと、完全に置いてきぼりされてしまうし、それで苦情を言おうものなら、「あんた、私が聞いた時に、自分の意見を言わんかったじゃないか」と言い返されてしまうのが落ちなのだ。察する、とか、惻隠の情とかいう言葉は問答無用の「主張したかしなかったか」が全ての世界である。

     「自分の感じていることや自分の考えていることを説明するのをタブー視する傾向」、またそれをよしとしない性向が、今日の日本社会のみならず、教会にも厳然とあるのではないだろうか。(p.89)
     もう、自分の思いを言わない、これは平安朝の貴族社会からの伝統ではないかと思うくらい、自分の意見を言わないなのが、日本の社会なのであり、まぁ、非常に長期間維持されているので、仕方のないことなのかもしれない。そのあたりは、以下にお示しした「なんて素敵にジャパネスクでもご覧いただければ、わかりやすいかもしれない。


    院生時代に悪友から読まされたが、読んで良かったと思っている

     アメリカの教育では、基本的に自分たちが思ったことを小学校1年生から、Show and Tellという形で教育する。国語教育としての一環として、Oral Presentationとそれを通した表現力を教育という形で、展開していくのである。


    Show and Tellの重要性に触れた動画


    実際の幼稚園児が魔法の箱のおもちゃを紹介するShow and Tell
    先生の驚きっぷりがとってもアメリカン

     この本心を言わない文化の中にある日本の教会に北アメリカ大陸で自己表現を徹底的に求められる社会の中で教育を受け、そういうものだと思っている帰国者クリスチャンが入ってくるとどうなるか。それは以下の図のようなものではないか。
    http://dg.galman.jp/img/00gr6_86304/%E3%81%A9%E3%82%88%E3%83%BC%E3%82%93.gif

     それを迎え入れた教会の方は教会で、日本社会や自分たちの文化の破壊者となりかねない存在として帰国者クリスチャンを迎え入れることになる。そして、教会内文化不適合が起きかねないようである。

     北アメリカ大陸でものすごいコストをかけ、世話をし、さぁ、これから実を結ぶ稚苗として、日本の地に根を下ろせ、そして、きっと何十倍、何百倍の信徒へと…という思いで北アメリカ大陸の教会から日本に若いキリスト者を送り返すのであるが、大抵の場合、その文化的ギャップに苦しみ、まぁ、教会に行かなくなってしまうし、行っている人はそれなりに大変な思いをされている模様である。いわゆる立ち枯れを起こしてしまっているように思う。

     この日本人の顔した外人は結構日本社会で面倒な存在なのである。実は、ミーちゃんはーちゃんは、この日本人の顔した中身外人なのではある。w敢えて、日本語通じないふりをすることもある。

    口から生まれたアメリカ人
    耳から生まれた日本人
     日本人の多くの方は、聞いて、それで満足し、わかった気になってしまう。しかし、それにはいくつかの問題があるのだ、聞いたことを受け取った側が誤解し理解して再拡大されてしまうことがあるのだ。その意味で、聞いたことについて話すというリパーカッションというか、振り返りが案外重要であるのだ。そのことについて工藤さんは以下のようにお書きである。

    自分の本心を言わない「物言わぬ文化」、これは、アメリカにわたったらすぐに直面する課題である。向こうの大学の講義は、とにかく何か言わないとだめなのである。教授が冒頭短く問題提起すると、すぐ学生はディスカッションを始める。自分の意見を言わない学生は置き去りにされる。また、人と同じようなことを言うと評価されない。斯くして昔からよく言われているように、日本人は何を考えるかわからないという事態が現実のものとなる。つまり、日本人の文化は、その多くが腹芸といわれる世界なのである。何を言うかよりも、何を考えているかの腹の探り合い、人の話は聞いても、自分の意思、感情を言わないのである。
     これは教会の講演会でもよく経験することである。私の場合、午前中に礼拝で話をした後、その内容を深めたり分かち合って広げたりした方が良いと考えて、午後に話し合い、分かち合いの会を設定するのだが、半分以上いや4分の3は帰ってしまう。つまり日本人は話を聞く方に親和性があっても、話す、分かつこと、そしてそれを人に知られることに抵抗がある。しかし自分の感じていることを話す、分かつことは自己確認のためにも大切なことである。(pp.89₋90)
    アメリカワシントン州で教えた経験でいうと、アメリカのかなりの学生は、現地の大学教員をして「奴らは口から生まれてきた」と言わしめるほど、しゃべることに熱心で、人の話を聞くことに慣れてない。大体聞いていない。そして、隙あらば、突っ込んでくる。油断も隙もありはしない。

     まぁ、口から生まれてきたアメリカ人学生の間で鍛えられたので、議論へのカットインの技術だけはついた。All right, All right, you said that, but… ってカットインすれば、議論には割り込めるのだ。ただ、後いう内容を考えてないと自爆する結果に終わるので、きちんと関連性があるように見せながら、カットインすることがコツであるが。


    13分辺りから、アメリカでのディスカッションってこんな感じになる。

     しかし、彼らの人の話を聞いてなくて、勝手に議論する時に、こういう画像を表示したくなるほどである。

    http://sd.keepcalm-o-matic.co.uk/i/stop-talking-and-let-me-speak.png
    しゃべるのをやめて、私に話させろのポスター

    http://sd.keepcalm-o-matic.co.uk/i/keep-calm-and-carry-on-8044.png
    パロディされてしまった大英帝国の第2次世界大戦中のポスター(オリジナル)

    そういう大学のシーンは、この映画の中でよく表れている。

    映画「大いなる陰謀」から学生によるクラスディベートのシーン

     日本人は聞いているふりをしているが、案外、コアの部分で聞いていないものである。いや、説教なんか、特にそうかもしれない。そして、おまけに自分の意見を言う機会とその表明方法を知らないからこそ、説教とか、授業とかはほとんど、ひまつぶしと思っているみたいである。試験とかで脅さないと、聞いていないみたいなのだ。

     最近、学部の講義では学生の近くによって、学生の意見を聞きまくりながら授業をするのが習いになっている。まぁ、このメリットは、学生の注意と関心をスマートフォンの画面から講義に向けさせるという側面はある。すると、彼らがいかに聞いてないか、他の授業で習っているはずの知識が、自分自身の中で整理されていないかがわかるので、面白いのだが。w

     日本人の「聞く」ということは、聞いて終わり、得た知識は個人の中で退蔵させて、腐らせて終わり、ってあまりに残念ではないかなぁ。それがあるから、文系学部廃止論とかわけわからんことが声高に主張される背景なんだろうけど。w

    信仰をエンジョイしないキリスト者
     しかし以下の工藤さんの記載は、実に深刻であると思う。
     私の友人がイギリス遊学で得た信仰体験である。彼女は、チェコから来たクリスチャンの友人に、「日本人はとてもpolite(ポライトー丁寧で礼儀正しく、周囲に気配りしながら、自分の行動をとり、発言するという意味)だけれども、私たちから見ると信仰をenjoy(エンジョイ―楽しむ)しているとは思われない…」(今を生きるキリスト者 p.161)といわれたという。
     この発言は、私たち日本人の信仰は同質性、均一性を重んじる文化の上にあると告げる。だから、「一人ひとりが違って当たり前、むしろ違っていることが大切」という、個性を重んじる西洋型キリスト教は、その深いところで容易に日本人には浸透しないのではないだろうか。(pp.92₋93)
     本来、NTライト先輩がお書きのように、本来、福音とは、Simply Good Newsであったはずで、Enjoyableであるはずなのに、いつの間にか、どよ〜〜〜んとした空気感が漂っていて、生き生きとしてないというのか、死体と同居したような信仰のようになっていないだろうか。まぁ、日本では、仏教もそうだが、葬送儀礼と宗教の結びつきが強すぎ、宗教が本来持っている生の側面、生き生きとした側面があまりに軽視されているような気もする。

     これまでの繰言になるのであっさりとすますが、産業革命以降、人間の同質性が洋の東西を問わず、平均値的人間をよしとする(これは、製造の側面、供給サイドからの論理であるが)ことが問われた中で形成されたキリスト教という側面も無視できない。なぜかというと、明治から昭和初年にかけて当時の最先端と思われていた、大量生産、大量消費社会実現のために構想された、社会の均質化のためのシステム(学校、軍隊、産業組織、生産システム…)という欧米文化と一緒に日本国内に流れ込んできたため、キリスト教も、この社会の同質化のシステムの一部と理解された可能性が高く、日本型のキリスト教として定着していったのだと思う。西洋型のキリスト教は、ある面、西洋という土壌に土着したキリスト教であるし、日本型キリスト教も、日本という文化土壌に土着したキリスト教であるから、どっちもどっちであるとは思っていて、真偽論争するだけ、無益であろうと思っている。ただ、日本で、本来福音が持っていたみずみずしさのようなもの、Simply Good News性とでもいうか、とらわれ人からの解放感がなく、解放されるのではなくある概念への閉じ込め感の強いのは、イエスの主張とは真逆だとは思っている。

    徳治政治が支配するキリスト教界

     基本的に中国文化圏の政治論は、政治学の教科書を見れば、徳治政治であることは描かれている。徳治政治とは、儒学に伝統に言う仁徳を有する者が全てを丸く収め、社会の論争を治めていくタイプの政治的伝統の概念である。アジア圏の中国文化圏には、この形態の政治体制が多い。
     今形を成しつつある教会も、そのルーツをさかのぼれば、信仰熱心な信徒の家庭集会からスタートしていることが多い。その場合、長老格の人物は影の実力者という形で教会の実権を握っている。そして若い牧会者もその人の意向にかなっている間は、良き牧師として受け入れられているが、それこそ長老の怒りに触れたら、たちまち左遷の憂き目を見るのである。そのうえ、そこに集う信徒も、義理、人情にまつわるような様々しがらみによって、支配者になかなか逆らえない。同調性と変化の確執である。(pp.94₋95)
     この徳治政治は、日本国内でも昔の自民党(今もだ、という説もあるが)派閥政治、領袖政治などにもみられ、さらに言えば、ご近所の国の将軍様も、基本的にこの形である。方向は違うとはいえ。


    いやぁ、将軍様は実に仁徳に満ちた方の御様子である。

     しかし、最近思うのだが、あまりに西洋型の建物付の教会のイメージがあり、それがあまりにも前提とされること、さらに公共施設がオウム真理教事件を契機に宗教系団体への貸し出しを渋るようになり、建物付でない教会運営は考えることが難しい人々が多いが、本来的にはそんなものではなかったのである。それは以下の使徒行伝の記事に見られる。
    【口語訳聖書】 使徒行伝
     16:13 ある安息日に、わたしたちは町の門を出て、祈り場があると思って、川のほとりに行った。そして、そこにすわり、集まってきた婦人たちに話をした。
     16:14 ところが、テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人が聞いていた。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた。
     16:15 そして、この婦人もその家族も、共にバプテスマを受けたが、その時、彼女は「もし、わたしを主を信じる者とお思いでしたら、どうぞ、わたしの家にきて泊まって下さい」と懇望し、しいてわたしたちをつれて行った。
    そもそも、降水量が極端に少なく、気温の温暖な地中海地方では、教会とは、人けのない、町の外側のごみ溜めもどきの川のほとりで行われていたものであって、今みたいに巨大な礼拝堂を持つようになったのは、ローマ帝国の国教化前後であり、特に、北ヨーロッパの冷涼な気候地帯や、北西ヨーロッパの降水量の多い地域に進出するまでは教会堂を持つなどという概念はさらさらなく、ごみ溜めのようなところで集まっていたのである。これなら、だれも文句は言われまい。
     しかし、現在、多くの日本の教会でも、西洋の教会でも、教会員の数が少なく教会がどんどん売りに出され、転用されている。まぁ、それも仕方ないし、それに合わせた教会運営の形も模索されていいと思う。アメリカでちょっと前に話題になったHouse Church運動なんかはこの種のものだろう。

    http://static2.stuff.co.nz/1320953958/902/5948902.jpg
    売り出されたNew Zealandの教会

    http://swipe.swipelife.netdna-cdn.com/wp-content/uploads/2009/06/church-home-northumberland.jpg?aec60b
    住宅に転用された教会(内部映像)

    愛について
     「愛」というラテン語Amorを日本語に最初に訳す時に、神の御大切と16世紀に日本で伝道していたパードレたち(伴天連の皆様)が翻訳していたことはよく知られていることであるが、もともと古代仏教における愛は、愛憎という意味が含まれるため、かなり否定的にとらえられている語である。渇愛、愛は苦の原因と考えられており、美しいものとされていなかったためである。それほど”愛”という感じとそれが指し示すものは、古い日本では情念うずまく世界に関する語なのである。今では、すっかりサニタイズされてしまったが。その”愛”という言葉に関して工藤さんは以下のようにお書きである。
    ところが年齢とともに、時代に日本人には愛という言葉より「慈悲」「慈愛」の方に親和性があるのではないだろうかと思うようになってきた。「石の文化と木の文化」の譬えが適切かどうかはわからないが、日本人の使う「愛」という言葉の中身には柔らかさ温かさが含まれているような気がする。つまり、西洋人の使う「愛」といいう言葉に含まれる明確さ、強さ、激しさが内奥に感じるのである。日本人の使っている「愛」(love)は「好き」(like)というニュアンスに近いのではないだろうか。(同書 pp.95₋96)
     いつのころからか、恐らく、明治のころから、西洋文明とキリスト教の到来とともに、愛はき良いもの、柔らかいもの、温かいものとしての積極的な読み替えが我が国において行われ、そうでなければならないという形で、ギリシア哲学やギリシア思想を背景とするキリスト教というフィルターを通してヒューマニズムでサニタイズされた結果、本来、聖書の持っている愛のどろどろしたような部分が、きれいさっぱりサニタイズされてしまったのではないか、と思っている。

     そもそも、聖四文字YHWHなる方は、ご自身について次のようにイスラエル人にお語りである。
    【口語訳聖書】出エジプト記
     20:1 神はこのすべての言葉を語って言われた。
     20:2 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
     20:3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
     20:4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
     20:5 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
     20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
     聖書の神は、サニタイズされた愛の神ではなく、激情の方であり、修造とは比較にならない程濃い方なのである。現代の日本人には暑苦しすぎる方であり、まぁ、古代仏教の方からすれば、「だから苦に陥るのである」といわれても仕方がないほど、激情型のご性質をお持ちなのである。まぁ、時につらいことはあるとは思うが。


    シジミをとるために冷たい水の中でちょうどいい感じの修造君

     なお、熱いといっても、個人的には、松岡修造氏的な、こういう根性論は大嫌いである。問題の根本的解決にならないことがあるし、これが特攻作戦というろくでもない計画、精神論で何とか現地でせよという大本営の無謀な作戦参謀の作戦立案につながり、多くの資源と人命を奪ったからであるが。

     また、本省の最後の工藤さんの指摘が痛い。
     私はこの山浦氏の、日本人のメンタリティに「愛という概念はなじまないのではないか」という指摘は、「信仰による人間疎外」というテーマを考えるとき、ないがしろに出来ない視点を提供してくれているように思う。というのは、キリスト教は愛の宗教であると強調されるあまり、愛の共同体と思って近づいたものの、非常な仕打ちを受けて苦々しい思いでそこを去った人々が決してすくなっくないと思うからである。換言すれば、人は愛(love)によって受け入れられると思ってキリスト者、あるいは教会に近づいたのに、そこにあったのは愛とは名ばかりの支配、干渉、さばき、争いの支配する世界であったという悲劇があまたあったのではないだろうか。
     ”愛”という言葉の吟味が必要な気がする。(同書 pp.97₋98)
     キリスト教は、愛の共同体を確かに語る。しかし、日本で一般に普及している愛は、19世紀に日本にアメリカから伝わったヒューマニズムというフィルターを通した愛として普及しているのであり、また、キリスト教はそれを語ってきた部分がある。聖書の言う根本的な愛の理解、とりわけ、ヘブライ的な愛の理解を十分に持たないまま語ってきたのではないか。まぁ、これは、キリスト教側の問題は多いにせよ、同じ語が実に多様な意味を持つ現代社会の問題であるとは思うが。

     しかし、一糸乱れぬ行進を理想とするようなことを教会が言うようになったら個人的にはお終いであると思っている。なぜならば、それは本来人間的な理想という神ならぬものを神としているに近いのではないか、と思っているからであるが。

     まだまだ続く




    評価:
    工藤 信夫
    いのちのことば社
    ¥ 1,296
    (2015-06-05)
    コメント:絶賛おすすめ中

    評価:
    N. T. Wright
    HarperOne
    ¥ 2,414
    (2015-01-06)
    コメント:良い。

    コメント
    コメントする








     
    Calendar
    1234567
    891011121314
    15161718192021
    22232425262728
    2930     
    << September 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM