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2015.06.27 Saturday

工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その4

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     本日も、また工藤信夫著 真実の福音を求めて から引き続きご紹介したい。本日は第4章「信じ方の問題」についてである。

    独善と教条化と疎外
     よく考えてみれば、これのみが正しいとかいうことを避けられれば、独善も起こらないし、教条化も起こらない。しかし、これのみが正しいという言説はかなり見られる。では、なぜそれのみが正しいか、という根拠を十分に詰めることなく、意外と安易に「この辺がデファクトスタンダードだよね」ということで、「正しい」という主張がなされやすい。深い思索もなくある主張が勝手にデファクト・スタンダードであるとして、独り歩きときに、結果的に、非常にまずいことが起きるような気がする。計算機業界では、案外このような傾向があるから、困ることが多い。
     疎外の問題は、信仰の絶対化、独善と、教条化に密接な関係があるといって良い。なぜならば、この3つは異なるものを排除するという構造を持っているからである。そして困ったことに、教条化も独善も、そう簡単に分かったつもりにはなってはいけない真理を、自己流の狭い解釈で絶対化するばかりでなく、それを他人に押し付けるという暴力性を帯びている。(中略)人にはそれぞれ見方、感じ方があって、”みんな違って、みんないい”などと考えるいとまもなく、他者尊重も地道な自己反省も吟味も伴わない。これは、宗教者の本来あるべき謙虚さ、求道心からは程遠い姿勢である。(真実の福音を求めて pp.63-64)
     まぁ、こういうことを考えると、「そして困ったことに、教条化も独善も、そう簡単に分かったつもりにはなってはいけない真理を、自己流の狭い解釈で絶対化するばかりでなく、それを他人に押し付けるという暴力性を帯びている」という工藤さんの指摘は極めて重要であると思う。更に、このような暴力性が狭い集団で発揮されると大変困ったことになる事が多い。

     真理はそんなに簡単にはわからないのだが、自分が分かる形で提示されると、あぁ、それが真理か、と思い込み、そして、それを他人に押し付けてしまうのだ。そして、社会が狭ければ狭いほど、その集団での反響が常に起きるため、その安易な図式化、あるいは安易で省略された真理と呼ばれるものの真理性がさらに強化されることになり、そして安易な省略さえた心理と呼ばれるものが絶対視化されていく。単純化された真理を真理として受け止めてしまうという状況の場合、その暴力性ゆえに被害者であると同時に、単純化され先鋭化・絶対化された真理を他人に押し付けるという意味で、加害者となっていく。これがカルトにみられる基本的構造である。そして、その単純化されたものはさらに先鋭化・絶対化されていく。

     そして、それにわずかでも疑念を差し挟もうものなら、そういう疑念を持つ方がおかしいとされ、その社会から排除される傾向を持ちかねない。その意味で、そもそも一種同質的な人が集まっていることの多い教会という極めて同質的な世界で、その教会社会の人口規模問題が小さければ、より異質な人々は、どうしてもその教会という社会の隅におかれる傾向があるのは、実に残念な構造である。

    自己批判、疑うことの重要性

     自己批判するためには、批判意識がいる。その意味で、批判や疑う心というのは、非常に重要なのである。そして、自らしっかりと考えるという作業は丸呑み・丸受けという作業に比べて、人にもよるが、よほど時間がかかるし、困難な道であると思う。このあたりの事に関して、工藤さんは、藤木さんの断想を引用しながら、次のように書いておられる。 
     無限の添削
     人を試みながら徐々にその姿を現してくるのが、宗教的真理でありましょう。試練に会い、誘惑にさらされ、混迷に陥り、その中で確信していたものが崩れたり、分らなかったものがわかってきたり、そういう手間のかかる道を通って出なければ、それは現われてきません。だからそれに対しては明快と性急は禁物です。不明確さに絶えて自分の問題点に気づき、緩慢さに耐えて自分と改めていく、その今期の良い自己添削こそ、それにたしてふさわしいのです。信仰は、自分に対するこの無限の添削でもあります。(『灰色の断層』p.34)
     この断想で注目すべきは、信仰の道は本来”手間のかかる”という性格を持ち、その世界では、”明快と性急”は大いに警戒すべきものであると言われていることである。(中略)藤木牧師は、信仰の世界は手間、暇をいとわない地道な努力の積み重ねだといわれる。ところが、私たちはこの地道な努力を好まない。”独善と教条化”の方が動きやすいからである。(同書 pp.64₋65)
     現代社会は、明快と性急で満ちている。単純明快という意味では、自動販売機のボタンを押したら、その商品が出てくるのが当たり前の社会である。日本の自動販売機は、実に単純明快である。アメリカの自動販売機は、そのあたり、実に複雑で、25セント(クォーター)硬貨二つで、ソフトドリンクのペットボトルが1本出るのが標準だとボタン付近で主張しながら、時に、ソフトドリンクのペットボトル2本出てきたり、ある場合、お金だけ持っていかれて以上終わり、という目にも合う。実に非常に複雑な気持ちにさせてくれる。日本の自動販売機は、それに比べ、非常に単純明快であり、勝手に日本出てくるということがないように出来ている。

     その伝でいけば、日本の新幹線は、まさに、明快で性急である。駅に行って、乗れば、性急に目的地に連れて行ってくれる。時速300キロ近い鉄道車両を最短4分間隔で確実に運行する技術なんて、他の国は持っていない。こういう明快で性急な技術は日本のお家芸なのである。

     最近、こういう、明快で性急な、というよりは、明快で短兵急な成果だけが求められる研究ばかりがもてはやされ、国立大学の文系学部廃止論などが一部で声高に叫ばれているが、明快で短兵急な成果だけを求められた犠牲者が、オボちゃんだったことは忘れられてはならないと思う。彼女は、実にマスコミ受けの良い明快で性急な結果だけを求める日本社会が生み出したかわいそうな犠牲者に見えて仕方がない。そもそも、人間自体がよくわからない気色悪い存在を、単純化して分かった気になる方が、どうかしていると思うし、それを自分がさも分かった気になれるからと、安易にもてはやす方がどうかしていると思うのだが。

     この事件も疑うことが足らなかった事件であると思う。


    オボちゃん

    カリフォルニアの青い空のような脳天気な信仰

     この藤木さんの断層をお読みになられたある所の読書会での信徒の方のレポートが面白い。
     私たちが神から与えられていた人生を歩むとき、神への疑いや不信を抱かずには過ごせないと気が多くあります。このような思いを抱くのは決して自分だけではないと思うのですが、『信仰』を共にする方々との交わりの中でこの自らのうちに潜む『不信仰』や『疑い』を打ち明けることを拒む雰囲気が教会内にはあるように思うのです。
     例えば、私が信仰や神に対する疑いの思いを打ち明けると、『信じていればいいのですよ』という聖書の言葉で切り返されたり神を信じていながらも不安を抱くことについて訴えると、『まだまだ信仰が足りないね』と返答されたりすることもありました。そのような聖書的正論で切り返されると、自分は『不信仰』であるという『罪意識』にさいなまれる負の連鎖に陥ってしまいます。(同書 p.66)
     しかし、神はいるのか、この苦難は何だという問いを発生し続けたのイスラエルの民である。しかし、ヨブは、疑ったのである。そして疑い尽した挙句に、神と出会う。そして対話する。サラは笑ったのである。しかしイサクをその手に抱くことになる。ヨナに至っては、神の言うことなぞ聞きたくないといいタルシシュに向かっていく。神に逆らい続けながらも、しかし、イエスが直接言及された数少ない預言者の一人となる。

     神が降りてくるかどうかを見てみようといったのは、信仰深いはずのユダヤ人たちであったというのは、非常に面白い。まぁ、実際に手を下したのはローマ帝国なのであるが。ヤコブは神の言葉をそのまま受け取ることなく、祝福を求めて神の使いと戦ったのではなかったか。

     澄み切ったカリフォルニアの夏の青い空のような、一点の曇りもない単純な信仰はそれはそれでよいのかもしれないのだが、しかし、そこには、カリフォルニア的脳天気というようなものも一緒にあって、なんとなく陰影とか、味わいとかのあまりない大味な風景が広がっているように思うのだが。まぁ、好みの問題である。こういう大陸的な光景がお好きな方は大陸的な大味さを楽しまれたらよいのだと思う。最初はいいが、個人的には飽きた。特に運転するとき、つらい。こんな感じのところを運転するときには、クルーズコントロールが絶対に欲しい。



    たかが知れている人間
     工藤さんの本を読みながら、人間とは実に厄介な存在だと思った。所詮、神の目から見たら、たかが知れているのだ。しかし、ちょっとの差を見つけては、どっちが正しい、どっちが熱心、どっちが聖書的って、もう誤差の範囲のことを競い合う。実に残念な存在であると思う。
     『福音は届いていますか』という本で多くの読者が楽になったという項目は、私たち信仰者の心を悩ます、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい」(I テサロニケ5:16−18)というみことばの解説である。多くの信徒にとって「いつも」「絶えず」「すべての事について」というこの3つの勧めが心の負担になってしまっているのである。しかしそれは努力目標であって、必ずしも現実的ではない。人間はそれほど高尚なものではないし、人間の集中力など、たかが知れているからである。(同書 p.69)
     上の文章のように、「人間はそれほど高尚なものではないし、人間の集中力など、たかが知れている」と実に清々しい。それが少しの違いでさも高尚だと自分自身を思い込んだり、牧師や伝道者や宣教師をそうだと思い込みたくなったりと、まぁ、実に残念な存在だと思う。

     まぁ、そんな風に勝手に推測されて、身動きが取れなくなった、牧師や宣教師や伝道者は、そして、その牧師や宣教師や伝道者の御連れ合いやお子さんこそいい迷惑ではないか、と思う。Ministryの最初の方の号に牧師館からのSOSや、牧師の家庭に生まれて、という特集があったが、そこで語られているその勝手な信徒の推量や了見や基準を割り当てられ、それに沿って生きなければならないとしたら、実にお可哀そうな存在である。

     人は泣きたいときに泣き、笑いたいときに笑うものだと思う。エサのいらない猫被った生き方なぞ、窮屈でしょうがないではないか。

     あのパウロ大先輩だって、
    【口語訳聖書】ローマ書
    12:15 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
    とお書きであったような気がするが。

    コントロールするのが好きな時代の赦しと受容

     先に、現代人はあまりに安易で、それも性急に理解したがる性向があり、それも、具合が悪いことに、自分の好むような解決の結果を欲する(あるいは時に神に強要する)傾向にある。忍耐力がないのである。ナウエンは、Finding My Way Homeという本の中の最後のセクションの中で、そのようなこらえ性のない現代人の信仰ではない、Waitingの信仰について書いており、それは、Open Endedな信仰であるという。
    A waiting person is a patient person. The word "patience" implies the willingness to stay where we are and live the situation out to the full in the belief that something hidden there will manifest itself to us. Patient living means to live actively in the present and wait there. ... Patient people dare to stay where they are. Waiting, then, is not passive. It involves nurturing the growth of something growing within.

    There is more. Waiting is also open-ended. Open-ended waiting is hard for us because we tend to wait for something that we wish to have, but we do not know it or when we will have it.

    Finding My Way Home Henri J. M. Nouwen, pp.97-98
    われわれ現代人は、基本的に自分が望む結末の受容を望むし、そのことがあるがゆえに”赦し”が言及されることがあまりに多いのではないか。Open Endedではなく、Targeted Endsを求めるのではないか。しかし、神の関与の不思議さは、人間が結末を定めようとしても、そうはなってないことを示しているように思う。マリア(イエスの母の方)は、神の使いに対して、「それがどのようなものかはわかりませんが、あなたがそうおっしゃるなら、そうなりますように」といってたような気がするし、それが主の祈りにおいて、「みこころが天においてなるがごとく、地においてなりますように」の祈りなのではないかと思う。その意味で、次のことばを個人的には深く思いめぐらせている。
     教会人にとって”赦し”と”受容”がそう簡単ではないことをわきまえ知ることは、忘れてはならない信仰者の要諦であるような気がする。
    (同書 pp.72₋73)
     現代人は、下のコントローラで遊ぶタイプの予定調和にあまりに慣れ過ぎているのかもしれない。


    任天堂さんの昔懐かしコントローラ




    評価:
    工藤 信夫
    いのちのことば社
    ¥ 1,296
    (2015-06-05)
    コメント:絶賛おすすめ中。

    評価:
    Henri J. M. Nouwen
    Crossroad Pub Co
    ¥ 2,127
    (2004-09)
    コメント:問答無用に良い

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