<< 南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(5)礼拝論と賛美論 その1 | main | 南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(6)礼拝論と賛美論 その2 >>
2015.06.06 Saturday

NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その1

0
     
    Pocket

     新連載を始めます。先週NTライト氏の『クリスチャンであるとは』という本が、上沼昌雄さん訳で、あめんどうから、出版された。これから何回かにわたってこの本の中から紹介してみたい。

     今日は第1章 この世界を正しいものに から 途中まで。

    義について

     若者は、義を求める。Justiceを求めるからこそ、ディズニー映画はできるのである。典型的には、Hunchback of Notre Dameというディズニー映画があるが、その中で、ヒロインがJusticeを叫ぶシーンがある。まぁ、ロマ人とヨーロッパの教会の黒歴史を語り始めると終わらなくなるので、詳しくはご自分で調べてほしいが、中世から近代において、ロマ人は流浪の民として社会の片隅に置かれてきた。




     このロマ人少女の叫びと同じように、Justiceは、これまで世界のあちこちで求められてきた。
     正しさ(義 原著 Justice)を願う私たちの情熱も、多くの場合このような(夢に描いて実現したという感じになるような)ものである。世界が正されることを夢見る。ほんの一瞬、世界が一つになって義が行われ、あるべき姿になり、物事がうまく運び、社会は正しく機能し、私たちはな術事を知っているだけでなく実際に行っている、そんな夢を見る。そして目を覚ました時、現実に戻される。(『クリスチャンであるとは』 p.11)

     誰しも、この義が実現しているのは、夢である。アンパンマンも、手裏剣戦隊ニンニンジャーも、水戸黄門も、暴れん坊将軍もある面、「義」を描いた「ものがたり」である。まぁ、世の中には、人間の悪の側面だけを欠いた救いのない映画(Law and Orderでは、時に後味の悪いものがある)もないわけではない。しかし、基本的にはハッピーエンドで終わる映画であることが求められている。

    http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-da-93/kuruma8art/folder/331985/32/3576232/img_0
    アンパンマンさま

    手裏剣戦隊 ニンニンジャー


    水戸のご老公様ご一行


    Law & Order Season 20 Latinoの女性DA Connie Rubirosaが出てくる

    不幸と義の問題
     社会の中には問題があり、完全に義が成立していない場面がある。そして、人間の力にはどうしようもない不可抗力をもたらす災害のようなものもある。そのことに関して、この本では次のように言っている。
     世界の問題のいくつかは解決できるが、それも一時的であり、簡単に解決できない多くの問題がほかにあること、中には誰も解決しようとしないものまであるのを私たちはよく知っている。
     2004年、クリスマスの直後に起こったスマトラ沖地震とインド洋沿岸の大津波で、一日に亡くなった人の数は、ヴェトナム戦争の戦死者より2倍も多かった。この世界で、この地球で、「それは正しくない」と叫びたくなることが起きたのだ。地殻がプレート運動によって動いたのである。自然の営みである。地震の発生は悪意に満ち満ちた資本主義者によるものでも、最近また復興してきたマルクス主義者によるものでも、宗教原理主義者(ファンダメンタリスト)の爆弾テロによる者でもない。それはただ起こった。その起こったことで世界中が痛みを覚え、歯車が外れたようになり、それに対し私たちはなすすべがない。(同書 p.14)
     ここの所、『仏教との対話』シリーズでご紹介しているニー仏さんこと、魚川さんの『仏教思想のゼロポイント』で述べられていることを考えていくと、ブッダの思想は、この世の中には様々な現象の作用と反作用によって生じる輪廻の中で生まれる苦界と、完全に答えられない、あるいは説明ができない無記の世界があり、そのようなものをじっと見つめていく中で、世の中に対する現実を見つめる中で、現実にとらわれることのないニルヴァーナ(涅槃・極楽)に移るということをしてはどうか、というのが仏陀の思想である。一種のしょうがないものはしょうがないんじゃない?というのがブッダのお立場ではないか、と思うのである。

     福島原発の放射能漏れ事故に際して、「想定外」という語が話題になり、技術がけしからん、原発けしからん、ということを言う象徴的な語として、この想定外という語が用いられたが、それは少し残念だったと技術者としては思う。

     すべての与件を含んだものを作ることは土台無理なのであるし、ある程度の与件の中で、我々は動くしかないのである。技術者は想定の枠内でしか動けないのである。そもそも、すべてのことを想定しなければならない、と言い出すと、地球の空気がなくなった状態でも飛ぶ飛行機を作るみたいなことも考えないといけないが、SF(Sci Fi)小説や映画ではないので、通常の技術与件としてはそういうことを想定しない。技術というのはある程度の常識的な与件の上で動くものなのである。

     要するに、過去知られている(といっても大体技術の世界は10年から100年単位でしかものを考えないのだが)理解の範囲内で物事を考えているという元明にしか過ぎないし、まともな技術屋であれば、技術が完璧だなんてのは、思いもしていないことが多い。立場上、言わされている場合は、この限りではないけれど。技術(これは小山先生によると魔術の一種らしいが)で生きているものは、どこまでそれが維持できるか、ということは別として、少なくとも、出発点では、世の中に貢献したい、世の中をちょっとは良くしたいと思って技術者を志すのであるが、それが実現できないところが、人間の残念さ、というか罪の結果なのだろう、と思う。誰しも悪意を以て、いろんなことをし始めたりはしないのだ。このあたりのことは、第2章の冒頭にも出てくる。それはまた改めて。

    義という感覚とその追求

     個人的には、もう義を自ら実現することは土台無理、とあきらめてしまったので(とはいえ、多少貢献できることの切れっ端くらいはある、と思っているので、その点で社会とはかかわりを持っているが)これは洋の東西を問わず、追及されつつもその夢は中なくつぶされてきたのである。
     義というものが存在する感覚は誰もが持っていて、そればかりか、義に対する情熱、物事があるべきものに正されるべきだという強い願いも持っている。また、何かがおかしいというい感覚は絶えず私たちに付きまとい、時にはこれでもかとばかりに心に訴え、叫びさえする。そのことで過去数千年にわたって、人類が苦闘し、探求し、愛し、希求し、憎しみ、希望し、口論し、哲学的に探求しつづけてきたのに、知りうる最古の社会の人たちとそう変わらない程度にしか義を実現していない。一体どうしてなのか。(同書 p.15)
     この問いは、すべての技術者が抱える問いでもある。一生懸命やればやるほど、新たな問題がどんどん出てくる(だから、技術屋はおまんまの食いっぱぐれがない商売であるが)。世の中をちっとはよく使用などと大それたことはおおっていなくても、今の不便ぐらいはもうちょっと何とかなるかも、とやってきても、ちっともよくなってくれないのだ。困ったことに。それどころか、である。
     何百万のいのちをガス室で奪ったのは、雑多なイデオロギーを混ぜ合わせたカクテルだった。宗教的偏見、悪用された哲学、「異なった人たち」への畏れ、経済的困窮、スケープゴート欲しさの要素を、悪賢い扇動者が調合し、少なくとも、部分的にそれらを信じたい人に語り、「進歩」の代償としての犠牲もやむなしとした。(中略)どうしてそのようなことが起こったのか。義はどこにあり、どうしたらそれを手に入れることができるのか。物事をどのように正すことができるのか。(p.16)
     残念なことに、すべての政治改革とか、すべての構造改革とかみんな義人の顔してやってくる。挙句の果てに、もたらされるのは悲惨と破壊である。すべての戦争は義が勝たれれることで始まる。聖戦が語られることすらある。正義の顔して始まった戦闘の結果は流血と悲惨である事実は、古代以来変わらない。競争ですらそうである。あるいは、オリンピックは、実は血を流さない戦争の一形態であるからこそ、あれだけ盛り上がるのだ。

     もともとオリンピックは、血を流す戦争の代わりに考えられたからこそ、槍投げとか、円盤投げとか、ハンマー投げとか、砲丸投げなどが正式種目であるし、アーチェリーや近代5種で、銃ぶっ放す物騒な競技もある。一種のスナイパーの訓練でもあるのだ。

     サッカーでフーリガンの皆さんが暴れて、流血事件とか、そもそも論で言えば、程度の軽い流血事件で社会に受け入れられる形の戦争がスポーツなのであって、平和の祭典と称するのは個人的には詐欺ではないか、とスポーツが超苦手なものとしては思っている。チェスにしても、将棋にしても、囲碁にしても、結局戦争シミュレータのごくごくクラッシックなバージョンに過ぎないんだなぁ。知的スポーツですら、この状態である。

    差別と義の問題
     我々人類は、国民性を問わず、歴史性を問わず、基本、差別を社会のうちに内包し続けてきた。ダメなことだとは知りつつ必要悪として、悪用とは言わないまでも、それを利用してきたことは確かだと思う。日本でも、差別があった。近時では、朝鮮半島から来た人々への差別(これは関西で結構多いし、ミーちゃんはーちゃんの時代の中学時代の日本人の不良は、朝鮮学校に殴り込みに行くのが、勇気のしるしであった。数年に一度、この種の事件が起きた。今は、ヘイトスピーチが我が国には見られる)などがある。残念なことであるが。あるいは、網野先生の本によれば、漂泊民は差別され続けてきた。また、カムイ外伝ではないがいわゆる障害を持った人は、差別の中で生きることを強いられた。

     そのことに関して、NTライトは、この本でこんな風な形で取り上げている。
     そして、アパルトヘイトがあった。巨大な不正が南アフリカの大半の人々に対して長い間なされてきた。他国でも同じことがあった。(中略)「アメリカ先住民」に対する「特別居留地」のことを考えてみてほしい。
     世界は次第に人種的偏見の事実に目覚めてきた。(中略)アパルトヘイトと戦うために世界は一致団結し、「二度と起こらないように」といった。(中略) 実は、自分たちもしていることで他人を批判することは容易なことである。自分の側にある同じ問題を無視しつつ、世界の他方にいる誰かを強く非難するのは何とも都合のよいことか。見せかけであるが、深い道徳的満足を得られる。(同書 p.17)
     しかし、『自分たちもしていることで他人を批判することは容易なことである。自分の側にある同じ問題を無視しつつ、世界の他方にいる誰かを強く非難するのは何とも都合のよいことか。』という指摘は、非常に重要ではないか、と思う。というのは、われわれは自分自身が罪深いものであることを忘れ、自分の目の中の梁を意識せずに他人の眼の中にあるちりをとりたがるしょうがない存在なのである。

     明石で主催しているヘンリーナウエン研究会で時々いうのだが、
     われわれの義など、神の義から比べれば誤差の範囲ほどのものでしかなく、そもそもどちらが正しいだのどちらが正しくないだの、議論しても本来しょうがないことではないか。他人を批判するよりは、神の義に目を向けるべきではないか、
    とは思うのだ。それと同じことをN.T.ライト先輩は言っておられるような気がする。

     第1章のまだ半分も行かない。もう、この段階で長期連載、ほぼ決定である。ぜひお買い上げになられることをお奨めする。お買い物はあめんどうブックスで。

     と新幹線の中から投稿しておこう。w






    コメント
    コメントする








     
    Calendar
        123
    45678910
    11121314151617
    18192021222324
    252627282930 
    << June 2017 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM