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2015.06.08 Monday

NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その2

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     今日も、N.T.ライト関連の新刊『クリスチャンであるとは』ということを紹介したい。まず、1章から紹介したい。義を追い求めている人間の姿の記述の続きからである。

    義と世界の関係
     義と世界の関係をどう考えるのか、に関して、N.T.ライトは次のように書いている。
     こうした(自分たち自身が義を望みながらも実現していないのはなぜか、おかしいではないか)という声の響きが聞こえてくるかのような感覚、義を追い求める思いと、世界(そしてその中にいる私たち全員)が正されることへの夢を説明するのに、3つの基本的なやり方がある。
     まず、次のように言うことができるだろう。それは実際のところ単なる夢であって、子供じみたファンタジーの投影に過ぎない。また現状のままの世界に住むのに慣れるしかない。(中略)
     2つめは、次のように考えることが出来るだろう。その夢は私たちが本来属している世界の事であり、全く違う世界なのだと。そこではすべてが真に正しい状態に置かれている。今の私たちは夢の中でだけそこに逃げ込むことができるが、時が来れば永遠にそこには入れる希望がある。(中略)
     3つめは、次のように言うことができるだろう。私たちがこのような夢を見るのは、つまり、その声にどこか聞き覚えがあるのは、私たちにかたりかけ、耳の奥深くでささやきかける誰かがどこかにいるからだ。(中略)その誰かは確かに義をもたらし、物事を正し、私たち人間をも正し、ついには世界を救出するという目的を持っている、というものである。
    (『クリスチャンであるとは』pp.19−20)
     ここで、3つの対応策が示されている。第1は、超現実主義的な現実追認型の態度であり、第2は、別世界の事としてあきらめてしまうことで将来においての実現のみを希望する態度であり、第3は、正しいことを望んでいることは知っていて、最終的にそのことを神が回復することを期待しながら現実にそれに取り組んでいく態度である。

     第一の超現実主義的な態度は、義の実現などに関与するのは忘れて、弱肉強食というそのものを受け入れていく立場で、社会に悲惨や不公正や不平等があってもガン無視する態度である。その結果、この悲惨は非常に大きくなる。それは醜悪であり、The Simpson'sでの原発経営者のBurns氏の姿と重なる。


    最近のアメリカ大統領選挙について語るMr.Burns

     第2の態度は、理想が来ることを夢見て、現実を全く見ず、将来において実現する夢見心地の生き方をする人々であり、このような態度も第1のものと同様に、義に関しては完全に無関心な態度となる。まぁ、ディズニー映画は基本このパターンで、いつか王子様が、という態度である。人呼んで、たなぼた型の幸福到来物語である。結構、この理解はキリスト者の間に多いらしく、このため、結婚適齢期キリスト教女子の方々の一部には、お祈りするだけで、突然、白馬に乗った王子様がやってくる、とまるで、ディズニー映画のEnchantedのような姿を思い描いている人が少なくないらしい。


    いつか王子様が


    Enchanted 『魔法にかけられて』の予告編


     クリスチャンであるとは、第3の対応をすることではないか、ということがNTライトの主張である。キリスト者は聖書を読みながら、その中に隠されたささやく声を訪ね求め、その声に耳を傾け、そして、現実に取り組みそこに対応していくということが求められるのではないか、ということを主張している。日本では、このあたりのことをしたことで有名なのが、賀川豊彦先輩である。キリスト者として、貧困に窮する被差別部落に乗り込み、資本家からの搾取に泣く工場労働者のため、労働組合を結成し、逮捕投獄され、生活協同組合(現コープこうべ)をつくり、安定的で良心的な良い商品を人々が買えるようにし、ノーベル平和賞の候補になるも、戦後はあまり振り替えられることなく忘れ去られていった人物である。

     何、賀川豊彦先輩だけではない、矢嶋 楫子先輩もそうであるし、新島襄先輩もそうであるし、内村鑑三先輩もそうである。マザー・テレサ先輩もそうではないか。

    世界の宗教シーンの中で

     日本では、明治期にキリスト教は西洋哲学というか西洋倫理の一つとして入ってきたため、その時期の誤解がいまだに続いているが、ギリシア哲学や非キリスト教的な西洋哲学とはかなり異質であることに関して、N.T.ライト先輩は次のようにお書きである。
     3つの伝統的宗教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)には多くの違いがあるが、この点に(将来において、誰かが確かに義をもたらし、物事を正し、私たち人間も正し、ついには世界を救出するという点に)おいては一致していて、他の哲学や宗教と一線を画している。即ち、私たちがその声を聴いたと思うのは、まさにその声を聴いたからだ、という点である。それは夢ではない。そこに立ち戻り、それを実現させることができる。この現実において、私たちの現実の生活において。(同書 pp.20-21)
     N.T.ライト先輩の文章で重要なのは、キリスト者は、いつか王子様が…のような夢見がちな態度で生き、単に理想状態を追うのではなく、現実にその社会にかかわっていく、それがキリスト者がこの世にある意味である、とラウシェンブッシュ先輩も真っ青なことをご主張なのである。つまり、本来社会をよりよくする存在だ、というご主張が、社会的福音(これに関しては、ラウシェンブッシュ先輩の本がよい。それがいやなら、ボンフェファー先輩の本でもよい)とよく似ているので、「N.T.ライトはリベラル派だ」と御批判の向きもあるようであるが、日本のいわゆる社会派の人々との違いは、人間の力で無理やり正義の回復をがむしゃらに、社会と対立的にある時は暴力的に実現しようとするのではなく、神の手の中にあるその器としてキリスト者が神にその主権をゆだねながら、実現していくこと神の主権に関与していく、という主張なのだろうと思う。そこを見てないと、見間違うことは多いかもしれない。

    本書の目的
     ライトは、この書を公刊した目的を次のように書いている。実にライトらしい本である。
     本書はそれらの伝統の一つ、クリスチャンの信仰に説明するために書いた。それは現実の生活にかかわることである。(中略)
     それは義に関することである。(中略)そして、イエスがなしたこと、イエスの上に起こったことは、この世界を救出し、あるべき姿に正すという創造者の計画をスタートさせたのだと考えるからである。それ故、それは私たちすべてにかかわることである。(p.21)
     ふしキリ(不思議なキリスト教)という本や、Penのキリスト教特集のような本のような、世の中には、キリスト教とは何かを現象面で描いてみよう、あるいはそれにかんでみようというような本は多い。池上彰のおじさんが語るキリスト教もこの手合いのものである。日本では、概念としてのキリスト教は面白おかしく語られるが、そんな宙に浮いた話でない、地に足をつけたのがキリスト教だ、ということを、まさに”それは現実の生活にかかわることである。”と、この本で明確に語る。

     キリスト者として生きることは、倫理的に生きるということでも、将来にいわゆる『天国』に行くといった類のことではなくて、この世に正義をもたらす、この世がよいことであることを燃えるように願っている神と共に生き、この世をより望ましい状態に変えていこうとすることとかかわっているということを、N.T.ライトは語るのである。それは、人間であることと深くかかわっている、とN.T.ライトは次のように言う。
     義を慕い求める情熱、あるいは少なくとも物事が修正されて行くことを願う感覚は、人間としてこの世界に住んでいることの端的なしるしである。(p.21)
    確かに、Justiceというようなことを言う犬や馬はディズニーアニメをはじめ、映画やアニメの中にしかいない。現実に犬が、Justiceを求めてデモ行進したり、猫が、猫の正義を求めて看板を張ったりしたりはしない。ネット業界では、キリスト看板をフォトショして遊んでいる映像はあるけどね。


    キリスト看板のパロディ画像


    イエスとはどんな人物だったか
     通常の日本人(あるいはクリスチャンであっても)以下の記述は驚くのではないか。
     イエスはよくパーティーに行った。食べ物も飲み物もいっぱいあって、まさにお祝いをしていたかのようだ。イエスは自分の言いたいことを明瞭にするために、かなり誇張することもあった。(p.22)
     イエスは、「食いしんぼうの大酒のみ」(マタイ 11:19)とパリサイ派の人々から、あてこすられたのである。当てこすりが有効であるためには、一片の真実が含まれてなければならない。実際にザアカイのパーティ(ルカ 19章)に出たりはしている。
     イエスの行くところどこでも、人々は熱狂した。神がいよいよ動き出し、救出計画に着手し、物事が正され始めたかと思ったからである。(中略)祝典が始まったのだ。
     同じように、イエスはどこにいてもどうにもならない人生を背負った人々にいつも出会った。やめる人、悲しんでいる人、疑い深い人、絶望的な人、傲慢に威張り散らして不安を隠している人、イエスは多くの人をいやしたが、単に魔法の杖を振るような方法は用いなかった。むしろその人の痛みを分かち合った。(中略)物語の終わりで、イエス自身がもだえ苦しんだ。肉体の苦しみと同様、魂の苦しみを味わった。
     イエスは世界を嘲笑ったのでも、世界を憐れんで涙を流したのでもない。イエスは今生れ出ようとしている新しい世界と共に祝ったのである。それはすべての良いものと麗しいものとが、悪と悲惨に打ち勝つことになる世界である。そして、イエスは世界と共に悲しまれた。それはイエスと出会った人々が、暴力と不正と悲劇に満ちた世界を痛いほど知っていたからである。(同書 p.23)
     しかし、”イエスは多くの人をいやしたが、単に魔法の杖を振るような方法は用いなかった”という表現が面白い。ハリー・ポッターでも、ディズニーアニメでも、この魔法の杖が大活躍なのであるが、それらは、結局一時しのぎでしかなく、根源的な解決にならない。しかし、イエスは、あるいは、神は不幸の中でも、幸福の中でも、我らとともにおられるということが根本的に重要なのだが。この共に生きる、というのが極めて重要なのだ。


    シンデレラに出てくる白魔法使いが使う魔法の杖

    http://ecx.images-amazon.com/images/I/51Xvc8RDaYL.jpg
    ハリー・ポッターのハーマイオニーたんの魔法の杖

     近代社会を経たキリスト教では、そして、日本のキリスト教では、あまりに神を畏れるという思いが強すぎて、この神と共に生きるということは、案外忘れ去られているような気がする。是非、以下で紹介しているボンフェファーの「共に生きる生活」をお読みいただきたい。これは、大事なことであり、あまりに現代の日本のキリスト教では軽視されている側面だと思う。

    パッション

     パッションというのは、いくつもの意味を持つ複合語である。情熱という意味もあれば、何年か前に公開された映画パッションのように受難という意味もある。


    メル・ギブソン監督のパッション予告編

     しかし、実は受難と情熱というパッションは実は一つであるということに関して、ライト先輩は次のように書く。
     イエスがこの涙を受け止めて、それを自分の身に負い、しかもむごたらしい不正な死を迎えるまで追い続け、それによって神の救いのわざを遂行した。そして、イエスが死者の中からよみがえり神の新しい創造を開始することで世界の喜びを受け止め、それによって新しい誕生をもたらしたのだと。
     (中略)この二重の主張によってクリスチャン信仰はすべての人が抱く、義をしたい求めるパッション(情熱)と全てが正されることへの憧憬を明白にしている。さらに、神自らがイエスのうちにこのパッション(受難)を共有し、実行に移したのである。そしてついに、すべての涙は渇き、世界は義と喜びで満たされる。(同書 pp.23−24)
     イエスの復活と神の国の到来は、まるで女性が出産するようなものであるということをライトは時々書いているのであるが、ここではそのメタファーが直接示されてはいないものの、イエスの復活の直前には大きな苦しみがあり、しかし、復活と共に新しい生が生まれるという大きな喜びがあることをここでも書いている。
     まさに、復活、あるいは、イースターは、出産が新しい生命の家族という世界への生命の到来を祝うように、そのような祝祭の行事であることを、我々はもう少し考えないといけないのではないか。

     日本でもイースターは、最近でこそ祝われるようになってきたが、本来、その日付も確定的(カレンダー上では、太陽暦では、コロコロ移動するので、ちょっと困った存在なのだが)であり、その素性がはっきりしているので、もっと大事にした方がいいような気がする。

     その意味で、クリスマスより、イースターの方が、キリスト教にとってはるかに大事だし、イースターの方が、よほどその根拠が明白なのだが、消費がいまいち喚起されないということもあり、アメリカでも、日本でも、あまり大々的に扱われることはない。実に残念なことであるが。

     1章がまだ終わらない。まだまだ続く。



     
    ロバート・シルジェン
    新教出版社
    ¥ 4,320
    (2007-05-01)
    コメント:海外の人から見た賀川豊彦

    評価:
    ディートリヒ ボンヘッファー
    新教出版社
    ¥ 1,728
    (2014-06-25)
    コメント:おすすめしています。

    評価:
    ウォルター ラウシェンブッシュ
    新教出版社
    ¥ 6,588
    (2013-01-07)
    コメント:高いけど、読んでおいた方がいい世界に影響を与えた一冊

    コメント
    ディズニーの話で申し訳ないんですけど、この間、実写版シンデレラを観たんです。で、意外と棚ぼたではないシンデレラを観て、さすがケニス・ブラナーと思ったのですが、こちらの話では、シンデレラは「親切」を尽くすために自ら継母のところに居ることを選ぶというシーンがあるんです。そして、最後は「あなたを許します」で締めている。なかなか面白かったんですよね、棚ぼたじゃなかったから。実際、そんなもんじゃないかなと思ったりするんですよね。棚ぼたクリスチャンライフより絶対、生きるっていう行為にあるクリスチャンライフの方が喜びもあるし、何より、カラフルだと思うんですよね・・・
    • zumzum(izumi)
    • 2015.06.08 Monday 14:15
    Zumzumさま

    コメントありがとうございます。
    Disneyはアニメ版では思いっきり子友っぽくやる場合があり、実写版ないし、実写が混じる番では一部だけでも大人受けを狙うといつ伝統があるらしく、その辺の影響かもしれませんよね。その分、味わいというか奥行きの深さ、というのを感じますよね。

    本来キリスト教のすごみというか奥行きというのは、ハッピーハッピーにあるのではなくて、苦しみの中に共にあるイエスを知ることにあるのではないか、と思います。特にNTライトを読み始めたり、トゥルニエ、ジャンヴァニエ、ボンフェファーなどを読む中で、そう思うようになりました。

    カラフというか、陰影があるというか。そういうクリスチャンが日本でも増えてくれるといいと思いますが。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2015.06.08 Monday 21:25
    本来のキリスト教の奥行きってある意味「生きる」っていうことを突き詰めていく部分だと思うんです。「死」を見つめるんじゃなくて「生きる」を見つめるっていうか・・・だから、ハッピーハッピーな現実味のない逃避思考であるのは本来難しいんだと思うんですよね・・・
    ジェームス・フーストンがその辺り声を嗄らしながら話してますよね。
    • zumzum
    • 2015.06.10 Wednesday 07:51
    そうですね。本来的なキリストの主張は、何をおいても、永遠の命ですから、命のはずなんで、それがいろいろと時代を経ていく中で、死を見つめる人、神学的思惟で、永遠の生を見るためにメメント森なんて言っちゃったかも、ですね。

    >ジェームス・フーストンがその辺り声を嗄らしながら話してますよね。

    なんか言いそうだなぁ。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2015.06.17 Wednesday 19:45
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