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2015.05.20 Wednesday

『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (26)

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     『富士山とシナイ山』学ぶシリーズは本ブログの最長連載記録を更新中となっているが、本日もしつこく小山晃佑 著『富士山とシナイ山』の16章「戦後憲法」から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ からどうぞ。

    キリスト教と平和の問題

     個人的には、ジョン・H・ヨーダーに私淑した勝手連的な遅れてきた弟子なので、基本平和への希求は個人的には非常に強い。その意味で、日本国憲法の絶対平和の思想が、メノナイトは、あるいはフレンド派的な非暴力、非抵抗主義と対話の精神によるというその精神には非常に同意するものである。この辺りをにおわせるように、小山先生は次のようにお書きである。
     「私は、あなたを奴隷の家、エジプトの国から導きだしたあなたの神、主である」と宣言する神は「真の」神である。ただしこれは科学的真理ではない。信仰が献身を制約する真理である。この真の神は非武装化による平和の実現という立場に同一化するであろうか。それとも軍事力による平和に同一化するであろうか。それとも、両方の立場を組み合わせた立場にか。戦争と平和の問題に対する神の立場は正確にはどのようなものか。真の神が偽りの神に化すのはどのような時か。日本国民は、己の選択の神学的含意に全く気づかぬまま、戦争放棄の原則、完全非武装化の立場を貫く決意をした。戦後憲法の第9条は「神」の名を濫りに唱えることをしない。(富士山とシナイ山 pp.299-200)
     戦争経験が非常に悲惨であったがために、内発的であったが、外生的であったかは別として、日本国民は、国会という最高意思決定機関の議を経、天皇の御名御璽を押してもらったうえで、憲法を発布したのではなかったろうか。近年、某公党やネットの発言者の一部で、戦後憲法は米国からの押し付けであるから改憲すべきだ、というご発言をされる向きがいるとかいないとかちらほら聞くが、しかし、御名御璽印がばっちり押されて居ることをそれらの方々はどうお考えなんだろうか。気の迷いで御名御璽印が押されたりしたのだろうか。そんな軽々しいものなのだろうか。

     戦後憲法が気に入らないのなら、それは「私たちが勘違いしてました、私たちの先輩があんまり考えていませんでした」とまずいうべきではないだろうか。「私たち〔ないし私たちの先輩たち〕が、この憲法の持つ神学的含意に全く気付かないままでした」とちゃんと方針転換して、「じゃ、どうしようか」ということを言うべきなのではないだろうか。憲法は不磨の大典とかいうつもりもない。修正していけばよいのである。その手続きがあるのだから。そして、それを国会でも、国民全体でも議論して、投票して決めるのが、民主主義政体の習いである。その時に投票できない人は別として、投票しなかった人と投票した人が後世にとって責任を取る、そして、不具合があれば、また、条文を変更すればいいのである。

     誰かが言っているから、とか、ノーベル賞が取れそうだから、とか、誰かが高い評価をしているから、ということではなく、「戦争はもうこりごりだから」という理由で、個人的には憲法9条を維持した方がいいと思っている。

     「そんなことを言って他国に侵略されたらどうする」とかいう方々もおられよう。それもまた一理あるが、粛々と侵略してもらうのも、また、一つのあり方であると思う。どうせ、国際貿易をしてきたため、内部で粛々と文化的には侵略されてきたではないか。それが嫌なら、鎖国すればいい。まぁ、文化的侵略とは言い過ぎではあるが、少なくとも、ネズミ―マウスがCFで幅を利かせ、最近になるまで、昔話がCFのキャラクターになることは少なかったかもしれない。

    http://blog-imgs-42.fc2.com/b/a/n/banditqueeeen/cm-ufd.jpg
    Cubic Mouth


    若者向きで久々の日本昔話をメタファにしたCF

    戦争放棄の出発点

     戦争放棄は本来キリスト教的思考に基礎をおいている部分があり(だからこそ、押しつけ憲法という人々が出るのだろうが)、我が国に無理であったかもしれないという思いを小山先生はお持ちだったようである。
     しかし戦争放棄を国の根本法として受け入れたのは、ほかならぬこの国である。吉志向の連続性を尊ぶ文化の民族が人類普遍の原則というこの理想を支持しようと努めてきたのだ。ユダヤ ー キリスト教的訓練を受けたことがなく、聖書の視座から歴史を見ることのない国にこれほど難しい課題を課すとはどういうつもりなのですか?と、正直私は全能の神に問いただしたい気持である。第9条はイギリスやイタリアやスウェーデンのような、キリスト教的哲学と教養をほぼ10世紀間経験してきた国に課されるべきであったと思う。ところがそれはよりによって葦牙の国が引き受ける羽目となった。ひょっとして日本国民は基本的に楽天的なので、第9条を宣言してしまったのだろうか。それとも彼らはこの第9条を神道の祈りの精神で受け入れたのだろうか。「日ごとにいや増しに、千代よろず代の終わりまで、めでたさが続きますように」という祈りだ。
     私はそうは思わない。国を変えてしまった全き荒廃の経験は彼らにとって衝撃的だった。荒野で彼らは感じた、われらの剣は鋤に打ち直さなければならないと。あの一瞬凶と吉の交代が繰り返されるのとは違う何かを日本人は経験したのではなかろうか。彼らは非連続と否定をそれまで経験したよりももっと強烈に経験したに違いない。(同書 p.303)
     この国の植物の生命力は本当に強いと思う。そして、この植物の生命力の強さこそ、何でも緑で覆ってしまうその強さこそ、この中緯度帯にある葦牙の国の特徴なのだと思う。もうちょっと西に行って大陸ならば、黄砂でおおわれてしまうだけであるが、わが国では、災害の姿も、戦災の姿も、割と早く跡形もなく地表上では消えてしまい、元に戻ってしまい、戦争の跡形は都市計画図のいつまでも実現しない道路として残り、その道路の土地には新たな恒久的な建物が建てられないので、妙な形で取り残されるスポットとして認識されることがごくまれにあるだけである。

     緑に覆われたラピュタのような戦後の姿は、葦牙の国の特徴であるといってよかろう。


    そして、


    これは極めて日本的。
    http://cache.wallpaperdownloader.com/bing/img/AircraftBoneyard_20110818.jpg
    これは実にアメリカ的 B52 を砂漠に野ざらし まさに野ざらしという語がふさわしい

     あぁ、そうそう、戦争とその後の荒廃の話でした。

     神戸という阪神淡路大震災を経験したあたりに住んでいるが、今では、15年ほどの前の地震の被害の跡形は、もう、「知る人ぞ知る」ようなスポットか、記念として保存されているところあたりにしかない。葦牙の国の威力である。震災後数年たったころ、長田区役所の職員の一人が長田区の山の上の復興が進まないことに困惑しておられたが、その時、ある大学関係者の方が「もう山に自然に戻ってもらうことしかないのかなぁ」とつぶやいておられたのが実に印象的であった。

     災害があっても、戦災にあっても、勝手にじわりじわりと緑おおわれていき、災害や戦災の記憶が忘れられていくのがこの国の姿であることを考えると、そのような環境が日本の忘れっぽい、いや、記憶しない傾向にある程度影響しているのか、と思うと、そういう姿を記憶しない国民だからこそ、敗戦を終戦と言いかえ、戦争の記憶を忘れていくのだろう。

     このあたり、ホロコーストを経験し、そのことを必死で忘れないようにしようとする国民との国民性の違いに、このあたりの環境と社会の関係が影響しているのかもしれない。

    平和の神と現実社会
     神と人との間に平和を実現する神としてのシナイ山の神、聖四文字であらわされる方は、この地に降りてこられる現実的存在であり、そして、地を流すことを望まれない神でもある。最初の殺人事件である、アベルとカインの物語で、カインに「「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。(口語訳聖書 創世記 4:10)」とおっしゃるような方である。

     その神は、神と人が神との平和を保ち、その結果として、人が平和に過ごすことを目的とされる方であると聖書は主張している。
    第9条の精神と出エジプト記の神の精神とは息が合うように思う。ということは、聖書の神の精神を第9条の言葉に位置付けることは特に難しいと思えないのだ。第9条は単なる理想ではない。理想以上のものである。言ってみれば、現実的理想だ。なぜなら第9条の生き方に従うことによってのみ、人類はこの地上を生き延びて繁栄することができるゆえに、現実的である。「現実的理想」という概念は、神が現実と理想との統一であるがゆえに、神学的概念である。歴史について責任感強く、憂慮してやまない神は「現実的であると同時に理想的な」在り方しかできない。聖書的救済は現実的であると同時に理想的である。このような召しに応えることは、我々の側に〔死としての神に対する〕弟子道的な行き方を生み出す。キリスト教的な弟子道的生き方は現実性すなわち現在性と、理想性すなわち未来性とに基づいている。第9条は我々から弟子道的生き方を要求する。自己規律の宗教的献身を要求する。こうした見解は戦後憲法の前文全体にも言える。(同書 p.304)
     しかし、最初この部分を読みながら、Discipleshipが「弟子道」と訳されていた。弟子道はないんじゃないか、と思った。神の権威を認めるものとしての生き方であるのとおもうのだ。剣道とか、柔道とか、そこには極めるという精神があるが、Discipleshipには、そういう極めるという思想性はおそらくなる、神と共に生きる生活、ということではないかと思う。このあたりのことは、最近再翻訳されたボンフェファーの「共に生きる生活」をお読みになられることをお勧めする。

     その意味で、地を創りし神は、我らが神と共に地で生きる生活に招かれるお方であり、その地を平和で満たすことを望んでおられる方であるとは思う。

     案外忘れられていることかもしれないが、神は歴史的存在である。歴史を通して存在する神の存在等のご性質は忘れられてはならないのではないか。それは共同性の概念とつながる。
    「あなたの神である主の名」は、だれかある個人あるいはある人間集団に突然、いわば「青天の霹靂」のようにひらめいたのではない。理由は神の名が歴史的概念の一つだということである。つまり、「あなたの神である主の名」は「あなたの神である主の名の歴史」を意味しているのである。その名は過去と未来を持つ。我々の歴史において、主の名は絶えず我々に自己啓示しつつある。歴史内容はそれぞれの国や民族によって多様だとしても〔そのことは変わらない〕。主の名の決定的な啓示はすでに起こった。我々は聖書におけるあの啓示に赴く。しかし生ける主の名は聖書を産み出した民族内に閉じ込められるわけがない。主の名は間断なく、歴史的出来事を通して、我々を救済に導く意味深い名として働いている。私のもとに来よと招いている。それどころか、我々のもとに来て、20世紀の文脈において、今日生きる我々にとって御名の持つ意味を啓示する出来事に参加せよと促している。われわれは今日歴史のただ中を生きつつ、聖書の光に照らして神の名の救済的メッセージを悟るすべを習得する。かくしてあなたの神なる主の名は歴史的、歴史参加的概念である。(同書 p.308)
     ミーちゃんはーちゃん自身もそうであるが、どうしても、現在、現代のことだけを考え、自分と廻りのことだけを考えがちである。その前(過去)や後ろ(将来)との連続性を考えず、ある時間断面でスパッと切った状態だけで考えがちなのだ。

     今自分自身の持っている聖書理解を考えてみても、それは、歴史の中で積み上げられたものであるし、それを不断に見直してきた過程であるように思う。その意味で、それらを概説した深井智朗先生の神学の起源を見ると、我々の聖書理解とキリスト者の生き方そのものが歴史上の人物として名前を残すかどうかは別として、歴史的なものであり、その歴史的プロセスの中におかれ、その中で、神と共に生きる歴史的共同体の中に位置づけられていることがわかるような気がする。

     繰り返し言うが、歴史は大事である。歴史事実のみを研究対象にするのはあまり面白くはないが(何が事実であるかはよくわからないので)、歴史を踏まえて、同じことの愚を繰り返さぬことと、過去の思惟と対話をして、より妥当な理解を生み出す努力は大事だと思っている。

     ちょっと、休憩(別の内容のコンテンツのご紹介)してから、またこの続き 第4部に入っていきたい。




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