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2015.06.17 Wednesday

NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その6

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     今日も、N.T.ライト関連の新刊『クリスチャンであるとは』ということを紹介したい。まず、3章から紹介したい。義の一部を形成する人間観の関係性を追い求めている人間の姿の記述の続きからである。

    結婚候補の人たちを前に
     マリッジカウンセリングというか、結婚式の準備のために、司祭や牧師が事前準備態勢を組むことはよくあることである。まぁ、それなりに準備が行って、そして、相手の希望などを入れながら、司祭や牧師が結婚式のメッセージを考えたりすることは多い。中には、結婚する二人を置き去りにして、この時とばかりに盛り上がって聖書メッセージをしようとする牧師先生のお姿を見ることもあるが、そういうとき、カトリックとか聖公会とかの説教はまぁ、それなりに、という教会の姿の方がいいかなぁ、と思うことはある。

     若いカップルが私の書斎のソファに座って、互いの目をじっと見つめ合っている。結婚式の打ち合わせに来た二人だ。これほど完全な相手はいない。自分達が待ち望んできたまさにその人だという発見で心ときめかせ、夢に満ち溢れている。
     それでもだれもが知っているように、それこそ天国でであるかのような結婚生活が、ときには地獄から祖お遠くないところで終わりを迎える。互いへの思いやりが、華々しい新しい生活を約束するかに思われる時も、統計が示しているように、その先の生活をどう過ごすべきかを知らなければ、すぐに金切り声をあげ、泣き叫び、離婚のための弁護士をやということになるだろう。
     何かがおかしくないだろうか。お互いをそれほど求めていながら、どうして二人の関係は難しくなってしまうのか。(クリスチャンであるとは p.45)
     こういう部分を見ていると、結婚する前は、以下の「世界は二人のために」というかなり昔の歌謡曲で歌われている。それは、スピードワゴンのコントのように、「あま〜〜〜い」といいたくなるようなものである。なお、この「あま〜〜〜い」をはやらせた、井戸田君は、彼の「あま〜〜〜い」関係を継続することに失敗しているという悲喜劇があるあたりが。


    世界は二人のために (最近、結婚式で聞かされることはほぼない)


    スピードワゴンのコント

     こうやって始まるものの、日本では芸能人の離婚騒動に伴うゴタゴタは話題になるが、アメリカでは、結婚する段階で、離婚に備えて結婚前に契約書が交わされることが多いらしい。それをどう回避するかのために、Divorce Lawyerという専門職があるらしい。また、それが儲かるらしいのだ。そのDevorce Lawyerの結婚と離婚にまつわるコメディーがディボースショーという映画がある。また、離婚の悲惨を描いた映画にローズ家の戦争という映画がある。なお、このタイトルは、バラ戦争という西洋史で超有名な戦争名がそのタイトルの下にひかれている。


    ディボース・ショー(Intolerable Cruelty)の予告編 


    ローズ家の戦争の予告編

    神からの呼びかけとしての共同体形成
     神からの呼びかけとして、共同体形成があることに関して、N.T.ライト先輩は、次のようにお書きである。
    人間関係のすべての領域は、もう一つの「ある声の響き」』を作っているといういうことである。その声は、無視しようと思えばそうすることもできる。しかし、その声は十分大きく、(中略)多くの善良な人が張り巡らせている防御を、いとも簡単に突き抜ける。人間関係とは、霧の先にあるものを指し示すもう一つの指標であって、その先により良い道に導く道があり、だれもが行ってみたいと望んでいる場所に導いてくれると。(同書 pp.45−46)

     社会が組織なしには成立しえないように、人間は人間関係の中に招かれているのだろう。世の中に数多くの組織が形成されているが、それは人間が一人では、考える葦でしかなく弱い存在であり、草食動物(たとえばバイソンやインパラといった動物が、集団行動を通して身を守るという行為が合理的である以上のものがあるのではないか、と思われる。

     経済学者は、物の見方が功利主義的、合理主義的に出来上がっているので、こういうことも、経済学の中でも産業組織論分野の数理モデルで示そうとし、その背後にネットワーク外部性があるからだ、と経済原理からのみで説明しようとする(それはそれで、尊い知的活動である)が、この後出てくる結婚などは、ネットワーク外部性などの理論では説明できない人間行動である。結婚や恋愛の現象面での経済学(たとえば、男性がプレゼントする背景の合理性やHome Developersの行動における合理性など・・・)は構成できても、ある特定の男性とある特定の女性観における恋愛そのもののを対象としたゲーム理論的解説は不可能であるし、それはしない方が研究者の現実の生活と評価にとって益が多いようには思う。やったらいかんとは言わないけど。

    結婚にまつわる悲喜劇
     結婚にまつわる悲劇が非常に多いということに関して、N.T.ライト先輩は次のようにお書きである。幸せを目指いして、結婚が行われ、何百万円もかけて、行われている。芸能人などの場合は、何億円もかけて結婚披露宴が行われたりするものの、間もなく離婚会見が開かれることに我々は習い性になっているかもしれない。

    一世代前の西洋文化圏で暴露された結婚生活の実態にもかかわらず、さらには、独りでいたい願望、夫婦共稼ぎの重圧、膨れ上がる離婚率、新たな誘惑の世界に囲まれるかもしれなくても、相変わらず結婚への人気は驚くほど高いからである。イギリスだけでも何千万、いや何十億というお金が、毎年結婚式のため使われている。にも関わらず、演劇や映画や小説のほとんど半分の割合、恐らく新聞では、四分の1の割合が「家庭内の悲劇」を取り上げている。(同書P.46)


     まぁ、先に紹介したディボース・ショーやローズ家の戦争などをはじめとする映画やスポーツ新聞の芸能欄(正確に言うと芸能人に関するゴシップ覧)、あるいは、女性自●とか、女性セブンとかのJRの吊り広告を見ているだけで、このあたりのことはすぐ自明ではないだろうか。女性雑誌の一定の割合は、洋の東西を問わず、この辺のゴシップが大半を占めており、こういうのは売れるらしい。ない時には、近所の人のゴシップで満足していたのかもしれないが。まぁ、世にラブコメの種は尽きず、という感じである。

     大英帝国では、米国ほど結婚や離婚はカジュアルのことではないようであるが、米国に行くと、ステップペアレントが2桁、というような例はざらにみられる。教会の司牧はマリッジカウンセリングに奔走させられ、また、それを専門にした心理カウンセラーもいる。そして、アメリカ社会は数多くの離婚と数多くの再婚が繰り返されながらぐるぐるとまわっていく。

    以前ヤンキー牧師こと水谷潔氏の講演( 緊急公開 神学ALG KOBEクリスチャンライフセミナー ユース:クリスチャンの本音トーク恋愛→結婚→家庭編 水谷潔先生 講演録  )で触れられていた、平成のドンファンこと、石田純一の名言あるいは迷言

    人は判断力不足で結婚し、忍耐力不足で離婚し、記憶力不足で再婚する

    ではないが、結果的に人間は、霧の先に進みながら、そこに何かあるのではないか、とそこに突進し、そこに行ってみると、何もなかった、あるいは見つけたのは悲惨であったというパンドラの箱よろしく、最後に希望を求めながら、その箱を開けては失望し、また、希望を持ちつつ霧の中に分け入っては失望し、という問題を繰り返しているのかもしれない。

    孤独を嫌いながらも、孤独を理想とする社会

    キリスト教の世界での人間関係の考え方について、N.T.ライト先輩は次のように書いておられる。人間は、社会の中に生きる存在としてそもそも想像されていると。

    私たちは互いのために造られている。それでもその関係をうまく保ち、そして実りある喪にするのは帆tん度の場合、驚くほど難しい。(中略)私たちは皆コミュニティに属す、社会的なものとしてつくられていることはよくわかっている。それでもドアを堅く閉めきり、夜一人で床を踏み鳴らしたくなることが多い。同時に、自分は皆離されている、自分を憐れんでほしい、誰かが助けに、慰めに来てほしいと願っている。(同書p.46−47)

     この部分を読みながら、「クリスチャンであるとは」をお出しになっているあめんどうさんで出ていた、ヘンリー・ナウエン著『愛されているものの生活』を思い出した。この愛されているものの生活は、和解ユダヤ人の独身の世俗のジャーナリストにキリスト教とはどんなものかを説明し優として書き始めたものの、実は、世俗の非キリスト者向けにキリスト教とは何であるか、と示す本ではなく、キリスト者向けに、キリスト者とは何であるのか、を説明する本になってしまった感のある本であるが、現代人の孤独と個人の生活の分節化という社会の現状その中で、キリスト教とはどのようなものとして回復されるか、ということを欠いた本である。安全、安心を求めるあまり、牢獄のような閉鎖的なアパートに住むことは、実な自分自身で、刑務所に入っているようなものではないか、ということなどが書かれていて、そこからの解放者としての開かれた社会に生きるものとしてイエスは招いていることを示した名著である。

     現代の社会に生きる都市的な人間のある側面について、N.T.ライト先輩は以下のような表現をしている。
     私たちは皆、他の人と関わりながら生きている存在であることを知っている。しかしどうすればよい関係を保てるかがわからない。(同書p.47) 
     この指摘は現代社会の混乱の一つをついていると思う。かかわりが大事であると分かりつつ、人間関係で生み出される軋轢や混乱、不愉快なこと、それに伴うめんどくさい諸々を避けていきたいという思いが強いのは一つの現状ではないだろうか。問題は、それをどう処理していけるのか、という方法論がいまだに見当たらないことである。それは、キリスト教の世界、とりわけ、プロテスタントの世界を見れば非常によくわかる。ごくわずかな聖書理解の違いゆえに、キリスト教会はどんどん分離していて、他の教会群とかかわりながら生きていけばいいものを、その細かな違いが問題になり安っく、このような動きができていないところもあるように思う。原罪2016年に神戸で開かれる日本伝道会議のプレイベントが開かれているし、来年2016年は伝道会議そのものが開かれる。こういう試みをすると、すぐ、そんな教会合同、エキュメニカルな…とかいう批判の声が出るのだが、そのこと自体が、かかわりながら生きることをどう良い関係を保ちつつ可能なのかということが分かっていないことを示しているように思われる。

     次回へと続く



    評価:
    ヘンリ・ナウエン
    あめんどう
    ---
    (1999-11-18)
    コメント:大絶賛、おすすめである。

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