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2015.07.13 Monday

「仏教思想のゼロポイント」を面白く読んだ(5)

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     ここのところ他の投稿が多くて後回しになっていたのであるが、仏教のゼロポイントから、終末理解にかかわる部分をご紹介してみたい。

    仏教的涅槃とキリスト教的天国
     キリスト教での終末理解と仏教の終末理解というか、涅槃、ないしニルヴァーナ理解は、ある意味で良く似通っている。キリスト教の終末は、完全に生まれることも、死も、悲しみもない世界であるが、仏教でもそのようなものがあると想定するらしい。

     引用文(『ローヒサッタ経』)中の「世界と、世界の周期と、世界の滅尽と、世界滅尽へと導く道」という表現が、四諦のそれとパラレルであることからも分かるように、ここでの「世界」は、苦のシノニムとして語られている。だからこそ、「世界の終わり」は「生まれることもなく、老いることもなく、死ぬこともなく、死没して再生することもないような」ところ、即ち、生老死の苦の存在しない境地だとされるのである。(『仏教のゼロポイント』p.113)

     しかし、仏教の場合、どちらかといえば、概念世界の話であり、これとパラレルに、そして同時的におそらく輪廻の世界が存在するというのが、基本的な理解であると認識している。最終的にすべてのものが、外生的に滅亡する時がある、としているのかもしれないが。

     これに対して、キリスト教では、実際の天の国(すなわち神の国 すなわち神の支配)が現に存在するというのが聖書の理解である。それも、概念空間上ではなく、実際の地上の空間上でも存在する、というのが、イエスの主張であることが、福音書のいくつかに記載されている。
    【口語訳聖書】
    マタイ
    12:28 しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。
    【口語訳聖書】
    ルカ
     17:20 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
     17:21 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
     その意味で、イエスがいた当時から現在に至り、将来に至るまでリアルな場所としての天の国はこの地上の中に、苦難の中であろうが、絶好調の中であろうが、神の国はキリスト者の中に、キリスト社外の中に混じりこんで存在しているという状況ではないか、というのが、少なくともN.T.ライト先輩のご主張である。しかし、この主張に納得し、恐らくそうではないか、と愚考するようになったのは、この10年内外のことである。

     それまでは、一種の浄土概念というか、涅槃理解というか、ニルヴァーナ理解というかとごっちゃになったような天国理解であった。あるいは、パラディッソあるいはパラダイス理解と混じった天国理解であったのである。マクグラス先生がおまとめになった西洋がこれまで蓄積してきた理解と近かったのである。

     しかし、N.T.ライト先輩の本を読むようになってから、福音書の言う点の国というのはそういうものではなくパラダイスと誤読したらいかんのではないか、ということを思うようになってきた。

    日常世界をどうとらえるか
     では、仏教は日常世界をどうとらえているのだろうか。このあたりのことに関して魚川さんは次のようにお書きである。
     例えば、私たちは日常生活でごく自然に「為政」を認識し、それに執著することがあるけれども、その「為政」というのは実際のところ、感覚入力を素材として捏ね上げられたイメージなのであって、比喩的に言い換えれば「物語」に過ぎないものである。(同書 p.119)
     結局悟りを開いた人にとって見れば、この現実世界は、結局物質を対象としつつ、間隔入力によって形成されたイメージの世界(たぶん「世間虚仮」の世界)であり、そこにかかわる意味がどの程度あるがないのか問題になってしまうのだろうと思われる。ここで、世間は「物語」でしかないと仏教思想が言っていることが面白い。続けて、魚川さんは次のように紹介する。
     「世界」というものは実際には仮象の物語に過ぎないものであるのだから、それが欲望する「私」の認知とは独立に、事実として有限であるか無限であるかなどというのは、全く見当違いの問いなのであって、そんなものには答えようがない。『ローヒサッタ経』に語られているように、認知が我執を伴っている限り、「世界」という仮象はどこに移動しようが生成され続けるし、我執が取れて分別の相(papanca 戯論)が寂滅してしまえば、その仮象も、いま・このこの身体において「終わり」になる。ただ、それだけのことなのである。(同書 p.122)
     要するに、認識が「世界」というものを生み出すので、実在としての世界がどのようなものかに関して仏陀は、「答えようがない」ということで、無記(つまり、答えようがないものは答えない、言ったって言っ実がない、だから書かない)としての立場を仏教典は取っているようである。実に、スルー力が高いといえよう。ところが近代の西洋を経たキリスト教になると、とにかく何でもかんでも森羅万象を説明し、何とか説明しようとするところがある。本来、聖書の神の神秘の部分まで、説明できないものに何らかの言語的な説明原理を当てないと気が済まないのだ。そして、挙句の果てに珍妙な説まで、砂上の楼閣のように作る傾向があるように思う。
     説明できません。なぜならば、私たちは神ではないので、という慎みはあったほうがよいかなぁ、とは思っている。このような何でも聖書から無理やり強弁しようとする傾向は、少し、筋が悪いと思っている。
     これで思い出した。BioLogos Foundationという組織が神学者と生物学者を集めて学術的な研究会をやった時にN.T.ライト先輩とフランシス・コリンズ先輩と一緒に作詞し、N.T.ライト先輩が歌ったYesterdayの替え歌である。個人的には、この替え歌の中で、N.T.ライトが歌っているように、I don’t know it does not say. Oh I believe in Genesis.とでもいった方がよほどすっきりすると思うが。


    創世記をうたうN.T.ライト先輩

    一応、概略の私訳歌詞をつけておく


    創世記 天が宇宙的なキスをしたことなのさ
    進化があるとしたら、こんな感じなのかもね
    だけど、僕は創世記を信じてるのさ

    DNA それは被造物を土と泥から作ってるものだけど
    銀河における二重の螺旋
    あ、創世記はDNAみたいなものだね

    4億年前? 神がどうやって作ったのかなぁ
    神は知恵と、真実と、愛で、そうだって語っているけどね

    創世記 エバとアダムはとっても幸せだったのさ
    でもその楽園はそれをみんなないことを残念がっているけどね
    でもね、僕は創世記を信じているけどね

    あっという間に、彼らは神のアドバイスを聞かなくなったのさ
    アインシュタインは神はサイコロ振ったのかって考えたけど
    結局、(それ以降)僕らは、悪の世界にどっぷりはまったまま

    何でアダムとエバは堕落したのか そんなの知らないし、聖書もちゃんと言ってない
    でも、なんかろくでもないことをしたんだよ
    でもね、今、神の新しい日が来るのを僕らは待っている

    創世記、王である祭司がしあわせであったところ
    新しいイェルサレムってそんな感じかもね
    あぁ、だから僕は創世記を信じているのさ


    英文原歌詞のディクテーション
    Genesis. Earth and Heaven in a cosmic kiss.
    Evolution must have been like this.
    Oh, I believe in Genesis.

    DNA shaping creatures from the dust and clay.
    Double helix in the Milky Way.
    Oh, Genesis means DNA.

    How He made it all 40 million years ago.
    Wisdom, truth, and love for he spoke and it was so-o-o-o.

    Genesis. Eve and Adam in a land of bliss,
    In a paradise we all now miss.
    Oh, I believe in Genesis.

    In a trice, didn’t listen to divine advice.
    Einstein wondered whether God played dice.
    We’re trapped within a world of vice.

    Why they had to fall? I don’t know – it doesn’t say.
    They did something wrong and we’ve longed for God’s new day-ay-ay-ay.

    Genesis. Royal priesthood in a holy bliss.
    New Jerusalem will be like this.
    Oh, I believe in Genesis.


    苦と「(認識が生む)世界」の滅尽を目指す仏教
     以下の魚川さんの文章を読んで、あぁ、仏教と聖書を中心とする信仰、あるいはキリスト教の違いというのは、ここかなぁ、と素朴に思った。
     ゴータマ・ブッダは、そのような如実の風向からすれば問うこと自体が無意味な質問を受けたときは、直接的には答えることなく、代わりに苦の滅尽と涅槃に導く、四諦の教えを説くのである。縁起の理法を知って現象を如実知見し、そうすることで苦と「世界」が滅尽すれば、そのような存在や非存在に関する問いの無意味であることは、自然に知られることになるからだ。(同書 p.123)
     仏教では、架空存在で我々を苦しめる認識の世界のバーチャルワールドである「世界」をなくしてしまえば、それに対して問うたところでナンセンスであろう、ということを仏陀は言っているのである。つまり、われわれが認識している世界は、NintendoやXboxの中に在るファイナルファンタジーや、スーパーマリオブラザーズの様なRPG(ロールプレイングゲーム)的な存在であり、それがバーチャルリアリティであるとわかってしまえば、そこがどうなっているのか、ってことはあんまり関係なくなるでしょ。今苦しいからと言っても、それはしょせんバーチャルワールドでの出来事なんで、だからとっとと、この世界というのはRPGだと早くわかれば?そんな世界の苦に向き合うことはナンセンスじゃない?と言っているようなのだ。

     ところが、キリスト教というか聖書では、この世界こそ、神がおられる(現状では、完全にではないけれども)場所であり、神が関与される場所であり、現実的には、楽園というにはほど遠い状況ではあるけれども、厳然として実存する世界であるという認識の上からすべてが展開するので、ヴァーチャルリアリティやバーチャルワールドとは認識せず、リアリティの基礎として理解しているといえると思う。

     この辺りの根源的な違いを考える時、日本で割と言われるどの宗教でも同じだ、という無茶な主張に、あぁ、それは違うよね、非常に表層的な見方だよね、とはじめて言えるなぁ、と素朴に思うことができた。その意味で、この本を読んだことは非常によかった。

    ものすごい執着を持つ聖書の神
    執着を止めれば?というブッダ
     もう一つ聖書の神と仏教が根本的に違うところが、対象への執着をどう考えるかという部分である。魚川さんは、次のように書く。 
    『スッタニパータ』に、「世界(loka)における諸所の煩悩の流れを堰き止めるものは気づき(sati)である。この煩悩の流れの防御を私は解く。その流れは智慧(panna)によって塞がれるであろう」と説かれていることが参考になる。つまり、自然のままに放っておけば対象への執着へと流れていく煩悩の働きを、まず止めるものは気づきであり、そしてその流れを塞ぐ、即ち根絶するのが、知恵であるということだ。(同書 p.125)
     本日連載を再開した(というよりはN.T.ライト先輩や工藤さんの本や木原さんの本等を紹介していたので、後回しにしていた)小山先輩の『富士山とシナイ山』シリーズで、そのうち紹介するタイの仏教者が小山先生との面白い対話を思い出した。小山先輩が、タイの仏教僧に聖書の神は、燃える情熱を持って人間を愛しているとご説明したところ、タイの仏教僧は、「そんな神は、瞑想修行が必要である」といったエピソードである。

     まさしく、この世界に執念や情念に近い熱情をもっている神と、そこから離脱を勧める仏陀ではまるで生き方が違う。ここで魚川さん言っている「気づき」はマインドフルネスという形で欧米にも広がっていて、キリスト教の一部にも明らかな影響を与えている概念であるが、その行き先が仏教系マインドフルネスとキリスト教におけるマインドフルネスが結果(アウトプット)レベルでかなり違っている様な気がする。

    仏教的マインドフルネス
    キリスト教的マインドフルネス
     仏教的なマインドフルネスは、認知にこころを巡らし、このバーチャルワールドである世界の中に在る何かに対する思いの有無をない関するという側面があるらしい。この辺りのことを魚川さんは次のように言う。
     つまり、認知が起きたときに、修行者の内面に対象への貪欲があれば『ある』と気づき、なければ「ない」と自覚する。そのようにゴータマ・ブッタの理法は明白で時を選ばず実践できるものであり、それが涅槃へと導くのだということである。(同書 pp.125₋126)
     つまり、しょせんバーチャルで実態のないものへのこだわりや執着とそれに対する貪欲に気付き、それがナンセンスであるからやめることで、執着とは無縁の涅槃(ニルヴァーナ)の世界に移行するという方向性を持つ。
     しかし、キリスト教の場合は、執着の塊のような神が居られるのである。キリスト教の場合も貪欲はNGだとイエス自身が次のように言っている。
    【口語訳聖書】ルカ福音書
    12:15 それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。
     イエスの言葉をもう少し思いを巡らせてみると、要するに、他の地上の神でないものをたくさん持つことの喜びで心が占められてしまい、持物を持つことが神のような状態になっている時、たくさん持とうとしているものを作った神がその人の人生に見られるだろうか。本来の人間の姿である神とともに生きるのではなく、ものとともに生きることになってないだろうか、ということをご指摘であったのだと個人的には理解している。貪欲は神に対する目を曇らせるのであることを指摘しているのであって、苦と関係なくなることを意味しているのではないようである。というのは、この後に続くたとえ話が、豊作であった金持ちの話なのである。聖書は貪欲で神が見えなくなるのが本来の人間の姿ではないので、それじゃダメじゃない?と言っているようである。

    盲目的で習慣的な行為を止めるための
    マインドフルネス
     マインドフルネスに関して、魚川さんは次のように書いておられる。おそらく、これは仏教的なマインドフルネスだと思う。
     歩いているときには「歩いている」、立っているときは「立っている」などと、いかなる時でも自分の行為に意識を行き巡らせて(mindfulness)、そこに貪欲があれば「ある」と気づき、なければ「ない」と気づいている。そのような意識のあり方を日常化することで、慣れ親しんだ盲目的で習慣的な行為(=煩悩の流れ)を「堰き止める」ことが気づきの実践(sati)になるわけである。(同書 pp.126₋127)
    この中で、大事だと思ったのは、様々なことに思いを巡らせ(なぜ、私はこれをするのかということに心を巡らせ)それを日常化することで、「慣れ親しんだ盲目的で習慣的な行為(=煩悩の流れ)を「堰き止める」ことが気づきの実践」になるという部分である。これはかなりしんどい生き方であり、めんどくさい生き方なのである。しかし、このめんどくさい思考作業をすることが、仏教でいう涅槃に導くということかと理解した。キリスト教やユダヤ教では、おそらく、であるがこういう面倒な手続きというのか、それを日常的にやるということはあまり必要なくて、普段は生き生きと生きていながら、なんか間違えた(神と共に生きてない)ことにふと気づいた時に「すいません。神様、私が間違えてました。悪いんだけど、赦してくださいませんかねぇ」というお願いすることでの回復があるというのが、基本的なキリスト教の原型に近い部分ではないか、と思う。もちろん、マインドフルネスの実践をされておられる方は居られる方でよいとは思うのだが、それも行きすぎてしまうと、その概念のみにとらわれてしまい、「それこそがキリスト教です」という主張になると、それはそれで、その概念の補修になっており、自由な生き方ができなくなり、「福音(=何かからの解放)」ではなくなってしまうのではないか、と思う。仏教では、煩悩からの解放である涅槃の状態に行けるというのが、仏教的なセールスポイントであり、キリスト教的セールスポイントは、神と一緒に生きること、神に対する執着こそが解放であるということなのだろうと思った。

     もう少し続く。








    評価:
    魚川 祐司
    新潮社
    ¥ 1,728
    (2015-04-24)
    コメント:面白い。読みやすい。入門に最適

    評価:
    アリスター・E. マクグラス
    キリスト新聞社
    ---
    (2006-09)
    コメント:まとまっていると思う。過去の歴史をまとめているという意味で。

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