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2015.06.17 Wednesday

工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その1

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      よい本が多過ぎて、紹介したいのに、なかなかすすめられなかった本の一つが、本日ご紹介する本である。この書の冒頭部分にある記述が衝撃的であった。
    信仰者の善意とも思える言動が、まかり間違えば一つの暴力ともなることを教える話である。(『真実の福音を求めて』 p.11)
    具体的には本書を読んでもらいたいのだが、末期がん患者さんに対する教会の次のような態度である。
     この人を最も苦しめたのは教会の人々の祈り、またその熱心さであった。癒しを強調するその教会は、病や問題を抱えた人々のため日夜祈ることを以て隣人愛の表れとしていたから、朝に優に、その人のためのとりなしが教会全体の大きなテーマであったという。(中略)しかし、病状は人々の祈りとは裏腹に信仰悪化の一途をたどっていった。
     その人は私に言った。
     「先生、私は教会員の電話も、また教会に行くのも怖いのです。いや、怖くなってきたのです。特に牧師夫人の一言が…。」
     聞けばその内容は次のようなことだという。はじめは病のみならずその人の生活全般へのとりなしの祈りであったから、その人は人々の善意で孤立感から救われ、祈りの結果としての快癒を願っていた。ところが、病気が望ましくない方向に変わると、案の定、病気が回復しないのは祈りが足らないのではないか、信仰が足りないのではないか、という東夷詮索、叱責に変わり始めたという。
     (中略)事態が思うようにいかなくなると、ついにそのやるせなさを本人(病人)の方にもっていくのが常だからである。そしてその苛立ちは、この人にはもっと深い画された罪がまだあるのではないか、何か本人にかけがあるのではないかなどという怒りの反転ともいえる現象に発展する。(同書 pp.12-13)
     何、教会が悪意でしてこういうことになるのではなくて、善意の行き着いた先にこうなるのがかなわないのである。そして、人を遠ざけてしまうのである。自分たちがこれだけ祈ったら聞かれるはず、という思い込みがあるがゆえに、それが聞かれないときにおいて、「自分たちが祈っても聞かれないのは、病人が悪いからだ、問題があるからだ」という問題のすり替えをしてしまうのである。

     聖書は祈れとは書いてあるが、祈ったら聞かれるとも書いてない。まぁ、「もとめなさい。そうすれば与えられます」とは書いてあるが、「求めなさい、そうすれば、あなたが願った通りにそのものが確実に与えられます」とは書いていないような気がするなぁ。

     こういう思い込みによる聖書のことばへの手前勝手な思い込みの挿入ってのは案外多いかもしれない。そして、まず最初に何をもとめるのか、ということを忘れているのである。

     聖書は病気を治すことを求めよ、と書いているのではなくて、「神の国とその義をまず第1に求めよ」と書いているのではないだろうか。「その義」に関しては、「クリスチャンであること」の冒頭3章位をご覧いただくとよいのではないか。

    「一般化の危険」について

     一般化というのは、近代が生んだ最悪の病であると、個人的に思っている。要するに一般化とは、詳細な検討もなしに、みんな同じだ、と平均値に収束させてしまうことである。平均値とは、一種の多様性あるものの代表値であり、個別そのものでないことは、もう少し認識されてよい、と思っている。
     私たちは何か自分が特別な体験をすると、つい一般化してしまう弱さを持っている。(中略)
    しかし、一人ひとりの生がみな異なるように、神のお取り扱いもみな異なるというのが実際だろう。
     また、信仰の体験談は励ましとなると同時に、つまずきにもなりうると言う現実がある。恵みの体験も使い方(表現)を間違えたら、人との断絶を作りかねない。
     例えば、一生懸命神の恵みを証ししているようでいて、いつの間にかそれが自分の自慢話をしていることが少なくないし、(中略)私たちはその優越感がつまずきの石になっていることに案外気が付かないものである。(pp.14−15)
     しかし、この一般化というのは、実に社会のあちこちに潜んでいる。「すべからく子供というものは、給食を喜ぶものだ」とか、「子供が音楽を奏でれば、それは喜ばしいものだ」とか、「いつまでも若いことが望ましい」とか、もう無茶な一般化が学校や社会でまかり通っている。そして、それが人を苦しめているのではないか。どんなにある子どもにとってひどい味だと思える給食やアレルギーや豚肉やエビに対する宗教的禁忌に関係なく食べさせる。ろくでもないことである。そんなもの喜んで食べられるはずがないではないか。それを喜んで食べろなどとは、もはや、罰ゲーム、ハラスメントである。そのようなハラスメントは、日本だけでなく欧米各国で起きた。その行き着いた先が、アウシュビッツではないか、と思っている。

     ドイツのユダヤ人迫害は、ドイツ民族は優秀であるべきであるという一般化と、キリスト教的な信仰の表明から出たことは忘れてはならない。

     しかし、本人は超真面目に証しているつもりでも、全く証になっていない事例には、過去何度か遭遇したことがあるし単に自慢話や見せびらかし、ひどい場合は、研究ごっこのような話を信徒大会というか、修養会でした巡回説教者に出会ったことがある。しょうがないなぁ、と思っていたが、まぁ、それは、人間が罪あるものである故のことであろう、と思っている。

    迷うことや疑問

     迷うことや質問を持つことは案外大事であり、とりあえず、現実的な問題に直面する中で、疑問を持っていく中で多様な神学がこれまで歴史的に形成されてしてきたことは、案外知られていない。
     前著『信仰による人間疎外』によって「信仰生活が楽になりました」という人たちが一番多く反応を示したのは、「健全な信仰は多分に、健全な不信仰を含む」という一文である。(中略)そういう反応を示した人たちの多くが、迷うこと、悩むこと、疑うことは不信仰のしるしででもあるかのように思い込まされていたからである。(同書 p.17)
     この迷いのない、決断主義というのか、陰のなさというのは、どうしたものか、と思う。まぁ、その辺が反知性主義が現象面で現れると、『迷うこと、悩むこと、疑うことは不信仰のしるしででもあるかのように思い込まされて』いるということに現われるのかもしれない。このことは、信徒だけではないらしい。まぁ、牧会者たちも信者でもあるのだから、ある面当然といえば当然であるが。
     このことに関するある牧師の反応が面白い。
     しかし、いったん信仰を持ってしまうと、私たち教会人の間には、『疑ってはならない』、『信じなければだめだ』という思いが強く、よい疑問を生み出す心が失われるのではないでしょうか。
     疑問に思うことがよく考えていることの裏返しであるとするなら、単純に疑うことは不信仰、というような発想は信仰の広がりを阻害する要因ではないでしょうか。(同書 p.21)
     じつは、こういう信仰の広がりが、実は神学を形成してきたことをご存じないということから来ているのかもしれない。しかし、それを口にできない教会というのは、どうなんだろうか、とも思う。まぁ、教会が大きくても、小さくても、こういうことは割と起きているようである。

     明石で実施しているナウエン研究会では、まぁ、教会でない、他教派から来ておられる、信仰のバックグラウンドが多様な方が来られるので、結構、びっくりするような根源的な質問が寄せられて、こちらがびっくりするとともに、案外聖書の内容が誤解されて語られていることが言語化されるシーンに出会うので、非常に面白いが、それと同時に深刻さを感じる。

    いまさら質問箱が必要

     ところで、先に紹介した工藤先生の本に反応を寄せられた牧師の方がされたことが面白い。「いまさら質問箱」という取り組みをされたようである。 
     「いまさら質問箱」とは面白い発想である。というのは、私たちの中にはこの牧師が言うように一度教会員になってしまうと、素朴で単純な疑問が浮上しても、今更そんな初歩的なことを人前にさらすのを恥じる思いがあるからである。
     (中略)
     「人を怖れずに、それら(引用者註 疑問)を分かち合う友を作り、大切にしよう」という発想も、何か人を安心させる。わかるということは、何がわかっていなかったかということを明らかにする心の作業でもあることを考えると、新しい疑問の中に信仰の深化があるともいえるからである。
     (同書 pp.23〜24)
     この部分を読みながら、案外日本の教会は宣教地の教会としての使命が重すぎ、何が何でも伝道しなければ、ということに凝り固まってしまっていて、疑問を分かち合い、わかったことを考えるということは、牧師先生や神学者の人の頭の中だけの問題になってしまい、それを咀嚼した結果を食中毒や食あたりを起こしながら、そんなものだと思って食べているという実情があるのかもしれない。個人レベルでの新しい素朴な疑問の中に、案外重要な信仰の深化、それは個人のものであるかもしれないが、案外、牧会社の頭の中を、神学者の頭の中を揺るがしかねない重大なものが含まれてしまっているという可能性を忘れてはいないだろうか。

     ただ個人だけで独立して考えていると、いくつか問題が生じる可能性が高い。というのは、伝統や共同体に支えられない聖書理解は独善になりやすく、結局寺社や文化財への油脂噴霧事案のような突飛な残念な理解に行っても歯止めがかからないからである。

    第2章 新たな律法主義の台頭から

     工藤先生は面白いことを言っておらえる。社会のある傾向である。
     私の個人的な経験を言うと、私たちの現実においてはその生活の大半が”ねば志向”に支配され、”ねば志向”で営まれているために、それが信仰生活にも持ち込まれている危険性に人は案外気づいていないのではないか、ということである。ところが、この断想(藤木・工藤著 『福音は届いていますか』ヨルダン社 p.62)は、真面目さが人生の、また信仰生活の勘違いを招くというのである。 (同書 p.25)
     この”ねば志向”も、個人的には近代という時代が生まれたものではないか、と考えている。”ねばよ〜”とか”ねば”としょっちゅううるさい「ねばーる君」ではないが、近代は、すべての人が真面目に、同じように行動することが求められた時代でもある。そのことは、モダンタイムスで、チャールズ・チャップリンが極めて先鋭的に切り取ったものである。


    チャールズ・チャップリンのモダンタイムスの予告編
     
    ねばーる君
     
     工藤先生は、「真面目さが人生の、また信仰生活の勘違いを招く」とまでご指摘である。現在のキリスト教界の一部は、この真面目さのトラップに引っかかっており、延々と「勘違い」をし続けているのかもしれない。真面目さが社会の基礎概念の割と評価の大きな柱の一つである日本社会では、この真面目さに基づく信仰生活の勘違いの場で現れやすい、というのはあるかもしれない。社会全体がそもそも真面目に生きることをよしとするがあまり、このような勘違いの影響は大きいかもしれない。

    宗教と脅し

     ところで、カトリック信者の大半が未成熟な人が多いことに心痛めた司祭がトゥルニエを尋ねたときのことを次のように書いている。
     トゥルニエの答えは「プロテスタントも同様で、過半数は正規なく物悲しげで打ちひしがれている」というものであた。そしてトゥルニエは、その原因は聖書にあるのではなく、宗教家が間違った理由で人々を脅したところにあると指摘する。その脅しとは、いま私が述べた道徳主義のことである。(同書 p.26)
     道徳主義的な脅しの問題は、実は、19世紀から20世紀前半に世界中を跳梁跋扈した禁酒法時代と案外深いかかわりがあるのではないか、と思う。もちろん、パウロは道徳は無視してよいなどとは書いていないし、道徳は尊重されるべし、とは書いているが、神格化すべしとまで書いていないのではないか、と思う。

     明治期において、妾問題、あるいは売買春問題が大幅に改善することに、キリスト教的な道徳や婚姻概念や女性解放運動に関しては、確かに非常に大きな役割を果たした。しかし、とはいっても依然として、疑似売買春もどきのAKB48総選挙が社会でもてはやされ、一方で所謂売春宿は相も変わらず亡くならないという事実、不倫は公然と横行しなくなったものの、それが横行していることは、藝能欄が教えてくれる。あれが特殊な社会のものだから記事になるのではなく、普通の人との共通性が感じられるから売れるのではないだろうか。

     それはさておき、行き過ぎた道徳主義とでもいうべき、ある狭い枠の中でしか人々を生きることを強いるような宗教家の間違いや、それに基づく脅しが、人々を苦しめ、キリスト教に失望させ、ナザレのイエスは魅力的だが、キリスト教は嫌い、という人々を大量に生んできたのではないだろうか。

     ある所で、クリスマスメッセージを語った後、後かたずけをしながら、ある女性信徒の方が、得々と、「今日は神の裁きまで語れたわ」とおっしゃったことがある。個人的には絶望を感じた。神の愛を語り、神の招きを語り、神の愛をコンパクトにまとめて、まだナザレのイエスをご存じない方にお話しした直後に、このご発言である。この方にとっては、私の話は、神の愛ばかりを語りすぎ、神の義が欠けていた、ということなのだろう。それはそうかもしれない。愛の反面としてではなく、もし、人への裁きだけが語られたのだとしたら、と考えると恐ろしい。

     誰も、怖い、恐ろしいイエスには寄っていかないにもかかわらず、神の裁きを語られてそのような神の印象だけが残っているとしたら、とこの時のクリスマス会の時のことを考えると、今なお絶望的な痛みを感じている。

     確かに、ジョナサン・エドワーズ先輩は、神の怒りを語った。しかし、そのコンテキストは、キリストの愛に甘え、いい加減になっていく、神の愛をある程度熟知している人々に対してであったはずであるが、それでも、彼の説教で、気絶するもの、自殺するものが量産されたのである。それを神の愛を六すっぽ知らない人々に言う意味がいかほどのものであろうか、と思うときに、パターンにはまった聖書理解の伝達の恐ろしさを今なお思い出す。

    脅しの恐ろしさ

     工藤信夫さんは次のようにも書く。
     ここで、私は改めて思うことが一つある。それは脅しの恐ろしさである。(中略)それだけ問題を感じるなら、その教会に行くのをやめ、別の教会に移ったらよさそうに思ったものだが、ほとんどの人はなかなかそうはしなかった。(中略)そのことの背後に、教会を離れたら神の裁きに合う、罰を受けるという罪責感があるらしいということであった。(同書 p.28)
     こういう、最初に出会った教会を離れると神の裁きに合うという理解は案外多いかもしれない。本当はそうでないにもかかわらず、こういう現象は日本でかなり見られるようである。まぁ、日本の牧師先生クラスタでも、他教派のことはあまりご存じない先生方が結構おられることに驚くし、まぁ、特定の教会の牧師をしておられたら、自分のところからいなくなられると、結構それはそれで経済的にしんどいし、教派内で、いろいろ言われることにつながるらしいので、信徒を死守したい気持ちがあるが、あわない人々を強制的にそこにとどめる意味というのはないなぁ、と思う。

     ちょうど、カルト問題を考えていたころ、京都におられる村上さんという方の教会で開催されたカルト問題の私的研究会にお邪魔した時のことを思い出す。そこで聞いた話であるが、結局カルトは、この枠組みの内部は安全であるが、この枠組みから外れると、そこには悪魔が跳梁跋扈し、悪が渦巻く世界であるといって、カルト教会の枠内にとどめようとするということがあるらしい。そのことはそうであろうと思う。

     この背景には、日本の聖書学校や神学校と呼ばれるところで、神学的な系譜をたどる歴史神学が軽視されていることがあるかもしれない。歴史神学を少しでも考えてみるとき、歴史的な神学の発展史を振り返ることなので、その多様性と幅広がりを味わうことができるはずなのだが、伝道だけを考え、そのための促成栽培的な教育をしている場合においては、このあたりの本来のキリスト教の豊かさ、幅の広さ、奥行き、あるいは懐の広さのようなものが失われてしまうかもしれない。

    神の座を占める道徳

     道徳が神の座を占めることに関しては、このブログのいくつかの記事で示してきたが、そのことに関して、工藤さんは次のように言う。
     こうして人にはいつしか、宗教と道徳主義を同列においていることに気づかないという悲劇が起こる。しかし私が注目したいのは、道徳主義の決定的欠陥は、すぐさまそれがさばきの精神に結びつっくということである。自分を責め、そして人を責める。そのうえ、人間はすぐ自分を絶対化しやすく、他の人ととの比較においてその優劣を競う決定的な弱さを抱えた存在である。そして道徳主義の中心は神ではなくて人間主義であるから、ことはさらにややこしくなる。(同書 p.29)
     確かに、道徳主義は実は、神中心的な顔をしながら、工藤さんが言うように、人間主義、人間中心主義という偶像崇拝なのではないか、と思う。キリスト教の皮を被った、偶像崇拝なのである。イエスがパリサイ派の律法学者や、サドカイ派の律法学者を厳しく叱責し、批判したのは、神のことだと言いながら、神から人を遠ざけた、そのことではなかったか。ユダヤの神は豊かに愛し、豊かに許したもうたことを人々の目から隠しつつ、人々に表面的な律法の文言の順守を迫ったことにあったのではないか。そして、結果として、本質的な神との交わりからの排除を果たしたことを批判されたのではなかったか。

     地理情報学でよく知られていることの中に、国民性による形の取り方の違いというのがある。ある地形の形を計算機上で下にひいた航空写真をもとに図形を製作することを日本人などアジア系の人々に依頼し、その面積を測定すると、平均値としては実面積より小さな図形の面積になる傾向があることが知られている。つまり、日本人を中心とするアジア人に依頼すると、線の内側で形の内側をとるということが意図的に行われるために、面積がやや小さめに出やすい傾向があるようなのである。ところが、アメリカ人にそれをさせると、平均値は、実面積に近づく傾向があるらしい。

     この結果を受けて、私の指導教員のお一人の方は幼稚園以来、塗り絵をするときにも線をはみ出さないように教える日本の教育に由来するのではないか、ということをおっしゃっておられたが、個人的には、これは北斎漫画など、浮世絵版画の影響だと思っている。

     であるからこそ、日本は世界に誇るアニメ大国になれたのだと思う。線を超えないで色塗りしてくれるので、工数が格段に減るからである。


    北斎漫画

    よいこクリスチャンと教会

     よいこといっても、この方々ではない。

    よゐこ

    あるいはこの雑誌でもない。

    ミーハー氏が生まれたころのよいこ
    (オリンピックアスリートが着ていた制服もどきのデザイン)

     要するによい子とは、大人の道徳律に疑問も先挟まず、それに対して挑発的な態度もとらず、素直に見える人物である。それは抑圧につながるのではないか、と工藤先生はご指摘である。
     さて、教会における道徳主義の強調は、臨床的に言えば”よい子づくり”を起想させる。先ほどのトゥルニエの表現によれば、お行儀のよい子である。ところが、精神科臨床でも、よいこは後々多くの問題を引き起こすことが広く知られている。(同書p.30)
     これについてあまり意識することはなかったが、先にあげた小学館の現在は統廃合されて幼稚園になった雑誌のよいこというタイトルがあらわすように、基本的には、ある種の日本の親にとっての理想形であったわけである。

     日本は、あまりに、育てやすい「よいこ」ばかりに目が行き、本来的な人間の姿ばかりに目が行かない側面があると思う。また、日本のキリスト教が明治期以降、幅広く、西洋倫理、ないし西洋道徳であると伝道の方便として用いられてきたために、結果として、キリスト教の新鮮さ、キリスト教としての感情の重要性を失っていたような気がしなくもない。残念なことではあるが。そこらのことに関して、工藤さんは次のようにお書きである。
     果たしてキリスト教の目標は、よい子づくりなのだろうか。あるいはまた、私がこれから考えようとしている放蕩息子の兄のように、いつも父の家にいて一見何ももめ事を起こさない人物を作り出すことにあるのだろうか。(同書 p.31)
     教会でも、問題行動を起こした起こしたということで、すぐに陪餐停止とする教会もないわけではないと聞く。また、教会出席をさぼると、すぐ電話がかかってくるというような教会もあるやに時に聞く。教会は学校や会社のような合目的的組織だろうか、と最近はふと考えることも多い。教会が、伝道を主にした共同体であれば、それは合目的的な組織となりうる。日本では教会が、そのような合目的的組織に成り下がっているのかもしれない。

    キリスト教世界の見落とし

     工藤さんは、教会が問題を抱える背景に、本来の人間理解に関して見落としてきたものがあるのではないか、ということに関して次のようにお書きである。
     こうした問題の根底には、私たちがそれを良しとし、また良しとされてきたキリスト教理解に多くの見落としがあったのではないかということである。(中略)人間側の問題、たとえて言えば聖書理解の浅さ、狭さ、偏り、あるいは教会という組織、集まりそのものが持つ構造と限界、またそこに集い、参加する人々の様々な不適際がこうした病理現象を生じさせているのではないかということである。
     そして、これらの悲劇に加担する決定的な要素は、自分の犯している精神的暴力に一向に気づこうとしない自己義認、あるいは日に気づけない感性の鈍さ、自己正当化、人間の絶対化という高慢さにある。(同書 p.31)
     本日紹介したN.T.ライト先輩の『クリスチャンであるとは』の紹介記事ではないが、本来、神から共同体を形成することに招かれていながらも、その共同体を自らの精神的暴力性(これは罪の結果であると思うが)で内部から崩壊させていき、そして、自己正当化、人間の絶対化という偶像崇拝に走るのである。

     つい最近、香ばしい話題を提供していただいた、日本国内の寺社や城郭などに油撒きしておられたキリスト教関連団体の代表の方の、根源的問題も、この自らの精神的暴力性、自己正当化、人間の絶対化があるのではないか、と思っている。これに関しては、村上密さんが次のブログ記事「奇妙な儀式」で、その問題をご指摘である。詳細は、ブログ記事をご覧いただきたい。

     また、I do not know who I amのブログでは、似たような事例が【体験談】弟子訓練って牧師にいいように使われるってことでしょ で取り上げられていた。実に悲惨な「弟子訓練」を経験された「たけのこ」さんのお会いになった、教会の自己正当化、人間の絶対化の結果の精神的暴力性の悲惨な結果が、紹介されていた。残念なことだるが、これもまた、現在の日本の教会の姿ではある。わが身の反省として、この問題をとらえていく必要があるなぁ、と思う。

     次回放蕩息子の兄について



    評価:
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    コメント:絶賛おすすめ中である。

    評価:
    工藤 信夫
    いのちのことば社
    ¥ 1,188
    (1993-07)
    コメント:10年以上たっても、その重要性は失われていないあたりが。

    評価:
    Alister E. McGrath
    IVP Books
    ¥ 1,412
    (2007-01-30)
    コメント:日本語訳がほしい気がする。

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