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2015.04.20 Monday

緊急公開 「福音主義イスラエル論」を聞いてきた 福音主義神学会西部部会 2015 春季分科会参加記

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     福音主義イスラエル論について、ラッドの『終末論』をお訳しになられた安黒務先生がお話になるので、聞きに行ってきた。

    安黒先生の取り組みの出発点
     安黒先生の出発点は、ある神学生からの「イスラエルを祝福のために祈れを現代の日本におけるキリスト者としてどう考えたらよいのか?」という問題点から出発した、安黒先生のディスペンセイション神学を巡る思想のごくごく一端のご紹介に終わってしまった。

     イスラエルの祝福を祈るというのは、「世俗国家としてのイスラエルをどう考えるのか?」という問題と実に密接に結びついており、ユダヤ人と一口に言っても、実に多様な人々からなっており、ユダヤ人でも、超保守のウルトラ保守の厳格主義のユダヤ人から、トーラーを何とも思っていないリベラルなイスラエル人もいるし、ヘブライ語をしゃべらないアラブ系のイスラエル人も含むのが、世俗社会のイスラエルである、と安黒先生はおっしゃっておられた。

    現実の世俗国家としてのイスラエル国の多様性
     なお、一応、イスラエルの公用語は、ヘブライ語とアラビア語であるし、多民族国家なのである。このあたりのことは、仲良くしていただいているイスラエルの海岸ペタにある学校で教えておられるレビ先生からも教えていただいているのだが、福音派の中では、こういう理解している人はミーちゃんはーちゃんのその周辺では少ないような気がする。

    聖書理解の分類学
     この世俗国家としてのイスラエルをどう理解するかであるが、神学軸の方向性としては、ディスペンセイション主義聖書理解(神学)を南に置きと北に契約主義聖書理解(神学)をおいて、横軸に社会学的軸を置いた分析軸による理解を提示をされた。聞き取った限りは、バーガーさんという方の神学的分類法らしい。

    安黒先生ご提示の分類学

     個人的には、神学的な縦方向の分類軸が、これでいいのか、また、その語を用いるのが適切なのかどうか疑問であると思っている。


     まぁ、こういうのは、マーケティングの世界でもPPMと呼ばれる有名な図がある。PPMとは、以下のPuff the Magic Dragonを謳ったグループではない。



    PPMという分類法

     PPMとは、プロダクト・ポートフォリオ・マーケティングとよばれ、自社製品群をどう考えるかに関する図回峰である。このような分類法は、コンサル業界では、よくある分類法であるが、欠点もあるので、そのあたりは少し考えた方がいいかもしれない。


    Marketing Campus様の図
    オリジナルは http://marketing-campus.jp/lecture/noyan/040.html

     旧約聖書は、イスラエルの歴史とイスラエルの歴史と未来の救いであり、新約聖書は、教会の歴史と未来の救いとして理解できる、そうしないと、教理がまぜこじゃになってわかりにくいものになる、と安黒先生はおっしゃっておられた。

    新たな単純化と誤解が出るかも?

     しかし、この話を聞きながら、ここまで単純化して、新約聖書と旧約聖書とで内容が違うといっていいのか?と思っていたら、鎌野先生と金井望先生がすかさずツッコミを入れておられた。また、塩水と真水論で旧約聖書から新約聖書の漸進的一体性を説明しておられたが、この説明砲で本当にいいのかなぁ、と思ってしまった。個人的には、このようなメタファーでは不十分だと思う。特に、わかりやすいからといって、単純化することに潜む重大な欠点があるのではないか、と思うのだ。わかりにくいものを分かりにくいままで、理解しようとすることは案外大切ではないか、あまりに単純化すると、新たなるディスペンセイション主義理解もどきを作っているだけではないか、と思うのだ。

     安黒先生は北と南を分ける軸が、使徒的聖書解釈であるということであるが、基本的にマクナイトの理解はこの使徒的聖書解釈に固執すべきで、それより先に行く、ということではなかったような気がする。安黒先生はこの使徒的聖書解釈をより延伸して、その部分を契約主義聖書理解と読んでおられて、それに向かうのがよいと思っておられるらしい。

    キリスト教シオニズムとのかかわり

     キリスト教シオニズムをディスペンセイション主義的聖書理解 VS 契約主義聖書理解でとらえておられたが、個人的には、神学の対比軸の方向性でいいのか?とは思った。というのは、通常用いられる契約主義聖書理解とは違いがあるものを、安黒先生がおっしゃっておられる分類軸は示しているのであり、誤解を生じかねないからである。どうもこの分類の軸の設定の仕方は、サイザーという人によるものらしい。 

     北西の隅のAの契約主義的な聖書理解では、使徒的な実践(つまり、困ったユダヤ人を異邦人が助けるとか、ユダヤ人と異邦人も神が一つであると認め、それぞれが共に、社会の中で生きる権利を保障するという実践)が可能になるということらしい。それだけのことのために、わざわざ契約主義的聖書理解という形で称することにどれほどの意味があるのだろうか、というのがミーちゃんはーちゃんによる素朴な疑問であった。

     世の中には、キリスト教パレスティアニズムというのもあるので、このあたり、どう考えるかは安黒先生がご提示なる図では不十分ではないか、と思う。まぁ、よく研究されている方だとは思うが、ちょっと不満点もあった。それはミーちゃんはーちゃんが、理解が足らないからだろう。

    ラッドの本の位置づけ

     ラッドの終末論の本は、ディスペンセイション主義が起こした結果の問題に関するターゲット絞った特殊な内容であり、より一般的なものではない、ということらしいが、ラッドの本を読む限りはそうとも言えない部分も主張しているような気がするのは、ミーちゃんはーちゃんの気のせいかもしれない。

    質疑応答から

     質疑応答の中では、ディスペンセイション主義は、日本のキリスト教のかなりの部分に教理と不可分な形で、入り込んでしまっていて、また、現実の聖書理解を社会状況の中で、変質させた実にさまざまなバリエーションがディスペンセイション主義理解の中にあるので、その点は注意すべきで、一番の原型になった、ジョン・ネルソン・ダービーのディスペンセイション主義を理解すべきだ、ということを安黒先生は、おっしゃっておられた。

     パッションがおありで、熱弁を振るわれたのはよくわかったが、どうせならもうちょっと、注目点を絞って、Coolに何が問題になるかをきちんと説明された方がよかったように思うご発表ではなかったか、という印象を持った。

     なんか、バルトがバルメン宣言書いた時と同じような気持ちであるということをおっしゃっておられましたが、それにしても、もうちょっとクールでもよかったかなぁ、と。バルト先輩が今日の安黒先生の思いを聞かれると、頭を書きながら、「いやぁ、それは・・・」といわれそうな気がする。


    労働の意義に関する講演は、近日中に別途改めてご公開の予定
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