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2015.06.10 Wednesday

ざっくりわかる出張Ministry神学講座 in Osakaに行ってきた その1

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     先日お伺いした雑誌Ministry主催 ざっくりわかる出張「Ministry」神学講座 in 大阪に参加した。冒頭は、関谷直人(同志社大学神学部教授)さんの45分のご講義だったのだが、これはまぁ、後回しに。今日は、第2番目の講義、水野隆一(関西学院大学神学部教授)さんの「賛美歌学〜神学的作品としての教会音楽」からご紹介したい。

     何でかって? そら、今、南部の改革長老派の讃美歌学の連載(今一時お休み)ちゅうだからにきまっているじゃ、あ〜〜〜〜りませんか。

    水野先生の自己紹介

     水野隆一さんは、普段は旧約学がご専門で、ヘブライ語聖書を教えておられるそうで、本来は、讃美歌学者ではない、ということであった。賛美歌を歌うPractioner、実践をしている実践家として、講義を普段もなさっておられるとのことである。


    讃美歌学超概観

     では、日本の中に讃美歌学者がいるかというとかなり難しい、ということらしい。北村宗次先生などが思い浮かぶが、基本礼拝学の一環であろう。その多くは、歴史研究が中心となっている、ということらしい。

     では、讃美歌学というとどういうことになるかというと、個々の讃美歌の背景を考えることになるのだと思う。最近は、原恵・横坂康彦著、『新版讃美歌 その歴史と背景』という本や、川端純四郎著 「さんびかものがたり I〜V」などがあるらしい。その意味で、賛美歌の背景研究が一方であり、また、賛美歌作家そのものの研究という研究方法もある。
     さらに言えば、讃美歌集の編纂の背景に関する研究もあり、コラールが最初に出たのは五日という研究や、ジュネーブ詩篇歌の成立研究などもされている。

     とはいえ、賛美歌を作品と考え、作品そのものを研究する必要があるのではないか、という視点はあるだろう。つまり、讃美歌をどう「読む」か、という研究である。もう少しいえば、賛美歌を味わってみて、その讃美歌が与えている印象を分析的に明らかにする、という方法論である。さらに言えば、詩とメロディの両面に注目して、そこに込められているキリスト教思想の内容を読みだしていくということを試みてみたい。

     このあたりで、バンドをしている学生が水野先生にある所で賛美歌に関する何か考えさせられることをして、「先生、賛美歌をなめてましたわ」といったとか言わないとか、というエピソードが紹介されていた。

    讃美歌を作品として考える

     では、具体的には、どのように分析的に考えていくと、歌詞の面では、どのように構成されているか、言葉やイメージ、その中に含まれる神学的理解、楽譜の面と詩の面では、メロディとリズムやハーモニーを分析してみて、作品について考えてみるということがあるだろう。

     たいていのキリスト者は、歌は好きだが、作品として分析的に取り組むことが可能だと思っていないことが多いのではないだろうか。歌っているときはあまり考えてないのではないだろうか。(個人的には、賛美歌の歌詞に、ミーちゃんはーちゃんはえり好みが激しく、歌えない讃美歌や歌いたくない節を含む讃美歌がいくつかあるし、英語でしか歌いたくない讃美歌もいくつかある。)

     讃美歌は芸術作品であると同時に、神学的に構成された一種の作品でもあるといえるのではないか。作品として味わえる人と、そうでない人がいる。

    あめなる喜び を題材に

     たとえば、Charles Wesley チャールズ・ウェスレーの超有名な讃美歌、「あめなるよろこび」を簡単に分析的に味わってみよう。チャールズ・ウェスレー牧師の家庭で育てかられ、イングランド教会(英国国教会)の司牧であり、Oxford のChrist Churchで教育を受けた。
     彼の兄貴は、John Wesleyであり、彼らが新しい回心をした後、新しいキリスト者の生き方の方法Methodがあったと言いまくったので、そこからメソディストMethodistとあだ名をつけられてしまう。彼の息子の Samuel Wesley サミュエル・ウェスレーや同姓同名の息子のCharles Wesleyチャールズ・ウェスレーも、賛美歌と深いかかわりがある。

    http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8f/Charles-Wesley-preaching.jpg
    Charles Wesley Snr.(親ぢ殿)


    Charles Wesley Jnr. (息子殿)

    Samuel Wesley(英国のモーツアルトと呼ばれたらしい)

    難波のモーツアルト(関学出身)ご存じ、キダタロー先生


    キダ・タローメロディー


    Samuel Sebastian Wesley

     チャールズ・ウェスレーは劇的な回心体験以降に、賛美歌詩を書き始めた。現在のところ、誰にもいくつあるかわからないものであり、大抵の場合、彼の讃美歌のオリジナルの支配用に長いらしい。そして、兄のJohn Wesley(ジョン・ウェスレー)がその讃美歌の中から、いくつか節を選んで、編纂したうえで賛美歌集を出版している。それで、一気に広まった。その意味で、名編纂者を得たことで、名作が残ったといえるだろう。
     なお、チャールズ・ウェスレーの歌詞には、Loveという語がかなり出てくる。その意味で、チャールズ・ウェスレーはLoveという語が好きであり、チャールズ・ウェスレーがLoveというとき、イエスそのものを描いている。Loveはイエスそのものであり、この地上に点からわざわざ降りてきたまいしLoveがイエスであったという理解をしたうえで、彼の詩を作品としてみるとき別のものが見えてくるのではないか。

     ウェスレーの詩は、聖書や古典的な祈りのことばからの暗喩が多く、「あめなるよろこび」の原歌詞には、これらが広く拾われている。

    原歌詞を紹介しておく。

    Love divine, all loves excelling

    1.Love divine, all loves excelling,
    Joy of heaven, to earth come down;
    fix in us thy humble dwelling;
    all thy faithful mercies crown!
    Jesus thou art all compassion,
    pure, unbounded love thou art;
    visit us with thy salvation;
    enter every trembling heart.

    2.Breathe, O breathe thy loving Spirit
    into every troubled breast!
    Let us all in thee inherit;
    let us find that second rest.
    Take away our bent to sinning;
    Alpha and Omega be;
    end of faith, as its beginning,
    set our hearts at liberty.

    3.Come, Almighty to deliver,
    let us all thy life receive;
    suddenly return and never,
    nevermore thy temples leave.
    Thee we would be always blessing,
    serve thee as thy hosts above,
    pray and praise thee without ceasing,
    glory in thy perfect love.

    4.Finish, then, thy new creation;
    pure and spotless let us be.
    Let us see thy great salvation
    perfectly restored in thee;
    changed from glory into glory,
    till in heaven we take our place,
    till we cast our crowns before thee,
    lost in wonder, love, and praise.

     3節の後半はおそらく賛美の賛歌(テ・デウム)から採られているなど、聖書からの引用に満ち溢れている。詩そのものはある面、激しさを持っている。John Wesleyの著作集、賛美歌集もあり、そのうち或る者には、聖書のどの場所からの引用であるか、ということを推定して示したものもある。

     この「あめなるよろこび」の賛美は、暗喩(Allusion)が多くみられ、例えば、子(1節)、聖霊(2節、聖霊の憩いを求める祈り)、父(3節、全能者の神殿となることを祈っている)
    で三位一体を示している。

     非常に聖書的、神学的、教理的な内容と情緒とがバランスよく歌詞の中に含まれている。ところが、彼の前の時代のIssac Wattsアイザック・ワッツはどちらかといえば、教理重視であり、19世紀アメリカでは、教理がかなり落ち感情の面が強い。


    Wattsの讃美歌 The Wonderful Cross

     最後の節は祈りの言葉で締めくくられている。あくまで、どの歌詞にも最後の節に力点が置かれている。

     ところが、一般に知られている「あめなるよろこび」は、歌詞とメロディがあっていない。特に、メロディーでは、A-A-B-Aという構造になっており、3段目のBの部分に力点がある。その意味で、曲と詩の構造があってない。


    一般に知られている「あめなるよろこび」

     まず、曲と歌詞の組み合わせは、地域と時代によって違う。実は、このLove divine, all loves excellingは、極が先にあってつくられた詩であり、以下のパーセル作曲のアーサー王(King Arthur)のFairest Isleに合わせて作られた曲である。


    パーセルのアーサー王の Fairest Isle これだとまずうたえない。

     英国で歌われている曲としてはBlaenwern Singing with Faithの中に収録されたものがあり、18世紀のメロディである。


    最近何かと話題のウィリアム王子の結婚式で歌われた別バージョンBlaenwern


    Hyrydol版 これだと詩とメロディがフィット感が強い。4節目に強調がある

    Child of Joy and Peaceを題材に

     詩と曲の組み合わせは大事で、Child of Joy and PeaceというShirler Erena Murrayという現代の讃美歌作家によるクリスマスの讃美歌を見てみたい。

     Child of Joy and Peace (Hunger Carol)

    1.Child of joy and peace,
        born to every race --
           by your star, the wise will know you,
           East and West their homage show you,
                  look into your face,
                  child of joy and peace.

    2.Born among the poor
        on a stable floor,
           cold and raw, you know our hunger,
           weep our tears and cry our anger --
                  yet you tell us more,
                  born among the poor:

    3.Every child needs bread
       till the world is fed;
           you give bread, your hands enable
           all to gather round one table --
                  Christmas must be shared,
                  every child needs bread.

    4.Son of poverty,
         shame us till we see
           self-concerned, how we deny you,
           by our greed we crucify you
                  on a Christmas tree,
                  Son of poverty.

    この讃美歌は、確かにイエスの1節2節の子は、確かにイエスのことであるが、すべての子供のことではないか。しかし、私たちがクリスマスツリーにイエスをかけたという第4節の告発は、すべての富んだキリスト者にとって、豊かさの中にある基督教徒にとってのクリスマスの現状を考えるときに、きわめて厳しいものである。


    Child of Joy and Peace Carl Browning

     Carol Browning作曲の作品だと、曲が柔らかく、歌詞をかなりやわらげる役割を持ってしまっている感じがする。中国のガムラン音楽研究科の 駱維道作曲の作品はアジアの音楽という感じが強く、非常に悲惨な雰囲気が出ているのではないだろうか。

     
    SMOKEY MOUNTAINバージョン 4分5秒あたりから

    終わりに

     讃美歌は、一種の芸術作品(音楽作品)でもあるとともに、神学的な作品作品でもあり、可視に関する精密に釈義が必要ではないだろうか。礼拝の中で歌われたり、歌唱されることが讃美歌の本来の姿であろう。その意味で、礼拝の中で、どのように用いられ、神学的メッセージを考察する必要があるのではないか、と思われる。その意味で、讃美歌学は、礼拝がどのようにあるべきかに目を向ける分野である。

    質疑応答から
    Q. 日本語の歌詞で英語から日本語になると、おかしなことが起きるのだが?

    A. 翻訳讃美歌はある面で、別の作品として作り直すことであり、別言語に翻訳した時に、神学的な意味が付加されることがある。聖歌もよい面があり、ジュネーブ詩篇歌を最初に入れたという点で重要な意味である。(しかし、ミーちゃんはーちゃんはあれを謳ったことがない)

    Q. 讃美歌は神学作品であるということであるが、もう少し聞かせてほしい。 
     
    A. 讃美歌というものは定義できない。個人が賛美できるか、会衆全体として共有できるかが問題であろう。ある時、神学校のチャペルでLet it beを讃美歌とした経験がある。それが、説教ときっちりあって、確かにそれは讃美歌の役割を果たしていた。ある面、体系性の中で賛美歌になるのではないか。その時の説教が、神にあって思い煩いを抱えない、というテーマであり、実にその説教とフィットした賛美だったし、Let it beが讃美歌としての役割をきちんと果たしていたのである。

    感想
     あまり、賛美歌そのものを批評の対象にすることはないが、時々歌いながら、この歌詞はまずいなぁ、とか思ったり、わがキリスト者集団では、聖書メッセージをする人が讃美歌を選べない、指定できないこと(司会者の専管事項であることがある)が多いのであるが、これが実に残念であるなぁ、と思うことがある。
     時に司会者が聖書メッセージの内容とほぼ無関係に讃美歌が選ばれたり、聖書メッセージの内容と逆行するかのような讃美歌が選ばれたりすることがあると、なんか一生懸命取り組んだ聖書メッセージがなんかねぇ、えらい残念なものに終わることが多いのは、非常に残念であるなぁ、と思う。

     それと、歌われる賛美歌が教会により偏っていたり、岳父ガン無視のメロディおよびリズムの改変がなされていたり、伴奏者の技能に依存して、賛美を選択できる讃美歌が制約されるとか、ろくでもないことが結構ある。

     若し演奏者の技能の結果、賛美歌の選択肢が制約されるなら、個人的には、無伴奏でよいと思っている。とはいえ、改革長老派の皆さんほど、アカペラによる詩篇賛美歌だけが正しい讃美歌であるといったような神学的の立場やこだわりは全くないが、個人的には説教と讃美歌の関連性はもうちょっと配慮されてもいいかなぁと思う。


     いやぁ、充実の講義でした。楽しかったです。

     次回も、この講座から、礼拝に関する講義をご紹介する予定。



    原 恵,横坂 康彦
    日本キリスト教団出版局
    ---
    (2004-01)
    コメント:読んでないので、紹介にとどめる。

    川端 純四郎
    日本基督教団出版局
    ¥ 2,592
    (2009-05)
    コメント:読んでないので紹介にとどめる

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