<< 『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (15) | main | 『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (16) >>
2015.04.13 Monday

ラッド著 安黒訳 『終末論』を読んだ(1)

0

    Pocket


    薄いが重要な本

     若い友人に勧められて、ラッドの『終末論』を読んだ。薄い本であるが、内容は非常に濃く、また重要な内容を示している本である、と思った。アメリカ経由の日本の多くの福音派のキリスト教徒の場合、J.N.ダービー J.N.Darby(この記事参照)が言い出し、Scofield Bibleと共にアメリカ中に広がり、また、それにサンキー Sankey と ムーディ Moody(この記事参照)が伝道大会で言及することでお墨付きを与え、この150余年の間広がり続けている特殊な終末論であるDispensationalismを批判的に言及した、そしてそのポイントだけを分かりやすく示した名著であるといってもよいと思う。

     なお、このブログの読者の大半の方はよく聖書理解のことをご存じなので、ほぼ説明の必要がないと思うが、終末論とは、「この世界の究極の形が神との関係においてどうなるか、神との関係が最終的にどうなるか」に関する理解であるとミーちゃんはーちゃんは思っている。単なる、世界の終わりにどんなことが起きるのか、ということを聖書を無理やりにこじつけ安易に予測する理解のことではない、と思っている。

     今、日本では、多くの福音派のキリスト者が、聖書を現実に無理やりにこじつけて、これからの世界がどうなるか、ということを予測するという視点で聖書が将来のことを語っていると思っておられる方が少なくはないようであるが。

     個人的には聖書の主要メッセージは将来の出来事予測ではないと思う。まぁ、それは個人間で理解が違いがあるので、致し方ないところではあるが、終末理解とは、これからの将来の予想や予測だけでは絶対にないと個人的には思っているし、将来予測以上にもっと重要なことが終末論には含まれる、と思っている。


    SEKAI NO OWARI のPV(実に終末論的なバンド名である 本文とは無関係)

     ただ、先にも触れたように、 アメリカ経由の日本の多くの福音派のキリスト教徒(改革派系をのぞく)の場合、ディスペンセイションDispensation理解が聖書理解と分離しがたい形で、あるいは聖書理解そのものとして伝えられているため、この本に対する非難や、訳者に対する批判は非常に苛烈なものがある模様であるが、それは井の中の蛙状態であるからではないか、と思う。かのダラス神学校 Dallas Seminaryも20年近く前にDispensationalismはお棄てである。要は、日本では知られてないだけである、と思う。

    Dispensationalismの背景

    多くの福音主義者は、聖書全巻は神の霊感のもとにある聖書記者により記されたということから、聖書はどの個所もすべて同じ神学的な価値を有するという結論が下されると考える。そして、聖書のうちにある多くの預言はジグゾーパズルの断片の集まりのようなものであり、それらをぴったり組み合わせれば、現在と未来の両方に対する神の贖罪を目的とする巨大なモザイク画が出来上がると考えるのである。(終末論 p.7)
    Dispensation理解の背景として、近代を支配した極端な等価主義(それぞれの個人はすべて同じ価値を持つ、とする反知性主義的な考え方であり、これが聖書に適用されると、それぞれの聖句ごと等しい神学的価値を持ち、それぞれの聖書箇所は確実に一義的(単一の意味をもつものとして)に解釈可能であるとする考え方)をラッド先輩は御批判である。

     このような字句通りの解釈で、等価主義的な聖書理解をするようなナイーブな仮定を持つ人がいるのか、ということで「のらくら者」先輩からご指摘(そのことが記載された記事はこちら「聖書論って!」)を受けたので、それに関して、個人的には、それに近いかなりナイーブな仮定を持つけれども、実はそこにコミュニケーション論的にはいくつかの課題があることを指摘した拙ブログの記事「ミーちゃんはーちゃんと聖書無誤論」を公開しているところである。こういう記事を書くから、リベラル扱いしていただけるし、危険人物扱いしていただける。実にありがたいことである。リベラル派の方々ほどミーちゃんはーちゃんは賢くないし、キケンでもないと思っている。

    聖書をどう理解するか
     聖書の理解の仕方には、「一つの記事(表記)は、一つの出来事としか対応しない」という一対一対応させる理解の仕方と、「一つの記事(表記)は、複数の出来事と対応可能である」という一対多対応させることができる理解の仕方とがある。個人的には1対多対応すると思っている。図で書くとこんな感じである。


    このことに関して、ラッド先輩は次のようにお書きである。
     私たちは二つの物語、つまりイスラエル民族の物語と教会の物語を手にしている。このジレンマのように思われる事態をどう扱うべきなのか。
     これには、二つの根源的に異なった回答が提示されており、預言研究に携わる人は、すべて二者択一を迫られる。第一のものは、神は二つの異なったプログラム、すなわちイスラエルのためのプログラムと、教会のためのプログラムを持っておられると結論する。
    (中略)
     預言を解釈する第二の方法は、啓示の漸進性を認識し、旧約聖書を新約聖書に基づいて解釈することである。ディスペンセーション主義者は通常これを契約神学と呼ぶ。旧約の契約と新約の契約の統一的な要素を強調しているからである。(同書 pp.8-9)

     ラッド先輩は、ディスペンセイション神学の系譜で育った方であるとご自身でお書きであったが、基本的には、啓示の漸新的な聖書理解と多義性を前提とした理解に立っておられるので、一つの聖書箇所が、時代と環境の中におかれたユダヤ人やキリスト教徒それぞれにとって、様々な意味を持つもととして理解されうるし、そうであっても聖書は神のことばとして受け取り可能である、ということを示しておられるようである。それを契約神学とディスペンセイション主義者が呼ぶことは、個人的に果たして適切であるのか、という疑念だけはここで提示しておく。

     あと、ここで、上記の預言の1対1対応に関連して、創造科学の関係者の一部に時に見られる聖書の正当性を示す為に用いられる似非科学手法について触れておきたい。その似非科学とは、「聖書の預言の成就確率がきわめて高い」というご主張である。そもそも、確率はサイコロを振って出た数のように、事象がきちんと定義されている(Well Defined)からこそ計算できるのである。「聖書預言と現実社会の事象が1対1対応する」という前提と、預言の実現という事象空間がきちんと定義可能であって初めて、預言の成就確率が計算できるのである。しかし、ラッド先輩のように預言の内容が多義性を持つ場合、つまり、預言が指し示す事象が複数存在しうる場合、そもそもそういう確率を計算することすら無意味であるというのが古典的な確率論の立場であると思うが、それを超越し、多義的な事象に対して実現確率を明確に定義できる最新理論があるのなら、ぜひともご教示いただきたいところではある。

    苦難の僕をどう理解するか

     イザヤ書53章は苦難の僕の預言と呼ばれることもある。少し口語訳聖書から冒頭部分だけ、引用しておこう。

    【口語訳聖書】イザヤ書
     だれがわれわれの聞いたことを
    信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
    彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
     さて、この部分をどう解釈するか、についてラッド先輩は次のようにお書きである。

     ここに正に、基本的な解釈法が適用される。イエスとイエスの後継の使徒たちは、旧約聖書の預言をイエスの人格と使命という視点から再解釈した。『人の子は、栄光をもって到来する前に、地上に現われなければならない。そして人のこの地上における使命は苦難のしもべの役割を果たすことであった(原訳文は傍点)』(同書 p.20)  
     この表記を見る限り、旧約聖書のメシア(救世主)預言を、イエスという特定の人格を持ちかつ神である極めて独自の対象であるナザレのイエスに当てはめて、イエスの弟子たちがこの旧約聖書の内容と表記を再解釈し直していることをご指摘である。つまり、聖書理解の多義性の前提に弟子たちが立っていたことを示そうとしておられるのである。

    多義的に幅広く旧約を解釈した弟子たち
     さらに、この多義的な解釈の可能性について、次のようにもラッド先輩はご指摘である。
    私たちは今、キリスト論で見た同じ事象を終末論の領域で見ている。旧約聖書の諸概念が根本的に再解釈され、予見されていなかった適用を与えられている。旧約聖書では字義通りのイスラエルに適用されているものが、ローマ人への手紙9章25節ではユダヤ人も異邦人をも含む教会に適用されているのである。(同書 p.29)
     まぁ、一応ローマ書で指摘されている個所を引用しておくと、こんな感じである。
     聖書口語訳 ローマ書
    9:25 それは、ホセアの書でも言われているとおりである、
    「わたしは、わたしの民でない者を、
     わたしの民と呼び、
     愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。
     こう見ると、パウロ先輩にしても、イエスとともに歩いた時代の弟子たち先輩にしても、実に幅広く聖書を多義的に解釈していることを知ることになる。パウロ先輩がお書きになって新約聖書に残っているお手紙にしても、新約聖書福音書記者先輩にしても、もともと、聖書を多義的にお読みになっておられた形跡は、旧約聖書の引用を見れば、よくわかるであろう。
     マクナイト先輩は、『福音の再発見』の中で次のような図を使ってご説明である。チャンと旧約聖書全体を読んで理解することが大事なのであって、本来旧約聖書の理解に多義性があることをこの図でお示しになりたかったようである。


    スコットマクナイト著 福音の再発見の図をもとにミーちゃんはーちゃんが作成 

    聖書理解は何を基礎にすべきか?

     聖書理解の特徴について、ラッド先輩は次のようにお書きである。

     ディスペンセーション主義者は”霊的”解釈を旧約聖書を解釈するうえで最も危険な方法であるとみなしている。ジョン・ワルブード教授は、これを現代のローマ・カトリック、現代のリベラル派、現代の非ディスペンセーション系保守の立場の著者たちを特徴づける解釈であると書いている(The Millennial Kingdom 1959, p.71)しかし筆者は霊的解釈を採用しなければならないと思っている。なぜなら筆者には、旧約聖書において字義通りのイスラエルに言及されている約束を、新約聖書が霊的教会に適用していることがわかっているからである。筆者が霊的解釈を採用するのは契約神学の立場をとっているからではなく、神のことばに縛られているが故である。(同書 pp.31-32)
     ラッド先輩のご記載されていることの中で、一番大事なのはこの部分、即ち「(ある)神学の立場をとっているからではなく、神のことばに縛られているが故である」という表現だと思う。しかし、多くの場合、神学理解が先に立ち、聖書テキストが完璧に後回しになるという不幸な事例が福音派の一部の皆様の間で多々見られるが、本当に「これってどうよ」って思うのだなぁ。翻訳聖書の一部の日本語翻訳の表記や欽定訳の表記に縛られて作り上げられた、気宇壮大な神学を聖書のコンテンツだと思って、一部の表記にこだわって生み出されたその気宇壮大な神学をなぞるように、聖書のかなりの部分を無意識的に捨て去りながら(読み飛ばしながら)、自分たちは実に聖書に忠実だ、と思いながら聖書を読んでいないだろうか。まぁ、どう思おうが勝手であるけど。

     しかし、ワルブード教授とやらがあげておられる”霊的”解釈に関連してあげられているキリスト者集団は、基本、一部の福音派の方々が大嫌いなローマ・カトリック(そのくせテレビに出たマザーテレサは福音派でも言及されることが多い模様。恥ずかしくないか?その態度。個人的には、カトリックにも尊敬に値する方が多いと思っている)、福音派の皆さんから悪魔の手先扱いされているリベラル派(でも、現代のリベラル派、って「現代の」って形容詞がついていることに関して、読者よ悟れ)であるので、またぞろミーちゃんはーちゃんに、カトリック好きとか、リベラル崩れとかラベルが貼られそう。ミーちゃんはーちゃんに適当なラベルを勝手に貼ってもいいけど三位一体の教理はだれが言い出したか、よ〜〜〜く考えよう。

     しかし、現代の米英の福音派神学では「霊性」が大きな関心を占める中、福音派は「霊性」まで、封じ手にしてしまうのかどうかを、いまミーちゃんはーちゃんはぼ〜〜っと、眺めている。

    大衆レベルでの天国観のおかしさ

     大衆レベルでの天国観のおかしさについて、ラッド先輩は次のようにお書きである。
    私たちは死んだら「天国に行く」。大衆に普及しているこの考え方によれば、天ごっくは至福の状態―すなわち「永遠にうるわしい世界」―であり、信仰者は真で死の皮をわたると、天国の門をくぐる。信仰者は天国で、肉体を離れた至福の状態にあり、「不死の者たちとともに、そこに住む。」
     そのような考え方は、どれほど広く普及しているにしても、聖書の神学というよりギリシア的な思想の表現である(pp。40-41)
     いやぁ、ミーちゃんはーちゃんの周りのキリスト教世界の皆さんは、死んだら即召天されたりして、天国に召喚してもらえるカードを持っている方も結構おられるらしい。まぁ、ミーちゃんはーちゃんは不信の者であるからか、そういう天国召喚カードは見たことも触ったこともない。しかし、そんなミーちゃんはーちゃんにラッド先輩は、心配しなくていい、とおっしゃってくださっておられる。だって、それは、「聖書の神学というよりギリシア的な思想の表現である」ですって。つまり、「ギリシア的なフォークロアをマジでキリスト教と思ってないか」ってラッド先輩は御批判されておられるようなのである。

    ギリシア的な肉体観と徳概念

     ギリシア的な肉体観と霊理解について、ラッド先生は次のようにお話である。
     肉体は現象的な世界に属し、魂は本来的な世界に属する。肉体は、講義グノーシス主義の思想とは異なり、それ自体悪であはないとされるが、魂にとって重荷であり障害である。ソーマ・セーマ、つまり「肉体は魂の墓場」である。賢人とは、肉体の情欲や食欲を鍛錬し服従さえ、魂を養うことを学んだ人である。魂の最高の機能が知性である。そのように「救い」も―ギリシヤ的な概念としてではなく、聖書的な概念としてー死に際して魂が肉体から解放され、本格的な世界への飛翔するものと考えられるようになった。(p.41)
     しかし、この間ある体格の良い友人が、切り捨て教徒の看護師の方から、「標準体形は神様の御心だから、体重を落とすように言われた」といって憤慨していたが、きっと、その看護師の神様は、ギリシア的なストア哲学風の世界の神様のことをおっしゃっておられたのであろう。ヘブライ的なメシアではなく。なんか、ヘブライ的なメシアは、「あなた方は心配したからといって、すこしでも身長を伸ばすことができますか」って主旨のことを弟子たちにおっしゃてたような気がするけど。多分、これもミーちゃんはーちゃんが持っている日本語聖書にしかない記述なのかもしれない。友人を憤慨させた看護師の方は、きっと別のもっと正確な翻訳聖書を読んでおられたのかもしれない。

     悪質な冗談はさておき、この肉体観、世界に対する嫌悪感にギリシア哲学世界を経たキリスト教は毒されているので、肉体は、魂にとって重荷であり障害であるとし、肉体を服従させ、鍛錬させることをよしとするストア派的な哲学がどこかに残っていて、これが、キリスト者を苦しめていると思う。聖書の言う徳とギリシアのストア哲学的な徳がどこかで混乱しているのだと思う。

     アパセイアというギリシア語を尊敬するU先輩のセミナーで習った。スチューデントアパシー(無気力型生徒)の語源となったのが、アパセイアであり、アパシーは無気力を意味する語であり、その語源がアパセイアであるるらしい。

     ところで、実は、何事があっても驚かない精神性(不動心)のことがアパセイアであり、これはギリシア的な徳目の一つであるが、聖書的な徳ではないのではないか、というのがU先輩のご意見である。個人的には、実にもっともなご意見であると思っている。確かに、うれしさのあまり舞い踊るダビデ(そしてミカル夫人にバカにされる)とか、怒りに任せて、神様からもらった十戒の石の板を割るモーセとか、旧約の人物には、アパセイアと無縁の人物が多い。新約にだってヤコブとヨハネには、ボアネルゲというあだ名が献呈されている。ペテロ君だって、アパセイアと無縁の人物である。

    旧約聖書の世界理解

     旧約聖書の世界理解は、現代のキリスト教の一部の福音派の方がたのように、世はどうせすたれ、滅びるのだから、という理解でなかったし、誠心誠意こめて向き合っていくべき対象であったことは確かであるが、ラッド先輩はそのことに関して次のようにお書きである。

    旧約聖書は、この世界を異国の地やどうでもよい舞台のようなもので、人間が天国へ迎え入れられることを望みつつ一時的な地上の生を全うする場でしかない、とは見ていない。人間も世界も共に創造の秩序に属しており、言葉の真の意味において、人間の運命に世界は深くかかわっている。(訳書では太線部は傍点)(同書 p.42)

     個人的には、Sojournersとか福音派左派と呼ばれる人々と聖書理解は近い(左派といってもマルクス主義は厨二病の一環としてのはしかのように、既に罹患したので、もう飽きている)ので、この地にあって神に生かされている存在として生きたいと思っている。その意味で、ラッド先輩の人間も世界の一部として想像の一部にあり、人間の命運に世界は深くかかわっているという表現もそうであると思うし、また、世界の命運に人間は深くかかわっていると思っている。

    旧約聖書の死後理解
     ついこないだ、京都在住の古代仏教の研究者の方とユダヤキリスト教的な死後理解について、そして、救済論理解について、Facebook上でやり取りする機会があったのだが、キリスト教の死後世界の理解は案外、誤解されて理解されており(それは仕方がない、キリスト教世界でも大衆レベルの理解では天国召喚カード型の理解が支配的であるからである)、本来的な意味での神における終末(Telos)がきちんと表現されていないからである。そのTelosに至る前の死生観の問題について、ラッド先輩は次のようにお書きである。
     死後の存在についての旧約聖書の概念は、その人間観と密接に関係している。魂あるいは霊は、神の世界への避難しようとして物質界を脱出するのではない。むしろ、人間はシェオールへと下る。シェオールは地の下、地の底にある場所と考えられている。(同書 p.44)
    個人的な理解では、モーセ時代以前の死後に関する理解はいざ知らず、少なくともイエス時代の旧約の死後理解は、上記の「ラッド先輩説に一票!」だと思う。さらに、ラッド先輩は次のようにもお書きである。
     死についてのへブル人の概念は、いのちは体と一体化してしている確信も証言している。シェオールにおける使者の例において、神との意識のある交わりは失われている。それゆえ、シェオールへ下ることはいのちを意味しない。(同書 p.46)
     ここで重要なのは、「神との意識のある交わりは失われている」という表現であり、一種眠っているということと理解されうる理解である。このことは、復活理解と非常に深くかかわっている。

     というのは、イエスにまつわる復活物語で、結構、「寝ている」と表現されている事例が多いのだ。少女に対して、タリタ・クミ(訳すと少女よ起きなさい)とアラム語でおっしゃった事例や、既に眠ったもの、という表現があるのであるし、イエスの復活そのものにしても、日本語では復活した、と訳されているが、ギリシア語表現を見る限り、イエスは、「目を覚まされた」とも理解できる表現のようにも思う。だからこそ、マリアと出会ったとき「おはよう」とイエスは言われた、ということの意味があると思うのだ。

    新約聖書とパウロの死後理解
     パウロの死後理解に関して、ラッド先輩は次のようにお書きである。日本に伝わった聖書理解は、基本ギリシア世界を経由しているので、どうしてもギリシア的2元論に支配されているように思う。それを見直した方がよいのではないか、というのが欧米に遅れることふた昔、漸く最近日本でも着目され始めた見解であり、それは我が国の聖書理解にとって喫緊の課題ではないかと思っているけど、こういうことを言うとリベラルの軍門に下ったとかありがたいラベルを張っていただける。
     肉体を人間の自我が最善の状態に至ることの妨げと考え、肉体を脱ぎ捨てて「霊的」領域に到達することを期待するギリシヤ的二元論に対し、パウロは正反対の位置に立っている。パウロにとって、復活は最も大事なことを意味していた。パウロは死後の死者の状態については、神から何の指針も与えられていなかったようである。パウロが語ることができたのは、「裸」の状態にあるということだけであった。(同書 p.53)
     特にパウロの死後理解は、ギリシア哲学とギリシア文学及び文化の影響下にある人に伝道する中で、ギリシア語の限界を受けながらも伝えていくため、歪んで誤解されて受け取られて行ったことも少なくなかったのではないか、と思っている。
    要約すると、パウロの証言は、死に瀕していた強盗に対するイエスの言葉と符合している。神の民は死後、イエスと共にいることになる。しかし、新約聖書は中間状態の特徴について詳細な説明をほとんど提供していない。(同書 p.54)
     これらラッド先輩の二つの記述に見られるように、新約聖書は中間状態の特徴に対して口を閉ざしているのに、我々は、かなり饒舌にああでもない、こうでもない、とごくわずかな表現を手がかりにあらぬ事を言ってきた(それはミーちゃんはーちゃんもやってきたことは認める)のではないか、と思うのだ。本来、わからないことはわからない、というべき時に、神の民の神のことばへの敬虔を見せるべき時に、軽々しく、神の民の神のことばへの軽薄を見せびらかしてきたのではないかとこの本を読んで反省させられた。

     ミーちゃんはーちゃんは、森本あんり先生のおっしゃる意味で「知性的」、即ち、「振り返りができる」キリスト教徒でありたいと思うし、新潮社編集部さんのおっしゃるような”世界を席巻する危険な「反知性主義」”に毒されたくはない、と思う。それが、如何にキリスト教を自称しようと。

     続きは原則月曜日公開(多分、あと2回くらい)。それ以外は、しつこく富士山とシナイ山を読んでいく。








    コメント
    コメントする








     
    Calendar
      12345
    6789101112
    13141516171819
    20212223242526
    2728293031  
    << October 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM