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2015.06.22 Monday

NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その8

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     今日も、N.T.ライト関連の新刊『クリスチャンであるとは』という本の第3章から、考えたことを引き続き、ご紹介したい。義を追い求めている人間の姿の記述の続きからである。


    性と人間的なかかわり
     性の問題は、古代人から現代人まで、現代もなお、人々を悩ませ続け、問題の根源となり、また、それだけに古代インドの宗教者ブッダから『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (14)でご紹介した親鸞、アウグスティヌス、ルターまで、この性衝動の問題に取り組んでいる。それほど、性衝動と人間とは表裏一体のものであり、神の与え給うた祝福の一部でもあるのだが、それと向かい合うことは、簡単ではない。しかし、N.T.ライト先輩は、それと向かい合って、次のように書く。
     かかわりの中心に性がある。といっても、もちろんすべてのかかわりに性的行動を含むという意味ではない。事実上、すべての社会は性をある特定の設定、結婚やそれに類した関係においてとらえている。ここではそういう意味ではなく、人間としてかかわるときに、男として女としてかかわるということである。男性であることと女性であることは、特別なかかわり(ロマンティックなものや性的なもの)だけに認められるのではない。(同書 pp.52-53)
     性衝動や性の問題を取り扱うのは簡単ではない。性の問題はある面、その人そのものとかかわるからである。それほど重要なのにもかかわらず、これほど誤解されているものも少なくない。聞かされた話によれば、アメリカ人の高校生で、罪とは性交渉のことだと誤解している人もいるらしい。その高校生の安易で理解不十分であるご発言をお聞ききになられたある日本人のご高齢の方の誤解を解くのに、大変苦労した記憶がある。

    現代社会と性の役割
     日本社会ではさすがにまだ少数例でしかないが、アメリカでは、Politically Correctness(実態はどうであれポーズとして正しいと思われていること)のために、Unisex化が進んでいるし、日本でも男女雇用機会均等法が定められたため、電車の運転士のような本来かなり「おっさん」くさい職場にも、お姉さん方が進出しておられるし、アメリカ海軍の空母勤務者の中には、女性の戦闘機のパイロットもいる。 

    K hultgreen F14.jpg
    Lut. Kara "Revlon" Hultgreen 米海軍初の女性戦闘機パイロット
    USS Abraham Lincoln にF-14で着艦中に墜落死
      前者(自分自身を中性とみる)は、私たちがどのようなもので、どのように造られてい居るかという大変重要なことを否定する。私たちは端的にジェンダーを持った存在である。(中略)後者は(相手を常に性的対象とみる)は、性的関係について極めて重要なことを否定している。即ちそのような気軽な性というものはないということだ。(同書 pp.53-54)
     N.T.ライト先輩は、大体、ジェンダーをわざわざ神が造り、与え給うたものであることを忘れ、それを意図的に自分の意思でガン無視し、勝手に自分たちの考えで生きることはどうなのよ、ということを言っておられるようである。

     日本でも、某日本放送協会で放送していた、アリー・マイ・ラブには、Unisexトイレというのが出てきたが、それを最初見たときは、本当にあるのかと驚いたものであった。ところが、今ではあちこちに普通にあるらしい。


    アリー・マイ・ラブの制作チームによるUniSex Bathroomについてのインタビュー

     上のアリー・マイ・ラブという海外ドラマでは、かなりカジュアル・セックス(気軽な性)というメタファーが出てくるので、某日本放送協会がそれを放送していた(確か深夜枠だったが)のを見て、かなりびっくりした記憶があるが、ライト先輩は、カジュアル・セックス、そういうものはない、ときっぱりおっしゃっておられる。この辺の清々しさは好きだなぁ。

     まぁ、性行為は性行為であるだけでなく、人格的な交わりであることのメタファーであることも、J.I.Paker先輩は、『神について』(英文タイトル Knowing God)の中で、かなり詳しく紹介しておられる。であるからこそ、パッカー先輩は、旧約聖書では、他の神に現を抜かす偶像崇拝が、不倫や婚外性交渉、不貞にたとえられたこともお書きである。例えば、
    口語訳聖書 歴代誌上
    5:25 彼らは先祖たちの神にむかって罪を犯し、神が、かつて彼らの前から滅ぼされた国の民の神々を慕って、これと姦淫した
    と書かれているように。

    性とアイデンティティ

     アイデンティティという語であると分かりにくいという向きには、アイデンティティとは、その人らしさ、その人そのものの精神世界の反映であるということができよう。つまり、その人の人格や自己認識を巡る精神的、霊的世界を形成しているものがアイデンティティである。このアイデンティティと性が深く関係していることに関して、N.T.ライト先輩は次のようにお書きである。
     性的アイデンティティー、即ち男性であり女性であるということは、人間として自分がどういう存在かという中心に近いところにあり、性的行為は人間としてのアイデンティティと自己認識に直結している。(同書 p.54)
     まぁ、その意味で、神から与えられた人格そのものに、性的関係は深くかかわっている、ということであるらしい。まぁ、それはそうかもしれない。しかし、このあたりの部分は闇におおわれていることが多い。その辺があるから、村上春樹のファンの人々は、あの暗喩の世界にひかれるのかもしれないが、個人的には、村上春樹は、処理がしにくくて、かなり無理ゲーのところはある。ファンの皆様すみません。ミーちゃんはーちゃんは、理工学系ヤローなんで複雑なのをどうしても単純化したがるし、扱い処理できないものは苦手なんで。
     
    義を熱望しつつも、それを手にできない人間

     美しいこと、義であること、真実の愛をうたった芸術作品は山ほどあり、掃いて捨てるほど(ただし、実際に掃いて捨てたことはない)存在することは確かである。しかし、そのどれ一つして完璧なものはない。油絵なんかとか、都市計画図だとか、家屋図にしても、それから論文にしても、完璧を目指して描かれる。しかし、実際には、どこでやめるかは難しいので、時間切れがまぁ一応の打ち止めになる。

     こうやって努力したもので、苦労したものでも、できてしまえば、できてしまった瞬間から、すぐさま陳腐なものに成り下がり、30年もたつとゴミ扱いされる。ところが、100年後に発見されたりするとお宝になるか、骨董としてか、あるいは資料価値の高い資料として、ありがたい対応を受けることは少なくないのではあるが。
    私たちは義を熱望している。しかし、それはなかなか手に入らない。私たちは霊的なものへの渇望がある。そうであるのに、あたかも物質主義が真の真理であるかのような表面的な生き方をしている。さらには、最高で最良な人間関係も、いずれ死で終わってしまう。笑いが涙で終わる。そのことを知って怖れる。しかしどうすることもできない。(同書 pp.54₋55)
     この部分を読みながら、Ars longa, vita brevis.(技術・医術・芸術は長し、されど人生短し)というヒポクラテス由来のことばを思い出した。このことわざは、技術(医術)取得に時間がかかることに関する言葉がもとらしい。義になること、義に近づける技術、アルテは、そもそもその研鑽に時間がかかるし、学問もそうであるし、絵画も彫塑も、みなアルテである以上、思い付きでできるものではないのだが、そこらのことは、ジパングで文教芸術行政をしておられる方々に影響力の強い方々はお分かりでないらしい。なお、日本では、Artというと、美術文芸などをさすが、ヨーロッパ系の言語では、医学、工学、政治学、などを含め、かなり幅広い概念にまたがる言葉ではあることは一言触れておく。

     このヒポクラテス由来のArs longa, vita brevis をこれらの方々に向かって、「食らえ、Ars longa, vita brevis」攻撃してみたいという妄想に最近ちょっと駆られている。それとても、涙と笑いで終わるのだろうなぁ、と思いつつ。まぁ、本来、こういう言葉を、これまでひたすら役に立つ学問でもある技術分野で生活させてもらってきた一介の技術系の人間が言うのも、変な話だが。

    旧約由来の信仰形態と人間のかかわり
     N.T.ライト先輩は旧約由来の信仰形態では、この地上におけるもののはかなさ、僅かさ、それが一瞬のことでしかないという現実の中でも、人間同士のかかわり、人間と神(創造主)とのかかわり、人間と被造物との関わりということの重要性について触れておられる。
     旧約と呼ばれる聖書に端を発する信仰形態は、まぎれもなく人は関わりのために造られたこと、特に家庭内での互いの関わり(特に男と女の相互補完性)、人間以外の被造物との関わり、それ以上に創造主との関わりについて語っている。いまなおユダヤ教、キリスト教、イスラム教の基本であり続けている創造のものがたり(ストーリー)によるとすべてのものは束の間の存在でしかない。永続するものとデザインされていない。(p.55)
     そもそも、創造の時に、美しいもの(ヘブライ語でトゥーブだったはず)としてつくら、人とかかわり、神とかかわり、他の被造物全体とかかわる、管理を任せられている、という意味なのではないだろうか。恐らくその意味で、人に対して神が「この地を治めよ」と言われたはずだと思うのである。

     それを曲解して、人間は好き勝手していいというわけわからん理解を持つ人々がいるらしい。しかし、この「治めよ」という言葉の語源を考えると、決して、好き勝手していいわけではなくて、神の代理として、あなた方がケアしなさい、牧しなさい、といわれたことなのであり、だから、イエスは自分自身のことを良い羊飼いである、第2のアダムであるという理解なのではないかと思うのだが、このあたり、違う理解をお持ちの方々もキリスト教徒と呼ばれる内にはおられないわけではないようである。

     一度、神戸市内のある集まりで、ビジネスマンのための伝道をどう考えるのか、というテーマで講演してくれろと頼まれた時、本来、創世記における地を治めよという部分こそが、本来、神のビジネスをするということのはずなのであり、そのことに人間が招かれているのではないか、というN.T.ライト風の聖書理解を話したら、こんな話は初めて聞いた、異端的な理解ではないか、といわれてしまった。

     まぁ、基本的にその集まりの主要な皆さん(国家祈祷晩餐会が大好きな団体の支部の皆さんだった)と、ミーちゃんはーちゃんの立場がかなり違うし、最近、呼ばれもしてないので行ってもいない。だって、内輪の何とか大会やっただの、それをどうするだのといった報告が延々続く会には個人的には興味があまりない。そういうことがお好きな方はどうぞお好きにおやりになられたらよろしいのでは、と思っている。

     この国家晩餐祈祷会とやらの裏話を聞かされたことをこの話を書きながら思ったのだが、人が永遠に生きることがないのも、ミーちゃんはーちゃんは神の恵みであろうと思っている。人間、長生きすると、それだけで偉くなったような気になり始めるので、ろくなことが起きないからである。バベルの塔事案で、言語を乱されたことと、人の齢を定められことは、神の愛であったと思う。

     まだまだ続く。



    評価:
    J.I.パッカー
    いのちのことば社
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    (1978-07)
    コメント:改訂新版が出るという噂も

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