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2015.06.24 Wednesday

工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その3

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     本日も、また工藤信夫著 真実の福音を求めて から引き続きご紹介したい。本日は第3章「教会の姿」についてである。

    信仰の友の不在

     同じ教会に信仰の友と呼べる人がいる人は幸せであるが、案外そういう存在がいない人が多いのではないか、ということが以下の工藤先生のご指摘のような気がする。実際に、ミーちゃんはーちゃんはこのことで苦しんだ経験もある。同世代は一人もいないし、かなり突っ込んで、話ができる人が普段通っている教会内にはいなかったのである。
     そこに参加してくる人々の多くは、自分のうちに生じた信仰上の疑問や悩み(それは、すこぶる健全なものであり、自然なものであり、常識的なものであると私には思われたのだが)をおもいきって、それこそ信仰や教会を同じくする人たちに話してみると、そのほとんどが退けられたのみならず、冷笑と批判、非難にさらされたのだという。つまり、「聖書にこうかいてあります」「そういう質問をもつあなたがおかしい」「不信仰ですよ」等々と。中には、そのこだわり、つまり、自分の中に宿った不安やまよいが、どうしても自分のこころから離れず、かといって、今述べた事情で教会のだれかれに話すわけにもいかず、果てはそれにこだわる自分がおかしいと自分を責め、神経症やうつ病、精神病院入院経験にまで追い詰められたという人がいるのだから、事態は深刻である。つまり、この問題は、私たちの周りには、信仰を同じくする心の友、信仰の友がいるようでいて、案外、実際には存在しないこと、いや、こと教理、教義に合わないとなれば、「昨日の友は今日の敵」になりかねない現実さえも起こりうるのである。(『真実の福音を求めて』pp.50-51 オリジナルは、『人生を支え導くもの』いのちのことば社 pp.31-32)
     実は、同じような理解をもつ人が教会にいないという事案はかなりつらかった経験である。こんな本を読んで面白い、とか思っても、相手にされないというのか、言うだけ野暮と思うので、言えないし、言わないことがこれまで多々あった。個人的には、ナウエンが割と気に行っているので、ナウエン研究会を明石市で主宰するほどであるのだが、一度、同じ系統の教会群の中のある人にその話をして、ナウエンて言うカトリックの司祭がいましてね、と話した瞬間、その人の顔が一瞬凍りつくのがわかって、話をやめたことがある。

     また、ある時は、同じ教派の少し年上の人に「カトリックの司祭の本を読んでいましてね」というと、「カトリックはけしからん、カトリックは下らん、信仰がわかってない、聖書を読んでない」とかなり熱くおっしゃる方がおられたので、「どんなカトリックの信者の方をご存知なのですか?どなたか、司祭の方をご存知ですか?カトリックの礼拝に参加された経験は?」とお聞きしたところ「職場のカトリックの同僚がいる、司祭には知り合いはいないし話したこともない、礼拝はもちろん参加したこともない」ということであった。その方のおご理解の内容は、どこかで聞きかじってきたご自身の経験に基づいているらしかった。お話を伺うと、ごくごくよく知られているルター先輩や、カルヴァン先輩が言ったご指摘に、自分の悪口を混ぜて語っておられるのをお聞きし、頭を抱えたくなったことがあった。

     今は、牧師先生の集まりに混ぜてもらったり、各地で開かれる研究会に参加したり、ネットでの研究会に参加させてもらったり、FacebookやTwitterでいろいろとご教示くださる先生方との主にバーチャルなお付き合いがあるので、あまり気にはならなくなったが、ミーちゃんはーちゃんのキリスト教書ヲタク系のおはなしにお付き合いいただける人って、あんまりリアルに出会わなかったのですねぇ、これが。

    正論、それは人を黙らせる

     正論というのがある。それは問答無用で、その正論に従うことを要求するまつがいのない議論ではある。しかし、その正論が人が取りつく島をなくし、人の心を閉ざさせてしまうのである。そのことに関して工藤さんは次のように書いておられる。
     正論が共同体の起源であるべき交わり、信頼、発展の芽を摘み取ってしまうのである。
     私がキリスト教会における道徳主義の弊害を畏れる理由がそこにもある。もし教会が道徳主義にむしばまれるなら、そこでは正論が通って愛が閉ざされ、優越思想や冷ややかな裁きごころが支配的になるであろう。(『真実の福音を求めて』 pp.52-53)
     世俗の仕事は、正論を言うことが仕事なので、正論を言う癖がついてしまっていて、日常生活でも正論を”ボン(Bomb)”と言って空気を凍らせることは得意中の得意なのである。だから人のことは言えない。

    http://kazesoku.com/wp-content/uploads/2013/12/wpid-P1040017.jpg
    ミカンは凍らせるとうまいけど、空気を凍らせると食えたものではない

     しかし、正論が空気を凍らせ、取り付く島をなくしてしまいやすい部分はあるのだが、人はそれだけで取り付く島をなくすわけではなさそうである。時に学生と講義が終わってからだらだらと播州方言でしゃべっていることがある。すると、学生が意外そうな顔をする。どうも、普段は講義中は無意識に標準語で話しているようなのだ(学生があまりにうるさいと、英語で講義することにしている)。そういうことって、案外あるかもしれない。



    セイロン
    http://auctions.wing.c.yimg.jp/sim?furl=auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/ra219/users/1/3/5/9/lutetia0202-org-142796257221656&dc=1&sr.fs=20000
    Fortnum & Mason のCeyron(正論)


    フジサンケイグループの正論

     セイロン、Ceyron、正論と三段落ちして遊びました。

    教会とはどんな場所
     教会とは何か、ということに関して、工藤さんと藤木さんという方が共著で書かれた本『福音は届いていますか』の中から、次のような部分が引用されていた。
     教会とは、雑然としたものがたがいにいたわり合って調和してゆく、そのこと自体を目的とする団体なのです。教会にあっては、調和は何かをするための条件ではなく目的であることを忘れないようにしましょう。(同書 p.54 藤木・工藤著 福音は届いていますか p.143)
     なお、この本はヨルダン社という書店から出た本で、同社が現在営業していないために現在入手可能になっている本からではあるが、この藤木さんの指摘は非常に重要であると思う。この本自体いい本であるが、ある筋からしか手に入らないのが残念でならない。

    企業化する教会

     アメリカにはメガチャーチという巨大な教会がある。サンディエゴに行った時、Rock Churchという教会に行ったが、まぁ、そこは金曜日の夜から、日曜日にかけて、一日に何度もアメリカのモール、イオンさんのモール2つ分くらいのドでかいキャンパスで聖書メッセージが語られていた。説教はあまり変ではなかったが。
    教会とは断じて何かをするための組織、集まりであってはならないとするのだが、現実には企業的感覚、つまり、一定の能力、共通した価値観の人々を集め、being(ともにいる)より doing(何かするため)に傾いた教会が存在するのである。私が『信仰による人間疎外』をテキストとして各地で学び会をした折、少なからぬ人々が、「私が行っていた教会は企業倫理そのものでした」と明言されたことからもわかる。
     トラクトを配る、伝道する、奉仕する、祈る…次々の活動目標を掲げられ、それに協力、参加しない、出来ないものは排除されている。E.H.ピーターソン著『牧会者の神学』(日本キリスト教団出版局)に驚くべき表現があるのを発見した。
     アメリカの牧師たちは『企業経営者』の一文に縁法してしまった。彼らが経営するのは『教会』という名の店である。牧師は経営者感覚、即ち、どうしたら顧客を喜ばすことができるか、どうしたら顧客を道路沿いにある競争相手の店から自分の店へ引き寄せることができるか、どうしたら顧客がより多くの金を落としてくれるような商品をパッケージすることが出来るか…そうした経営者的な感覚に満ちている。(以下略)
    (同書p.58)
     しかし、企業倫理が支配し、人集めをし、人集めをすることが伝道だ、と思いこんできた教会運営方針が、アメリカの教会だった部分がある。というのは、以前、森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(12)でも既にご紹介したが、それがそのまま日本に流れ込んできたように思うのだ。

     引用部分の引用部分にピーターソンの本からの引用部分があるが、そのなかで、「どうしたら顧客を道路沿いにある競争相手の店から自分の店へ引き寄せることができるか」という表現があるが、これはリバイバル時代にアメリカの教会でおきたことであることが、森本あんり著反知性主義に書かれているが、アメリカでは、リバイバル時代に起きたことをいまだに150年以上たってやっているのだ。世俗の仕事で、エリアマーケティング論というまぁ、金儲けの道具を学生相手に教えているが、教会にそれをそのまま持ち込んだアメリカの教会があるのではないか、と思う。一見かっこいいし、一見羽振りがいいだろうが、それと同時に失敗も多いことは、テッド・ハガードらやRobert H. Schullerをあげるまでもないだろう。Robert H. SchullerのCrystal CathedoralはLos AngelsからSan Diegoに行く際の定期観光バス内で案内されるほどの観光名所でもあったようだ。

    File:Crys-ext.jpg
    Crystal Cathedral

    人間関係の濃密化に伴う閉塞性社会の形成

     人間関係の濃密化に伴う問題について、工藤先生は次のようにお書きである。
     信仰者の集まりもどうしても同志的なものになりやすく、それが排他的になりやすいことは周知の事実であるが、風通しが悪くなり、透明度を失い、閉鎖的になって行くこの傾向は、あのおぞましいオウム事件以来、人々が宗教集団に警戒的になったことを考えたら自明のことである。(中略)それゆえこの同志的、閉鎖的、排他的方向は危険な病理に違いない。(同書pp.59-60)
     カルト化事件は、別に宗教団体に限らない。連合赤軍も、排他的になり、閉鎖的になり、やけになって連合赤軍は集団リンチ事件を山中で起こし、挙句の果てに浅間山荘事件を起こしている。ブランチダビディアンは、ATF(タバコアルコール取締局という法執行機関の一つ)や地元警察、FBI、地元の州軍とドンパチやらかしたし、オウムは選挙に負けたことをきっかけに、疑似国家建設へと向かって行った。



     宗教集団に限らず、人間が煮詰まるとろくでもないことを起こすのは、どうも自然の理である。これは、前回の記事でも紹介した、NTライト先輩もコミュニティとしての暴走としてお話ししておられる。

     そういう意味でいけば、バベルの塔事件という旧約聖書の事案の中で人が全地に散らされる事案が記録されているが、あれは、神に自分の力を見せつける形として逆らおうとしたから、というのもあるだろうが、実はあれは人が集まっているとろくな事が起きないから、ということで、神が憐れんで意図的に人が人を傷つけあう前に人の言葉を混乱させて、人を全地に散らされたのだと思う。


    バベルの塔

     まぁ、こういうろくでもないことを起こすのは、人間が欠けがある存在、罪ある存在なのだろうなぁ、と思う。人間はどうやっても神になれない、ということであろう。

    まだまだ続く



    コメント
    >「聖書にこうかいてあります」「そういう質問をもつあなたがおかしい」
    「不信仰ですよ」等々と。中には、そのこだわり、つまり、自分の中に宿った
    不安やあよいが、どうしても自分のこころから離れず、かといって、
    今述べた事情で教会のだれかれに話すわけにもいかず

    過去に私もこういう目に遭いましたので、ここの話は非常に
    身につまされます。
    経験者の一人として、今現在辛い目に遭っておられる人々に
    寄り添っていきたいなと思っています。

    ただ、たまに「この人は本当に傷から回復したいのかな」と思う人もいます。
    そういう人にどういう励ましや寄り添い方をしたらいいのか分かりません。
    通院、入院が必要な精神疾患はお医者さんの領域ですが、それと同時に
    イエス様の力も必要なのだと思います。
    強制ではなく、その人の否定もせず、
    「こういう考え方をしてみたら?こういう風に試してみたら?イエス様はきっと
    力をくれるよ」と言っても「正論だ、聖書を水戸黄門の印籠みたいに使っている」と
    言われたらこちらは何も言えません。

    こういう人達はただ漫然と恨みの中につかり続けることを選び、
    傷の回復を望むよりよりむしろ、自分を傷つけた相手をひたすら糾弾します。
    もちろん、相手の逃げ道を閉ざして、ばっさり切り捨てることは絶対やっては
    いけません。しかし「正論」だと思うものに傷つくというのなら、
    原因は論のほうにあるんじゃなくて傷のほうにあるわけで。
    美しいものを美しいと受け入れられないのは、出す側じゃなくてうける側が
    普通の状態じゃないということだと思います。
    どうやって接すればいいのか本当に考えさせられます。
    • ぽん
    • 2015.06.24 Wednesday 14:05
    ぽんさま

    コメントありがとうございました。書いていたコメントがどこかに飛んで行ってしまいましたので、お返事遅れて申し訳ありません。

    >過去に私もこういう目に遭いましたので、ここの話は非常に
    >身につまされます。

    大変なご苦労を通られたこと、こころよりの同情の思いを禁じえません。
    >経験者の一人として、今現在辛い目に遭っておられる人々に
    >寄り添っていきたいなと思っています。

    そうですね。共にいること、励ますのでもなく、相談に乗るでもなく、ただ、ぼーっと無目的にあることも回復の第一歩を踏み出すうえでは有効かもしれません。時間がかかりますから。

    >ただ、たまに「この人は本当に傷から回復したいのかな」と思う人もいます。
    >そういう人にどういう励ましや寄り添い方をしたらいいのか分かりません。

    確かにそのような方もおられることはご指摘の通りですが、その人を踏み出すように導くのではなくじっくりとOpen Endedで待つということは案外大事ではないか、と思います。私たちはともすれば、早く芽を出せ柿の種ではありませんが、自分たちの思いの方向に、無理やり引きずりだすように誘導することをしやすい文化の中にいるかと思います。待つのが苦手な文化ですし。

    >「正論」だと思うものに傷つくというのなら、
    原因は論のほうにあるんじゃなくて傷のほうにあるわけで。

    そうですね、傷の深さとその影響の程度にもあるわけで、それを通り一遍で一般化して扱うことの問題を感じます。

    イエスが、荒野で退かれて、時が来るのを待たれたように、神が今、ここで働いてくださっていることを期待しつつ、しっかりと忍耐強く待つキリスト者でありたいと思います。

    コメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2015.06.26 Friday 20:53
    管理者の承認待ちコメントです。
    • -
    • 2015.06.27 Saturday 20:28
    こんにちわ。

    >こういう人達はただ漫然と恨みの中につかり続けることを選び、
    傷の回復を望むよりよりむしろ、自分を傷つけた相手をひたすら糾弾します。

    「私は傷つけられた、苦しい」「この気持ち誰かわかってくれ」という悲痛な叫びが聞こえてきます。

    受け止めるほうとしてはつらいでしょうが、
    まずはとことん「吐き出す」ことは 傷の回復には必要なプロセスです。 受け止める側としてはつらいでしょうが 
    「ともに泣き」相手を受け止めること。



    「受け止められた」と思えたら そこからやっと自ら立ち上がる気力がでてくることでしょう。


    その時点で 種が自ら芽吹くのを信じて見守り 食事などの時をともに過ごし待ち続けること。

    それが寄り添い。


    >「こういう考え方をしてみたら?こういう風に試してみたら?イエス様はきっと
    力をくれるよ」と言っても

    ぎりぎり限界の人には「〜したら?」それがもう 押し付けがましい上から目線の寄り添いでありましょう。

    イエスならどうしたか。
    共にいる。 

    お酒でも飲みながら 伝える。「あなたは自分のことをダメだとおもってるかもしれないけれど、イエスはあなたを愛してる。」と福音を語り続けたうえで「つらい時もある。へこたれないようにがんばってるんだから。自分を責めないで。」と。

    そして 沿い続け その人が自ら芽吹くのを待つ。

     

    ・・簡単なことではありません。
    私が書いたことなど十分トライしたうえでの コメントなのかもで・・。

    自分だったらこういう寄り添いかたをされたいなと思って書きました。






    >美しいものを美しいと受け入れられないのは、出す側じゃなくてうける側が
    普通の状態じゃないということだと思います。

    ええ、ふつうの状態ではありません。
    心と魂が傷つき疲れ果て ぎりぎりなのでしょう。

    その場合 正論は時に人を傷つけます。
    それに それが本当に「正論なのか」という疑問点もあります。

    打ちひしがれた人を追い詰める
    正論通りに生きれないから苦労しているのだから。
    • ミーちゃんはーちゃん OBF Ken様
    • 2015.06.29 Monday 19:37
    Ken様 コメントありがとうございました。メルアド晒すのは今のご時世、さすがにまずいので、私の方で、コピペして公開致しました。ご容赦を。

    >「私は傷つけられた、苦しい」「この気持ち誰かわかってくれ」という悲痛な叫びが聞こえてきます。

    そうですね。本当に。それをキリスト者を名乗る方がしたかと思うと灰を被りあらぬのを纏いたくなる気分。

    >「吐き出す」ことは 傷の回復には必要なプロセスです。 
    >受け止める側としてはつらいでしょうが 
    >「ともに泣き」相手を受け止めること。
    そうですね。今でもペルシャ語、アラビア語圏などの中東圏、アフリカ圏の一部においては、泣き女というか、共に泣くことによる心理の共振、あるいは共通の心情となる伝統があるやに思います。そういうのは日本の文化的作法にないので(韓半島には若干ありますが)、その辺と近代化した社会の合理性がこれらを塞ぐのかもしれません。

    Ken様に是非お勧めしたい本があります。英語がお読みになられるなら、Henri J. M. NouwenのWounded Healerをお読みになられることをお勧めします。日本語訳で、傷ついた癒し人という本もあるのですが、もし、英語が少しお出来になるのなら、英語でお読みになられるのなら、原著の方がはるかにわかりやすいか、と思います。

    http://www.amazon.co.jp/The-Wounded-Healer-Contemporary-Doubleday/dp/0385148038/

    あるいは「イエスの御名で」も。
    http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%BE%A1%E5%90%8D%E3%81%A7%E2%80%95%E8%81%96%E6%9B%B8%E7%9A%84%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%97%E3%82%92%E6%B1%82%E3%82%81%E3%81%A6-%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%82%A6%E3%82%A8%E3%83%B3/dp/4900677019/

    コメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2015.06.29 Monday 19:52
    管理者の承認待ちコメントです。
    • -
    • 2015.06.29 Monday 22:31
    Ken様 ご連絡感謝。

    またのご訪問、ご清覧いただければ、と存じております。

    それでは、また。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2015.06.30 Tuesday 13:38
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