<< 『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (17) | main | 緊急公開 「福音主義イスラエル論」を聞いてきた 福音主義神学会西部部会 2015 春季分科会参加記 >>
2015.04.20 Monday

ラッド著 安黒訳 『終末論』を読んだ(2)

0


    Pocket



     以下は、個人の感想であり、所属教派、所属キリスト者集団、所属キリスト教会(集会)の主義主張とは必ずしも一致しないものであることはあえて一言触れておく。

    不幸な論争をもたらした再臨理解
     キリストの再臨をどう考えるか、という問題は、終末論の一部であるけれども、すべてではない、と思っている。とは言いながら、ラッド先輩がおっしゃるように、この問題は実に悲劇的な論争となってきた。
     
     多くの福音主義の教会において悲劇的論争の主題となってきた一つの問題を取り扱わなければならない。第1章で論じたように、ディスペンセーション主義は、キリストの再臨は二つ存在する。もっと正確にいえば、キリストの再臨は2段階で起こる、と教える。ディスペンセーション主義では、神の二つの民ーつまりイスラエルと教会ーが存在し、そして神は二つの異なった計画ーつまりイスラエルに対する計画と教会に対する計画ーをもっておられる通していることを私たちは見て来た。(終末論 p.73)
    終末において、イエスキリストの再臨と来臨の区別やその時期がどうか、というのは、個人的にはどうやっても特定できないし、特定したところで何か生まれるか、ということを考えた時に、その細かな論点整理をするよりは、その先に何があるのか、神との和解の実現ということに思いをはせる方が、よほど楽しいのではないか、と思う。本来の神との関係の回復こそ、聖書の主要な主張ではないか、と思っている。

     しかし、こちらがそうは思っても、この種の議論に御関心の深い方々は、それでは気が済まないらしく、延々と自説をご紹介くださるので、あぁ、そうですか、なるほどなるほど、それはよかったですね、と御回答することにしている。

     以下、本文中で指摘されている再臨を示す3つのご、パルーシア、アポカリュプシス、エピファネイアについてご紹介。


    再臨を示す第1の言葉 パルーシア

     再臨を示す言葉は3つあるとラッド先輩は指摘されており、その第1のものはパルーシアである。主の出現や臨在を示すパルーシアと空中携挙と呼ばれる理解に関しては、ラッド先輩は次のように指摘しておられる。

     キリストが艱難期の前に再臨し、死んだ聖徒たちをよみがえらせ、生きた聖徒の教会を携挙するという教えは、ディスペンセーション主義者のもっとも特徴的な教理である。私たちは、大艱難前にキリストが再臨されるとする見解を新約聖書が支持しているかどうかを判断するため、新約聖書で使用されている用語を吟味しなければならない。
     新約聖書において、再臨を描写するために3つの言葉が使用されている。第1に、「到来」「出現」また「臨在(プレゼンス)」を意味する「パルーシア」がある。これは主の再臨に最も頻繁に使用されている用語であり、教会の携挙に関するものとして使用されている。

    【新改訳改訂第3版】
     I テサロニケ 4:15−17

     4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
     4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
     4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
     キリストが秘密のうちに再臨するということを右の箇所の中に見出すことは極めて困難である。(同書 pp.74−75)
     日本語や英語の翻訳聖書の元となった、聖書のほぼオリジナルに近い(オリジナルは見つかっていないので、時代ごとにその底本とすべきギリシア語底本も時代ごとに代わってきたし、おそらくこれからも変わり続けていくとは思うが)言語底本の用語に基づき、来臨と訳されているパルーシアをどう解釈するのか、ということを述べておられる。

     ミーちゃんはーちゃんなぞは、つい、4章17節の引き上げられ、という語に引きずられがちであるが、案外重要なのは、4章16節の『主は、(中略)ご自身天から下って来られます。』という部分が大事なのではないか。どの高度に降りてくる、とは明確に書かれていないので、空中とすることも可能であろうし、地上とすることも可能ではないか、と思う。個人的には、地上かなぁ、と最近は思っている。まぁ、現在の日本では、雲は空中に浮かぶと思っている方が多いようであるが、地上にも雲が降りてきた話は出エジプト記に在ったような気がする。それは気のせいだろう。まぁ、あれもこれも想像の域を出ない一種の知的スポーツでしかないように思う。起きてみてわかればそれでいいし、その様な事象が起きる前にかなり長い時間の眠りにミーちゃんはーちゃんはつきそうな気がしてならない。

    再臨を示す第2の言葉 アポカリュプス
     このアポカリュプスという語、権限という語であるが、黙示録に関する英語であapocalypticという英語の語源だろうと思う。そもそもアポカリュプスという言葉自体、アポ(離れて、外す)とカリュプテイン(覆う)というギリシア語の合成語である模様である。つまり、覆われたものはずす、という意味である。以下のノーベル物理学賞のメダルのカバーがかけらているものからカバーを取り外されようとしている状況のような感じも持つ語でもある。


    アインシュタイン先輩が授与されたノーベル賞のメダル

     この語に関してラッド先輩は次のように書いておられる。なお、黒の太字にしたところは、もともとの本では、傍点が付されていた文章である。

     主の来臨について使用されている第2のことばは、「顕現」を意味するアポカリュプシスである。艱難期前再臨説の立場の人々は、キリストのアポカリュプシスあるいは顕現を、教会の携挙とは区別し、キリストが審判をもたらすため栄光のうちに到来する艱難期の終わりの出来事として位置付ける。もしこの見解が正しいとしたら、キリストのアポカリュプスは第一義的にクリスチャンにとって祝福された望みではなくなる。顕現が起こる時、聖徒たちは既に携挙されており、肉体にあってなした行為に応じて報いをキリストの手から受け取っていることになる。彼らは既にキリストとのいのちの交わりのまったき喜びに入っている。すなわち、キリストのアポカリュプス(訳注:顕現)は、悪しきものの審判のためであり、教会の救いのためのものでなくなる。(中略)艱難期前再臨説によれば、キリストの秘密裏の再臨における携挙は祝福された望みであり、好ましい待望の的であるが、顕現はそうではないことになる
     けれども、このような教えを聖書に見出すことはできない。私たちは「熱心に私たちの主イエスキリストの現れ(訳注:アポカリュプシン)を待っています」(Iコリント1:7)。艱難前再臨説によれば、私たちは顕現などは待ってはいない。携挙を待っているのである。教会はキリストのアポカリュプスの時まで苦難に会わなければならない。(同書 p.79)
     終末理解と艱難理解の混乱の結果、いろいろな季節、陳節、論理的なウルトラCが各種開発されたのであるが、実は、このことに関しては、別のところ(この記事の最後のあたり)でも触れたが、この理論ができた当時の社会的背景、つまり18世紀末から19世紀初頭にかけての社会不安がその成立の背景にある。つまり、18世紀末から19世紀初頭、ヨーロッパでは革命のあらしが吹き荒れ、血で血を洗う戦争や内戦が起きたのだ。その中で、ディスペンセイション説が形成されたため、終末理解との関連で、艱難理解、つまり、革命的現象の中での流血事件と艱難とが重ね合わされ、様々な理解が生み出されたのではないか、というのはかなりいい線をいっている理解ではないか、と思っている。

     その地で血を洗う時期に作詞作曲された、現在のフランス国歌でもあるこの曲の歌詞の日本語訳を見ながら、その意味をお考えいただけると嬉しい。イギリス人の大好きな呪いの言葉Bloodyという語がふさわしいほど、血みどろの歌詞である。


    初音ミクさんで、フランス国家 La Marseillaise (日本語訳詞付き)

     もう少し、ラッド先輩は、このアポカリュプスについて説明しておられる。より具体的には、この顕現の時は、我々が完全なものとされ、神の養子としての完全な神との関係を取り戻すということである。その部分を引用してみたい。
     ペテロは同じ表現を使用している。いま私たちはキリストの苦しみを共にするものとされている。それはキリストの栄光が現れる(訳注:アポカリュプセイ)時にも、喜び踊るためです」(Iペテロ4:13)。(中略)さらに、ペテロは私たちの信仰の真実性が「イエス・キリストの現れ(訳注:アポカリュプセイ)の時に賞賛と光栄と栄誉」(Iペテロ1:7)をもたらすと語っている。(中略)しかしこの箇所は、キリストのアポカリュプスの目的の一つは、信仰の忠実さゆえの光栄と栄誉を御自身の民にもたらすことであると断言している。最後にペテロは、私たちが恵において完全なものとされる望みは、イエス・キリストの顕現の時にもたらされると保証している。(p.81)
     概して、終末理解 eschatology は艱難理解と取り違えて議論されがちであるが、艱難がどの時点でおきるのか、ということの理解は、繰り返し、何度でも、しつこくいうが、個人的には艱難理解や艱難の時期否定理解とは別物であり、最終的な状態として神と人との関係がどうなるかが本命ではないか、と思っている。もし、終末理解が艱難解再臨との時間関係の理解、いつ発生するかの議論と混乱されているとすれば、ことばはすぎるかもしれないが、それはハルマティアと言われても仕方がないかもしれない。この場合のハルマティアは、もともとのハルマティアの語義でもある、的外れという意味で用いている。

     本来、神に在って完全とされるということが終末理解の際重大事であるべきであると思っている。ただ、ラッド先輩と意見をことに数rのは、個人的には「私たちの信仰の真実性」ではなく、あくまで、「ピスティス・クリストゥー」が賞賛と光栄と栄誉をもたらすとミーちゃんはーちゃんは考えている点である。

    再臨を示す第3の言葉 エピファネイア
     再臨を示す最後のギリシア語は、輝き、あるいは、輝くこと、明白にすることという意味を持つエピファネイアである。なお、この語から、公現祭、顕現祭とも呼ばれ、クリスマス直後に東方の博士とイエスが面会した日を祈念する日とされている。

     キリストの再臨について使用される第3のことばは、エピファネイアである。これは「輝き」を意味し、従って艱難前再臨節の体系によれば、艱難期が開始される時の教会の携挙やキリストの来臨を指しているのではなく、艱難期の終わりにおける、世界に審判をもたらすための、聖徒を伴ったキリストの顕現を指しているのである。キリストは「来臨の輝き(訳注:エピファネイア)」(IIテサロニケ2:8)をもって不法の人を滅ぼしてしまうのであるから、実際にそれは顕現の意味において使用されている。キリストがエピファニー(訳注:輝き)をもって出現するのが艱難期の終わりであることは明らかである。
     しかしキリストのこのエピファニーは、キリストのアポカリュプスと同じように信仰者の望みの対象である。もし教会が前もって携挙の時に望みの対象を受け取っていたのなら、そうなることはあり得ないからである。パウロは「私たちの主イエスキリストの現れ(訳注:エピファネイアス)の時まで」(Iテモテ6:14)命令を護り、傷のない、非難されるところのないものであるよう勧告している。生涯の終りにおいて、パウロは「今からは、偽の栄光が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです」(IIテモテ4:8)と語り、(中略)パウロが報酬の日として期待している「その日」がキリストのエピファニーの日であるとしか結論できない。従って、それはクリスチャンが愛情を注いでいる日、クリスチャンの望みの対象である。(中略)艱難前再臨説は報酬が与えられう審判を携挙と顕現のに位置付けている。しかしここでは、それは艱難期の終わりのエピファニーの時に位置付けられている。それは顕現と同じ時である。(同書 p.82−83)
     このように見てくると、ラッド先輩は、艱難前再臨説をご批判であるけれども、我々はそこに目を奪われて、問題を矮小化してはならないと思うのだ。パルーシアであれ、アポカリュプシスであれ、エピファネイアであれ、基本的にこれらすべては最終的な神の終結、神のテロス Telos(実は、終末論をあらわすeschatologyという語は、テロスのラテン語表記に由来していたと思う)に関する語であるとしておられることに目を向けるべきであって、艱難の時期などを焦点化させることは聖書理解に歪みを生じさせるのではないか、と思う。そこに関して、ラッド先輩は次のようにお書きである。

    用語の混乱と終末論の混乱

     他の部分でもそうだが、我々が普段日本語で読む聖書は翻訳聖書であるという側面を忘れてはならないだろう。聖書翻訳者の方々のご苦労は想像することすらできないが、そこで翻訳された言葉から勝手に自分のお好みの聖書理解をごくわずかな表現をもとに造り出すことには、かなり問題があるのではないか、と思っている。それよりも、全体を通して何が基本的で重要なポイントか、ということを抑えつつ、考えていくということが重要だろうと思っている。
     教会の携挙とキリストの顕現との区別は、神のことばによってどこにおいても主張されていないし、キリストの再臨に関係する用語によっても要請されていない、と結論できるだけである。(中略)パルーシア、アポカリュプス、エピファニーは単一の出来事である。キリストの再臨を二つの部分に分割することは、立証されえない推測にすぎない。(p.85)
     まぁ、これまでラッド先輩のおっしゃることをご紹介してきたが、とは言え、それぞれの語を別々のものと理解することも可能であるし、いや、ラッド先輩のおっしゃるように、それは一つだ、とすることも、理屈のうえでは可能である。ただ、いずれのケースにしても、立証されえない推測でしかない、という可能性があるような気がするなぁ。あくまで目を向けるべきは、神と人との関係がどのようになるか、艱難の通貨の有無やその時期よりも最終的に神が実現される完成された世界という聖書のメインテーマに我等の視点を据えるべきで、時間や順序がどうなるか、ということを議論することではないのではないかなぁ、と思っている。

     最後に、ラッド先輩の言葉を引用して、再臨や来臨を区別することの無意味さを考えたい。
     この学派の極めて最近の著者たちの一人は、教会のためのキリストの来臨はキリストの再臨ではないと主張している。この見解はキリストの来臨と再臨とを区別する。このような区別は全く立証されていない。キリストの再臨を描写するために使用されている言葉のうちそのことを支持するものを見出すことはできない。「来臨(リタ−ン)」と「再臨(セカンド・カミング)」の二つのことばは、聖書の中にそれに相当するギリシヤ語がないという点において、正確に聖書の言葉を伝えていない。言い換えると、それは不自然、かつとてもありえない区別である。キリストのパルーシアはキリストの来臨であり、キリストの来臨はキリストの到来であり、キリストの到来はキリストの再臨である。
     主の来臨について使用されている語彙は、キリストの二つの到来または到来の二つの局面があるという見解に、いかなる指示も与えていない。反対に、キリストの来臨が単一、かつ不可分な栄光に満ちた出来事であるという見解を立証している。

    ラッド先輩の「「来臨(リタ−ン)」と「再臨(セカンド・カミング)」の二つのことばは、聖書の中にそれに相当するギリシヤ語がないという点において、正確に聖書の言葉を伝えていない。」ということは、非常に重要でないかなぁ、と思う。自分たちがある思い込みで聖書を読んでしまっていて、聖書本文から結構離れているということは意外に多いかもしれない。

     まぁ、英語の聖書にしても、日本語の聖書でも、翻訳聖書だけにいろんな問題が出てくる。そして、その表現をもとに、様々な解釈が可能であり、その解釈をさらに発展させることも可能である。ギリシア語テキストの聖書でも翻訳聖書でも、解釈が困難なところは、無理に解釈し、決めつけず、こうじゃないかな、くらいで止めておくのが凡人にして平信徒のミーちゃんはーちゃんには適切なのだろうと思っている。










    評価:
    価格: ¥1,944
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:薄い、コンパクトであるが重要なポイントをしてきた名著だと思う。

    コメント
    コメントする








     
    Calendar
      12345
    6789101112
    13141516171819
    20212223242526
    2728293031  
    << October 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM