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2015.05.18 Monday

ラッド著 安黒訳 『終末論』を読んだ(6)

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     今回も引き続き、ラッド先輩がお書きになられた「終末論」からご紹介してみたい。今日も、第8章 審判 から引用しながら考えたい。

    審判をどう考えるか

     審判とは、愛の神の概念と一番一致しにくい概念であるが、神と人との間の親しい関係の中に隙あらば入り込もうとする諸仏や諸勢力を完成する姿においては排除しようとする神の愛の表れと理解するのが一番適切かもしれないと思う。そのあたりのことをラッド先輩は次のようにお書きである。
      悪しき者の審判はそれ自体が目的ではない。ただ世界における神の支配の確立において必要な行為である。神はご自身のもとに人々を引き寄せるためになしうる全てのことをなされた。もし人々が神の恵みを拒むなら、神の審判に直面するしかない。最終的には、神はその聖なる御心に反対するものを赦すことはできないからである。 (終末論 p.149)
     神の愛を無制限に広げてしまうと、万物救済論的になり、聖書から大幅にかい離してしまうが、神と神の愛し給うたものとの関係に溝を作るもの、そこに毀損を生ぜしめるものは置けない程の神の圧倒的な愛という形で理解すべきなのだろうなぁ、と思う。従わないから、容認できないのではなく、むしろ、本来の神と人との関係に障害物を置く行為を容認できない、ということで理解するのがよいのかもしれない。



    システィナ礼拝堂のミケランジェロ工房作「最後の審判」

    小さき者へのアプローチ
     上智大学の川村先生のご講演にご参加した時、カトリックの奉仕の精神は、実はマタイ25章に由来するというお話をお伺いし、そして、貧しき者に対する対応は、あるいは小さき者に対する対応は、基本的には、神に対する愛、つまり、レビ記19章に記された、隣人(それには在留異邦人を含む)に対する愛から生まれているという御解説を伺ったが、それはその通りであると思うが、ディスペンセーション主義者は、それを走破介さず、「ユダヤ人の」という限定付きで、「ユダヤ人の」小さき者に対する救援や援助と理解するらしい。そのことに関して、ラッド先輩は次のようにお書きである。
     ここ(マタイ25章35-36 あなた方は私が空腹であったとき、私に食べるものを与え、私が渇いているとき、私に飲ませ、・・・の部分)は、ディスペンセーション主義者にとって重要な箇所である。ディスペンセーション主義者はこれらの審判を、最後の晩餐とは別個のものとするからである。(中略)ディスペンセーション主義者は、このたとえ話を、どの人がキリスト教の千年王国に入ることを赦され、どの人々が締め出されるのかを決定する、諸国民に対する審判について述べたものと理解する。「わたしの兄弟たち」とは、イエスの同じユダヤ人の兄弟たちであり、彼らは大艱難時代に回心し、キリストの千年王国の差し迫った到来を告げ知らせながら異邦人の間に出ていく。異邦人の諸国民のうち、イエスにとってのユダヤ人の兄弟たちを親切に扱い、歓迎し、メッセージを受け入れた人々は千年王国に入ることを許され、彼らをののしり、彼らとそのメッセージを拒否した人々は千年王国から締め出されるのである。(同書p.149)

      このためシオニズム運動関係者や現在の世俗国家でしかないイスラエルやメシアニックジューに対する評価がこのディスペンセイション主義者の間で極めて高く、現在の世俗国家としてのイスラエルを正に判官びいきではないか、といいたくなるほど、贔屓のひきたおをしをしかねない勢いで、絶賛賛美される向きの方がおられる。そこに異論でも挟もうものなら、弾き飛ばされるのが落ちなので、まぁ、どうぞお好きに、と申し上げている。その贔屓の引き倒しの勢いで、日本人を持ち上げようとするのが、日ユ同祖論である。頭が痛い。偉い高い。 この説についての問題点をラッド先輩は次のように指摘しておられる。

     メシアニックジューの方を存じ上げているので、あまり否定的なことを言うつもりはあまりないが、必要以上に持ち上げてしまうのはどうか、と思っている。あるメシアニック・ジューである人物の解釈のみに正統的な解釈がある(あるいは必要以上に高い評価を与える)とするのは、パウロ研究の新しい見方のみが正統である(あるいは高い評価が与えられる)とし、他のすべての考え方を非正統であるとするのと同じくらい危険だと思う。
     
     要は聖書理解の可能性の幅というのか、可能性をより広く持つことが重要なのであって、どれか一つのみを正当とする考え方は、ある面偶像崇拝的であり、人間の理解を過剰に評価しており、結果として、神の名を濫りに唱えることになっているのではないか、ということを考えざるを得ない。

     ところで、この小さき人々たちをユダヤ人に限定することができない可能性があることを福音書のイエスの言葉を根拠にして、ラッド先輩は、次のように言っておられる。
     ここには、考慮されなければならない釈議上の問いが3つ存在する。これは大きな白い御座の裁きと違う審判なのか。御国を受け継ぐという報酬は千年王国に入ることを意味するのか。イエスの兄弟たちとは、「肉による同族の者」つまりユダヤ人のことなのか。
     諸国民が神の御座の前ではなく、人のこの御座の前に現れていることだけを根拠にして、この審判を大きな白い御座の裁きと別のものとすることはできない、ということは明らかであると思われるる。すでに見てきたように、この二つのものは同一とみなされる。(中略)
     第2に祝福された者たちが入るのが千年王国でないこと、千年王国から締め出されることがそれ以外の者の運命ではないことは、テキストそのものから明白である。テキストそのものが「こうして、この人たち〔悪しき者たち〕は永遠の刑罰に入り、正しいひった地は永遠のいのちに入る」(マタイ25:46)と語っている。永遠の刑罰と永遠の命である。(中略)
     第3に、イエスの兄弟たちをユダヤ人の兄弟たちと理解すべき釈議場の理由はない。反対にイエスが弟子達をご自分の霊的な兄弟と考えていた釈議場の証拠を見出す。(中略)「見なさい。私の母、私の兄弟たちです。天におられるわたしの父の御心を行うものは誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのです」(マタイ12:48-50)。こうすることによって、霊的な関係は生来の人間関係より優っていると述べたのである。(同書 pp.150-152)
     ある面、聖書全体を通しての解釈が案外重要ではないか、と思うのである。特定の聖書を特定の前提のもとに読み込んでしまえば、ある面倒でもできてしまう現実があることは、説教壇に立つものであれば、誰しも経験しているし、その誘惑にかられることは、よく知られている事実である。だから、異端や異教がキリスト教から生まれるのである。


    小さな人はだれか?社会的福音との関連で

     小さな人はだれか、という小さな人の確定問題は案外難しい。すべての困難の中にある人として、そして、社会的福音を進める出発点になった(いった本人はそうはいっていないにもかかわらず、それが日本に持ち込まれて誤読されている可能性が大であると思うが)ラウシェンブッシュ(こういうのを出してくるからリベラルだとラベルを張られやすいのであるが、そういう前にラウシェンブッシュのオリジナルを読んでほしい、と思うのだな。)の主張においても、この貧しい人は、ある面で、キリスト者の労働者であり、キリスト教世界の中にいる貧しい人々という意識でおおむね書かれていると思う。しかし、それが異教世界である日本に持ち込まれ、万人救済的な世界観と習合して、無条件に小さき人を増やしてきた部分はあるのではないか、と思う。詳細は、ラウシェンブッシュのオリジナルに福音派の人々がコメントをつけたキリスト教徒社会の危機を読まれて検証されたい。

     このたとえ話には、大変違った解釈も存在し、それは多くの福音主義者に信奉されている。それによると、イエスの兄弟たちとは、世界中の貧しく、空腹で、裸で、権利をはく奪されている全ての人を象徴している。御国を受け継ぐ祝福された人々とは、イエスの弟子道の本質的証拠である愛の生活を生き抜いた人々のことである。そのような人々は神に自らの業によって救われている。ただし、その業は律法主義的な前項ではなく、イエス・キリストに対する献身的生活から溢れ流れる業(あるいは、御霊の実)である。
     この釈義に神学上の反対意見はない。(中略)しかし、イエスの兄弟たちを、不幸の中にある全ての人とする解釈を釈義上支持するものは他に存在しない。それ故、私たちは前者の解釈(イエスの弟子たちが福音を陳べ伝えるときに、困難に直面する)を支持する。 (同書 p.154)


     まぁ、ここで、ラッド先輩ご指摘のように、小さきものとは、山上の説教の冒頭部の中で言われている神の国を歩もうとした、神に愛される生き方をした人と考えてよいと思う。しかし、個人的にラッド先輩に申し上げるとしたら、「生き抜いた」とか「イエス・キリストに対する献身的生活から溢れ流れる」とか書くと、誤解されませんかねぇ、ということである。こういう風に書いてしまうと、中心が神から一気に人間側に来てしまい、神の救済の中心性が失われてしまって、カルト化する原因にもなりかねないのがねぇ。ちっと残念だったかなぁ、とは思った。救済は神のものであって、人間のものではない、人間的行為によるのではない、というのが聖書の主張であるが、その辺を誤解しているキリスト者というのは案外多いかもしれない。

     それでは、本日はこれまで。ごきげんよう。さようなら。


     次回9章の内容をもとに考える。最終回。

    評価:
    価格: ¥6,588
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:社会的福音が福音派的的でないと思いこみで批判する前に、この本を読まれ、特に本書に含まれる福音派からの応答を読まれることをぜひお奨めしたい。

    評価:
    ジャン・バニエ
    あめんどう
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    (2010-08-20)
    コメント:再販されないかなぁ。いい本なのに。

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