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2015.06.08 Monday

N.T.ライト読書会に行ってきた

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     今回も、NTライト読書会(オフ会というかリアルミーティング)に参加してきたので、ご報告でも。

     今回のリアルなライト読書会は10人くらいの参加者があった。今回のテーマは終末と終末理解という1999年にライトが書いた終末論の論文を読んだ。ちょうど2000年に終末が来るのではないか、コンピュータの2K問題として知られていた問題などをはじめ、社会的混乱や終末の到来が起きるのではないか、という恐怖を人々が口にしていたころの論文である。

     まず、参加者が自己紹介かねながら、終末理解とのかかわりを紹介した上で、実際の論文を読んでいき、最後にディスカッションをした。以下はその要約である。

    イントロ 終末という語の混乱
     まず、冒頭部分は、主催者の小嶋先生が英文を読みながら概略をかいつまんでご紹介して下さることから始まった。

     N.T.ライト先輩がお書きになったものの冒頭に、Redemptionとかatonement(日本語だとミソギに感覚が近い)とかの教会用語が誤用されていることが述べてあり、それと同様に、終末Apocalypticという語が誤解されていることがあるという議論が紹介されていた。実は、このApocalypseという言葉は、もともとは、ヨハネの黙示録(英語ではRevelation)のギリシア語でのタイトルで用いられた語である。

    映画と終末理解

     さらに、これにハリウッドの終末理解が入り、より大がかりに騒がれることになっている。ハリウッドには、この種の終末を描いた映画はかなりあり、例えば、地球最後の日、アルマゲドン、メテオ、イントウ・ザ・ストーム、大地震、ダンテズ・ピーク、デイ・アフター・トゥモローと結構終末物は、夏場のお化け屋敷のように夏場に上映されることが多いような気がする。どうでもいい話であるが。


    ディープインパクト 予告編


    ダンテズ ピーク 予告編


    世界の終わり


    アエロスミスのハルマゲドンの挿入歌 

    日本だと、日本沈没とかあったような気がする。まぁ、パニックムービーははずれがないので、映画会社にとっては一定の観客動員が見込めるという安心できる作品ジャンルである。まぁ、ディズニーランドなど遊園地で、ジェットコースターとかフリーフォールが受けるのと同じである。


    日本沈没 予告編

    (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
     最近、この種の終末論映画をいのちのことば社さんが後援しておられるが、まぁ、大人の事情がおありのようで。例えば、以下の2本)


    いのちのことば社 後援の
    レフト・ビハインド


    リメイニング 予告編
     終末だ、の字幕があるが、正しくは、携挙だ(Rapture)と言っている


    終末論が盛り上がる背景

     そして、2000年というある1000年期末に世の終わりがあるという理解が広がっているが、政治的な事柄の動き、ベルリンの壁、冷戦構造の終焉、温暖化などとが終末に関連付けられている。

     また、日本では五島昇氏が1999年に恐怖の大王が降ってくるというノストラダムスの大予言という本が世間では話題になった(ライトが言っているということは、イングランドでも話題になったらしい)が、今回の参加者の教会の中ではあまりいわれなかった模様。

     週末に備えて準備しているPrepersの人々や、Concerned Christiansと自称するイスラエルで主の再臨を待っていた人々の話が書かれていた。


    Prepersの皆さんに関する動画


    トンデモ本扱いの『ノストラダムスの大予言』

     しかし、これらには、実に聖書的な根拠も、合理的な根拠もないのである、とライト先生がお書きであった。

     大体、2000年で1000年期(ミレニアム)とかけて大騒ぎしているが、そもそも、年代記の決め方自体を決めた暦自体の歴史性を考えてみると、それが成立したのは、そもそも6世紀ではないか、そもそも、キリスト教にとって重要なのは、キリストの降誕ではなく、もっと重要なのは復活なのではないか、1000年の変わり目だといっても、その日は特定の一日に過ぎないのではないかなどの議論が展開されていた。

    Apocalyptic Language
    (終末的・黙示的言語)について
     メタフォリカルな解釈を考えてみたい。現実の人間が住んでいるその時空間のメタファーを使って書かれているはずだし、普段の日常生活でも、ある程度分かって使っていることが多いはずだけど、聖書解釈になると突然文字通りになることもあり、ある個所のテキストで解釈を区別して考えるのはどうなんだろうか、という疑問を投げかけていた。

     このあたりは、N.T.ライトの新刊「クリスチャンであるとは」のp.270~279の「聖書の解釈、文字どおり(字義的)と比喩的」にかなり詳細に展開されていることをご紹介して、ステマいたしました。まだ、お持ちでない方は、キリスト教書店か、あめんどうのサイトへGo!である。

     参加者の中からは、この黙示文書の特殊性は誤解する人がいるぐらい、強烈な表現があり、そのことで何かを読者に伝えようとしているのではないか。黙示録は、神によって見せられた幻をヨハネがパトモス島で文書として残したものであるけれども、ヨハネにとってはかなりリアルな体験だったのであろう。また、メタファーでしか表せないリアリティもあるのではないだろうか。仮に文字通り解釈すべきであっても、筆者の側ではそういう表現でしか表せないこともあるのではないか。このような表現によるインパクトは大事ではないか、というような意見が出された。

     黙示録の中に、バビロンが出てくるが、そのバビロンを経済的な発展性からロンドンとか、ニューヨークとかいろいろ想定されるけれども、文字通りバビロンが崩壊するとは思っている人はいないだろう、とN.T.ライト先輩は書いていた。
    (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
    東京は、東映特撮チームのおかげもあって、ゴジラやキングギドラが来て昔は毎年一回壊されたので、終末論的崩壊から免れているのかもしれないと思った。子どものころは、自衛隊は基本的に対怪獣攻撃組織(大抵は踏みつぶされて終わる)だと思っていたのだが、最近は海外に怪獣対策に行くように制度を改正するとかしないとか…)


    ゴジラ 近代兵器を備えた陸海空の精鋭…今見たら…

    TSエリオット詩の話がちょろっと出てきて、いろいろ経験するとは言うものの、その意味が分からないことがあることが紹介され、黙示録というかApocalypticということはそういうことではないか、と様な話し合いがなされた。

    メタフォリカル理解とリタラル理解
    メタフォリカル理解(隠喩、比喩的理解)とリタラル理解(文字通りの理解)は、行ったり来たりする、使い分けをしていきながら、通常解釈しており、どちらか一つで解釈するものではないのではないか、ということをN.T.ライト先輩は書いておられた。この辺に関しては、日本語翻訳されたN.T.ライトの新刊では、「」と書かれている。

     また、主催者の小嶋先生からは、聖書の中にある黙示文書(エゼキエル・ダニエル・マタイの一部、マルコの一部、そして黙示録)の聖書の中の文書系統とその理解のされ方などの説明があった方がいいよなぁ、というお話があった。N.T.ライトの本や文章は、彼が頭が良すぎるためか、この辺のことをブッ飛ばして、いきなり結論に行くことが結構あるので、そこは読み手が補足する必要があることが多いので、つらいところではある。

    End of the world Speculation(終末の予測)
     この辺の終末の予測に偏ってくると、ブランチダビディアンがATF(アルコールタバコ武器火薬取締局)と長期間対峙したWaco事件のように、暴走することがある。こういう偏ったものの見方から、教会や社会集団が機能不全になったりすることがある。(典型的にはオウム真理教である。ヨガ集団で始まったものが、AK47を自分たちで製造しようとしたり、旧ソ連製の軍用ヘリコプター買い込んでみたり、武装革命を起こそうとした中で、20年前にサリン事件を起こしたことが思い起こされる。


    ブランチダビディアンのウェイコ(Waco)事件を伝えるCNN


     このアポカリプティシズム(終末理解主義)が進んでいくと、すぐに、自分たち(だけ)が正しい、他の人は罪びとで、他の人は滅びるという傾向に入りやすくなるのではないだろうか。

     1世紀付近のユダヤ教で、黙示文書のこういう背景や、世界観があったのであろうか、ということに対して、生み出したグループが特定できているのは、死海文書であるが、但し、その文書が集団のものなのか、個人のものなのか、どういう背景なのかまでは歴史的に特定できないのではないだろうか。弾圧されていた人たちがそのような黙示文書作り出したかもしれない。いずれにせよ、歴史的に裏付ける文献史料はないという可能性が高い。

     黙示文書の中で外典として収録されているエノク書が厄介なのは、一時点に誰かが書いたものではなくて、最終的な編纂を経ている可能性が高いということであり、一部には、キリスト教の影響もあると主張する人々もいる。

     世の終わりを考えることで、内と外を分ける境界線が形成されている。行動としてのファンタジーは直接繋がってない。言葉と行動の関連の問題を考える必要がある。

    東方教会にもある終末理解

     ある人の旅行記の中で、東方正教会のガザ地区の荒野にいる司牧が語った携挙の話が紹介されていた。その司牧の話によると、地獄とつながる穴が、死海の中にあき、東方教会以外のプロテスタントもカトリックもみんな地獄に落ちて、その司牧が助けようと思っても助からない、助かるためには東方教会に改宗するしかないと真顔で語ったという話が紹介されており、これが、幅広いキリスト教に広がっていることの証左としてNTライト先輩は紹介しておられた。


    ディスカッション
     リタラル(文字通りの)聖書解釈とメタフォリカル(比喩的)聖書解釈にかかわることを携挙問題から考えてみたい。

     空中と主と出会うという表現の出合うという表現は、都市の外にいて、ローマ皇帝を出迎える、皇帝を市内に引き入れるという表現と共通する語がつかわれているあたりの解釈で、あぁ、なるほど、N.T.ライトはそう理解しているのだ、とわかりやすくなtt面などがあった。

     別の方は、平安末期の末法思想と共通する部分があるかも、実際に末法思想の時には、様々な苦難や、飢えや病気などがあったし、実際に、アフリカで起きていることは末法的出来事のような気がするが、こういうことは直接の関係がなく、避けている部分があるとおもった。

     携挙を話した宣教師がおられ、そのことを固く信じている。老人ホームに入所してもこの宣教師は、語りつづけた。そして、イエスが待っているといって、死去した、固有の信仰なのか、風土背景なのだろうか。

     リメイニングという映画や、レフトビハインドみたいな映画があるが、それを福音的だと思って、紹介した映画関係者のキリスト教徒の方のお話が出てきて、こういうのはどういうことを他者に伝えることになるのかなぁ、当議論が少し交わされた。

     また、死に直面する人々の天に戻るということの希望をどう考えるのか、という論点がナースを支援している方から出され、さらに、この終末論で、自分と他者とを分ける論法が、カルト化につながることを、カルトからの脱会支援をしている方から出された。

    感想

     今回も、非常に面白い論点が出され、実に楽しい読書会でした。いやぁ、こういう機会があるのは、参加できるのは幸せだなぁ。

     ミーちゃんはーちゃんがその片隅で生息しているキリスト者集団では、特殊な終末論というか、ディスペンセイション仮説を生んだ人が初期メンバーの一人である集団であるし、70年代にこれが一世を風靡して、これを語らねば巡回伝道者にあらずという雰囲気もあったし、実際に、この事案に巻き込まれて大学などでの高等教育の機会を失った人々が70年代から80年代までに大量にでたキリスト者集団でもあるので、この終末理解の影響は非常に大きかったのだが、他の皆様が、案外軽い麻疹程度で済んでいるのがある面うらやましかった。

     あ、「Rapture(携挙)って言葉は聖書中にないかもね」って、以下で紹介するバーバラ・ブラウン・テイラーさん書いておられますけど?最後の2つ前の章あたりです。そこだけでも読む価値があるかも。

     解毒剤に、バーバラ・ブラウン・テイラー著『天の国の種』をご清覧いただきたい。




    評価:
    バーバラ・ブラウン テイラー
    キリスト新聞社
    ¥ 2,376
    (2014-03)
    コメント:大絶賛おすすめ中である。

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