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2015.07.06 Monday

NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その9

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     今日も、N.T.ライト関連の新刊『クリスチャンであるとは』ということを紹介したい。本日もまた、4章から紹介したい。美についての記述からである。

    美について

     美について、N.T.ライト先輩は次のように語る。
     世界は美に満ちている。しかし、その美は不完全である。美とは何であり何を意味しているか。そして〈もしあるとすれば〉何のためにあるのかというなぞは、より大きな全体の一部しか見ていないために生じる不可避な問いである。
     美とは別な言い方をすれば、もう一つの声の響きである。それは、私たちの前におかれた手がかりを通して、いくつかの異なった事柄の中のあるものを語っているかもしれない。しかし、もし、そのすべてをもれなく聞くことができるなら、いま見、聞き、知り、愛し、「美しい」と呼んでいるものが何なのか、納得することができるだろう。(『クリスチャンであるとは』 p.61)

     N.T。ライト先輩は、ある種義と美が深い関係にあるもの、とみているようである。エベレスト登山した登山家は、なぜエベレストに上るのか、と問われ、「そこにそれがあるから」と答えたらしいという話は有名な話であるが、我々は何にでも値段をつけたり、価値の有無を詮索してしまう文化に慣れ過ぎているように思う。
     エベレストが登るためにあるかどうかは別として、エベレスト自身は存在する。目的はあまり関係ないのではないだろうか。
     ところで、この引用部分の後半で、「美しい」と呼んでいるものが何か、ということはもう少し考えた方がいいかもしれない。と思うのは、創世記1章で次のように言われていることは、その光を見て、「美しい」といわれたとも理解できると、聞いたことがある。その意味で、神は良いもの、あるいは美しいとされた可能性があるらしいのである。
    【口語訳】創世記
    1:4 神はその光を見て、良しとされた。
     美は美そのもののためにあるような気がするがするのだが。

    保存できない美

     美というのは、保存できない。どんなメディアがあっても、そして、技術者がいくら頑張っても、美は保存できないのである。空間情報技術者として、画像周りの作業もする。なんたって地図情報屋にとって、地図は美しさと相対的正確さが命だと思っているからである。
     美は義と同じように、私たちの指の間からすり落ちてしまう。夕日を写真にとっても、その瞬間の記憶をとどめているだけであって、その瞬間そのものではない。音楽を録音したものを買っても、家で聞くのは演奏会と違った感じになる。山に登ってその頂上から眺める景色は実に素晴らしいものだが、もっと素晴らしいものを求めたくなる。たとえ山頂に家を建て、その景色を一日中眺めることができたとしても、その疼きがなくなることはない。(同書 p.61)
     デジタル技術のこの数年の進歩というのはすさまじい。様々な圧縮、非圧縮、画像加工、画像変換技術がめちゃくちゃに進んできて、Photoshopさえあればポスターなどが簡単に既存画像をちゃっちゃと使いながら、簡単に作れるようになってしまっている。それは本物ではないが。本物を思い出させる縁、あるいは、本物を示す記号に過ぎないものであっても、その記号を介して、あるいはデータを介して、そのデータの奥、データが反映しているリアルに存在するものををであるということを技術屋として思う。以下にシャープの亀山モデルAQUOSが表示する画像が美しかろうと、最新の4Kテレビが美しかろうと、どうやっても現物の美しさにはかなわないのだ。比較的よりまともに見える、という程度差の問題であることは技術者としてよくわかる。


    今は無き亀山モデル

    美は変遷する

     美は一定ではないのである。時代とともに変化するのである。このことに関して、ライト先輩は、次のように書いておられる。
     このような謎(引用者註 美が移り変わるという)については、時代や地域で最も美しいとされた女性の肖像画を見るたびに思う。ギリシアの壺の絵かポンペイの壁画を見てほしい。古代、その美を称賛されたエジプトの貴婦人を調べてほしい。(中略)トロイのヘレンはその顔立ちゆえに、当時何千という船を闘いに為に出向させたという。今日では一艘のボートも出せないだろう。(p.62)
     以下で、昔の美人画を紹介致したい。

    http://www.touregypt.net/images/touregypt/beauty1.jpg
    古代エジプト

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7d/Pompeii_-_Temple_of_Isis_-_Io_and_Isis_-_MAN.jpg
    ポンペイの壁画に描かれたイシス(ISIS)


    トロイ(2004)の予告編



    女性の理想の体型の変遷


    古代日本篇 鳥毛立女屏風 部分

    歌麿の美人画(個人的には3人の美しさの違いがよくわからん)
     
     まぁ、上の画像や動画で見てもらったように美は、時代により、社会により、環境により変わるものらしい。

     その昔、大学の授業で、古代オリエント学を当時非常勤講師をしておられた池田裕さんの講義で学んだ。その時に、古代遺跡の時代考証と時代特定をどうするか、というときにイスラエルの焼き物のポットとか壺のデザインの変遷で確認することもできるというお話を伺ったことがある。というのは、時代によって、デザインや技法が変遷するので、素焼き土器から時代特定ができるということだったと記憶している。
     その辺に関して、ライト先輩は次のように書いておられる。
    物事を見る視点と好みの組み合わせは複雑である。個人の好みについては世代間で異なるだけではなく、同じ時期、同じ町、同じ家にいたとしても人それぞれで、属する下位文化(サブカルチャー)によっても変化する。(同書 p.63)

    美は真理なのか
     個人的には美が真理かどうかは知らない。しかし、効率の良いものは美しい。例えば、ボーイング787が空中で飛んでいる後ろ姿の翼形は非常に美しい。流体力学を大学時代に少し勉強したが、流体力学の先生が、無理のないものは美しいし、美しい形をしている。その時の例題が、懸垂曲線である。懸垂曲線というと大仰であるが、要するに電柱にぶら下がっている伝染の形状である。これは、実に記冷罵微分方程式で、簡単に表せるのだ。


    Boeing 787の離陸 この翼形にほれぼれする


    懸垂曲線

     ポストモダン環境下で、美の多様性があることになり、また、「美」の並列的存在を認める社会の中で、従来型の「真理」概念は成立しないことになる。
     「美は真理であり、真理は美である」と詩人キーツは書いている。しかし、私たちがそれまで垣間見てきた謎は、そう簡単にそれらを結び付けさせてはくれない。私たちが知り、愛する美は、せいぜい真理の一部に過ぎない。そして必ずしも重要な部分でもない。(同書 p.64)
    N.T.ライト先輩のお書きになっておられるように、「私たちが知り、愛する美は、せいぜい真理の一部に過ぎない。そして必ずしも重要な部分でもない」のであるが、これが影響を与え、時に悪魔のようになるからかなわない。このことをうまく描いた映画に、プラダを着た悪魔がある。


    プラダを着た悪魔 これ見て、あ〜〜〜と思った。

    神聖なものを表す記号(象徴)としての美
     神聖なものと美は、つながっている。それは神聖さ、壮大さ、荘厳さを称揚するために美が用いられるからである。歴代誌などで、賛美が出てきているところでもそうだし、我々が讃美歌を謳うときでもそうである。美しいメロディは神を賛美するために用いられる。
     神聖なものを象徴しようとするものである音楽、美術、芸術作品の美しさと神聖さを醸し出す何かと、神聖さが混乱してしまう人もいるからややこしい。
     美と真理を同一視することを避けなければならないのと同様、美が、神や「神聖なもの」、あるいは何か超越的な領域への直接的な入口になるという考えは避けねばならない。音楽が、より大きな全体のためにデザインされているという事実も、そのより大きな全体がなんであるかについての何の手がかりも与えてくれない。(中略)
     先に記したパラドックスは、ある世代の人々が、神と自然界とを安易に同一視してきたことに徹底的に反している。自然界の美は何と言おうが、ある声の響きであっても声そのものでない。(中略)美はここにあるがここにはない。―この鳥、この歌、この夕日。それは美しいが、それが美なのではない。(同書 p.65)


    夕日が沈むときの自宅近くのJR舞子駅での夕日(友人撮影)

     そう、夕焼け空のこの微妙な色合いは美しいが、夕焼け空自身は美そのものではないのである。これ以上書けないのが悔しいが、上の写真は美しいと思ったものを撮影してくれたものであるが、美そのものではない。

     個人的には上にあげた懸垂線が、実に単純な方程式であらわせることを美しいと思う(そんなミーちゃんはーちゃんは病気といわれる)が、懸垂線自身を示す方程式は美そのものではないし、ある人にとっては、吐き気を催すかもしれない。単純で美しい数式だとは思うが。

    ギリシア哲学と唯一神宗教の違い

     その昔、データベース論の講義で、講義中にミーちゃんはーちゃんのお師匠さんの一人が「いやぁ、この間哲学の先生と話して、自分は最新技術の話をしたつもりなんだが、そんな概念は、ギリシア哲学にあるって言われてさ、ギリシア哲学ってのはすごいよねぇ」といったことを以下のライトの文章を読みながら、ふっと思い出した。
     そういうこと思っていたら、My Big Fat Greek Weddingの方で、アメリカに移民しているギリシア人のお父さんが、何でもすべてのものがギリシア語に由来する、ということに困惑する娘のシーンがある。まぁ、これは極端なカリカルチュアとしても、同じようなことは、Full Houseというアメリカのシットコムで時々、ジェシーの親戚のおじさんが言っているので、まぁ、よくある話なのだろう。


    なんでも語源はギリシア語であると主張するおじさん

     冗談はさておき、ギリシア哲学と美、そして真理と現代と、聖書を基礎とする一神教とのかかわりについて、ライト先輩は次のように書いておられる。
     この点に関してある哲学者たちは、(おそらく)プラトンまでに遡れるだろうが、これらの(引用者註 自分の外に引き出すことと自分のうちの奥に入ってくること)両面を結び合わせていた。一方に自然界、もう一方に芸術家によって生み出された自然愛の象徴(シンボル)がある。後者はより高度な世界、時間、空間(特に)物質を超えた世界の反映であるという。この、より高度な世界をプラトンは、形相やイデアの世界と呼んでいるが、その理論によれば、まさに究極の現実なのである。現在の世界のすべてはその世界のコピーであり、陰となる。
     このことは、この世界のすべてはまさにそれを超えた世界のものを指し示すという身である(中略)単に自然と人間の作った美を、ただそのものとして受け止めるだけなら、とどのつまりは自分自身の主観的感情に過ぎないとしても驚きではない。そこで人は、この世界を離れた異なった世界を指し示すものとなる。
     この考え方はあるレベルにおいては魅力的である。(中略)しかし、少なくとも主要な3つの唯一神宗教にとって(あるいは、それらの主流派にとって)、それはあまりにも多くのものを手放すことになる。すでによく言われていることだが、この現実世界における美は謎であり、つかの間のものであり、うわべだけのことに見える。そしてその下はすべて虫食いであり、腐っている。
     しかし、この思想をほんの少しでも深めてみれば、時間と空間と物質のこの世界は本質的に悪であることになってしまう。もしそれが何かを指し示しているなら、それはすでに腐りかけた木でできているようなものだ。(中略)こうした理解はユダヤ教、キリスト教、イスラム教という主要な伝統にとって、全くの誤りである。唯一神を信じる信仰が公言するものは、一見、それに反する現実を目の前にしながらも、空間と時間と物質からなるこの世界は、昔から善なる神による善き創造であったし、いまでもそうなのである。
     (中略)これらは事実であり、私たちの外側にあり、単なる想像上の産物ではない。天と地は栄に満ちている。その栄光自体が、それを見る人間の感性に過ぎないという指向を断固拒否している。(pp.66₋68)
     ライト先輩は、ここで、プラトン哲学のイデア論を出してくることで、理念イデアの世界があり、そのイデアの反映がこの地上だとして2元論で語ってしまうと、結局神が創造の初めに、「よかった」あるいは「美しい」といわれたことは無効になる、あるいは無効にならないまでも、少なくとも被造物と被造物世界は、イデアより劣ったものになることをご指摘である。しかし、この地においては、例え、それが一時的であり、言語や技術や画像を介して保存できなくても問答無用で美しいものは存在するし、思わず笑みをこぼしニッコリとたくなるようなものは存在するのである。たとえ捉えどころがなくて、不完全なものであっても、この地に美も、義も存在するのである。もし、美が存在しないとしたら、芸術家は(日本でも海外でも失職状態であることが多いが)失職するし、義が存在しないとすれば、弁護士などの法曹界は軒並み全員失職であるし、神の義がなければ、神学をされておられる神学校で教え、教会でお話ししておられる先生方は、無意味なことをしておられることになりかねないが、それぞれの時代にあって、神のみ思いをどのように表現するのかと格闘しておられる神学をされておられる非常に多くの牧師先生、先生方の貴重な格闘の営みを考え、それを拝見するとき、そのありがたさを感じている。

     しかし、日本に伝わってきた段階で、特に19世紀から20世紀前半までに伝わってきたキリスト教、そして、21世紀においてもそうであると思うが、これらの海外から伝わってきたキリスト教はギリシア哲学の部分集合(サブセット)を内包するような形で、分離不可能な形で伝わってきたため、その腑分けにミーちゃんはーちゃんは苦労している。実は、このあたりの腑分けというか、分析する作業がイエス理解をどう理解するかと深く関係しているのではないかと思っているし、また、このギリシア哲学の世界に住んでいた、ギリシア人、ローマ人にパウロが弁証していく中で、ローマ人やギリシア人が受け取っていく中で、パウロなどの主張が変容して理解された可能性があり、それをどう考えていくのか、という膨大な思惟は案外大切ではないか、と思うし、知的遊戯としてそれは重要ではないか、と思う。

     まだまだ続く。


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