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2015.04.27 Monday

ラッド著 安黒訳 『終末論』を読んだ(3)

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     なお、以下の文章は、所属教会及び所属キリスト者集団の公式見解ではなく、特段断らなくとも、通常の読者ご賢察のとおり、ミーちゃんはーちゃんの個人的な理解と思いを記したものである。

     さて、今日も、Ladd先輩の「終末論」の第6章反キリストと大艱難から、少し考えてみたい。 

    第6章 反キリストと大艱難から
     ディスペンセイション説の根幹をなす聖書理解の根底となったダニエル預言の解釈について、ラッド先輩は次のようにダニエル書を引用しながら、お書きになっている。なお、原文では新改訳聖書が引用されていたが、ミーちゃんはーちゃんは口語訳を利用している点が違う。その点は御容赦賜りたい。

    口語訳聖書 ダニエル書
     9:24 あなたの民と、あなたの聖なる町については、七十週が定められています。これはとがを終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです。25 それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。26 その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません。またきたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終りは洪水のように臨むでしょう。そしてその終りまで戦争が続き、荒廃は定められています。27 彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」。
    この箇所は、ディスペンセイション主義者によって反キリストとイスラエルとの関係の観点から解釈されている。一つの国民としてパレスティナに帰還したイスラエルが神殿を再建し、いけにえの制度を再考することが当然のことと思われている。反キリストは最後の7年間(1週は7年であると考えられる)にイスラエルと契約を結ぶ。しかし、その7年間の半ばに反キリストは契約を破り、エルサレムのいけにえとささげものとをやめさせ、ユダヤ人に対しひどい迫害を始める。ディスペンセーション主義による解釈を施されたこの箇所は、ディスペンセーション主義の終末論の体系の基礎をなしている。
     しかしながら、この解釈が正しいものであるかどうかは全く明らかになっていない。福音主義に立つ学者の多くは、その言葉の解釈として、終末論的な解釈よりも、メシヤ的な解釈のほうが適切であると理解している。それは神の贖いの目的を明らかにしている。(終末論  pp.89-91)
     しかし、「ディスペンセーション主義による解釈を施されたこの箇所は、ディスペンセーション主義の終末論の体系の基礎をなしている」とは、まぁ、手厳しい。確かに、この説にはまった人の聖書は、ダニエル書とエゼキエル書と黙示録だけが他に比べて開かれる回数が異様に多い場合があるので、この部分だけ聖書が手あかで黒くなったり、他のページよりこの部分の頁が飛び出したりしていることが少なくない。

     その上、「この解釈が正しいものであるかどうかは全く明らかになっていない」ですって。私が言ってんじゃないですからね。ラッド先輩がそうお書きなだけで。

      まぁ、もうちょっと穏やかに言うなら、「このディスペンセイション的な解釈は、仮説であって、検証が必要な解釈である」ってぐらい私なら言うでしょうけどね。基本的に聖書が、ヘブライ語のカタカナ表現でメシア、ギリシア語のカタカナ表現でキリスト、日本語で言えば、購い主、王の王、「昔いまし、今いまし、後に来られる方」のことって理解のほうが大事なのではないかなぁ、と思うのだなぁ。そして、より重要なこととしてラッド先輩がおそらくおっしゃりたいのは「これはとがを終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです」という部分のほうに着目があるべきだ、という趣旨の主張であろう。個人的にも、このダニエル書の引用部分は以下のイザヤ書61章のかかわりで読まれるべきではないか、と思っている。

    口語訳聖書 イザヤ書
     61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、
     61:2 主の恵みの年と
     われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、
     61:3 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために
     植えられた者ととなえられる。
     61:4 彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、さきに荒れすたれた所を興し、荒れた町々を新たにし、世々すたれた所を再び建てる。
     61:5 外国人は立ってあなたがたの群れを飼い、異邦人はあなたがたの畑を耕す者となり、ぶどうを作る者となる。
     61:6 しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神の役者と呼ばれ、もろもろの国の富を食べ、彼らの宝を得て喜ぶ。
     61:7 あなたがたは、さきに受けた恥にかえて、二倍の賜物を受け、はずかしめにかえて、その嗣業を得て楽しむ。それゆえ、あなたがたはその地にあって、二倍の賜物を獲、とこしえの喜びを得る。
     61:8 主なるわたしは公平を愛し、強奪と邪悪を憎み、真実をもって彼らに報いを与え、彼らと、とこしえの契約を結ぶからである。
     61:9 彼らの子孫は、もろもろの国の中で知られ、彼らの子らは、もろもろの民の中に知られる。すべてこれを見る者は
     これが主の祝福された民であることを認める。
     61:10 わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。主がわたしに救の衣を着せ、義の上衣をまとわせて、花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである。
     61:11 地が芽をいだし、園がまいたものを生やすように、主なる神は義と誉とを、もろもろの国の前に、生やされる。
    終末論と終末計算
     仕事柄、数学は時々お世話になるのだが、終末理解は、終末の日の確定にかなり熱心に御取組みであるものの、ミーちゃんはーちゃんには理解不能な算法をご使用になられる場合が多い。字義通り解釈といいながら、突然、週が年になったり、日が年になったりと、まぁ、いろいろ単位系が変わる。科学者や工学的実務家にとっては単位系、あるいは測度と呼ばれるものは思索をする際の基準であり、「いのち」なのである。それがころころ変わる、それも時代やその人の御都合や、再臨が来たり来なかったりするという理由でころころ変わってはならぬものであるのだ。そもそもそんなことをやり始めたら、トートロジー的な無限ループに入ってしまう。

     以下の動画で紹介するクロノメーターという航海に用いる時計ができるまでは、カンと印象に基づき航海したので、座礁する艦船が後を絶たず、クロノメーターがなく、経度がよくわかってない時代の航海術の結果、多くの死者が出た。下の動画の冒頭10分は、その様な当時のカンと印象に基づく航海時代を描いている。なお、動画で紹介した映画そのものは、そのような時代に世界で初めてのクロノメーターを作ったハリソン父子と、数百年後にそのクロノメーターを修復するイギリス人の元軍人の物語を描いた映画である。長いので、最初の6分間を見るだけで十分だと思う。


    Longitudeというクロノメーター製作者に関するドラマ

     その時代預言の計算に関して、ラッド先輩は次のように言っておられる。

     マタイの福音書24章は、3つの部分にわけられる。3-14節は終わりにいたるまでの時代の特徴を描写している。その主要な主題とは、神の国とキリストの再臨以前には確立されていないということである。戦争、飢饉、自身、偽キリストがこの時代を特徴づける。(中略)しかしながら、その様な出来事は、世の終わりがどのぐらい近いかを計算できるようなしるしを意味しているのではない。(同書 p.93)
     しかし、ラッド先輩、手厳しい。「戦争、飢饉、自身、偽キリストがこの時代を特徴づける。・・・しかしながら、その様な出来事は、世の終わりがどのぐらい近いかを計算できるようなしるしを意味しているのではない」ですって。なんか、世の終わりの近さを計算するに全能力をおかけになり、研究されているその姿は尊いとは思うが、上のLongitudeの冒頭で出てくる英国海軍提督のように、「自分はこう思う」という提督の御見解に対して無条件に同意することを他の艦長たちに求め、挙句の果てに座礁して、Her Majesty Ships か His Majesty Ships を沈め、多くの犠牲者を出した提督の姿と、この説とそれにもとずいた奇妙な算法、即ちミーちゃんはーちゃんに理解不能な算術で終末の実現日を御高唱なさり、信仰の破船に多数の方をお導きなっておられる方々の姿が重なってしようがなくて、上のLongitudeという動画を見ることがちょっとつらかった。

    反キリストとキリスト者の困難

     米国や英国は、キリスト教がでかい顔している社会であるし、英国は、キリスト教会と国家が蜜月であった時期があった。しかし、日本ではそういう環境にない。江戸初期のキリシタンがどこまでキリストを理解していたか、聖書を理解していたのか、ということはかなり謎であることは、以前このブログの中のこの記事「カクレキリシタンの実像」から、現地化の問題を考えた でもご紹介したが、困難の中や政治的社会的圧迫の中におかれたキリスト者にとって終末は希望になる。レヴィナスを起点に19世紀から20世紀にかけてのユダヤ人神学者の研究に着手しないとまずいかなぁ、と思っているのだけれども、未だできていないが、今読んでいる範囲ではどうもユダヤ的な(そもそもユダヤって何か、って言い始めると収拾がつかなくなるので、その辺はごにょごにょとで御容赦賜り度)社会の中で、この脱世界的な終末論があまり見られないのはなぜだろうと考えている。

     「そのときには、世のはじめから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもない追うな、ひどい苦難があるからです」(マタ24:21)とあるように、反キリストの出現は、イエスに従う者たちへの恐るべき迫害の開始となる。これが「大艱難」という語の元となった。ここで注目すべき点としては、新しい性質のものは何もないことである。イエスはすでに、弟子たちに世に在っては迫害を予期すべきであると語っていた。(同書 p.95)
     このラッド先輩の議論で重要なのは、「注目すべき点としては、新しい性質のものは何もないことである。イエスはすでに、弟子たちに世に在っては迫害を予期すべきであると語っていた」という御指摘ではないだろうか。山上の説教の中でも、このように言っておられる。
    口語訳聖書 マタイ福音書
     5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
     5:12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
     基本的にこの部分は、信仰者の預言者性をナザレのイエスは御指摘なのではないか、と思う。ある面、神の支配の中に生きるのは、一種の預言者性を持つということではないか、と思う。とは言いながら、米国や英国では、キリスト者であることは預言者性を持ちえない。このことは、この間、枚方市で開かれた牧会者を中心としたあつまりの中で、メノナイト派の方が来ておられて、メノナイトは迫害されて何ぼ、みたいなものがその信仰体系のどこかにある、ということを言っておられた。その意味で、ヨーダー先生のご主張というのは、実にメノナイト的なのだ、ということを思った。そして、米国のメノナイト系教会に行くと、日本のメノナイトは、日本的で異教的な世界にある日本のメノナイト教会こそ、真にメノナイト的って言われて、結構ドン引きする、というようなご主旨のことをおっしゃっておられた。

     というのは、米国でキリスト者であることは、あまりに至極当たり前のことでありすぎ、中には、自分たちはアメリカ人だから無条件にキリスト者だと思っているという人々を生み出すほどだからであり、その中で社会に異論を唱えるというメノナイト的精神性というのは限られるからである。
     そのことに関して、このようにラッド先輩はお書きである。

     米国においては〔キリスト者であるからと言って〕、敵意を経験することはほとんどない。実際、多くの都市において、教会の会員であることはビジネスや社会的立場に有益である。この事実は、神の民が圧倒するような迫害で苦しむことをおそらく神は赦されないだろうと油断させ、多くのクリスチャンを歌種に陥らせる。彼らは教会が第艱難のはじまる前に起こる携挙において、世から取り去られる「艱難前携挙」の教理に対する信仰を大切にしている。(同書 p.96)
     アメリカ人的な感性からすると、自分たちの国は神の国だと思っているので(この辺りは、リチャード・ニーバーのアメリカにおける神の国をお読みになられることを強くお勧めする)、艱難に会うことすら想定したことがなく、その面で、アメリカ経由のキリスト教の場合は、それが与件というか前提になっており、それでしか解釈しない傾向はあると思う。

    艱難時期は仮説か、一義的に定義可能か?
     艱難解再臨の関係は、実はあまり明確ではない可能性があることに関して、ラッド先輩は次のようにお書きである。

    ジョン・ワルブード博士はこの本〔引用者註 Ladd(1956)〕に応答する形で、「真相は、艱難後再臨説も、艱難前再臨説も双方とも聖書においてはあいまいなものを一切残さない明白な教えではないということである。聖書はどちらか一方であるとははっきり明言しているわけではない」とかいている。」(同書 pp.96-97)

     ラッド先輩によれば、Walvourd(1957)では、「艱難後再臨説も、艱難前再臨説も双方とも聖書においてはあいまいなものを一切残さない明白な教えではないということである。聖書はどちらか一方であるとははっきり明言しているわけではない」とは書いているものの、再刷以降では、この記述が消えていることが同書で指摘されていた。Walvourd先生も、強硬なご批判を受けて、あえてチャレンジングなことを書かなくとも、ということになられたのかもしれない。でも、わかんないものはわかんない、というのは素朴な立場で、一番まっとうだし、一番学問的な立場だと思うが、それを赦さないのが、森本あんり先生がお書きになったアメリカ社会における『反知性主義』ではないか、と思う。アメリカには、知性の塊のような大学もあるが、基本その国民の大半に、反知性主義と言われても仕方のないような考え方が跋扈する社会ではあることは、数年住んで現地の地方紙を読み、地元民のかなりの部分の人々と触れてみればよくわかるのだが。

    神の支配(神の国)と人間

     最後に世俗国家の一つにすぎないイスラエル国が何をしようと、何でもいいからイスラエルを支持すべきだとかいいかねない反知性主義的な親イスラエル論者の方は、次のラッド先輩の表現をどう考えるのであろうか。

    神の国は人の手によっては建てあげられず、歴史によっても生み出すことはできないということである。(同書 p.98)
     これは、旧約聖書から一貫して流れるテーマである。勝手に神の領分にはいって行って、自分自身で神の栄光と思うものを縦あげようとして行った人々の末路をエゼキエル書は、こんなふうに表現しておられるのではないだろうか。

    アッシリアの墓は穴の最も深い所にあり
    その周りには仲間たちの墓がある。彼らは皆、剣で殺され、倒れた者
    かつて、生ける者の地で恐れられていた。
    そこには、エラムとそのすべての軍勢がいる。彼らの墓はその周りにある。彼らは皆、剣で殺され、倒れた者
    割礼のない者で、地の最も低い所に下って行く。生ける者の地で恐れられていたが
    穴に下る者と共に恥を負う。
    殺された者たちの間に、床が設けられた
    エラムとそのすべての軍勢のために。彼らの墓はその周りにある。彼らは皆、割礼のない者、剣で殺された者。生ける者の地で恐れられていたが
    穴に下る者と共に恥を負い
    殺された者の間に置かれる。
    そこには、メシェクとトバルと
    そのすべての軍勢がいる。彼らの墓はその周囲にある。皆、割礼のない者、剣で殺された者。生ける者の地で恐れられていた。
    彼らは、遠い昔に倒れた勇士たちと共に
    横たわることはない。この人々は、武器をもって陰府に下り
    剣を頭の下に、盾を骨の上に置いていた。これらの勇士は
    生ける者の地で恐れられていた。
    お前は割礼のない者の間に
    剣で殺された者と共に
    打ち砕かれて横たわる。
    そこには、エドムがその王たちと
    すべての君侯たちと共にいる。彼らは力をもっていたが
    剣で殺された者と共に置かれ
    割礼のない者、穴に下る者と共に横たわる。
    そこには、北のすべての君主たち
    シドンのすべての人々がいる。彼らは殺された者と共に下る。彼らはその力のゆえに恐れられていたが
    辱められ、割礼のない者、剣で殺された者と
    共に横たわる。彼らは、穴に下る者と共に恥を負う。
    ファラオは彼らを見て
    失ったすべての軍勢について慰められる。ファラオも、そのすべての軍隊も剣で殺されたと
    主なる神は言われる。
    まことに、わたしは生ける者の地に
    恐れを置いた。ファラオとそのすべての軍勢は
    割礼のない者の間に
    剣で殺された者と共に横たわる」と
    主なる神は言われる。
    (口語訳聖書 エゼキエル32:23-32)
     私の聖書が間違っているのだろうか、それとも、親イスラエル論者の方の聖書には、別表現されているのだろうか。きっとそうに違いない。


    追記

     LaddのA Theology of the New Testamentに関して津の「のらくら者」の方が面白いことを御教示くださった。
    最近は I. H. マーシャルの新約神学が標準的な教科書なのだろうか。それでも、ラッドの本(A Theology of the New Testament)は依然その価値を失っていないと思う。ドナルド・ハグナーによる改訂版(1993年)には、ウィクリフ・ホールから当時2人の教師が協力した。D. A. Hagner と D. Wenham は、F. F. Bruce 門下の兄弟弟子の間柄である。

    おお、そんなこともあったのか。賢くなった。しかし、なんでしょうね。Laddに協力する、このディスペンセイション仮説を産んだプリマス・ブレズレン派でありながら、世界的に高名な新約学者F.F.Bruce先輩のお弟子の方が、関係しているってねぇ。Bruce先輩はあまりディスペンセイション説に好意的でなかったと聞き及んでいる。

    参考文献

    Walvourd, J.(1957), The Rapture Question, p.148, Dunham. 



    評価:
    ジョージ・エルドン・ラッド
    いのちのことば社
    ¥ 1,944
    (2015-03-03)
    コメント:お勧めしている。ディスペンセイショナリスト的終末論の問題の指摘をしておられる。

    コメント
    >Her Majesty Ships か His Majesty Ships

     主題とは全く関係ございませんが、ジョン・ハリソンの年代と重ね合わせますとHer Majesty Shipsが該当することはまずあり得ないことではないかなと・・・

     参考
    ジョージ1世(1714年 - 1727年)
    ジョージ2世(1727年 - 1760年)
    ジョージ3世(1760年 - 1820年)
    • ひかる
    • 2015.05.01 Friday 09:56
    ひかる様

    コメントありがとうございました。現在の英国海軍のことを類推して、HMSをHer Majesty Shipだと言いだす方が出かねませんので、HMSの解説にHer Majesty Shipを入れておきました。

    ご指摘の通りHis Majsety Shipが正しい表記ですし、そのことは映画の中でも出ておりましたし、熟知しておりましたが、現代に生きるHer Majesty Shipしか知らない提督ども(うちの息子は最近艦コレに始まって、提督気取りが激しい・・・)のために書いておきました。

    いや、最近は、バルバスバウの設置による造波抵抗の低減が…、流線型改良による船体の対地速度が…リベット溶接とアーク溶接がどうたらこうたら・・・・、とか、マニアックな話で家庭内で盛り上がるものですから、家内が唖然としております。

    コメントありがとうございました。


    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2015.05.01 Friday 10:38
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