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2015.06.29 Monday

工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その5

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     本日も、また工藤信夫著 真実の福音を求めて から引き続きご紹介したい。本日は第6章「宗教者の暴力」についてである。

    キリスト教の社会的影響と
    キリスト教による疎外

     キリスト教は日本では、西洋の世界標準の評価の高い倫理を含むものとして受け入れられてきたし、それと同時に、その倫理であることが多くの人々を教会から排除してきた。
     確かにキリスト教は数多くのすぐれた人物を輩出してきた。それは歴史的事実であり、そのことが私たちの誇りとなって今日の信者を励まし続けているのは承知のことである。またキリスト教が日本の教育・思想に与えた影響も枚挙にいとまのないほどである。それで「キリスト教」「クリスチャン」といえば、権力、暴力などとは程遠り世界のように人は考えてしまう。しかし宗教の世界こそ、目に見えない暴力の働くところである。(中略)
     ヘンリ・ナウエンは『まことの力への道』(あめんどう)の中で、次のように述べている。
     『経済的、政治的力よりも悪質なものが存在します。それは宗教上の力です。神がこの世界を見られる時、涙を流されるだけでなく、怒りをも覚えられます。というのは、神に祈り、賛美をささげ、神に向かって『主よ、主よ』と叫ぶ人のうちの多くもまた、力によって腐敗しているからです。
     (中略 ミーちゃんはーちゃんによる)
     もっとも狡猾で、分裂を引き起こし、人を傷つける力は、神への奉仕と称して使われる力です。私は、『宗教によって傷つけられた』というおびただしい数に私は圧倒されます。牧師や司祭による心無い言葉、ある種のライフスタイルをとる人への教会内の批判的意見、交わりの場に歓迎されない雰囲気、病気や死に瀕している人への無関心、その他のことで受けたこころの傷。こうした傷はこの世界から拒絶されたことにより、長く人々の記憶に残ることが多いものでう。…の家族である教会の兄弟姉妹から歓迎されてないと感じ、神のもとを去っていきました。愛を持って迎えられることを期待したのに、実際は宗教の持つ力にさらされてしまったのです。『真の力への道』pp.14−15 太字は工藤さんによる)」
     (真実の福音を求めて pp.74₋75)
     クリスチャンこそ、戦闘民族的であり、クリスチャンとそれ以外の皆さん(ユダヤ系の人々とムスリム系の人々)、クリスチャンとクリスチャンで、血で血を洗う様な事件をやたらと起こしているのは歴史を見れば明らかである。まぁ、宗教が騙られて、素朴な激情型(劇場型かもしれない)の人々を大量動員するために、実態的には政治的闘争に宗教をコーティングしました的な紛争、利益を巡る経済紛争に宗教をコーティングして、アラモードに仕上げてみました、というところがある。

     まぁ、明治期以降は、日本ではキリスト教とは幸いにして圧倒的少数派に甘んじたので、キリスト教側から積極的に日本国内で、ケンカを売り歩いたということはあまりないが。しかし、もし、社会のマジョリティなら、キリスト教徒は率先して喧嘩を売り歩いたのではないか、と歴史家には絶対に許されぬあらぬ想像もしたくなる。

     上記のヘンリー・ナウエンの文章内でミーちゃんはーちゃんが最も気になった部分は、「ある種のライフスタイルをとる人への教会内の批判的意見、交わりの場に歓迎されない雰囲気、病気や死に瀕している人への無関心、その他のことで受けたこころの傷」という部分である。この部分は、Finding My Way Homeを、明石のヘンリーナウエン研究会で読んだ時に、実に刺さってしまった部分で、一瞬その解釈と解説を口ごもりそうになった部分である。

     そうなんですよね。ちょっと人と変わっていることや、その人が持っている一時的条件のため、教会から受け入れられないのではないか、ということ思い、他の人と比べ変わっていることや、自分の価値観が言い出せない、あるいは受け入れられていないという思いを持つ方も多いのではないか、と思う。そのうち、ちょっと変わっていることを表明できない方々は、エサのいらない猫被って生きないといけないことになる。実にそれは、その人らしさを殺すことになりかねない、と思うのだが。


    Comic Twitter !さまから 川原泉 『笑う大天使』 白泉社刊 第1巻より

     こういうマンガを思い出していたら、キリスト新聞絶賛連載中の伝道十宣隊キョウカイジャーの中に、United Church of ChristのFacebookページで紹介されていたGive Out Dayの映像の話があった。

     どうもアメリカのテレビで流れたCMらしい。どこまで流れたかは知らないが、以下の動画で紹介する映像は非常に象徴的である。個人的には、赤ん坊を持つ母親や、障碍者、老人、恐らくヒスパニックの人々や、同性愛者が跳ね飛ばされるのは、実に印象的である。ナウエンが言っているのも以下の2つの動画と同じことではないか、とは思った。

     こういうことを書くから、リベラルというラベルを有難くも張っていただけるのであるが、それは甘んじて、受けよう。ミーちゃんはーちゃんは自分自身がリベラルだとはこれっぽっちも思ってないけれども。あなたがラベルを張るのも勝手なら、ミーちゃんはーちゃんが剥がすのも勝手なんじゃございませんこと?


    UCCの教会のTVCM 教会から天へ編



    UCCの教会のTVCM 教会門前の教会内に入ってよいかを判断する用心棒編
    (アメリカのバーには入口を管理するバウンサーと呼ばれる人がいるらしい)

    神の名を騙る教会内暴力

     神の名を借りて人々に自分の希望を押し付ける宗教者の言動について、ナウエンの著書から引用しながら、次のようにお書きである。
    こう指摘して、ナウエンは、神の名を借りて人々に力を行使する宗教者の暴力を次のように表現する。
     「今日のように、経済的にも政治的にも不透明感の大きい時代で、最も大きな誘惑の一つは、他の人々に力を行使する手段の一つとして信仰を利用する事です。そして、神の名を借りて人間の命令を押し付けることです。ですから多くの人々が、少しでも宗教と関係していると聞くと、うんざりして背を向けてしまう理由がよくわかります。福音を述べ伝えるためにこうした力が使われると、善き知らせはすぐに悪しきもの場合によっては最悪の知らせに変わってしまいます。それこそが、神を怒らせるものです。(同書 p.17 引用者註 太字は工藤さんによる)
    (同書pp.76₋77)
     神の名を借りて、と工藤さんやナウエン先輩はお書きであるが、ミーちゃんはーちゃんに言わせれば、神の名を騙って、である。「あたしゃ、キリストの弟子になったのであって、牧師や長老の弟子になったんじゃ、ありませんぜ。特定の教会で確かにバプテスマを授けてはもらいましたが、その教会のメンバーになる為じゃなくて、神の民になるために受けたんですぜ」って時に言いたくなるって、それは乱暴だろうか(まぁ、乱暴だと思うが)。この結果、お一人様クリスチャン(この記事と過去の記事参照)になっている方もおられると思う。

     以前このブログに天国の記事にかんして、コメントくださった方があったが、まぁ、牧師にいいように使われて、牧師は献金巻き上げてドロンされて行方不明という事案をご紹介くださった方があるが、まさにこの事例などは、神の名を騙って自らを太らせた聖職者が福音を述べ伝えるためにこうした力が使われると、善き知らせはすぐに悪しきもの場合によっては最悪の知らせに意図的な取り替え工作の被害にあわれたんだなぁ。これが。特に、献金や奉仕を巡って、このような問題は案外多いのではないだろうか。

    教会運営と献金にまつわるアレコレ

     下手をすると、こういう被害にあって、他の教会に行って、さらに追加の被害にあう事例も結構あるから、これが日本のキリスト教界がいまだに発展途上期ではなく、揺籃期ですらないかもしれない、と思うゆえんである。文化財への油散布事案にしてもね。

    メサコンという罠

     以前にもこのブログのこの記事(メサイアコンプレックスの防ぎ方)で、メサイアコンプレックス(メサコン)を取り上げたことがある。
     私がトゥルニエのこの指摘を拙著『援助者とカウンセリング』や『こころの病とキリスト者の関わり』(いのちのことば社)に引用したのは、人と人との間に働くこうした暴力が人間関係に普遍的な現象であるだけでなく、宣教という場で心の援助に携わる人々にもことさらに気づいてほしい事実と思ったからである。実際こうした心理は昔から”メサイア・コンプレックス”などとして問題視されてきたテーマである。(同書 p.78)
     先に紹介した記事(メサイアコンプレックスの防ぎ方)で、ちょっとくらいキリスト教徒の一部であるからといって、他人をさばきまくる人々の話をご紹介し、本来われわれが何を見るべきかのお話を申し上げたのであるが、明治期以降、キリスト教が西洋の最新の道徳基準、世界基準(大体そんなものはない、あると思う方がどうかしている)だと思い込み、それを聞きかじったくらいで、「これがキリスト教であるぞよ。イエスの主張であるぞよ。神のみ思いであるぞよ。一同の者控えおろう。この聖書が目に入らぬか?」ってやった人々はおられたのだろう。かなわないことであるが。ちなみに、水戸黄門は完ぺきなメサコンドラマである。


    水戸黄門 印籠のシーン

    パワハラと教会内暴力
     まぁ、ミーちゃんはーちゃんも何度か教会内暴言やらは拝見したことがある。生身でも何回か直接言われたことあるし。基本、ミーちゃんはーちゃんは交流分析で言うFree Child(自由な子供のエネルギー値が常時異様に高いので、素面でも酔っているようなものである)状態であることが多い。だからこそ、前回の冷凍ミカンは美味しいが、凍った空気は食えないとは知りつつも、正論Bombを平気でやる。基本、大学院に入院した連中は、これができるから、研究者で生きていける。
     さて、教会内のコミュニケーションと言語的暴力の話を見てみよう。
    『信仰による人間疎外』を欠いた25年前には、まだこうした”力の行使”は問題視されなかったが、今日ではこうした間違った力の行使はパワハラ(パワーハラスメント〉としてとらえられて来ている。これからキリスト教の世界の中では、立場が上にあるものが下のものに向かって行う暴言暴力は息をひそめるかもしれない。しかしこれまでキリスト教の世界の中で、ナウエンが言う、神への奉仕と称して使われる様々な力によって自由また対等であるべき言動が封じられてきたという現実を踏まえておくことは大切なように思われる。
         (同書 p.80)
     教会内でのパワハラもどきの手口に関しては、先にも紹介したI don't know who I am のサイトに詳しいので、そちらを参照してもらいたい。まぁ、あれも、これもと、実に悲惨な事案のオンパレードである。本来、ナウエン先輩が言うように教会内では、「自由また対等であるべき言動」であるべきものが、秩序維持・治安維持という美名のもとに、国家総動員体制もどきの相互監視体制なんて、あぁ、やなこってである。
     個人的には、残念ながら、教会では言語による暴力、暴言は無くならないと思う。

    権威に逆らうキリスト者
     本来、キリスト教はローマ帝国という権威に逆らった人々であった。しかし、コンスタンティヌス帝以降のキリスト教は、国家であり、国家を超える存在としての教会であり、権威であった。それは意図せぬ副次的効果であったとしても。しかし、それで、キリスト教がヨーロッパを席巻することになったのであるが。
     もう一つ、トゥルニエが主張した「神の貧しい人々」とは、力を謳歌する社会ときっぱり袂を分かち、お金とも学歴の力とも縁を切った人々の事である。そしてトゥルニエが注目したのは小さなグループに属する人々で、彼らは長年歴史を動かしてきた権力構造に本能的に反発し、背を向けた若者たちであり、私たちの世代には懐かしい「ヒッピー族」の出現にさかのぼると言う。トゥルニエはこうした世代の出現も新しい期待の星であるという。組織も巨大化すれば力の誘惑が働き、金銭もたくさん集まると妙な誘惑がうずまくことは明白の事だからである。こうしてトゥルニエは次のように言う。
     「教会は、あまりにも長い間、一方的に教える立場をとってきた。一方的に騙り、教義を定め信仰もう問答を人々に暗唱させてきた。しかし教会のこの絶対的力の時代は過ぎ去った。こうした新しい状況を教会が受け入れるなら、教会は人々との対話に入ることができ、その子どらの真理探究を助けることができるに違いない。しかし、そのやり方は以前とは異なろう。もっと謙虚に、教会全体の利害を忘れ、魂を征服することを求めず、魂に仕えることを求めてゆく以外に方法はあるまい」(暴力と人間 p.262)
     (同書 pp.83₋84)
     ヒッピー文化自体、アメリカのベトナム戦争や公民権運動と表裏の関係にあり、一種の反体制運動としての側面を持った。基本、アメリカの支配層の文化を体現する教会文化であるものへの反抗でもあったのだ。
     こういう構図になる。

      ベトナム戦争を遂行しているのはだれか
         米国政府である
      ベトナムで、無辜の民を殺しているのはだれか
         米国政府である
      アメリカ国内で、アフリカ系市民を迫害するのはだれか
         米国政府である
      これらをアメリカ国内で協力に支持しているのはだれか
         教会ではないか

    ということで、一種の政体的、政治的オルタナティブの提示を求めたのが、ヒッピー文化であり、ヒッピー運動であり、戦争遂行に反対であるという意味で、別のキリスト教的オルタナティブを提示しようとしたのが、いわゆる福音派左派、ないしリベラル派の運動であったと言えよう。その信仰の味わいはかなり違うが。

     そのヒッピーの彼らが、一種アジア的、ネイティブアメリカン的な風貌になるのは、行き過ぎた西洋モデルに対するアンチテーゼとして、思想性を持っていた、持っていたように見えたのが、アジア、とりわけ、インドであり、アメリカ国内では、ネイティブアメリカンであり、そこにあるスピリチュアリティに彼らがオルタナティブ(代替案)としての手直にある、経験した、あるいは経験が少ない代替案の一つであったということはあろう。

    http://blog.denimtherapy.com/wp-content/uploads/2009/08/woodstock.jpg
    昔懐かしWoodstockのHippie風ファッション

     キリスト教内で、このヒッピー文化的な背景を持ち、福音派左派的な運動をしている人物に、ソジャーナーズ(寄留の民)と呼ばれるキリスト者集団のジム・ウォリスがいるが、彼の人物像を示す文章を後藤敏夫さんの本からもう一度、ここで引用しておきたい。

    http://westernjournalismcom.c.presscdn.com/wp-content/uploads/2013/02/Jim-Wallis-SC.jpg
    空手チョップを披露するジム・ウォリス先輩 
    (空手チョップを披露しているように見えるだけでした)

     私自身の歩みと響き合うものがありますので、もう少し具体的に彼のこころと信仰の旅を紹介します。ジム・ウォリスは、デトロイトで、ブレザレンの信徒説教者の子供として模範的に育ちます。しかし、黒人問題をきっかけに教会を離れ、大学では新左翼のような立場で公民権運動やベトナム反戦運動に没頭します。 (中略)
      ウォリスが、学生時代、週末に帰宅した際のことです。大学の騒動の中心人物として息子の名前が新聞に出ていて、父親は怒っていました。そこで、ウォリスは 自分の現在の思いや行動に最も強い栄光を与えた二人の人の名前を上げるというのです。父親や新聞に出てくるような急進的な人物か、大学の左翼的な教授の名前を聞くつもりでした。しかしウォリスは、それはお父さんとお母さんというのです。人の痛みに心をかけること、苦しんでいる人に思いを寄せること、真実を大切にして人を差別しないこと、困難な課題や問題に対しても臆せずに立ち向かうことーこれらはみんなお父さんとお母さんから学んだことだ、自分はお父さんとお母さんが大切にしている価値を、お父さんとお母さんが見ようとしない世界に当てはめようとしているのだ、とウォリスはいいました。私は、ここに福音派が考えるべき大切なことが示されていると思います。
    後藤敏夫(2007) 改定新版 終末を生きる神の民 いのちのことば社 pp.75-76.



    マイケル・サンデル教授(日本でもハーバード白熱教室で超有名)との対談

    弱さの神学のもたらすもの

     このブログの反知性主義シリーズでも紹介してきたが、基本、アメリカの神学は、基本的に神の祝福を求めてアメリカ合衆国の建国が始まったこともあり、基本、”強さの神学”である。そのことの限界について、工藤さんは次のように述べておられる。
    私が彼の言う「弱さの神学」に心惹かれるのは、私たちが目指したのは”強さの神学”ではなかったと思うためである。つまり、”神の力を借りてでも強くなろう。強くあろうとする”信仰姿勢である。しかし、そこにあったのは力を求める人間のあくなき欲望、貪欲、そして身の程を知らない高慢さであったような気がする。(p.85)
    近頃ネットのキリスト教クラスタで香ばしい香りを撒き放ってくださった、神社仏閣での油脂散布事件を起こしてくださった油男さんの事件にしても、なんか、”弱さの神学”がもたらした事件ではなく、どうも彼の講演を見ていると、明らかに”強さの神学”が日本というある文脈で行きつくところまで行きついてしまった残念な結果のような気がする。力を誇示し、征服し、討伐しようとしておられる御姿には個人的にある種耐えがたいものを感じている。

     しかし、油男さんのシュールな画力には、実にある種の感動を禁じ得ない。


    油男さんの講演会の模様
    57分辺りから下手くそな運転の難の動画が出てくる。このあたりからが秀逸
    60分辺りからのシュールな画像が超秀逸

     まだまだ続く。



    評価:
    ヘンリ ナウエン
    あめんどう
    ¥ 1,620
    (2005-07-20)
    コメント:絶賛しております。

    評価:
    ---
    The Crossroad Publishing Company
    ---
    (2015-04-27)
    コメント:英語版。明石のナウエン研究会では、2015年2月から読み始め、ほぼ2015年7月中に読み終わる予定。

    評価:
    後藤 敏夫
    いのちのことば社
    ¥ 918
    (2007-08)
    コメント:絶賛している。

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