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2015.05.04 Monday

ラッド著 安黒訳 『終末論』を読んだ(4)

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     なお、以下の文章は、所属教会及び所属キリスト者集団の公式見解ではなく、特段断らなくとも、通常の読者ご賢察のとおり、ミーちゃんはーちゃんの個人的な理解と思いを記したものである。

    復活の特性について

     さて、今日も、ラッド先輩の「終末論」の第7章 復活と携挙から、少し考えてみたい。まず、ラッド先輩は、旧約聖書にも復活の記述がみられ(死者の復活問題はサドカイ派とパリサイ派はお互いに議論を紛糾させる原因となったことは新約聖書に記載されている。ただし、実態としては、聖書理解の名を借りた権力闘争だと個人的に思っている)、新約聖書にはそれをさらに明らかに死者の復活があったということの記述がある。ラッド先輩は、イエスの復活について、議論をしている。その部分を引用してみたい。
     福音書の説明から浮かび上がってくる3つの事実は以下のものである。同一性―中心点である。復活されたイエスは十字架につけられ、葬られ同じイエスであった。連続性―イエスは、身体的な感覚に衝撃を与える肉体を以てよみがえられた。後述するように、パウロは復活の身体的性質を主張している。非連続性―イエスは肉体を以てよみがえったが、それは同じ肉体ではなかった。新しい力を保有し変貌させられた肉体であった。(終末論 p.116 太字部分は傍点が付されている 以下同様)
     復活のからだの特徴について、ラッド先輩は「同一性」・「連続性」・「非連続性」があることを御指摘である。この理解は案外大事かもしれない。われわれは、3つの特性のうちどれか一つのみが起きると無意識的にアプリオリに考えているかもしれない。同一性鑿を強調したり、「連続性」鑿を強調したりするかもしれない。しかし、将来はどうなるのか、ということはよくわからない、と言わざるを得ない。まぁ、それをどれだけ議論したとしても、創造の域を出ないことばかりであり、得られることは喧騒と対立だけの気がするので、「わからないものはわからない」ということでいったん保留するほうが適切な態度だと思う。全部がわかる、とするのは個人的には人間の傲慢ではないか、と思う。

    サドカイ派の混乱とイエスの復活
     個人的にはNTライト先輩やジョン・H・ヨーダー先輩に心酔してたり、アリスター・マクグラス先輩がりスペクトしていたりするために、「リベラル派」という実にありがたいラベルを張っていただくこともあるが、個人的には、上記の先生方もお認めの様に、復活は事実起きたと思っているし、それがキリスト教の根幹をなすと思っている。聖書の権威性を認めない、近代思想の支配された結果、復活の事実まで否定するリベラル派であると、ミーちゃんはーちゃん自身は、自分自身のことに関して思っていない。イエスの復活の辺りに関しては、これまたミーちゃんはーちゃんが東京まで講演を聞きに行った、ボウカム先輩のイエス入門を読まれることをお奨めする。なお、この講演会で最近物故者となられた、故植田真理子先生が講演会前にエアコンの前に張り付いておられるのを目撃したという衝撃の経験をした。

     個人的には、「復活のないキリスト信仰」はクリープを入れないコーヒーより格段にまずいと思う。この復活がないと困ることを、サドカイ派の人々の発言から、ラッド先輩は次のようにお書きである。

    使徒の働きは、サドカイ人たちが、「ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例に挙げて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て」(4:2)と語っている。(中略)復活についてユダヤ教には広範で多様な見方が存在していた(Ladd, I Believe in the Resurrection of Jesusを見よ)。それではなぜ、イエスの弟子達―つまりこの新しいメシアを奉じる宗派が復活を宣べ伝えたことに、サドカイ人は困惑したのか。
     答えは、その弟子たちが単なる未来に対する望みという教理を宣べ伝えたのではなかったという事実にある。弟子たちは未来を保証する現在の出来事を宣べ伝えていた。イエスにおいてなされた死者の中から復活を宣べ伝えていた。いまや復活は単なる未来の出来事、教理、望みではなかった。復活は彼らのまさに只中で起こっていたのである。もし彼らの宣べ伝えていたことが事実であるのなら、それは反論の余地のない形でサドカイ人の教理を否認したことになるのである。(同書 pp.118-119)
     この部分を読みながら、「いまや復活は単なる未来の出来事、教理、望みではなかった。復活は彼らのまさに只中で起こっていたのである」という部分は、先にもご紹介したイエス入門でボウカム先輩がおはなしになったことと、基本的に通底していると思う。この同時代性というか、この確信というのが、弟子達の活動の原動力になったし、単に「実際見たんだからさぁ、言いたいだけじゃん」とあまり深くも考えずにやっていたのがイエスのエルサレム付近にいた弟子たちの実際ではなかったか、と思う。そして、そのことを直接目撃できなかったパウロは、私のように月遅れのものと、実に後々まで、彼にとってのセンティメントというか、使徒職に就いた初代の弟子たちとの確執のもとというのか、使徒であることにまつわる後ろ暗さを抱えていたような気がする。

    人間と神との関係
     神が人の近くに来た、人の近くにともにいるという概念、イエスは、インマヌエルと呼ばれるべきであるとされたということは、キリスト教の根本概念を支えていると個人的には思っている。そのために復活は必要であったし、イエスは、そして神御自身は、その実存そのものを弟子達に具体的に示す必要をお感じになられたとは思うのだ。

     しかし、神への信仰はなぜイエスの復活への信仰にかかっているのだろうか。
     答えは明らかである。聖書の神は人間から遠く離れ、超然としている神ではない。長期にわたる一連の歴史的な訪れを通して人間に近くおられる神である。ある学者は、旧約聖書の神を「やって来る神」として描写している。新約聖書が帰しているのは、神のこの自己掲示が、受肉において―御子において私たちに語られた言葉において、全き形でもたらされたということである。「言葉は人となって、私たちの間に住まわれた」のである。(同書 p.120)


     これと同様の視点を、「富士山とシナイ山」で小山先生は別の事例をもとにお書きである。このことは、「『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(2)」の「現代日本における天国意識」で御紹介した通りである。
     神が人と共に住むというヘブライ人には理解不能な出来事が、御生誕でも発生し、復活でもさらに発生し、我々の人間の世界で生きられたし、今も我々と共に生きている、汝とともに生きたいと神御自身がおっしゃられることこそが、まさに聖書の主張であることを、ラッド先輩はおっしゃっておられるように思う。

    ギリシア人は肉体意識と復活
     ギリシア人は、肉体を悪しきものと見てなかったことは、エピクロス派なの度の哲学を見てもわかるが、ストア派の哲学を見ると、魂の修練とのかかわりで肉体が髭されていたことが分かる。ストア派にせよ、エピクロス派にしても、人格の父子というのは、理念系の哲学というのか、概念構成というか、ある個人の思想の結果生み出された哲学としての不死であったのではないだろうか。そのあたりに関して、このように書いておられる。
     ギリシア人は、肉体を実際に悪しきものと見てはいなかったが、魂の修練を妨げるものと見ていた。賢者とは、魂の修練において肉体を鍛錬し、抑制する人のことである。人格の不死の思想はギリシア人につまづきを起こさなかった。しかし肉体の復活の思想は、ギリシア人には容易に受け入れることのできない真理であった。(同書 p.122)
     これに関連して、第1コリントでは次のように書いてある。
    【口語訳聖書】 一コリント
     1:22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
     1:23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
     1:24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
    ギリシア人が求めたものは、人格の不死というよりは知恵の不死ではなかったろうか。しかし、それは、ユダヤ的な神の力ではなく、「神の知恵」とヘブライ社会で呼ばれるものは一味違ったものであったように思うが、キリスト教がヨーロッパを通ることで、この知恵とギリシア的な知恵が混乱し、あるいは習合したのではないだろうか。
     この辺りのことは、山崎ランサム先生の御国を来たらせたまえ(2)を参照されることをお奨めする。

    ギリシア的な霊とヘブライ的な霊と身体性
     ギリシア的な霊性あるいはギリシア的な霊の概念というのは、人間の肉体とある程度分離可能なものであると考えられていたのではないだろうか。現代の日本人の霊性理解も、それに類するものである。この辺りのことに関して、ラッド先輩は次のようにお書きである。

     パウロは、このことを血肉の体で蒔かれ、霊的な〔訳注 RSV.新改訳では「御霊に属する」〕からだによみがえらされる(15:44)と要約している。パウロが使用しているギリシヤ語を字義どおりに翻訳することは不可能である。「魂の(Soulish)からだで蒔かれ」という訳は英語では何の意味もなさない。ここにおいてパウロが言わんとしていることは、それは生命が吹き込まれたからだ、人間の霊魂のいのち(プシュケー)に似つかわしいからだであるということである。それはプシュケーからつくられたからだではない。同様に、復活のからだは、霊から造られたからだではない。それは、神の御霊によって変貌させられ、神の御霊の新しい世界に似つかわしいからだとしての「霊的」からだである。これらの事実を勘案すると、魂のからだという言葉の最良の翻訳は「血肉の」からだ、つまり、現在の弱く、衰え、死へと運命づけられた血肉のからだである。ある人々は、もし「血肉」を持つ復活のからだを信じていないなら、本当のところは聖書を信じていない、と考える。復活とは肉体の復活なのか、というところに問題の核心があり、パウロはこの点に疑いの余地を残していない。(同書 p.124)
     ヘブライ的な霊性は、肉体と分けて考えることが出来ないように出来ている。創世記2章に出てくるが、創世記2章の中では、人に神の息吹〈ルーアッハ〉が吹き込まれることによって人間となっているし、いのち概念とルーアッハは非常に深い関係性の中にあるように思われる。その意味で、人の血肉といのちと魂〈ルーアッハ〉は非常に密接に結びついているように思えてならない。そのことを、ラッド先輩は、「魂のからだという言葉の最良の翻訳は「血肉の」からだ」であるという御指摘なのだろうと思う。

     しかし、「もし「血肉」を持つ復活のからだを信じていないなら、本当のところは聖書を信じていない」とは、ラッド先輩手厳しい。この辺りのことは、Surprised by HopeでもNTライト先輩がふれていることと、非常に深い関係があるし、ダラス・ウィラードの「心の刷新を求めて」でふれられていること、とも深いかかわりがあるように思う。

    不信者の復活はあるか? 

     これまた、非常にいやらしい問題を含んでいるものであるが、日本のような非キリスト教世界の中では大きな問題を意味合いを持つ問題である。

    パウロの書簡における一つの問題は、不信者の運命について全く言及がないことである。パウロが生徒たちの復活をキリストの復活にきわめて密接に関係づけているので、悪しき者の運命は墓の中に残されたままに違いない、と結論しがちである。
     しかし、他の聖書箇所ではこの点に言及されている。(中略)ヨハネ福音書は、全ての人の復活に関し、さらなる証言をしている。イエスはこう語っておられる。「このことに驚いてはなりません。墓の中にいるものが皆、この声を聞いて出てくる時が来ます。善をおこなったものは、よみがえっていのちを受け、悪を行ったものは、よみがえって裁きを受けるのです」(5:28-29)。私たちは、あるものは「永遠のいのち」に、ある者は「そしりと永遠の忌み」に目を覚ます、とあるダニエル書12章2節を思い起こす。ダニエルとヨハネが二つの復活を予期しているなどということは不可能である。(同書 p.128)
     この部分に関して、不信者も復活があることをラッド先輩はお書きであり、その意味で、現在日本のキリスト教世界でも、そしてアメリカの中でも広がっている天国理解が以下に課題があるものであるかをきちんとご指摘である。

     また、この辺りの記述を見ていると、死者がすぐに天に昇るという希望的観測とか、天で地上を見守っている死者とかは、非常にナンセンスではないか、と思う。そのような本を、Maria Schriverというシュワちゃんの元奥さん(家政婦に手を出して切れられて離婚されてしまった)が本を書いているが、まぁ、昔、ちっとは流行したスピードワゴンの井戸田氏のギャグである「あま〜〜〜〜〜〜い」といいたくなるような内容らしい。そのあたりのことも、他のキリスト教の先輩から伝統的に伝えられたことや、讃美歌に書いている内容からではなく、もう少しきちんと聖書のテキストから考えないとまずいかなぁ、と思っている。個人的には、讃美歌を聖書注解書が割にして、自分自身の聖書理解の根拠にするのは絶対にまずいんじゃね、と思っている。



    シュワちゃんの元奥さんが書いた天国本



    著者のMaria Schriver氏
    (西宮と縁もゆかりもなかった『ののちゃん県議』のまねをしているわけではありません)


    スピードワゴンの流行りネタ 「甘い言葉」

     この辺りのことをお尻になりたい方には、山崎ランサム和彦先生の主の祈りについての「御国を来たらせたまえ(1)」の記事が大変参考になるのではないか、と思っている。



    評価:
    価格: ¥2,052
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:薄いけど、キリスト教の根幹にかかわる極めて大事なことが書いてある本。お勧めする。

    評価:
    ダラス・ウィラード
    あめんどう
    ¥ 2,592
    (2010-03-30)
    コメント:読みやすくはないが、非常に重要な本だと思う。

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