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2015.06.15 Monday

NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その5

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     今日も、N.T.ライト関連の新刊『クリスチャンであるとは』ということを紹介したい。今日からは2章から紹介したい。

     今回もまた、すごいのである。

    霊的な渇きの源は?
     前回も、現代社会は、霊性を求めていることが、社会の様々な断面から見られることをご紹介した。なぜ、人々が、そういう霊性を求めるのか、というあたりのことをクリスチャンから見れば、どう説明できるのか、ということに関してライト先輩はこう書いておられる。

     霊的なことに対する新たな関心の高まりについて、クリスチャンの説明は至極まっとうなものである。もし、クリスチャンの語っていることが実際に本当なら(言い換えるなら、イエスのうちに最も明確に知ることができるような神がいるとするなら)、人々が霊的なことに関心を示すのは当然である。というのは、イエスのうちにこそ、人々を愛し、その愛を知らせ、その愛に人々が応えるのを願う神を見るからである。(クリスチャンであるとは p.40)
     これは、キリスト教世界(クリステンドム)を経験したことのある国の人々に対しては有効だろうけれども、このあたりが、キリスト教世界を経験したことがない人々にはつらいだろう。確かに、霊的なことに関する関心の高まりはわかる。であるが、それから直接

    もし、クリスチャンの語っていることが実際に本当なら、人々が霊的なことに関心を示すのは当然である。
    とはダイレクトにいかないところが、日本固有の部分である。では、これをどう説明するのか。なぜならば、
    イエスのうちにこそ、人々を愛し、その愛を知らせ、その愛に人々が応えるのを願う神を見るからである。
    という点で、納得がいかないからである。

    日本の霊性と聖書の霊性

     多くの日本の方でも、霊性があることはおそらく素直にお認めになる。しかし、多くの場合、日本では、それが幽霊の話や、先祖霊の話、森にこだまするアニミズム的な自然神信仰には素直に行けても、それがキリスト教の神やイエスと直接つながらないことなのである。そして、いきなり、「いやいや、そもそも、聖書の言う神は、多くの八百八万の神々の一柱で…」と結局知られぬ神に、といってしまうか、自分とは関係のない西洋倫理や西洋道徳の中にジャンル分け、ないし、位打ち、棚上げをされてしまい、その段階でイエスや神へのシャッターが閉じてしまうのである。なぜ、そのイエスという10の100乗以上分の1の神を選択的に選び、それだけを神なのだなぁ、とする、というところに行けないのである。

     キリスト者の側でも、「いやいや、キリスト教は日本に重要な影響を与えていて、実は神道はヘブライ的な由来を持つのではあるまいか」と日猶同祖論を言い始めた利してきてしまったのである。この道は、ショートカットではあるけれども、ショートカットにはコストが伴うことを我々は覚悟すべきである。日ユ同祖論のショートカットに伴うコストは、結果的に八百万の自然神の一つにしてしまい、選択的にこれしかない、ということなのではないだろうか。そして、イエスがこの地上に来た、復活したというその驚くべき奇跡の意味をブッ飛ばしてしまうからである。そして、挙句の果てに、麻原”尊師”が復活のキリストだ、という珍節・奇説の類まで出てきてしまうのだ。


    オウムが過去に出版した麻原キリスト説関連本

    近代の中における霊性

     では、どうこのイエスを霊性とのかかわりで紹介するか、ということを考えてみると案外難しい。こっち側からの日本の多くの方々への弁証というのは、かえって逆効果のような気がして仕方がない。霊性から説明しても、そことイエスを直結するのではなく、そういう世界が存在するかもね、それは無視できないかも、近代的な思想性の合理性ですべてが説明されつくされえない部分があるのではないか、という指摘にとどめるべきではないかなぁ、と思う。むしろ、以下のライト先輩のご指摘の部分の方が、部分の方が、まだ妥当性というか、是認性を持つような気がする。
    クリスチャンの物語の重要な部分は、ユダヤ教徒とイスラム教徒の物語もそうだが、人類が悪によってあまりにもひどく傷ついているため、そこで必要になるのは単によりよい自己理解やより整った社会を実現することではなく、まさに救出、しかも自分以外のところから来る助けによる、ということにある。霊的生活でを追求する中で多くの人は、自分にとって真に最善なものよりも劣ったもの(ここではそれ以上強い言い方を控えるが)を選択してしまうことを予期すべきである。長い間渇いてきた人は、どんなものでも飲み込んでしまう。たとえ汚染されていても飲んでしまう。(中略)こうして「霊的なもの」それ自体が、問題解決の一部であると同時に問題の一部になってしまうことがある。(同書 p.41)
     オウム真理教にしても、その他のものにしても、よいものを求めて始まり、問題解決の一部を提供しようとして始まったのだが、結果としてとんでもない大問題になってしまたのだ。この辺の残念さ、を基礎に、なぜ、キリスト教が提供しようとしている義が大事なのか、ということを語る方が、理解が進むという意味で、まだ妥当なのではないか、と思う。
     霊性の影響というものはすさまじいものがある。そのことに関して、ライト先輩は次のようにお書きである。
    ある強硬な懐疑論者は、彼らの言う宗教的狂信者―自爆テロ犯、終末論的夢想家、さらにその類の人たち―が与えたダメージを見て、すべての宗教は神経症のようなものだとして、あまり深入りしないか無条件に禁止するか、あるいは個人の範疇に収めることに同意した大人だけに制限した方がよいと。 (同書 p.42)
     わが国では、バブル崩壊後の新新宗教ブーム(この時に、足裏診断で有名になった某集団や、未だに霊言と称するものをまき散らしておられ、大学を設立しそこない、選挙では落選し続けつつも、なお選挙に出ておられるエルカンターレ総裁様の集団などなど、まぁ、雨後のの竹の子のように現れ)があり、1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件など、それ以降、日本においては宗教に対する否定的な見解が高まったあまり、大人ですらそういうことを口にすることが憚られ、個人の霊性みたいなものが、はけ口を失い、それが、一種テレビ放送などといういったんテレビ放送局という形でオーソライズされ、サニタライズされた形で、安心してみていられる安易な霊性に走ったような気がする。それがいかに真の霊性でないにしても。

     テレビは安易に面白コンテンツを求めているだけ、なのではある。とはいえ、ぶっちゃけ寺のゴールデン枠への移行のように、ある面で、他の消費可能であったものを消費しきってしまった結果、霊性に手を出した、という部分はあるような気がする。まぁ、霊性への関心の高まりの反映という側面もあるだろうけれども。それはそれで、重要だと思うけど。

     日本社会では、宗教は「アブナ オモシロイ」分類の中に入れられてしまい、霊性の声はぶっ飛んでいるものの、東日本大震災が突き付けたあのような悲惨にどう向かい合うべきか、ということを考える中で、臨床宗教師などの動きもみられるようにはなり始めているが、まだまだ、その取り組みは始まったばかりであると思われる。




    霊的なことと真理と…


     現在のポストモダンな環境の中では、相対主義が幅を利かせる。そして、相対主義は一つであることを極端に嫌う。真理というか事実というか、真実というか、それは相対的なものだ、ということにしてしまう部分は確かにある。そのあたりのことに対して、ライト先輩は次のように書いておられる。
     懐疑論者が用いる一般的な戦術は、相対主義である。私は今でもありありと覚えているが、学友とクリスチャンの信仰について語り合っていた時、会話の最後で、彼は大げさにこういった。「それはあなたにとって明らかに真理であっても、他の人にとって真理であるとは限らない。」
     「あなたにとってそれは真理だ」とは、それなりに良く聞こえ、寛容なように思われる。しかし、それが成り立つのは、「真理」という意味を捻じ曲げているからである。すなわち、「現実世界における物事の真実の姿」という意味ではなく、「あなたのなかで起こっている確かなこと」という意味なのである。
     実際そういう意味で「それはあなたにとっては真理だ」といわれることは、「それはあなたにとって真理ではない」といわれるのと大差ない。なぜなら問題の「それ」、つまり霊的な意味や気づきや経験が、大変強力なメッセージ(神の愛が存在すること)を伝えているのに、それを耳にした人がほかの別なものやそう強く感じても、それはあなたの誤解だとする)に変換してしまうのである。それに他の幾つかの意味合いを加えて、「真理」という考え方自体が今の世界ではかなり問題があると思わせる。(同書 pp.43−44)
     ここで「真理」と訳されている語は、trueという言葉であり、事実とか本当だ、いう意味をもつ言葉でもある。現代のように、多元的な視点が重視される社会において、このような真実性、真理性を担保するためには、公共圏と呼ばれる多元的言論空間での公共的討議において間主観的な対話の結果生まれた共通認識が真理とされることになる。基本的に現代の学問体系が論文なり学会なりでの対話を中心として、生み出され、修正されつつ、共通認識となるという手順が取られ、個人が、これが事実だ、とか、これが真理だ、とかいう一方的な個人の主観に基づくだけの物言いは、真理性を相互認証と合意が存立していないという点で、課題があることになる。そんなめんどくさいことを言わなくても、という話はあるかもしれないが、そのめんどくさいをことを経て、真実の純度を上げていくというのが学問というプロセスなのであって、自分がこう思うから真実だ、というのは、『学問ごっこ』と揶揄されることになる。

     実は、ここで挙げられている懐疑論者の論法、「それはあなたにとって明らかに真理であっても、他の人にとって真理であるとは限らない。」にはいくつか問題がある。これは、あくまで半分、近代の均質性で同一性が担保されている、ということに対する前提を批判的に取り扱っているようで、実は、真実(trueであるので、事実)ということの均質性や普遍性に議論が大きく依拠しているからである。何より最大の問題は、この懐疑論者が、「それはあなたにとって明らかに真理であっても、他の人にとって真理であるとは限らない。」ということであるが、この場合、この懐疑論者の人は、こういうことを言っていることで、対話を結果的に拒否してしまっているのだ。

     確かに、ある人にとっての観察結果は、ある人にとっての観察結果である主観的なものではあり、その事実性ということの確認は、近代科学の社会の中においては、間主観的対話を通して、間主観的に認証されてはじめて、事実性が確実なものとなるのであり、そのための公共圏が必要だということをユルゲンハーバマスは主張した。公共圏におけるコミュニケーション理論である。

     しかし、この懐疑論者のような立場に立たれると、そもそも、公共圏自体がこのような立場の人々と形成するのは極めて困難であり、対話の糸口すら形成されないことになる。となれば、間主観的(客観的)事実認定ができなくなるのだ。

     後、この懐疑論者の論法の問題は、メタ思考的に考えてみれば、この事実の背後に近代的な均質性の概念が潜んでいるということであり、真の意味で、ポストモダンでないという点である。もし、真の意味でのポストモダンを考えるならば、そもそも論として、「ほかの人にとって真実でない」と主張したとしても、そのことにすら信実であるとする必然性はないことになるからである。案外、このあたりのことは公共圏の形成において、何らかの共通性というか公共性が求められるということを意味しているように思えてならない。

     まあ、まだまだないわけではないが、こまかいことを言っていてもしょうがないので、この辺にしておく。

    NTライトのユーモア
     ライトは、非常にユーモア感覚に富んだ人である。例えば、それは次のような表現に見られる。上の部分の最後辺りで公共圏に関してグダグダ書いたようなことを、

     そういう意味で「それはあなたにとっては真理だ」といわれることは、「それはあなたにとって真理ではない」といわれるのと大差ない。

    と指摘しているあたりは非常に面白い。 この辺がライトのユーモアであり、英国人らしい、ちょっとブラックなものが聞いたユーモアだなぁ、と思う。

    街角の霊性

     ここで、懐疑論者が、「あなたにとって真実かもしれない」という反論から、出発できることをライトは次のように書く。レトリカルにややこしいので、分かりにくいかもしれないが、恐らくはこんな意味だろう。
     懐疑論者の反論自体がこの種の問題の突破口になる。それに気づけば、私たちは振出しに戻ってくることができる。つまりは、人間のあらゆる経験の中で様々な形において報告される広範囲の霊的なものへの渇きは、目に見えないにしても、角を曲がったすぐ先にある何かをさししめす真の指標かもしれない、という可能性である。それは、あの声の響きであるかもしれない。(同書 p.44)
     つまりは、彼自身であって、真実(個人的な真実、あるいは個人的な事実)としては、懐疑論者は認めているのである。そのこと自体は、懐疑論者としても否定しえないのである。なぜならば、霊的な事柄を経験した、という個人的主観的観測自体は、基本的に排除され得ないし、排除した瞬間にポストモダン社会のとしての基盤となるべき概念構成が崩れてしまうからであり、そうなると、一切の公共的討論が無効になるからである。
     少なくとも、個人的に「何らかのことを感じた」ということは重要であり、そのことの上に立つことができるのではないか、ということをライト先輩はご主張である。このご主張は案外大事で、実は我々があまりに既存の概念構成にこだわりすぎていて、日常的にひそむ霊性(お化けと賀屋水子供養とか、日本の場合恐怖を語るそういう世界に入りやすいけど)、本来的な人間の形であり、体、魂、霊、こころ、思索、という分野に関してあまりに無頓着だということを示しているのかもしれない。このあたりのことをきちんと考えた方がいいかもしれない。このあたりに関しては、ちょっと難しいという噂のあるダラス・ウィラードの『こころの刷新を求めて』をご参考いただきたい。個人的には、読みにくいとは思わないが、案外、読みにくい(読む気がないための口実だとは思うが)という方が多いので、少し驚いている。大事な内容を扱っているので、ご一読をお勧めしたい。

     ご注文は、ライト先輩の『クリスチャンであるとは』の本とぜひご一緒にあめんどうブックスでご注文をば。





    評価:
    ダラス・ウィラード
    あめんどう
    ¥ 2,592
    (2010-03-30)
    コメント:内容が充実しているが、訳は非常に読みやすい。おすすめの1冊である。

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