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2015.05.11 Monday

ラッド著 安黒訳 『終末論』を読んだ(5)

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     今回も引き続き、ラッド先輩がお書きになられた「終末論」からご紹介してみたい。今日は、第8章 審判 から引用しながら考えたい。

    生活の中で大切なこと

     基本的に審判というのは、案外理解されているのだろうか、と思う。裁判官的な神の前に立つことを意識していないだろうか。そして、この問題は、生活、とりわけ信仰生活とのかかわりが重要なのである。案外忘れられていることではあるが、パウロは生粋のユダヤ人であり、ユダヤ的な背景を持ちながらギリシア世界の中に生きるキリスト者に、それがどのような意味を持つのか、を陳べた人物であった。この辺りのことは、New Persipective on Paul(NPP)と呼ばれるもう新しくないPaul研究でかなり議論されるようになっている。

     行いによって義と認められることがないという場合、パウロが意味しているのは、人間の功績や誇りの意識をもたらす、外的基準 ― ユダヤの律法 ― による行いのことである。これはあらゆる行いが重要ではないという意味ではない。(中略)外的な律法が出来なくなっていることとは、人の心を変え、罪深い誇りを捨てさせ、全存在をもって神を愛し、自分と同様に隣人を愛するようにさせることであった。このことを御霊はなしてくださったのである。(終末論 p.132)
     行い、ということが出てくるが、あくまで律法的な外形基準を順守することではなく、その奥にある者を求めることを案外我々は忘れがちである。これは、キリスト教会においても同じなのではないか。自派の中で積み重ねられた文化としての行動規範が新たなる外敵基準になっていないだろうか。例えば、「仕事や旅行で他所に行くことになった時、多少無理しても自派の教会に行った方がいい」とかいうことの行動基準が基準となり、「神を神の民と共に礼拝する」ということを忘れていないだろうか。何のために礼拝をするのか、ということを忘れていないだろうか。
     ナザレのイエスは、 律法の中で最も大切なものとは何か、と聞かれた時、まず、「心を尽くし、思いを尽くし、鹿らを尽くして、あなたの神である主を愛せ」を話されたその直後、「あなたの隣人をあなた自身の様に愛せ」と言われたことを我等はもう少し覚えるべきではないだろうか。マタイ22:35から40を読んでもらいたい。そして、もう一度レビ記の19章をもう一度読んでもらいたい。このレビ記由来の律法の要約であるとされた語のその少し後にはあなた方の中にいる在留異国人の話しが出てくる。案外、このことは無視されてはならないのであろうか。特に、日本という違法社会の中で生活するキリスト者にとって。

    神の怒りとは何か?
     審判と神の怒りは非常に深い関係にある。しかし、我々は、神の民とされたにもかかわらず、そのことの意味を本当に分かっているのだろうか、と思う。あれをしたから、これをしたからまずい、という個別具体のことに神がお怒りなわけではなく、「われわれが神の前から失われていること、死んだ状態であること、愛するものが大きく毀損されていること」、すなわち「罪の状態」にあることに御怒りなのである。あるいは、新約聖書で言えば、愛の結果のスプラングニゾマイ(はらわたが煮えくりかえるほどの状態、憐れみとも訳される)なのではないだろうか。
     その怒り(主の日の差し迫った怒り)は終末的なものであるだけでなく、神と人間との現在の関係をも性格づけている。現在の悪の時代において、キリストの外では、人々は御怒りを受けるべき子らである(エペソ2:3)。人々のあらゆる不経験と不正に対して、神の怒りが啓示されている(ローマ1:18)。
      神の怒り付いての新約聖書の概念は、異教の神々の怒りという観点からは理解できない。異教の神々の怒りは、相応するささげ物によって慈悲に変えることができた。神の怒りとは邪悪な者すべてに対する神の執拗な敵意であり、それを見過ごしたり、うまく説明して片付けようとしたりするのは全く愚かなことである。新約聖書における神の怒りとは、神がどう感じているかを告げる情動ではない。(中略)怒りは罪に対する神の人格的な反応である。罪とは司祭な問題ではなく、人間の休場は、人間が自らそこから救い出すことができないものである。(同書 pp.133-134)

     ジョナサン・エドワーズ先輩は、神の怒りに関する有名な説教を書いたことで知られる。アメリカの高校生は英語(国語)の授業で習うほどの名文であり、名説教である。しかし、それを聞いた人々の中に神へのおそれというよりは自分自身のアカンさ加減に関する失意が生じ、本来見るべきではない自分自身のふがいなさばかりを見、本来見るべき神との関係そのものが忘れられ、繰り返し発生するアメリカでの大覚醒運動へとつながって行く。

     もちろん、ジョナサン・エドワーズ時代のニューイングランドでは、本来目指していたピューリタン共同体が崩壊を見せており、「おまいさんら、これでいいのか?」と問いたくなったエドワーズ先輩の気持ちもわからなくはないが、しかし、その反作用が、パリサイ派の関係者が我も我もと形としてのバプテスマに集結したのと同様のことが、リバイバルとして、我も我元悔い改め、宗教的熱狂を産んでしまったあたりに人間の何とも言えないアカンさ加減(罪)を感じる。まぁ、ミーちゃんはーちゃんとて、その仲間であるので、人様のことを言えた義理ではない。


    ジョナサン・エドワーズ先輩

    義認ってなんだろうか?
     義認に関しては、つい最近も、Piper先輩とNTライト先輩の御対論が起きているが、案外義とは何か、義認とは何か、というあたりのことは、まだまだ十分に議論されているかと言われたら、あるいはその理解が広がっているか、というと意外と不十分なのではないだろうか。その部分に関して、ラッド先輩は、次のようにお書きである。

     本質的な問いは、義認とは一体何か、である。パウロの思想において、義認とは宇宙の律法者及び審判者である方による無罪宣告である。義認、つまり無罪とは、主観的倫理的な本質のものではない。それは信仰者が全ての人の審判者と正しい関係に入っている、と神が宣言する客観的な関係のことである。関係とは実在する客観的な事実である。(同書 p.136)
    ここで、ラッド先輩は、法廷義認的な義認論と思えることが記述が、無罪という言葉で書かれているが、むしろ重要なのは、「主観的倫理的な本質のものではない。それは信仰者が全ての人の審判者と正しい関係に入っている、と神が宣言する客観的な関係のことである」という指摘は極めて重要でないか、と思う。つまり、福音という語のユーワンゲリオンの語義は、よい宣言であるが、それは、神の側の宣言であり、「神である私があなたとともにいたい」という宣言であるように、「神がこのものを私にふさわしく、私とともにいるものである」と宣言するものであり、人間の側の事情とはあまり関係しないものではないだろうか。案外、この部分の誤解は、多いのではないか、と愚考する。

    十字架上でおきたこと
     十字架上で起きたことは神と人との和解であり、それがいかなる意味を持つのか、どのようにして起きたのかは、われわれの領分のことではなく、神の領分のことではないだろうか。この十字架でイエスが息を引き取ったその瞬間に、神と我らの和解が成立したのではないだろうか。よくわからないけれども。

     しかしキリストの死において、神はご自身のを示された。それを扱うのに値する通りに罪を扱われた。
     ここに奥義がある。十字架上で何が起こったのか、私にはわからない。それは人間の想像力の限界を超えた領域に及んでいる。しかしイエスの死において、イエスは私の死を被った。(同書 p.137)

     しかし、この部分で気になったのは、「扱われた」という訳語である。原文を読んでないとわからないのだが、おそらくHandleではないかと思うが、もしHandleであるとすれば、処理する、対応する、あるいは手の中に落ちた、とした方がよかったかもしれない。要するに、罪の問題が神の手の中で適切に対応され、神との和解と神と一体となることが実現した、という理解なのではないか、と思う。

     次回も8章の後半部分をご紹介する。




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