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2015.03.30 Monday

森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(13)

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    前回までの連載はこちら 反知性主義をめぐるもろもろ  をご覧ください。

    平等という幻想
     日本の大学は、戦後一貫して大衆化の道を歩んできた。戦前の大学と戦後の大学は、同じ大学でも、格というか風格が違うのである。戦前の大学はドイツの大学に強く影響を受け、非常に卒業者が数が少なく、いまの大学院卒よりはるかに少なかったのである。いまはアメリカの文教政策の影響を受け、大学院卒が多いが(特に理工系)、文系なんか履く説何十年という感じで、予備校の教員などをしながら、大学の空きポストを待つ人々が多数であったのである。
     アメリカは富についても限りなく平等に近いが、知識についても平等な国なのである。初等教育はだれもが受けられるが、高等教育にはほとんどの人の手が届かない。トクヴィルがここで注目しているのは、単に高等教育を受けた知的エリートが存在しない、ということではない。それを代々世襲で受け継いでいく「知的特権階級」が存在しない、ということである。これがアメリカを旧世界から分かつところである。ヨーロッパには昔からの貴族の伝統があり、財産においても知性においても、代々受け継がれる特権階級が存在する。(反知性主義 p.235)
     以前にも触れたが、ヨーロッパと違いアメリカには世襲制が本来はないはずである。まぁ、Bush Dynasty(ブッシュ王朝)と呼ばれるような特殊な人々を除けばではあるが。アメリカ西岸部の教育機関に接していて思うのは、初等中等教育へのアクセスだけは、平等であるが、年齢やそれを完遂するかどうか、その終結する年齢の点においてはかなりばらばらであっていい、という世界観があることである。

     カリフォルニア州での経験で言えば、同じ学年を2回やっているものはちょくちょくいるし、その選択もかなり親に任されている感じがあった。実際、長男を現地校に入れる際、日本で半年1年生をやって現地校に編入させたら、2年生への編入ということであったが、まだそこまでの能力がないので、1年生に編入させたい、といったら、あっさり「あら、そうなの」という感じで速攻で1年生に編入させてもらった。

     ワシントン州で、交換教員として教鞭をとった時には、夜間の社会人向け大学院ということもあったのだが、教える生徒の半数以上が私より年長、退職者とか、州政府の公務員とか、州議員の政策スタッフとかまぁ、いろいろであったし、入って数カ月でやめるものも結構いた。

     アメリカといえば、アメリカンドリームは一種の下克上的なドリームとしてある程度は存在するもの、東部地区だと、特に芸術や文化なども含め、一種の知的エリートというか、エリート的な家計は存在する。とはいえ、ヨーロッパほどではないが。


    Time MagazineのBush Dynasty特集号 (2000年8月7日)

    英国の高等教育、米国の高等教育
     英国の高等教育と米国の高等教育では何が違うか、というとそのアクセス制限のぐあいである。そして、英国のアマチュアリズム感覚満載の貴族的な高等教育の志向と米国のプロフェッショナル感覚満載のアメリカンドリーム的なややガサツな感じのする高等教育の志向との違いである。
    ヨーロッパの貴族のように無為の暮らしをすることはできず、みんな自分で働かなければならない。だから学門の初歩は学ぶが、仕事に就く年齢になるともう金儲けのことにしか関心をもたなくなってしまう。社会に出て実践的なビジネスで成功するには、さほど高度な知性は必要とされない。正規の学校教育や洗練された教養教育などは、むしろ障害になることもある。(同書 p.238)
     実は、欧州の高名な科学者には、高名になる前から貴族や貴族のサロンに出入りしていた経歴を持つ人が多い。金持ちの暇つぶしに付き合っているうちに当代一流の人物に知られるようになり、そして名をあげていくという経緯をたどった人々が案外多いのである。
     この前、ある方からおわけいただいた、野呂先生の『ウェスレーの生涯と神学』を読んでいて、ウェスレー時代のOxfordやCambridgeに入ろうと思ったら、国教会の信徒でないとダメみたいなことが書いてあった。それ位、信仰が問題となった時代を英国は経ている。前にも紹介した炎のランナー The Chariot of Fireでも、ある生徒がユダヤ系であり、出自が貴族でないことがうんぬんされていた。

     しかし、米国にはそういう制約はほとんどない。そもそも、社会階級としての個人としての金持ちはいるが、社会階級としての貴族はないからである。最初のころは、ピューリタンでないとダメ、とか言ってはいただろうが、19世紀も後半にはいると、そんなことは言わなくなって世俗化が急速に進んでいるので、前回ご紹介したHauerwas先生からご批判されているのだ。詳しくはヨベル社刊 東方敬信監訳の「大学のあり方」〜諸学の知と神の知〜をご覧いただきたい。

    産業の高度化とアメリカンドリームの消滅

     アメリカはある面、学位本位主義で給料やできること、職能が決まる。そして、Ph.D乱造国家なのであり、学校の校長や教頭クラスではPh.D保有者がごまんと出てくる。だからこそ、Diploma Millと呼ばれる学校が流行るのだ。また、当初アメリカンドリームを体現したような人物も、箔をつけるために大学を設立したり、図書館を寄贈したりし始めることについて以下のようにご紹介である。

     だが19世紀も末になると、こうしたたたき上げの理想が徐々に時代遅れになってゆく。産業の規模が急速に拡大して、徒弟の手作業や職人の経験地だけでは間に合わなくなるからである。スタンフォードやヴァンダービルドのような人は、ちょうどその両方の時代を経験したために、自分自身は教育がなくても成功できたが、新しい時代には教育がないことでひそかな劣等感を感じるようになった。だから彼らは、手元にある大金を投じて大学を作ることに精を出したのである。大学をさんざんに揶揄していたカーネギーも、後には自ら大学を創設し、多くの大学に図書館を寄贈している。(同書 p.239)
     ただ、Ph.D保有者でも、MBA保有者でも、景気が悪くなれば、あっさりと首を切られるのがこれまたアメリカという国である。NASAの宇宙開発がとん挫したころ、大量の航空宇宙工学者が解雇された。そして、あるものは移民(合法移民でないと本来ダメ)ですらできるタクシー運転手や不法移民ですらできるガソリンスタンドの給油オペレータになったという話を聞いたことがある。大学の教員でもそうである。特に地理学ではひどかった。いま、アメリカの地理学の教育、特に人文地理学関係は壊滅状態である。地理学科があっという間に閉鎖されたりした時期が1980年代末にあった。すると、即失職である。タクシー運転手にならざるを得なかった元地理学者がいるという話をしてくださった方があった。

     いま、日本でも、アメリカ型の学位粗製乱造時代に突入してしまった。ミーちゃんはーちゃんのころは、学位は粗製乱造しないもの、と決まっていたので、学位取得をあきらめた。オボちゃんのような方は、我々の時代には、そっと、別のドアが示される、という形が待っていたのであった。


    オボちゃん、高額請求されなくてよかったね。


    マーケティングに失敗した米国教会の末路

     アメリカ型の教会に関して、森本あんり先生は次のようにお書きである。

     それぞれの宗教団体は、市民の自発的な参加と支援なくしては存続できない。だからどのよう会も、市場原理による自由競争にさらされ、人を集めなければ解散という憂き目にあうことになる。どんなに立派な説教を語っても、つまらなければ人は来ない。20世紀初めの伝統的な教派では「毎日のようにどこかの教会が売りに出され、ガレージとなっている」という嘆きが聞かれたほどである。(同書 p.247)
     なんか、今の日本のキリスト教界の現状と似てないだろうか。これは、日本社会が明治期以降米国モデルを社会モデルとしてきた背景とも無縁ではないだろう。

     このことに関して、深井先生のご著書では、宗教改革以降のアメリカの宗教風土をマーケティングと評されていた。

      「よい神学」は、いまの自分にぴったりの答えをくれる、「使える神学」なので ある。そして、多くの人々がそれに賛同すると、市場もマスコミもそれを取り上げ、それがこの市場原理の中では正義になったり真理になったりしてしまう。神学の良しあし、真理性などを決定するのは、もちろん教会や教会ではないし、神学部でもなく、あるいはもちろん国家のような機関でもなく、大衆の声が市場を 支配することになってしまう。
     そこに、神学にとっての一つの誘惑が生まれる。元来規範的な性格が強かった神学が、いつのまにかマーケティングを経て、人々に賛同を得られるような、時代のニーズにこたえた、時代精神に呼応する神学を生産するようになる。神学は、批判性を失い、マーケットを支配する匿名の大衆のニーズにこたえるような言葉や思想を節操もなく書き始めるようになる。(神学の起源 p.196)
     以前から何度か、ここで紹介しているFuminaru様のブログで取り上げられている諸問題は、マーケット志向の米国のキリスト教をそのまま、持ち込もうとした結果の悲劇として思えてくる。実に残念なことである。特に、「神学は、批判性を失い、マーケットを支配する匿名の大衆のニーズにこたえるような言葉や思想を節操もなく書き始めるようになる」と世間に迎合する神学を語るようになったら、それはもはや、神学の学の字を返上せねばならないだろう。

     しかし、現実は厳しい。地方部においてはなおさらであるが、都市部においても少子高齢化という人口動学の結果がそもそも構成人数の少ないキリスト教会においてもともとのボスうの小ささゆえにその効果が極めて大きく出ているから、ということにすぎない。そのことを敬愛する伊那谷牧師先生は、

    データからCS生徒数を見る

    で統計指標の分析(トレンド分析)で示しておられる。厳密な統計学的手法に基づかないものであるが、同記事中の図5に示されるようにこれだけ相似関係があれば、統計的検定で1%有意水準で帰無仮説「教会構成員は社会人口の変動とは独立である」は棄却されるはずである。つまり教会構成員は、社会人口の変動をもろに影響される、と統計的にいってもそう間違いではない、ということが主張できる結果である。結局、日本では教会の説教の質やコンテンツ問題というよりは、キリスト教的なものに引きよせられる世代(10代から20代までの人口が減ってしまった)ということに依拠していると思う。

     大学では、いま2018年問(たとえばこれ2018年「淘汰の時代」到来か 18歳人口減少と進学率頭打ちで経営を圧迫 とか)がまことしやかに話題にされている。大学が大衆化した結果、大衆の減少(若年人口の減少)に伴い、人口構造の変動をもろ受けしてしまうという事象が出ている。これは、マーケティングやブランディングでどうなるものでもない現状なのである。それなのに、グローバル大学だの、COEだの、マーケティング用語が踊る大学の世界を冷ややかに見ているミーちゃんはーチャンがいる。

    エバンジェリカルライトの背景

     米国ティー・パーティをはじめとするエバンジェリカル・ライトの人々は、以下の森本先生の表現が非常に当てはまる。
     宗教と実利という二つの成分要素で成立したはずの反知性主義は、まさにその大衆的成功のゆえに、本来の反エリート主義的な性格を失っていく。極めて皮肉な結末である。(同書 p.254)
     本来、反エリート側というエバンジェリカルズ、即ち、反権力主義的な世界観を持っている点で共通の価値観を有しているはずの民主党より、保守党であり、権力志向の強い東部Estabishmentのエリート集団の一部でもあるBush Dynastyを支持したという、実に皮肉な結果を生み出している。その意味で、アメリカの政治が分かりにくいのは、この種のねじれが、社会のあちこちで、人工中絶や進化論、戦争など政治的なイシューと重なり、非常に複雑な様相を示す為、分かりにくいのである。

     権力を握る、権力に吸収されてしまうと変質する例は、1940年から1945年間の賀川豊彦先生の例でもないわけではない。しかし、そのことだけで、賀川先生を葬り去るのは、まずいのではないかと思っている。

     要するに、ジョン・H・ヨーダー先生ではないが、コンスタンティヌス的キリスト教というのは、不味い、ということなのだろう。




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    コメント:大陸側の状況の整理としては、わかりやすくてよい。こちらも併せて読むことをお奨めする。

    評価:
    上野 千鶴子,柄谷 行人,山下 範久,鈴木 一誌
    太田出版
    ¥ 1,132
    (2009-04-02)
    コメント:賀川先生の実像を考えるためにはかなり重要な資料。

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