<< 南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(1) | main | ラッド著 安黒訳 『終末論』を読んだ(7)完結編 >>
2015.05.23 Saturday

神戸ルーテル神学校での「伝道する教会を建て上げる」参加記(1) 

0


    Pocket

     本日、2015年5月23日の神戸ルーテル神学校で開催された、「伝道する教会を建て上げる」というプイーさんの講演会に行ってきた記録です。引用部は、ミーちゃんはーちゃんの個人的感想です。それ以外は原則聞いてきたことですが、多少、ミーちゃんはーちゃんの理解が影響しているかもしれません。参加できなかった皆さんのためにちょこっとご紹介。長くなりそうだったので(今回でも十分長い)

    伝道する教会とはどのようなものか?
    そうなるためには?


     伝道する教会形成は長期的なプロセスである。今日の文化は、インスタントに関心が強い伝道する教会形成は、カップヌードル的な瞬間でできるものではなく、スコッチのように長期間熟成を欠けてするものであろう。とは言いつつ、ただ祈って座して待つだけではなく、それぞれ瞬間、瞬間の取るべきステップがあるだろう。

     現在のキリスト教界は、インスタントヌードル型のイベントをやりすぎで、それをすることを伝道と理解してはいないだろうか。伝道を考える際には、イベントごとに考えるのではなく、プロセスとして考え、いくつかの要素に分けて考えるべきではないか。

     今回はまずこのプロセスを4つの部分に分けて考えたい。

    Core Value 伝道的な教会にするための核になる価値観
    Target People 誰が伝道の対象であり、その人の属性はどのようなものかを検討すること
    Action Step  一過性のイベントでどんなことをするか実行計画
    Annual Plan 1年間にどのようなことをするかを示したスケジュールの作成

    参加者からのセミナーへの期待に関する発言)

     講演者のプィーさんから、どういうことを期待しているのかを教えてほしいという話があった。

    ◆ある日本での巡回伝道師の危機感として、日本の教会が伝道しなくなっているという懸念を聞いたことがあり、 牧師が教会員の世話におわれている

    ◆150年かけても増えてないことについて考えたい。  

    ◆個人的な働き中心として伝道をとらえており、伝道とは上に立つ者の責任ではないかと考えているがいかがか。

    ビジネス業界での市場拡張理解

     ビジネス界では、ハンターモデル、農夫モデルと2分して考える。

     ハンター型は、新規顧客の獲得に熱心で、新規顧客を獲得し販売額を増やす。しかし、継続的な関係構築が苦手である。
    (いわゆるワンチャンス型、ヒットエンドラン型のビジネスモデル)
     農夫型は、既存顧客を説得し売り上げを増やし、そのため既存顧客と密接な関係作りに励む。顧客と座り込んで密接な関係を形成し販売額を増やす。しかしながら、新規顧客の獲得というのは苦手である。
    (ミーちゃんはーちゃん的感想 いわゆるお得意さんを作るタイプ、この人から買わせたいと思うタイプ)
     現代の牧師形成においてハンター型よりは、農夫型の牧師が多いのではないか。この農夫型では教会は成長しない。となれば、基本、ハンター型でありながら農民型の牧師形成ができるかがカギになる。そして、時間の経過とともに教会が成立しなくなる。
    (ミーちゃんはーちゃん的感想 これは当たり前の話だと思う。その意味で、これまでの日本の教会のありようが結実した現状が、2015年春号のMinistryに示されている現状ではないのか。ちなみに、Ministryの私設ファンクラブの会長兼会員一号以上終わりのミーちゃんはーちゃんとしては、今回のミニストリーはこの問題と取り組んでいるので、ぜひともお手に取ってごらんいただきたい。お近くのキリスト教書店にゴーである。)



    Ministry(この数年のこの雑誌の最高傑作と思う)


    日本のキリスト教界の問題は何か?


     クリスチャンが1%以下であること自体はチャレンジとは言えない。困難さを示しているが、問題の本質ではない。そもそも、旧約時代のイスラエルの人口は、1%以下であった。また、旧約時代 少数の残されたものレムナントが神の前に立ち返り、そして、新しく大きくなっていることの繰り返し問題は、1%以下が継続して下降していることである。まずは、1%という水準を維持する方向で考えるべきではないか。むしろ、高齢者が多いなら、高齢者向けに伝道すればよいわけで、それも立派な伝道である。そのための方法は、老人ホーム伝道や訪問伝道などいろいろあるだろう。ただし、教会は数字合わせのゲームではないことを当然覚えながらではあるが。

     個人伝道の話が出たが、教会が伝道しているとは何か問うことは、個人の問題ではなく、教会として伝道的になる。伝道する教会になるということである。教会とは何か、建物ではない、組織でもない、人とそれが形成するコミュニティであり、伝道する共同体を形成することが、伝道する教会を建て上げることであろう。

     伝道する共同体は、その構成員が伝道したいという思いで共同体が成り立つことである。教会のリバイバルは教会という建物から発生するのではない。個人からリバイバルが発生するのである。果たして、教会に神を知るためのメッセージが語られているのか。神の愛とか、救いが言われてないのではないか。牧師、教会の関係者は神学を語るのは大事にしているし、それが得意であるが、それよりもむしろ、神学を現実世界に落とすことが大事であるのではないか。つまり、神学を信徒に翻訳して聞かせ、具体的な行動に落とし込み、信徒と牧師が一緒にできるようにすることが大事である。
    (ミーちゃんはーちゃん的感想
    ただ、牧師の問題のみとするのは問題だとは思う。)
     もちろん、これまで様々伝道方法が提唱されてきた。αコース キャンパスクルセード サドルバックの教会論などもあるが、それらは日本のものにあっているだろうか。その意味で、自分の文化を見て、自分の文化をみることが重要であり、外から持ち込まない方がいい。このため、土着、文脈を踏まえた伝道の方法論を検討すべきだろう。
    (ミーちゃんはーちゃん的感想
     しかし、日本のキリスト教が明治以降米国からの移入品であり続け、その後ドイツからの輸入品も入れ続けてきたが、日本語で、こういう教会論を現場の牧師先生たちが悩みながらも、日本港内で、こういう伝道論が重要ではないか、信徒と共にこう考えたいなぁ、ということを指し示してこなかったのは大きな問題ではないか、と思う。
     そもそも、今回のようなご講演の当たり前に思える、こういう発想そのものが広く知られてない、当たり前になっていないことが、教会としては問題ではないか、と思う。)
    伝道とは何か

     伝道とは、インフェクションであり、感染することである。伝道とは、本当にいいものであれば、それを伝えたくなるものである。好きなことを紹介したくなるのは当然であり、そのよいと思うものとして、イエスのことを伝えたいと思っているかどうかが問題ではないか。

     方法論というよりは、シェアしたいという気持ちがないのに方法論を考えてもあまり意味はない。シェアしたいというパッションを起点とその教会の特性に合わせた伝道方を考えることが重要ではないか。

    (ミーちゃんはーちゃん的感想
     今度日本で初めての一般書が出るNTライトというおじさんが、最近出した本の中に、Simply Good Newsという本があるが、そもそもこの本は、今度出るSimply Christianという本と関係の深い本である。この本には、福音とは伝えたくて伝えたくて仕方なくなるほどすごいものだったはずだが(だから福音派、Good Newsなわけであるが)、現代はその輝きというかみずみずしさというか、そのすごさが失われているのではないか、ということを主張した本であるらしい。NTライトの最近の録音音源などを聞く限り。そこを我々はもう一度考えないといけないかもしれないし、その意味で、今度出るSimply Christianの翻訳本の『クリスチャンであるとは』という本をお勧めしたい。現在、あめんどうオンラインショップで、絶賛予約受付中である。お買い物は、あめんどうオンラインショップで。この本を2冊買うと送料はタダになるので、お友達と御一緒にお買い上げいただきたい。なお、ミーちゃんはーちゃんは、あめんどうの勝手連的ファンでもある。Ministryのファンでもあるが。)

    NTライトの初の邦訳本格的キリスト教理解の入門書


    コア・バリューを大切に

     Core Value(コアバリュー)とはあなた自身のアイデンティティを形成するものである。個人的な信念といってもよい。例えば、あなたのコアバリューが誠実さだとして、それを子供にも残したいときに、ただ単に、「誠実であれ、誠実さであれ」と繰り返すことはナンセンスであろう。子供の心に働きかけ、具体的なシーンを見せながら、誠実さを、毎日の生活の中で学ばせるのではないか。教会を作り上げることは、妊婦が胎児と9か月かけて育てることと類似していて、教会は、コアバリューをじっくり育てることではないか。その意味で、外生的な価値基準はあまり意味がなく、教会の壁面に張り出しておいて事足れるとなるようなものではない。その意味で、ボンフェファーが共に生きる生活の中で示したような形で共に過ごす中ではぐくむものであるが、それを猿真似するのではなくて、日本的な風土に合うように作り変えていくべきである。

     信徒が、外に出て伝えることができてないのであれば、それはある面で、牧師の問題であるかもしれない。教会は、牧師が牧会をしていることを反映しているのである。例えば、牧師が音楽好きで音楽による奉仕を大事にすれば、音楽の活動が中心の教会になる。牧師が、外に訪問する人が中心であれば、その教会もそうなる。

     教会と牧師の鏡像であるといえるだろう。どうして伝道的でないか、というと、どうして自分は伝道的でないのかを牧師は問わないとまずいだろう。その意味で、牧師の限界を突破することがなければ、教会は変わらないのではないか。
    (ミーちゃんはーちゃん的感想 個人的には牧師の影響は大きいが、それだけでもなく、信徒のキャラクターもあると思う。それは次回あたりに触れるので、ここで突っ込まないようにね。)
    VALUEというバクロニムで考える

     これらのことをVALUEというバクロニムで考えてみたい。

    V Vision 教会のビジョン/熱意はどこにあるか
    A Acceptance 他者を受け入れること
    L Life  ほかの人に人生を開いていくこと 胸襟を開くこと
    U Understanding 他者と共感する 
    E Educate モデルとして実証して見せる     
    S Service 奉仕すること

     このVALUESを分けて考え、それを確実にしていくことは ⇒ 伝道する教会の基礎である。

    VISION 伝道の熱意

     まず、Visionから、教会のビジョンは牧師のビジョンが反映する。その結果、教会のビジョンを定義するかなり大きな要素になっている。牧師は伝道するという、そのヴィジョンを持っているかが問われるべきであろう。

    ACCEPTANCE 受容すること

     他者を受容すること 誰でもが来て受容するのか こころにあるか。例えば、ホームレスが来て、歓迎するだろうか。農民が泥だらけにして歓迎するか。あるいは、ばかげた質問した時にそれを受け入れる用意があるか、そのための価値観があるか。伝道共同体である教会の構成員、個々人が受け入れる価値を持っているかが重要である。最初の段階での受け入れの精神が重要で、受容する教会となれるかが問題ではないか。
     新しい人が来た時に、来てよかった、と思えるような快い経験しないなら、伝道的な教会とはならない。

    LIFE 人生の胸襟を開いた生活
     Lifeとはなにか、生きているということではなく、他の人に人生をほかの人に開けるか、個人の気持ちをほかの人に感情を出せる環境ができているかどうかが重要である。初対面の場合お互いに攻撃的でないようにするために互いのことを聞いたりはしない。しかし、いのちをシェアするためには安全な環境が必要である。
     裁かれるのではないか、いろんなことを言われないという安心感から、畏れなくいうことができる雰囲気をつくることが重要ではないか。人が最初3回くらい来て、来なくなることを考える。なぜ、来なくなるのはなぜだろうか?信者の心理的の壁を無意識に来会者は感じているのではないか。人は案外敏感に理解しているのである。その人が胸襟を本当に開いているかどうかは。
     その意味で、教会のドアは空いているとはいうが、教会人のこころのドアは新来会者には閉まっているのではないか。心が閉まっていると、教会に人は来なくなる。

    UNDERSTANDING 他者を受け止めるこころ

     Understandingでは、個人的な事情があまりに悲惨(たとえば、不倫の挙句離婚とかいうケース)だと、引いてしまって他者をうけいれられないことなどはないだろうか。その意味で、Understandingは大変重要である。
     傷つきやすい部分を見せ合って、そのうえで他者を受け止め、理解するのが、Understandingである。裁かれたり、ああだこうだ言われたり、批判されたりすると、もう教会には来なくなるのは当り前であろう。

     牧師、伝道師、長老などは案外判断する人たちになってしまっていないだろうか。これらの人々は、神の期待を知っているからこそ。人を案外簡単にさばいたり判断する傾向があるのではないか。

     仮に、奥さん不倫の挙句に離婚した人として話しているとするが、同様の経験がないとその気持ちはわからない。しかし、その人を受け止めることはできるかもしれない。Understandingとは、理解は頭のことではなく、こころのことであり、傾聴しつつ、感情をシェアし重荷を分かち合っていくことであろう。で、感じること 頭で理解することではない。感情的な理解を示すために理性的な理解が必要とは言えない。こころで共感できるか。それを具体的にどう示すか。具体的なことに現われるのだ。

     これまで、日本のキリスト者は、他の国の例ばかりを追っているのではないか。日本文化の中でできることがあるだろうし、それを探すべきだ。伝道することは、偉大な神学を語ることではない。本を読むことでは決して始まらない。コーヒーを飲みながらしゃべる中で、人間関係を作ることの方が重要ではないか。

    Education 共に考え成長すること

     教会の会衆に一緒に過ごすなかで共に考え、成長していくことである。正直の大切さを教えることは、四六時中「正直であれ」と言い続けることではないだろう。どこかで、子供に正直ということを伝えることは、共に暮らすことの中で滲みこむようにつたわることであろう。その意味で、説教で、「伝道せぇ、伝道せぇと、毎週言えばそれで自動的に伝道は進むわけではない。この教会の中でできることを、制約の中で考えつつ、一緒に進むことではないか。その意味で、牧師や役員は、自分自身の姿を共に過ごす中で、見せる覚悟があるか。

    Service 相手のところで奉仕すること
     伝道することは 「4つの法則」をご紹介することや、その内容を伝えることではない。また、教会に来てもらうことではない。まず、友達になること。それが伝道だろう。伝道とは、「あなたたちは罪びとであり、神を信じないと滅びるぞ」とか言うことではない。

    (ジョナサン・エドワーズさんたちは大覚醒時代と呼ばれるアメリカのリバイバル時代にこれをやった)

     例えば、若者のヘビメタバンドが街頭コンサートをしているときに変な目を向け、「悪魔の使いよ、裁かれよ」というのではなく、彼らと話し込むこと、CDを買ってすぐ放置するにしても、CDをとりあえず買って見て興味があることを示しつつ、相手の話を話を聞くことではないか。


    (ミーちゃんはーちゃん的感想
     まぁ、これは霊であり、別にこれでなくてもよいと思うが、基本、呼びつけずにそこに行くこと、お届け型伝道ってのが本筋ではないかと思う。今年の一月に、そおういえばこんな記事を書いていた。

    「伝道」とは、教会に来させてナンボか?とたらたら考えた(1)
    「伝道」とは、教会に来させてナンボか?とたらたら考えた(2)
    「伝道」とは、教会に来させてナンボか?とたらたら考えた(3)


     教会に呼びつけることが伝道ではないだろう。むしろ、伝道とは、アウトリーチであり、出て行って伝えるのではない。人がいるそこに行くのがいる人のところに行く。ほかの人に仕えることから始まる。そもそも、イエスはこの地上に来たが、それはまずわれわれにつかえられたのではなかったか。

     まぁ、本日のお示ししたあたりのことは、世俗の仕事では、一般システム理論を扱うこともあり、一般システム論の世界ではかなり当たり前のことばかりなのだが、それが、教会では「世俗の知識」「聖書からのものでない」と遠ざけられていたのかなぁ、という感想を持った。

     これらのごくごく当たり前のことが教会で実践されてこなかったこと、何より、それを皆さん非常に熱心にお聞きであり、はじめて知ったかのようにお聞きであったのに頭を抱えそうになった。実践が足らなくて、頭でっかちのキリスト教って自分のことをミーちゃんはーちゃんは思っていたが、こんなに仲間が多いなんて。そら、教会は限界集落化するわ。

     そんなあなたに、Ministry





     次回へと続く。
    コメント
    コメントする








     
    Calendar
       1234
    567891011
    12131415161718
    19202122232425
    2627282930  
    << April 2020 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM