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2015.06.13 Saturday

南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(7)礼拝論と賛美論 その3

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     この記事は、南部の長老教会の歴史研究のシリーズである。今回もよろしければ、ご清覧いただけると幸甚である。このシリーズの今回と次回は、讃美歌編である。

    礼拝について
     1990年、10年以上の議論の成果として1992年に「神の前における礼拝」というエッセイ集が出た。PCAのFrank J. Smith(この講演の著者)とDavid Rackmanによるものである。
     20世紀の様々な改革長老派的な視点からのすべての礼拝の要素を扱ったものが出版された。礼拝の規範的原理を説明している。礼拝とは何かという入門書で、礼拝は別のものから区別されるべきであるとSmithは指摘した。

    礼拝とは
     礼拝とは、ダイアロジカル(対話的)なものである。即ち、神と人との対話の性質を持っている。そして、それは聖書に規定されている。礼拝の要素は、科学的における分子結合のイメージのメタファーである。科学の分子結合がそうであるように、各要素は基礎的で、分解不可能であるものを示している。科学の用語では、これ以下に分割はできないものであるように、礼拝の諸要素に分割できないものがある。そしてそれを統合したものが礼拝である。礼拝の形式は要素抜きには構成できないし、要素から離れて各要素は存在しないし、形式自体として礼拝の様式は存在しない。要素は、ある種パッケージ化された契約である。礼拝の各様式と全体は、形式と目的と内容をもっている。

     礼拝とは、神のことばだけが存在するのではない、を述べることであり、礼拝を形成する何かがあることを具体的に指し示すことである。

    John Knoxから考える礼拝論

     Kevin LeadによるJohn Knoxの議論の論文が出ているが、Knoxは規範的原理のために献身的に奉仕し、礼拝の純粋性のために奉仕した人物である。Leadは教会は礼拝の規範的原理の再確認すべきであると主張した。あきらかな根拠がないかぎり、礼拝内では、定められた要素以外は認められるべきでないとしている。これは、Sola Scriputuraの精神の延長で考えるべきではないだろうか。

    礼拝を巡る論争

     Kevin Leadは誤った礼拝の不道徳性の理解を失っているのではないか。誤った宗教理解や行為は、学問的なものではなく、人間の魂を破壊するものである。道徳の堕落の一種ではないか。これらの原理からの堕落の理解は、誤った宗教理解の中で、この理解の緊急性を示している。

     反論として、James Jordanは論文集でリタージカル・ネストリアニズムという本を出した。ネストリウス派は、初代教会の異端的な教会であり、異端であると批判した。そして、Smithらの礼拝の規範的原理は、礼拝の規範的原理におけるミニマリストだし、ディスペンセーショナルな理解であるとすらいった。ミニマリストであることとは、あまりにも理性主義的であると主張している。Smith論文(この講演した方の論文)では、霊的な礼拝と言いながら、非物質的であり知性的に理解していると批判されており、哲学的な方向性において、異教的だとまで主張している。


    James Jordanさん


     反論としては標準の改革派的長老主義的プロテスタントにおいては、禁欲主義ではない。礼拝における外見的な派手さを反対ているからと言って、禁欲主義的ではないのである。標準的改革長老主義は、聖書的区別と旧約聖書における儀式的礼拝と新約における天に向かう礼拝との区別している。

     Jordan氏は聖書的礼拝の規範的原理を否定している。神学的誤解は、規範的原理を理解していない。組織神学とのかかわりにおいて取り扱わないといけないことから来ている。組織神学は、聖書的原理を理解しようとする。Jordan氏は、組織神学を固守しようとしなかった。伝統的改革派的組織神学の否定は、学問的で、理知的、グノーシス主義的で律法主義的なもとなると理解したことに由来していると思われる。その結果、礼拝についての規範主義性をもJordan氏は否定している。

    礼拝の規範的原理をどう擁護するか

     Morton SmithらGreenville 長老主義神学校の創設メンバーは、礼拝の規範的原理を擁護する本を出している。Old Path Blue Banner Magazineなどが、歴史的ピューリタン的出版社からこのような本が出ている。

     John Frameは、礼拝の規範的原理を疑問視する論文を公表している。礼拝の規範的原理の理解の混乱が続いていた時期に様々な。ウェストミンスター信仰告白を裏切らないと言いながら、裏切っていたのではないか。生活一般と特別な礼拝の厳格な区別をあいまいにした。このような厳格な区別をいい加減にすることは、ピューリタンの保持してきた歴史的規範的原理は意味がなくなる。

     このことから大きな問題が生じた。霊とまことによる礼拝の新しい聖書的な見方という書籍論文を出して、

     フレーム氏は、信仰告白の原理を言明しながら、その信仰告白そのものを意味無くしてしまった。広義の礼拝ということで、規範的原理を人生のすべての部分に適用することを生み出し、新しい人間的な制度の存在を示そうとした。規範的原理の基礎を示した本の中で、規範原理を内側から崩壊させた。礼拝の要素や部分に関して、ウェストミンスター信仰告白について、深刻な問題があり聖書的な根拠がないと主張している。公的礼拝にあるような具体的なことを書き尽くしていないといっている。ピューリタンの聖書理解の中で、細かな礼拝規定の諸要素までは聖書内にリストがあるとは言わないが、基本的な行動原理について、権威付けがないとは言えないであろう。

     フレーム氏は礼拝の諸要素という概念の問題は諸要素を区別していないという点である。礼拝の要素や部分というよりは、アスペクトというべきではないか、と主張する。たしかに、要素がなく側面があるとすれば、礼拝の規範的原則に何が残るか。ルター派またはアングリカンの見方から違うといえるのだろうか。

     フレーム氏は、礼拝の中でなすことのリスト化に至る。あいさつ、祝祷、聖書朗読、説教と聖霊の賜物としての預言と異言の祈り、祈り、誓い、信仰告白、聖礼典、教会会規、献金、交わりの表現がある。これは標準的な分類ではない。ドラマを説教にしてしまう。説教と教えを一体化させることで、正当化しようとする。このフレーム氏のリストからは大幅な間違いがあるのではないか。交わりの表現を以下集中的に考えたい。

     礼拝は垂直的であるとともに、水平的でもある。神の栄光が称えられるとともに、隣にいる信徒との関係も重要である。交わりの食事、聖なる口づけ、お知らせも礼拝の一部であると考えるに至り、人間を称賛することも容認された。神に対する最高の賞賛を容認に抵触しない限り、という限定条件付きであるが。拍手やハグや、歌ったり、握手したりすることは間違いではないとされた。このような礼拝論は、何と言っていいのやら、という印象がある。

     改革派の神学者が、礼拝の中で、人間という限りあるものに対して栄光を与えることはかなり驚くべきことである。そもそも、神の時間のためのものの一部を人間に与えるとはどういうことかを考えるべきであろう。


    リタージカルダンスの例

     フレーム氏らの思想の結果、ダンスも教会の中で認めることになる。このフレーム氏の見方をどう考えるか、プロテスタンティズムそのものに反対していないといっても、礼拝の規範原理を否定していると言わざるを得ないのではないだろうか。さらに深い神学的問題を生み出していった。

     というのは、3つの違った視点を同時に持つことが重要であることをFrame氏は言っている。状況的、規範的、実存的要素の3つであり、これら3つは平等であるといっている。礼拝の規範的原理はこれら3つのうち一つに過ぎないものとされている。この結果、主観主義に陥り客観的な聖書的根拠を失っているのではないだろうか。

    (ミーちゃんはーちゃん的感想
     しかし、講師のSmith先生は、結局は、このJohn Frameという人のお考えが容認できないほどSuperDooper大嫌いだ、ということはよくわかった。
     なお、このリタージカルダンス、いくつかYoutube動画を調べてみたら、結構アフリカ系アメリカ系教会員が多い改革長老派の教会と、韓国系の教会に多いことが分かった。まぁ、この完成は、ミーちゃんはーちゃんにはない。むしろ、静かで必要にして簡素、しかし様式性を持ちながらも、霊性にあふれる礼拝がよいなぁ、と思っている。
     T David GordonはPCAの牧師は、伝統的な見方の擁護者の一人ではあるが、とはいえ礼拝の教理の中で3番目のカテゴリーを作り出した。要素と状況に加え、形式を導入し、多様な形を主張した。用語や内容の固定がなされず、柔軟に理解されてよいといったがある程度容認されるものではあるが、みことばの朗読の内容は固定されたものであるはずであり、旧新約聖書において限定されたものであるはずである。同じように、歌うことも、賛美も、固定されたものであると講師としては主張したい。礼拝とはどのようなものかに関しては、聖書それ自体が形式は自由なのか固定なのかを決めるべきであろう。

    テリー・ジョンソン氏の立場

     1987年、PCAの牧師であるテリー・ジョンソン氏は、インディペンデント長老教会で奉仕していた。彼はダウンタウンで伝道し、会衆の様々な支援をした。伝統的な教会賛美の形を主張した。言葉だけの韻律詩篇歌集が出版された。

     1996年にジョンソン氏は、「礼拝の中で導く」という本を出版し、今日の実践を推進しようとした。ジョンソン氏は、穏健的な規範的原理の立場の中心的人物で、礼拝の要素を限られたものに限定することを試みたとはいうものの、形式概念を広くとり、公的な礼拝において、霊感されてないものを賛美として使うことを試みるなどした。

     規範的原理に関する賛否両論の議論が数多くなされている。多くの書店から、保守的な視点の書籍が出ている。
    (ミーちゃんはーちゃん的感想 
    結局、現代受けとか、目先変わったことやったことに関する反動なんだろうなぁ、と思った)
     改革長老派のリベラルに近い側では、礼拝の規範的原理は疑問視されてきた。ウェストミンスター神学校のフレーム氏のように、礼拝の表現を状況依存的に扱ったために、様々なものが礼拝に侵入してい来る結果となったPCAでの大多数の一致により同じような用語は用いられているがその実相は多様なものである。

     一部の人々の中には、画像などの象徴を用いることと聖書の象徴の違いが不明確になってきており、儀式的な教会で、霊的高揚を感じ、彼が告白してきた礼拝との統合で混乱する人々が出てきた。州軍のチャプレンとして奉仕したある牧師の場合、多くの諸教派のつながりができた結果、一般的なプロテスタント様式との一致を図ることの正当化が求められたりすることで、改革長老派以外の伝統が流入してくることになってきた。ピューリタンの規範的原理に従うキリスト者が少ない現状がある。

    礼拝の多様性の問題とピューリタニズム

     ピューリタンの礼拝的原理の数の問題で決まらないことは重要ではあるが、もうちょっと長老主義者は公同教会から学んでもいいのではないか、と思い始めた人々が出始めた。ゴア博士のような人々は、長老主義ピューリタンの礼拝にくさびを打ち込んだ。ウェストミンスター神学者会議の修正は振り子のようだった。

     Calvinとその後継者、イングランド、スコットランドの違いは、自然な論理的な発展であり、この発展は一種のパラダイムシフトではないかと考えた。つまり賛美や礼拝に関する前提が変わったのではないかと考えるようになった。

     ピューリタンの礼拝の理解は誤りを生んでいる可能性があり、ピューリタンの合理主義は、こころの活動に限定するようになり、バランスを欠いていて、ピューリタン自身の禁欲的な傾向に新プラトン主義とストア派的なものが働いているのではないか、と指摘した。

     ゴアは、契約的生活こそ、礼拝だといっている。ジョンHホワイトが礼拝の規定的原理を守ると言いつつも、礼拝の規範は、生活の規範的原理の一種であると考え、ピューリタンの礼拝の規範的原理の本質を失わせていったのではないか。

     彼らの目からは、礼拝の規範と生活の規範は同じものであるとされた。フランシス・シェーファーは創造の中で、形と自由はともに基礎づけられている、バランスよく言明されてないといけないと主張した。


     ゴアは、最終的に契約的礼拝原理という本としてまとめているが、その中での重要な要素としては礼拝の契約的原理は、どのような方法でも礼拝する自由を含む、としている点である。聖書に一貫する限りにおいては礼拝の中で受け入れられる、とした。

     このような考え方とピューリタンの考え方との大きな違いがある。ピューリタンにとっては命令されたものか、非合法なものかのどちらかでしかなかった。
    (ミーちゃんはーちゃん的感想
     この二律背反的な論法がどうもアメリカ型の改革長老派に割と特徴的な気がして、というよりは、アメリカ人がこの二元論的論法が大好きなので、それが改革長老派に入っているのかなぁ、という気がする)
     もし、聖書に直接命令されているのであれば、直接命令されているものであり、論理的必然性から示されるものとなるであろうし、また間接的に示されるものであれば、一般的なものとして示されていると思われる。

    教会の公同性をどう考えるか(ゴア氏の所論をもとに)

     ゴア氏は、プロテスタント一般は、ローマンカトリックや東方教会から学ぶことができるのではないか、といったのである。プロテスタントの教会は非典礼的なことに落ちてしまっているのではないか。改革長老派は今日的な理性主義的なものに偏って、教えることばかりの改革派的なものは、東方正教会の神秘性が何らか貢献できるのではないだろうかという指摘もしている。

     礼拝が、公同の礼拝であるならば、他の伝統からも学ぶことができる可能性があるのではないか、という指摘をすると同時に、他の教派における聖書的伝統は真理があいまいかもしれないけれども、という主張はしている。
    (ミーちゃんはーちゃん的感想
    しかし、改革長老派ってのは、本当に自派の教義というか教理にものすごい矜持というか、自信があるのだなぁ、と思うなぁ。こういう話聞かされると) 
     この他派(とりわけ正教会?)から学ぶことに関しては、明確にNoといわないといけない。サクラメントの理解と礼拝の神秘性の理解を混同している。改革長老派として、ゴアは、改革派の伝統に気づいていないのではないか。ゴア教授の場合、彼は保守的な改革長老派の信徒数を恥じていることの繁栄の可能性があり、(アメリカにおける)カトリックや東方教会系に対する数の少数性に引け目を感じているのではないか。礼拝は文化的に敏感なものであり、礼拝の変容は、神の救済の一部を示すものである。聖書と文化との関係は、聖書が文化を受け入れるものではなく、聖書を社会のものとすることであろう。改革長老の礼拝論の神髄は、社会において文化的な受容がなされたときになされうるのではないか。

    (ミーちゃんはーちゃん的感想
     ここまで言われると、かえって清々しいし、恐れ入りました、って感じは受けたけど、まぁ、しかし、なんとなくある種のにおいも感じないわけではないかなぁ。別にいいけど。)
    感想
     個人的には、様式論的美的センスは教会の中で、もう一度再考されたらいいなぁと思うのである。再興ではなく、あくまで再考である。
     もちろん、もともとが理知的なので、思想信条的には改革長老派の理解とそう遠くないと自分では思っている(こういうことを書くと違うとE先生からはおしかりを受けそうであるが)のであるが、理性だけですべてのことを説明できるとは、さらさら思いもしていないので、このあたりどう考えるのか、ということは考えないとまずいかもしれない。

     まぁ、「おうどん」で人々を魅了するような、「おうどん攻撃」する教会もどうか、と思うが、しかし、ガチの理屈づめで味わいのない教会というのもなんか人工調味料のみで味付けしたうどんスープのようでねぇ、とも思う。まぁ、それぞれ、一人一人、霊性の傾向が違うから、それぞれが適切に考える方がいいかなぁとは思った。キリスト教は多様な伝統であり、改革長老派もその伝統の大切な、特にアメリカでは極めて重要な一つであるとは思う。


    歌川広重画 淀川 手前の船が淀川川下りで見られた物売りの舟






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