2015.06.15 Monday
南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(8)礼拝論と賛美論 その4
今回も、南部での改革長老教会の歴史に関する講演会に行ってきたその時の講義録をご紹介したいと思う。今回が最後である。これまでのご清覧を感謝するとともに、今回もよろしければ、ご清覧願いたい。
改革長老の礼拝のコアとは何か
聖書の中の礼拝の変化を想定することは、聖書外の要素の礼拝への導入を正当化するためにかなり用いられてきた。聖書外のものを含むように礼拝を変えてしまうのなら、礼拝の教理を外れていることになる。そのような環境の中で、長老教会にとどまるかの意味が果たしてあると言えるのであろうか。
様々な展開とその問題
2000年にさらに、PCAの二人の牧師が規範的原理に反対する本を書いた。セントルイスの牧師である、ジェフリージェレマイアは礼拝のリニューアル運動の中に入っていた。2003年に主の礼拝、契約的更新の恵みという本が出版された。この本で明らかにピューリタン信仰に対して、マルキオン主義的な悪影響を与えるものであった。同署は、非常に異端的なもので、旧約聖書の神と新約聖書の神は違うとした。ピーター・グレッグハートは小児聖餐の支持者であった。様々な空想的な考え方に賛成してきた。2003年に、沈黙から歌え、というタイトルの本を書いた。ライハートは、礼拝の規範的原理を批判したのである。礼拝の規範原理は実際において、解釈論的に木のようなものであって、神学的にはマルキオン的であると主張した。なぜ、礼拝の規範的原理が木のようかものであるかに関して、彼は礼拝の一つ一つの行為を明確な独立したものとしたことにあるとみている。
(ミーちゃんはーちゃん的感想マルキオン主義的だと批判するのは、旧約聖書を無視している点である。象徴的なことは、教会の中で信仰の義認と洗礼にのみいろいろ言われた。特にパウロの新しい視点に賛成したことで、改革長老派教会から追われた。聖書のみの原則と礼拝の規範的原理に関する本が出た。
この部分で、木というメタファーで何を言いたいのかは、英語を聞いていてもよくわからんかった)
改革派内の回帰運動
(ミーちゃんはーちゃん的感想
パウロの新しい視点、NPP(パウロの新しい視点 New Perspective On Paul)の肩を持つと、改革長老派では居辛くなるのね。そらぁ、NPPやN.T.ライトは、基本的に改革長老で厳しいはずだわ)
DGハートとミューターは改革派の礼拝の基本に帰れということに関する本を出版した。伝統的な礼拝論を擁護した。礼拝における規範原理を当てはめることで、神が明白に命じていることのみをするべきであり、それ以外は禁じていると主張した。礼拝の規範性の原理に対して、聖書の朗読や、沈黙、ろうそくに火をつける、旗を飾るに関しては禁じられると同書で主張している。
(ミーちゃんはーちゃん的感想
ここまで悪しざまに言わなくてもいいんではないかと思った。形だけの批判であり、その奥にある省庁を考えていない、物言いではないか、と思った。ただ、それを地教派に取り入れるかどうかは、それぞれのキリスト者集団の中における判断だろうと思うけど。)
D.G.Heartは2003年4月に本を出版し、アメリカの長老主義の本当の区別はリベラルと福音派の区別ではなく、フォーマリストと、反フォーマリスト、敬虔主義者と非敬虔主義者、形式主義者、非形式主義者の間の区別であるとした。
リバイバル運動の人気があったことと、アメリカでのキリスト教の個人主義的表現が礼拝の形を守ることは難しいものとした面があったことを指摘した。19世紀の中盤までは、歴史的プロテスタンティズムの中で、教会の高踏的な見解は重要な主張であった。教会の高踏的な側面を高く意識するカルヴァン主義はアメリカ社会の粗雑さに対する一種の解毒剤でもあり、ある福音主義者集団の中で、カンタベリー(聖公会)やローマ(カトリック教会)、コンスタンチノープル(正教会)の手助けとなっているかのごとくみられる傾向を生んでいた。
改革長老派の中での相転移
アメリカ長老主義のなかでの礼拝の皮肉的な現象としては、保守的な長老主義者が礼拝に関して新しいもの好きで、リベラルな長老主義者が逆に保守的・伝統主義的な態度になっているの点である。アメリカの長老派のこのようなねじれは18・19世紀のリバイバリズムの影響である。
感情的な回心体験に主眼を置くリバイバリズム的な運動は、改革派の高踏的な教会主義とは一緒にならない。20世紀に入って、実用主義的な伝道への系統が、他の考え方を抑えるための切り札になり、ジョン・フレームが提唱するような礼拝理解への変容を可能にし、わかりやすくすることになってしまった。
ウェスレー主義の文化によって派生したペンテコステ的な運動が生まれる中でのジレンマに悩んでいる。この時代に依拠して、形式を無視するという動きである。改革派的な敬虔さ、単純さといったコアの部分をどう提供できるか、ということが問われているのであろう。カルバン主義的な礼拝の厳しさは、あるいは神に喜ばれることは、現代のアメリカ人にとっては悪臭を発するものであるかのごとく思われるかもしれない。アメリカの長老主義たちはジレンマの中で身をかわそうとするなかで、カルバン主義的の適切さにかんする一体性尊厳を保持できなくなってしまった。
(ミーちゃんはーちゃん的感想2003年に開催された北米改革長老の総会で、歴史的伝統に疑問を呈され、礼拝に関する研究の委員会が設置された。その結論としては、礼拝の規範的原理は、聖書の礼拝の教理の本質的部分であり、その基準となる議論が示された。
しかし、まぁ、ペンテコステ派の派生形の中には問題がないものがないとは言わないが、それは時代と社会的環境の中で生み出されていき、変質していったのであり、ここまで言わないでもいいかなぁ、と思った)
未だにこのような礼拝に関する興味が続いている。伝統的アプローチの弁護する書物と学問的歴史的評価をしたD.G.ハートの本が出ている。
礼拝の規範的原理を巡る整理
2005年から今まで、告白する長老主義者という雑誌で、この礼拝の規範的原理に関する議論が続いている。保守的メインストリーム改革長老教会では、この礼拝の規範的原理の否定は続いているものの、なんとなくわかるかという程度の扱いでしかない。大きい教派の中にあって、礼拝の規範的原理は、周辺的な扱いをされていることが多い。礼拝の規範的原理は、聖書からのものというよりは、キリスト教文化の中で語られるようになっている。こういう考え方への賛同者も確かにいるが、大きな教派では公的なレベルで逆方向に向かっている。こういうことは大規模な教派群の中でのピューリタニズムの再発見が期待されるし、大きい教派群は様々な礼拝の規範的原理の動きから取り残されるかもしれない。
1)1930−40年に改革派の再発見がカルビニスムのルネサンスへとつながり、礼拝の規範的原理への関心を喚起した。
2)RPW 改革派的な重要性を主張した
3)RPWは、要素と状況が必要であり、要素を棄てるのは、もったいないという議論になり。裏口からさまざまの礼拝をするために多様な表現方法を持ち込むのはどうか、ということが議論され始めた。。
4)保守的な長老主義は、礼拝の規範的原理を信じているが、統一して何を意味するかがなく、混乱がそれで生じている。
5)リタージカルダンスのような奇妙なものが礼拝の規範的原理以外のものが持ち込まれ、正当化されている。
6)ごあのような教理を否定するものはいるし、修正主義者もいるし、フレームのように再定義する人のようなものがいる。無視する人もいる。適当に使っちゃう人もいる。グリーンビル長老主義神学校などもある。
7)歴史資料の研究の観点から考えるのと、新しいものを考える人は、ピューリタンとカルバンの間にくさびを打ち込もうとしているようなものである。ピューリタンはカルバンを否認せず、その神学基礎の上で考えている。
8)礼拝の聖書的規範原理は、組織神学の理解に依存していて、組織神学は聖書神学だけではない。
ウェストミンスター神学校は、贖いの歴史を強調し、組織神学まで弱体化させている。
9)礼拝の規範原理を拒否するものは、義認の否定などの変なことが起きる場合がある。ノーマン・シェパードはその反例であるといっている。シェパードの礼拝の教理をかたちづっくった経緯は興味深い。ジョン・フレームを見ると、神は純粋な霊である以上のことであると言っている。
10)礼拝の規範的原理に関しては、音楽という面で議論になる。音楽以外のことにも関わるが音楽論争が感情的になり過ぎており、議論の焦点があっている。
インターネット時代における礼拝議論
過去20年にわたって、ピューリタン的礼拝の関心があり、インターネット上で議論されている。同時に、対抗する考え方もあり、高踏的な教会という側面を持つ改革派的な形がある。契約の更新、ニューライフアプローチ、などに見られる現代の礼拝の例は、礼拝のもう一つの形、契約的な礼拝。保守的で福音主義的な教会は、礼拝の規範原理を固く持つ人たちを追い出すことが多いようである。長い目で見れば神の祝福を経験しないことになるのではないか。今日の教会は、コミュニケーションする機会がある。16世紀の印刷術と21世紀のインターネットが対応関係にあるだろう。印刷でのコミュニケーションより、もっと早く反応が始まるし、インターネットの各種さいやそこでの議論の深まりと共に礼拝的な規範原理は、神の手の支配の中で、広がるのではないだろうか。新しい倫理的問題、戦争、迫害、ローマカトリックの改宗政策などがある国やイスラムの台頭などがある。宗教改革時代も同じ問題に現代もなお直面している。だからこそ使徒的、預言者的礼拝に関する視野が重要なのである。教会の黄金時代がやってくる期待に心合わせている人々は、様々なものが飛び交っている現代であるとは言うものの、キリストの花嫁に捧げられる主の命令に従った自覚的礼拝がささげられる時が来ることは、極めて重要になるのではないか。
伝統的な長老主義的な聖書による規範による制限された礼拝は勝利することは確信しているが、人間の心が変容させられる時にそれは起きるのだと思う。福音そのものが勝利するのは、それが現実のものになるときであり、丁度ノアの時代のように神の支配により、全地を水が覆うようになる時現実になるのだ。
質疑応答の時間から
Q. 改革長老で、ギリシア正教やカトリックの典礼を参考にする背景にオックスフォード運動とパラレルな関係のある背景があるのではないか?
A. おそらく、19世紀のオックスフォード運動は、ロマンティシズムの背景ではないだろうか。ヨーロッパで起きたものがアメリカにも大きく影響した。当初、北側でこの種のギリシア正教やカトリックの様式を参照にする運動が、結果的に南側にやってきたと認識している。ただし、美的な点を強調するものは、聖書的なものとは逆ではないか。(この辺が、美を重視するライトとは方向性が逆なんだよねぇ。その意味で、出がらしのだしを必死になってそれを守らなければ、という感じを受けた)
Q.ロマンティシズムとヒッピー文化の改革長老派が礼拝の規範的原理への挑戦ともいえる動きにつながったのではないか。
A.恐らくその面があるだろう。それと同時に、19世紀が重要なのではないだろうか。教会の崩壊は19世紀後半にはじまり、理知的な信仰であるリベラル派との戦いとエバンジェリカルの中にからはじまった。19世紀にはじまり20世紀に広がった。モダニスト対ファンダメンタルズの戦いのなかで、教派の境界が緩まった。その結果、教理の特徴点を軽視する傾向がある。包括的なリベラルとの戦いの中で、独自性を保つのは、知的なトレーニングが必要。
JGVossはその中で、信仰における基本線がどこにあるのかを示した。
ミーちゃんはーちゃん的感想
まぁ、今回の講演者の方は、非常に保守的な無楽器的なアカペラによる詩篇歌とピューリタン的な礼拝にこだわりがあるんだなぁということはわかった。現代人をどお酒用が何だろうが、この幅にはまる人だけ、どうぞ、って感じもしたなぁ。まぁ、相対化し、多様なキリスト教の概念がある中でも、自分たちのスタイルを守られたいのは、よくわかったので、どうぞ、その方針を今後とも堅持しつつ、多様なキリスト教の伝統の一角を極めて明確に保持していっていただけたら、と思う。
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