<< NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その2 | main | ざっくりわかる出張Ministry神学講座 in Osakaに行ってきた その1 >>
2015.06.10 Wednesday

NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その3

0
     
    Pocket

     今日も、N.T.ライト関連の新刊『クリスチャンであるとは』ということを紹介したい。引き続き、1章から紹介したい。義を追い求めているキリスト者の姿(義を慕うクリスチャン)の記述の続きからである。

    クリスチャンの黒歴史

     義を慕うクリスチャン の中では、次のような表現が冒頭に見られる。

     「イエスに従う者たちはそんなに進歩しなかったではないか。十字軍のことはどうか。スペインでの異端審問のことはどうか。教会も不正に加担したことがあったではないか。中絶クリニックに爆弾を仕掛けた人たちはどうか。ハルマゲドンの時がすぐに来るので、それまでに地球が破壊されてもかまわないと思っている原理主義者はどうか。クリスチャンは解決をもたらすというより、問題の一部を担っているのではないか。」
     その通りだともいえるし、そうでないとも言える。そのとおりと言ったのは、イエスの名を使ってひどいことをする人たちは、初めから常にいた。また、それをイエスが許していないと知っていながら、しかもひどいことだと分かっていながら、なお行っているクリスチャンもいた。そうした事実がいかに深いであろうと、それを隠す必要はない。
     また、そのとおりでもないといったのは、あるクリスチャンたちが、神は自分たちの側にいると主張したとしても、彼らの働いた悪事を見れば、キリスト教とは何であるかについて、彼らが全く思い違いをしていることがわかるからだ。(中略)イエスに従う者たちは常に正しいという考え方はキリスト教信仰には含まれない。弟子たちに祈りを教えたとき、神に赦しを求める一説を含めたのは、イエス自身だった。(クリスチャンであるとは pp.24−25)
     日本にいると、過去のキリスト教とが起こした様々な悲惨な出来事が持ち出され、それがキリスト教とキリスト教徒の問題であり、半面、日本の仏教や神道のような伝統宗教にはそのようなものがない実に平和な宗教や信仰であるとか、わけわからない、過去の歴史をガン無視したような問題を突きつけられることが結構あり、回答に窮することに直面した方もおありであろう。

     しかし、タイやミャンマーの間では、仏教徒同志が血で血を争う戦争をしてきたし、現在でも様々ないざこざが起きているし、聖徳太子のころには、仏教をかなり強引に導入しようとした蘇我馬子を中大兄皇子というれっきとした皇族で、後に天智天皇となった人物が殺害した歴史はあるし、古事記の中にも殺害の歴史が書かれている。まぁ、人間のやることは、何を信じていようがそんない変わらないようなのである。なぜなら、原罪を抱えているから、のような気がする。

     確かに、中絶クリニックを爆破してみたり、アイルランド島ではキリスト教徒同士で、カトリッくんと聖公会君にわかれて抗争してみたり、ブリテン島では、ピューリたんと聖公会君でもめてみたりと、まぁ、英国史はこの種のキリスト教黒歴史ネタに満ち溢れてはいる。それと同様に、日本でも、明治期の廃仏毀釈のころには、仏教寺院を国家総がかりでつぶそうとした黒歴史に満ちているような気もするが。
     ライトの一種のすがすがしさ、というか中世の騎士然というか古武士然としているのは、”イエスの名を使ってひどいことをする人たちは、初めから常にいた。また、それをイエスが許していないと知っていながら、しかもひどいことだと分かっていながら、なお行っているクリスチャンもいた。そうした事実がいかに深いであろうと、それを隠す必要はない。”というところなどである。恥じることも、申し訳層にするでもなく、また、隠したり言い訳することもなく、そういうアホな奴は居るんだ、ということをあっさり認めたりするところや、”イエスに従う者たちは常に正しいという考え方はキリスト教信仰には含まれない。”と「お見事!」と声をかけたくなるほどの潔い言いきり。実にすがすがしい。それをさ、こないだの油かけ事件を起こしたおぢさんに聞かせてやりたい。われわれは正しくないからこそ、主の祈りで、我らが他者を赦すことを教え、神に赦しを乞うことをイエス教えておられるのではないか。
     
    キリスト教は本当に西洋のものか?

     日本では、未だに、キリスト教は英語圏のものという思い込みが激しい型に時にであう。つい5年ほど前に、英国人の宣教師のところに、キリスト教のオリジナルは英語だから、英語で聖書を勉強したい、と言ってこられた方がおられる。たしかに、18世紀以降大英帝国は七つの海を支配したし、第2次世界大戦以降はアメリカが自由世界の代表格を占めたし、日本のキリスト教は、明治以降、アメリカのキリスト教の影響を受け続けてきたこともあるので、そういう誤解が生まれるのは仕方がない。その意味で、キリスト教の世界は西洋のもの、という思い込みをお持ちの方が案外多い(この種の誤解は、米国でも聞いたことがある)が、既に現実はそうではないことに関して、ライト先輩は次のようにお書きである。

     今日の世界地図からすれば、ほとんどのクリスチャンは『西洋」に住んでいない。その多くはアフリカ科東南アジアに住んでいる。そして、今やかなりの西洋世界の政府は、イエスの教えを社会に生かそうとしてはいない。多くの場合、そうしていないことを誇りにさえしている。(中略)「西洋」が行ったことのゆえにキリスト教を非難することをなくせるわけではない。いわゆる「キリスト教」世界は、悪い印象を与え続けている。おおよそそう思われても無理はないのだが。
     じつは、これこそが本書の初めで義を取り上げた理由の一つである。即ちイエスに従おうと決めた人は、イエスが教えた祈りのように、神のみこころが「天で行われるように地でも」行われるよう献身することなど理解し、その王に語ることが重要になる。というのは、義を求める神のパッション(情熱)はイエスに従う人の情熱であるべきだからだ。もし、クリスチャンがイエスへの信仰を、そこから来る要求とチャレンジを逃れるために用いるなら、その中心的要素を放棄することになる。まさにそこに危険が横たわっている。(同書 p.26)
     確かに西洋社会はクリステンドム(キリスト教国)で長期間あった経験をした国ばかりである。しかし、フランス革命で、カトリックの世俗への関与の完膚なきまでの排除やロマンティシズム、ヒューマニズムの隆盛等を経て、現在の西洋国家は世俗化が進み、非キリスト教化が進んでいる。その意味で、西洋諸国では、神は神でない一種抽象的な概念になってしまっている。In God We Trustと1セントコインから100ドル札まで、入れておかないと気が済まない米国であっても、市民宗教的な神になってしまっており、聖書の言う神と思ってない人々やその意識をもたない人々も案外多いのである。この辺りのことは、マクグラス先輩の『総説 キリスト教』という分厚い本でも示されている。


    http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2e/US_One_Cent_Obv.png

    One cent coin

    100 ドル札

    神の義の地での回復とキリスト者

     ライト先輩は、義(前回の記事でも少し紹介したが)の問題を本書冒頭で取り上げたその原因として、神がものすごい熱意をもって義を回復しようしておられることを主張したいとここで書いておられるが、聖書の義は、日本でこれまで誤解されてきたように、正義でもないし、道徳でも、倫理でもない。美しい状態、とでもいうものであり、聖書における義は愛や(神との)和解と同じことなのである。
     そして、義への情熱をもつ神と共に生きようとするのがキリスト者であるならば、神と同じように義を求めて、それが不完全であるにせよ、義を求める存在であるはずであることをライト先輩は、示そうとしているのである。しかし、”クリスチャンがイエスへの信仰を、そこから来る要求とチャレンジを逃れるために用いるなら、その中心的要素を放棄することになる。まさにそこに危険が横たわっている。”とあるように、イエスへの信仰や聖書の記述を口実に、この地上での神の義への関与を避けるという危険に直面しかねないことを指摘しておられる。
     例えば、選挙や地上の政治にかかわること、地上で生きることを”世のこと”と軽く見て、それはキリスト者がすべきことではないと主張された方が、ミーちゃんはーちゃんの関係者におられた。現在でも、そうお考えの向きもあるかもしれない。
     以下、その具体的な例として、アパルトヘイトの事例が取り上げられており、その部分をご紹介したい。
     南アフリカで、人種隔離政策(アパルトヘイト)の政治体制が最も支配的だったとき(異なった人種による異なった生き方を聖書は語っているからと、多くの人がその政策を正当化してきた)、デズモンド・ツツ司教のようなクリスチャン指導者たちの長い間の運動によって、驚くほど流血のすくない形で変化がもたらされた。(同書 p.27)


    映画 イン・マイ・カントリー
    ツツ司教が影響を与えた南アフリカの和解と平和のための委員会を扱った映画

    ツツ元大司教
    (南アフリカのアングリカンコミュニオン(聖公会君)の元大司教)

     この写真を見る限り、なかなかお茶目なユーモア感覚にあふれる方の様である。この種のユーモア感覚は余裕の表れであり、こういう余裕を日本のキリスト教界の関係者にも持ってもらいたいものだと思う。

    殉教の時代であった20世紀
     キリスト教最大の殉教の時代といえば、ネロ帝によるキリスト教との迫害や、江戸幕府によるキリシタン迫害などを思い起こすかもしれないが、案外今世紀もキリスト教指導者に関して言えば、キリスト教徒によるキリスト教指導者による暗殺が続いた世紀でもあったのである。そのことに関して、ライト先輩は次のように述べる。
     20世紀は多くの偉大なクリスチャン殉教者を生み出した。それは単に信仰的立場の故でなく、特に彼らの信仰が義の実現をも求める恐れを知らぬ行動に導いたからである。第2次世界大戦の末期にナチスによって殺されたデートリッヒ・ボンフェファー、エルサルバドルで貧困者の側に立って発言し、暗殺されたオスカー・ロメロ、またもう一度、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアのことを考えていただきたい。(同書 p.28)
    共産主義者が、キリスト教の指導者を殺したのではないし、キリスト教徒を殺したのではないのである。キリスト教徒が思い込みによってキリスト教徒を殺したのである。この事実は重い。


    デートリッヒ・ボンフェファー先輩
    ナチスドイツ下のドイツにアメリカからわざわざ戻ったという・・

    オスカー・ロメロ先輩

    マーティン・ルーサー・キングJr先輩

     最近手に入れた、工藤信夫著 『真実の福音を求めて 信仰による人間疎外 その後』(この帯がすごい キリスト者は、はたして「福音」を伝えてきたのか とあった。『福音の再発見』も真っ青である)の中に面白い記述があったので以下引用してみたい。
     (引用者補足 フィリップ・ヤンシーの)『教会ーなぜそれほどまでに大切なのか』の中に、彼の属していた教派にも人種差別が入り込み、黒人は人間以下(引用者註 つまり人間でない)で教育不可能であり、「奴隷」の人種となるように呪われた存在であると、彼自身いつも聞かされて育ったと記されている。また、その教派ではマーティン・ルーサー・キング牧師は共産党員と信じられていたという。その上、彼の学んだ聖書学校では、婚約者であっても週末にしか会えなかったし、スカートの丈が短かったら、その罰として強制的に読書をさせられていたという。(同書 pp.115-116)
    なんか、どっかで聞いた様な話である。スカート丈と信仰がどう関係するのか、ミーちゃんはーちゃんには理解不能だし、強制的読書で信仰が深まるとも思えないのだが。森本あんり先輩に言わせたら、まぁ、これも反知性主義のなせる結果なのであろう。しょうがないなぁ。わけわからないもの、自分にとって気に入らないものを、共産主義者、リベラリスト、リベラル、とラベルを張って一丁上りって、個人的にはドヤさ、と思うねぇ。

     このことに関しても、ライト先輩は次のように締めくくっている。
     その(神の義に対する)情熱はこの章で論じてきたように、すべての人の生活の中心にある。それは時に、異なったしかたで表出し、歪められたり、恐ろしいほどの悪を招く場合もある。いまだに、誰かを殺せば正義がいくらかでも達成されるという歪んだ信念を持つ暴徒や個人が、誰かを、あるいはだでれもよいから殺そうとしている。しかし冷静になれば、私たちが義と呼ぶこの不思議なもの、物事が正されることへの切望は、人間の抱く大きな目標と夢の一つであるとだれもが知っている。(中略)そしてその声(物事が正されるようにというかすかな声)はイエスにおいて人となり、その実現のために必要なことをイエスが行ったとクリスチャンは信じている。(同書 p.29)

     現実を見れば、

    いまだに、誰かを殺せば正義がいくらかでも達成されるという歪んだ信念を持つ暴徒や個人が、誰かを、あるいはだでれもよいから殺そうとしている。

    という表現通りではないかもしれないが、

    いまだに、誰かに嫌ごとを言って言論を殺せば正義がいくらかでも達成されるという歪んだ信念を持つ暴徒や個人が、誰かを、あるいはだでれもよいからネット上で言論封殺して死人に口なし状態にしようとしている。

    ということは、ネット界隈のキリスト教クラスタを見ればかなり明らかなように思う。

     確かに幕末のころの人斬り以蔵の様な狂信的な人物や自分に不都合なことがあれば、切って捨てるに何があるとうそぶいた幕末の志士(長州も薩摩も会津も新撰組も似たようなものである)たちはいなくなったものの、違う形で、より陰湿な形で言論封殺することはないだろうか。

     現在、世俗の仕事の一環として、マーケティング関連の講義の中で紹介した昔のアップルのCFが非常に印象的で、世の中をよりよくしたい、不完全でも少しでもより義(美しい状態)に近い状態であることを求めたいと主張した人たちの映像をうまくCFにしたものがあったので、ご紹介しておく。



    Apple社の Think DifferentのCF

    実は、これは某I○Mという会社の社是がThink!であることを揶揄しているw





    評価:
    アリスター E.マクグラス
    キリスト新聞社
    ---
    (2008-07)
    コメント:翻訳を見直して、再販を希望する。

    評価:
    工藤 信夫
    いのちのことば社
    ¥ 1,296
    (2015-06-05)
    コメント:お勧めしている。大変良い。これまでの総集編後日、この本も紹介したい。薄いが重要な本である。

    コメント
    コメントする








     
    Calendar
          1
    2345678
    9101112131415
    16171819202122
    23242526272829
    30      
    << April 2017 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM