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2015.06.15 Monday

2015年春季福音主義神学会東部研究会へ行ってきた

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     福音主義神学会東部研究集会が2015年06月15日に行われたが、そのご講演者鈴木浩先生のご紹介が司会の三好先生からあった後、東部の理事長大坂先生からのご挨拶があり、2017年に宗教改革500年年を迎えることもあり、最初は義認論の理解を考えたが、その前景として罪の問題を取り扱うことにした。なお、鈴木先生の歴史講義はわかりやすいと正木校長から折り紙付きであるそうである。

    原罪論、イントロダクション

     本日は、原罪論を学んできたので、そのお話を致したい。この40年近く、教会でも神学校でも原罪論を取り上げないようになっている。この奇妙な沈黙は何かということを考えたい。確かに、神学に流行があるが、流行に乗るのが嫌いであるため、みんながやらないことをやることにした。博士論文は「原罪論、その歴史的要因と教理的本質」というタイトルで書いた。原罪論はそもそも、アウグスティヌスが、ペラギウス主義者との対論の中で取り上げた内容である。

    カトリックとルーテル派の対話について
     2017年宗教改革500年、ヴィッテンベルグでカトリックとルーテル世界連盟が共同で礼拝をあげる予定である。一致に関するルーテル・カトリックの協議会で議論しており、バチカン10名ルーテル世界会議が10名集まり、対話をし、洗礼と交わりの成長について研究を現在やっている。

     アウグスブルグで義認の教理に関する共同宣言を出している。カトリックとの対話の中で、最も重大な争点となったのが義認論であるが、基本は一致の確認が取れている。この出版に5年ほどかかったが一番の障害になったのは、神学用語の統一であった。

     カトリックとルーテルの共同宣言の日本語版が今年の2月に教文館から「争いから交わりへ 」というタイトルでルーテル/ローマ・カトリック共同委員会訳出ている。この本は過去500年の評価をまとめたものといえ、ルター神学の再評価がなされた。500年がカトリック教会の一致に関して犯した罪、ルーテル教会が教会の一致に関して犯した罪の問題を扱い、その反省の上に出版されている。このようなエキュメニズム委員会を年1回開催1週間で開催している。

     第2バチカン公会議が原因となって、このような一致への動きがみられるようになった。第2バチカン公会議以降、カトリックは相当変容した。それまでのカトリックは、宗教改革について、トリエント公会議での決定が継続しているほどであった。

     現在、ルーテル神学校卒業後、大学院行くとなると、基本上智大学に行って学位取得するコトンある。その意味で、カトリック教会とルーテル教会の距離が接近した。細かい点で違いがあるが、かなりの部分で、違和感がないものになってきている。これらも、カトリック教会との話し合いの成果であった。

    宗教改革400年の回顧

     さて、いま500年は一致に向かっているが、では、100年前、400周年の時はどうだったか。内村鑑三が、400周年を記念して大会を開いた時には1200人もの人が集まった。また、その時はいくつかのキリスト教派が結成されるなど日本のプロテスタントの盛り上がりがあった。

     しかしながら、カトリック側では、カトリック教会の『声』という雑誌(広報誌)が4回ほど宗教改革を取り上げているが、『ルッテル(ルターのこと)が誤れる教義を申し立てて400年になるが、その宗教改革は、宗教界悪である。』というノリであった

     現代のキリスト教界の最大の悲劇は、教会が多くのグループに分裂していることではないだろうか。我々は、一致に向かっていくべきなのではないか。

    (ミーちゃんはーちゃん的感想
     こんなこと言ったら、改革長老教会では、なんか批判が飛んできそうであるけれども。その辺がカルバン派のカッティングエッジであられる改革長老派からはブーイングが聞こえてきそうであるが、そのあたりが、ルター派と改革派の違いのような気がする。)
    ルターがしたことは何だったのか?
     95条の提題のビラをルターが1502年10月31日にヴィッテンベルグ教会の扉に貼ったことに始まる。ザクセン選帝侯フリードリッヒ皇帝が立てた学校であり、この教会の扉は、学校での公式掲示板としての機能をも持っていた。その意味で合法的な張り紙であったが、内容が衝撃的であったのだ。同じ張り紙でも、神学的に重要なのは同じヴィッテンベルグ大学の公開掲示板でもある北側の門の扉にカールシュタットが1516年9月16日に張り出した151条の提題であるが、これは社会的な影響を持たなかった。

     聖遺物の収集と展示が当時の流行りであり、このヴィッテンベルグ大学はかなり持っていた。その一般公開がされる日に合わせて、この提題を出しているし、これらの公開日には、ヴィッテンベルグの周辺地域からも人が集まった。なお、10月31日は、All Saint Dayの前日でもあった。

     ルターの提題の内容は、1週間でドイツ全土に広がった。掲示板に張り出したのは、正確にはいつなのか問題には解決がついていない。実際には張ってないとか、いう説もあり、諸説ありすぎて詳細は知られていない。現在の大学入試に出るので、ルター、95か条の提題と宗教改革というセットで中身はそう知られていないものの、名前だけは知られている。

     高校程度の教科書では、現在のところその後の動きが全くフォローされておらず、教会分裂の段階でストーリーが終わっているので、今でも犬猿の仲だという思い込みが起きている。

     カールシュタットの151か上の提題は実際には。神学的にはアウグスティヌスに関する提題。はるかに重要な神学的議論を含んでいるが、95か条の方が有名になってしまった。カールシュタットの151か条の提題は、神学者だけの問題でしかなく、これに対しルターの95か条は市民を巻き込んだものであった。この時代の煉獄のイメージは、ラザロの話の苦しみのイメージで、そこでも代苦しむ。

     贖宥状のためにお金を透過した音がチャリンとなった瞬間に先祖は煉獄から天国へトラバーユされることになっていたらしい。この時代先祖供養は、民衆の最大関心事の一つであった。

    アウグスティヌス擁護者としてのルター
     こまかい話を省いてしまえば、ルター先輩にとってみれば、アウグスティヌス先輩の超擁護派であり、当時の定説であったアウグスティヌス誤謬説に挑戦したといえる。また、その後、我々の意思は奴隷的拘束の中にあるとした、奴隷意志論があるが、これは当時無視された。
    ルターは急進的アウグスティヌス主義者であり。アウグスティヌスの持つあいまいさを解消した。自由意思としては、自ら悪を選択するほどの自由意思はある。自由意思は結果的に悪しか選択しない。

     自由意思を名目的には肯定しながらも実質的否定をしている部分がある。実質的にも名目的にも自由意思があるとした。アウグスティヌスの持つあいまいさをきっぱり取り去って、自由意思は全くウソ、単なるフィクションであるに近いことまでといった。

     この過激さをメランヒトンらは心配したが、ルターはアウグスティヌスの原罪論をかつてないほど強化した。よいことをするとき、無条件に、神の前で、かつ人の前でも良いことをやっていることになるのか。常に、神の前でよいことをしていると言えるか。ルターの発言は非常に刺激的であり、時に言い過ぎだという印象を与えるものが多い。ルターは、神の前でと人の前で、を分けた。ルター以前のスコラ哲学では神の前でと人の前で、を一緒にして議論していた。とはいえ、ルターは矛盾を抱えた議論をしている。神の前で、という領域限定で議論している側面がある。例えば、ルター先輩は、人々の前でよいことは、神の前では必ず悪だとまで言っている。

     それまでの原罪論は、基本的に現在は親から子へと向かうものであり、一種の生物学的運命論のようなものであった。

     オランジュ公会議は、西方の神学の基礎となっていたが、アウグスティヌスには、教理的な原罪論と予定論を取り上げた。原罪論を名目的に擁護しつつも実質的骨抜きにしてきたのが、ルターまでの西方教会の内実であった

    幼児洗礼や聖餐とルター

     乳児洗礼、具体的に言えば、生後すぐの洗礼であり、ルターもこのタイプの洗礼である。人間は遺伝的に原罪を持つがゆえに断罪されねばならないとした中世カトリックは全部乳児洗礼であり、アダムから現在まで受け継いだ現在からの断絶をするのが、洗礼であった。現在の信仰者と違い、基本的には、自分の洗礼の経験を知らないのが当たり前であった。

     また、聖餐論の観点からは、アウグスティヌス以降カトリックは聖餐そのものが礼拝になるという構造を持っており、説教のウェイトは低い。事実上説教なくても構わないとする立場である。聖餐以外は周辺的であるとしているが、 逆にプロテスタントでは、説教のない礼拝は考えられない。とくにラテン語ミサなど、その意味の理解は気にしていない程である。

    中世時代における教父研究と過激思想

     中世に教父研究が進む中でアウグスティヌスが読まれ、その中で原罪論と予定論を語っていることが判明した。予定論、現在論、教会論による穏健なアウグスティヌス主義と、急進的アウグスティヌス主義の戦いとなった。ウィクリフ、ヤン・フスは予定論と教会論の一体化を目指したが、これらの急進派は教会から追い出される。ことになった。ヤン・フスは火あぶり異端事件。ウィクリフは異端派と最終的にされ、死後墓が暴かれた。急進派の最後がルターであったが、社会自体がルターに対して、擁護的であり押しつぶせなかった。現在論を再検証し、強化したのがルターであり、予定論はカルヴァン主義者が中心となって、強化とその再整理をした。

    西方と東方での原罪理解、人間理解の違い
     ルターは原罪論を考える重要性があるのではないかとした。西方教会は罪びととしての人間の普遍性を考えた。原罪とは、病気のようなもので、そこからの回復策が救済論という構造を持っている。その意味で、人間理解と救済理解はコインの両面であり、ローマ書5章、中でも5章12節に基づき、ラテン語の誤訳に注目して原罪論を展開している。

     ところで、東方教会は、死の普遍性を考えた。誰もが死すべき運命である東夷普遍性に立ち、人間は死んだが、最終的に神になるという理解を生み出した。

     宗教改革者たちは、目に見える教会と目に見えない教会があり、中世後期の過激派は、現実に存在する目に見える教会は、間違っているから行くべきでないとまで言い切った。

     義認論は、アウグスティヌス的前提があって有効であるが、中世を経る中で、原罪論というその前提が失われた。罪認識の深さに義認論のインパクトは比例するのであり、現在論が十分理解できないと、義認論は安易な現状肯定になるといえよう。
     
     現在、原罪論に関するあからさまな反論が行われており、イングランドの東方教会の研究者は明らかな半アウグスティヌス主義であり、アウグスティヌスは、キリスト教を変容させたとまで主張した。正教会での人間論は、神と協働するものという立場であり、正教会は、アウグスティヌスに同意できないのである。

     とはいえ、アウグスティヌスは西方の伝統になり、罪を性と結びつけた。そして、アウグスティヌスは、ローマ5章12節のウルガータの誤訳に基づいた理論構成になっているとされている。現在とは、全ての人が罪を犯したという理解を、アダムにおいて罪を犯したので、現在があるという立場であり、オランジュ公会議でもこの論理が使われている。

    (ミーちゃんはーちゃん的感想
     時々外国人で、性交渉そのものが原罪だということを主張する人々がいるが、その根拠は、どうもアウグスティヌスにあるらしいことを、個人的には小山先生の富士山とシナイ山で知ったが、今回も改めて、そのことが焦点化した。聖書須藤というのは、なかなか厄介なものである。これに関しては、次回の質疑応答で紹介出来よう)
    ウルガータ版ラテン語訳の原罪論の筋の良さ
     ただし、原罪論で、誤訳の方が正しい可能性が高い。このローマ5章では、アダムにおいて、とキリストにおいての対比がなされている。その意味で、アダムにおいて、という理解であろう。パウロは、時々肝心なところで、いい加減な表現がみられる。
     ギリシア系の正教系の神学者は誤訳の上に立てられているとアウグスティヌスを批判するが、誤訳の方がかえって正しく意味を伝えているのではないか。

    現代における原罪に関する不可解な沈黙
     原罪の原罪論に関する不可解な沈黙がある。この結果、キリスト教を信じている人々の福音は、自己受容の福音となり、自分はこれでいいのだ、とするかのような理解が生まれ、大衆説教者、牧会カウンセラーの理解はそのようなものが混じっている可能性がある。

     罪はカトリックの道徳神学の中で語られ、特に性にまつわる神学となっていった。道徳は罪に関して沈黙している。50年前には、罪は具体的にどんなものが罪であるのかに関して、一般的理解があった。しかし、現在は罪に関して、それが、差別の問題や、消費優先主義、性差別という形の社会的正義の罪へと読み替えられている。特に、啓蒙主義時代以降、人間論がキリスト教界でも大きく変容しており、本来人間には尊厳ということはないというのがルター的な理解であり、尊厳があるのは、神だけであるというのがルターの本来の主張である。

     原罪は、義認論の危機を迎えている。つまり、現在という教理的背景を失った義認論となってしまっている。

    幼児洗礼再び

     ところで、カトリックなどでは、嬰児洗礼を正当化したが、これも原罪とリンクしているのである。聖書に言う、信じているという前提が抜けおちている。その意味で、嬰児洗礼の正当化する論拠がアウグスティヌスを否定するとで成立しなくなる。嬰児洗礼をどう説明するのかが現代では難しく、かなり回避的な措置として、現在から救われるのではなく、ご夫婦お二人の子供が神にあって生まれるようにするために嬰児洗礼を施します、といっている。これはある主争点を避けているアプローチであるが、現実には嬰児洗礼の説得力がないのである。実際には壮年洗礼が増えている。

     確かに嬰児洗礼により信仰は形骸化する傾向があるが、嬰児洗礼が施される背景には、嬰児死亡率の高さがあり、この嬰児洗礼というものは、神学的正当化抜きで始まっている。現在では嬰児の死亡率が減少したので、嬰児洗礼自体が不要となった。

     ある文書の中に、洗礼は8日目まで待つべきか(割礼との対比)という議論があるが、キュプリアヌスは生まれたら即時に洗礼しろといっている。

     とはいうものの一方で洗礼を遅らせよ、という考えもある。洗礼によって罪がご破算にされるので、ぎりぎりまで遅らすべきという立場もある。洗礼後の罪はどうするか、ということが問題になるからである。結構洗礼が先送りされているケースがある。コンスタンティヌスもその息子も死の床で受けている。コンスタンティヌス化する中で、本来洗礼が持っていた終末論的理解が抜け落ち、洗礼の理解が平板化した。本来の洗礼の意味は終末論的理解との関連でとらえられるべきで、キリストのからだである教会につながれる、というものである。繋がれた結果としての罪の赦しが教会につながっていることで起きるのであり、罪の赦しが繰り返し起こる。

    近現代におけるアウグスティヌス理解

     近現代の教会の神学者のアウグスティヌス的な理解が劣化あるいは変化しているように思われる。教父時代は、事実上パウロの手紙のコンテンツを無視していたが、アウグスティヌスでパウロ化した。中世でまた、非パウロ化して、宗教改革でパウロ化し、今また非パウロ化しているかもしれない。このように振り子のように動いていると言えよう。

     罪や原罪のことを考えずに救済は考えられないだろうし、信仰義認そのものが色あせてしまう結果になる。ルターの場合、キリストにゆだねきることで救済を考え、恵みに自らすべてを丸投げするのである。それがルターの言う信仰のみという意味である。

    現代における現在の再解釈の可能性

     現代で原罪論の再解釈の可能性があるのだろうか。それはあると考える。創世記3章の中には、罪という語がない。だからといって罪が存在しないわけではなくて、罪について、再解釈して罪をもう少し普通の言語で語る必要があるだろう。とはいえ、アウグスティヌス流の原罪の遺伝的伝播の論理をとるのはやめた方がいいと思う。それよりもむしろ、もっとしっかりした基盤を考えるべきではないだろうか。

    自動車の運転のメタファで理解する救済論

     ルターの義認論のインパクトは、人間は車の運転士であるという立場である。自動車の運転のメタファーで義認を考えると分かりやすいかもしれない。ちょうど、カトリックの世界の義認論は、自動車もただ、ガソリンもただ、人間が運転する車のようなものである。この世界では、道路交通法(教会の戒めを守って)天国に行くような世界である。飲酒運転や無謀運転などは、大罪であるのできちんとした対応が必要である。これに対して、小さな罪は、反則切符での略式対応するようなものである。その意味で、反則切符と罰金の考え方は、贖宥状とよく似ている。

     ルターは、このような概念をひっくり返したと言えよう。我々はサタンによって運転されている車にいるのであり、そのサタンの運転中に、キリストが来て、ハンドルを握る。このキリストが来てハンドルを握ることが神の恵みであり、神の救いと同義である。最終的な結末が来るのは先かもしれないが、キリストがハンドルを握っていることそのものが救いであり、はるかかなたの救いが今ここで実現している、という立場である。今、既にここで、をはじめて義認を語ったのがルターである。宗教改革では、信仰義認論は共有しているものの、カルバンはどちらかというと聖化に傾いている傾向がある。

    質疑応答と感想は次回に回したい。

     以上、本日の参加記である。ありうべき過誤は、ミーちゃんはーちゃんの聞き間違い、意識が飛んでいたことなどによるものである。ご参考までにどうぞ。




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