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2015.05.25 Monday

ラッド著 安黒訳 『終末論』を読んだ(7)完結編

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     今回も引き続き、ラッド先輩がお書きになられた「終末論」からご紹介してみたい。今日は、第9章 神の国 から引用しながら考えたい。

    神の国の意味とは何か
     終末における神の国のそもそもの意味について、ラッド先輩は、次のようにお書きである。実は、ラッド先輩ご主張のように、翻訳語で読む聖書は、どうしても、翻訳語そのものの語義の影響を受けるし、翻訳語自体もその語義が時間と共に変わって行くので、どうしても限界があるし、そのあたりのことを含めて、おおむね30年に一度改訂とか見直しが行われることになる。

     この主張をより正確に理解するために、アイオーンという特定のことばを考察しなければならない。ギリシヤ語の聖書には、英語で「世界」(world)と四訳される二つのことば、コスモスとアイオーンが存在する。これは粗雑な翻訳であり、極めて大切な真理が読者に伝わらないようにしてしまっている。コスモスは「秩序と調和のとれた全体」を意味している。それは、全体としての宇宙、全体としての人間、また神に対する罪深い反逆においてみられるものとしての人類についても使用される。英語の「イーオン」(aeon〔訳注:分限に近い長い時間〕)の語源であるアイオーンは、明確に時間的用語であり、不確定な長さの時間を意味する。ギリシヤ語には永遠を意味する言葉がなく、エイス・トン・アイオーナ(その時代の中へ、その世の中へ)という簡単な言い回しが使用される。(終末論 p.156)

     しかし、ラッド先輩は英語のおそらく欽定訳聖書に対して、粗雑な翻訳とおっしゃっておられる。本来世界と訳された語は、本来のギリシアであればAeonであり、時間的に永遠に続く世界という意味を持った語であるらしい。それは、日本のスーパー界のビッグ、Aeonさん(イオンさん)であることは前にも触れたが、本来永遠なのだな。永遠なのは、巨人軍だけではない、と思う。

    AEON さんのイオンレイクモール
    (ディズニーランドより来場者数が多いって)


    長嶋の選手時代の引退セレモニー「わが巨人軍は永遠に不滅です」


    天の国と神の国は別物か?
     英語でもそうであるが、天の国と神の国が別物であると主張される方々がおられる。基本、日本語聖書においてもマタイでは天の御国であり、マルコでは神の国になっているが、その議論に対して、ラッド先輩は次のようにお書きである。

     もちろん、この二つの箇所(引用者注:マタイ19章、マルコ10章に現われる若者との天の国には入れるかどうかに関する対話)から違いを見つけることはできない。マタイで「天の御国」となっている最初の箇所は、マルコでは「神の国」となっている。テキストに相違を見出そうとするなら、相違をテキストに読み込む必要がある。テキストから相違点を導き出すことはできないのである。にもかからわず、ディスペンセーション主義者はこの二つの語には相違があるとし、その上に神学全体を基礎づける。(同書 p.158)
     聖書の表面の奥にある意味を考えずに、翻訳聖書に書かれた表面的な違いに引きずられて、聖書理解を作り上げていくことで、文脈や流れを感じれば、これらは同一であると考えられるとするのがおおむね妥当な見解だと思うが、字義どおりにこだわるディスペンセイション主義者の皆さんは、その細かな違いにも、「神の言葉であるから違うのだ」とかなりこだわりを持って、それをもとにかなり細かく微に入り細をうがった聖書理解の体系を御構築になられているばかりか、それをバックアップする様な聖書理解までご考案になられているように思う。しかし、ある説をもとにし、それを体系化し、その体系化したものでさらにあたかも別なものから証明したかのような表現をするというのは、基本、トートロジー(循環論法)として知られていることのように思われる。

    天の御国と神の国の違いはあるか
     では、なぜ、天の御国や神の国という表現が使われたのだろうか。このことに関して、ラッド先輩は次のように説明する。

      では、この相違をどのように説明すればよいのだろうか。それはユダヤ人が普通のこととして「天」という語を「神」という語の代わりに使っていた、という単 純な歴史的事実によって説明できる。(中略)例えば、放蕩息子は家に帰ってきたとき、「私は天に対して罪を犯し、またあなたの前にも罪を犯しました」(ル カ15:18)といった。(同書 p.158)
     これは、天は神の御座であるというユダヤ的な理解に基づく。いまの日本人の天という語の語感にない天理解が旧約時代にあったという説がどうも有力らしい。
     以前に、NTライトの講演をご紹介した記事が あるが、その質疑応答で、NTライトは、天国とはどんなところか、と聞かれて、神はCEOのような方で、その方がおられるところが点であり、ちょうど CEOオフィスとCEOが会社全体を代表するように、神がこの地を代表し運営方針が決まるように、神がこの地の支配するところが点ではないか、ということ をこたえておられるが、その辺が参考になるかもしれない。

    神の国は誰のものか?
     第三神殿の建設とか、ユダヤ人の帰還事業とか、神の国を人間側でその実現を図るという動きがあるが、それに関してラッド先輩は次のようにお書きである。
     神の国とはキリストにおいてなされる神の贖罪的支配であり、敵を滅ぼし(直接的には言われてはいないが)神の民に神の統治の祝福をもたらす。
      これらのことは必然的に、以下のような結論を導く。まず、神の国は神の業によるのであって、人の業によるのではないということである。神の国の建設という ような、ある人々が使っている用語は、聖書には見出すことができない。確かに、神の国のための働きがあるということは言えるだろう(マタイ24:14,使 徒8:12,28:31)。しかしこの国はいつも変わることなく神の国、神の支配である。(同書 p.162)
     神の国の建設といえば、まるでオウム真理教である。まぁ、こういうので言えば、前にも紹介した、ブランチダビディアンとか、結構強烈なキリスト教会もある。


    第3神殿をお奨めの皆様の動画


    ブランチダビディアンの皆様の末路

     個人的には、第3神殿の話しは基本的に支持しないし、かりに第3神殿が建設できたからと言って、第3神殿の建設により、神の国が建設されるとするのは、ルカ11章の中にある次のみことばと矛盾するのではないかなぁ、と思うが、違うかなぁ。
    【口語訳聖書】ルカ
    11:20 しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。
     第3神殿の話しは、完全に個人的にはどうかなぁ、と思う話であるし、ブランチダビディアンの動きには、ヨーダー先生の弟子として、武装して、ATF(アルコールタバコ火器及び爆発物取締局)やFBIとドンパチするなんざ、それはキリスト者のすることか、といいたいが、これがアメリカ福音派の影響を受けたグループであったことは考えておいた方がいいかもしれない。

    Left Behindもやるらしいけど…
     さて、Christianity Today(もともと、ウィ▽アム・フ▽ンクリン・グ▽ハムII先輩が編集してた方)のWeb版の批評記事で、4点満点中0.5点という評価され、批評記事のタイトルが、Not a "Christian movie." Not even close.(クリスチャン映画ではないし、それにかすりもしないほどのものである)とまで酷評された映画ではあるが、パニックムービーと見たほうがいいだろう。


    Left Behindの予告編

     まぁ、それは以下の千年王国前再臨説にかなり依拠した私小説に基づく(だって、所詮、Tim LaHaye 先輩がお書きになった私小説でしょう。私小説では、モルモンの書も上智大学では、私小説と評価されていたなぁ。ソースはコチラ Q69 の回答を参照)映画だからしょうがない。
      ディスペンセーション主義千年王国前再臨説という、もう一つの千年王国前再臨説に言及すべきである。恐らくこれは、米国で最も人気のある千年王国前再臨説である。イスラエルは土地を回復され、神殿を再建し、旧約聖書の生け贄の制度は再び設けられる。この時点で、一つの国家としてのイスラエルについての旧約聖書のすべてが文字どおり成就される。これは、神が明確に二つの民を持っておられるという確信からの推論である。そこでは、イスラエルと教会は二つの異なった計画と別々の祝福を持つ。神のイスラエルに対する計画は神政的であり地上的であり、教会に対する神の計画は普遍的であり霊的である、と主張される。(同書 p.168)
     案外、曲者なのは、「文字どおり」という部分である。この「文字どおり」がギリシア語における「文字どおり」なのか、英語における「文字どおり」なのか、日本語における「文字どおり」なのか、同じ語でも「天の国」でも人によって、その理解しているもの、頭の中に浮かぶものが違うので、何が文字通りなのか、ということはもう少し考えたほうがよいかもしれない。

     また、ラッド先輩は「確信からの推論」とまで書いておられる。解釈ですらない、ということほどの意味だろう。先に確信があって、それに合わせた推論、つまり、思い込みによる解釈であり、それは解釈学的に裏付けられないのではないか、と疑問を呈しておられるのではないか。

    復活は最大にして最重要の奇跡、
    真の終末的出来事
     さて、今年のペンテコステも終わったが、復活は、実にキリスト者にとって意味深い出来事なのである。まさにロシア正教の「ハリストス復活」「実に復活」の掛け合いの如く、復活は、我々にとって「実に復活」というべきことだと思う。福音派では、この種の交読文がないのが、「実に残念」。


    ロシア正教の復活祭の儀式 「ハリストス復活」「実に復活」


    アメリカ人が歌った「キリスト復活」「実にキリスト復活」の讃美歌

     さてされ、ラッド先輩は復活のことに関して、次のようにご指摘である。
      キリストの復活それ自体が終末的出来事である。キリストは死者の初穂であり、それは終末が開始されたことを意味する。神学者はこの神の国の現在性とイエスの復活という真理を「実現された終末論」とよぶ。終わりの日に起こる出来事の断片が枝のように折られ、歴史のただなかに植えつけられたのである。(同書  p.175)
     「この神の国の現在性とイエスの復活という真理を「実現された終末論」とよぶ」という神学者の表現は非常に重要だと思うのだ。神の国の現在性、即ち神がこの現在においても支配者であり、すでに神の支配、神の国が我らのうちにあることを忘れてしまうと、神の国は将来死後に行くところだけのことになってしまい、「死後の天国教」になりかねない。キリスト、メシア、ハリストス、救い主の復活はまさに、この地上に天国というか神の国が一気にあふれ出たものではなかったか、と思う。

     そして、神の国が実現した完全な姿は、NTライトのSurprised by Hopeではないが、そのあまりのすごさにイスラエル人がモーセに驚いた以上の驚きがこの地上、やってくるのだろうと、思う。

     ということで、この連載は、今回でおしまい。

     安黒先生、大変有益な本をお出しいただき、ありがとうございました。心から、御礼申し上げます。この本を勇気を持って出版することに望まれたいのちのことば社、関係各位にも、賞賛と感謝の辞を以て、本シリーズを終わります。

     諸賢各位におかれましても、お付き合い頂きましたことを感謝いたします。






     
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