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2015.03.28 Saturday

森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(12)

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    前回までの連載はこちら反知性主義をめぐるもろもろ から。

    エンゲルスの本に登場するムーディ先生
     実は、エンゲルスの本の序文にムーディが登場するらしい。実はエンゲルスとムーディ先生は同時代人だったのね。知らんかった。

     そのあたりのことに関して森本先生は次のようにお書きである。

    彼(引用者注 フリードリヒ・エンゲルス)の『空想より科学へ』は唯物論思想の入門書として、マルクスの共産党宣言や資本論よりもよく読まれた著書であるが、その英語版への序文になんとこのムーディが登場する。(反知性主義 pp.199-200)
     どうも、エンゲルスは、ムーディの伝道活動を宗教という産業ととらえていたようである。ある面、これは正しいかもしれない。近代の大量生産、大量消費においては、ある程度の同質性を前提に置いたうえで、それをどうこなしていくのか、ということ産業だからである。根本的なところで、産業とクラフトマンシップは似て非なるものである。産業は大量生産であり、いかに効率的にたくさん作るかが勝負であるが、クラフトマンシップは、少数あるいは一点ものを、機能を十分に果たすものを、いかに良い品質で、作るものである。18世紀まではクラフトマンシップが残っている時代であり、20世紀が産業の時代であることを考えると、19世紀というのは、クラフトマンシップから産業に転換する時期であるのであろう。

    根来塗り 日本のクラフトマンシップが現れた工芸品 
    この刷毛目と鑿跡の荒々しさが、個人的には好み


     このため、個人の回心が大量に起きているリバイバル現象を、本来的には、個人的な回心であるはずのものが、大量生産的な方法で一挙に起きていることから、宗教あるいは信仰の産業化とエンゲルスに移ったように思うのだ。

    効率性が持ち込まれたリバイバル
     もちろん、大集会でのリバイバル現象は、外部の人間であるエンゲルスからは、まるで、食肉工場よろしく、信者が大量生産されていく過程に見えたのだろう。その対応の効率化に関して、森本先生は次のようにお書きである。
     
    ムーディーは「決心者カード」を使うようになる。これは、「私は今後クリスチャンとして生きることを真摯に希望します」という一言が印刷されたカードで、決心した人はそれに名前と連絡先を書いて出すだけである。(中略)
    カードは集会ごとに集計され、地域ごとにまとめられて集会に協力した教会に渡された。自分が行きたい教会や知っている教会、あるいは面会に来てもらいたい牧師の名前を記入する欄もある。牧師たちはそれをもとに、一人一人を訪ねて回ることができるのである。(中略)
    実に効率の良いシステムである。これまで、巡回伝道は巡回セールスのようなものだ、と説明してきたが、歴史の順序からいえばこれは正しくない。むしろ逆で、巡回セールスと派巡回伝道をモデルにできあがったビジネス形態なのである。映画「エルマー・ガントリー」に出てくる主人公も、本来の仕事はセールスマンであったが、その手法は巡回伝道とまったく同じであった。(同書 pp.207-208)
     この記事を見ながら、国際事務機器会社IBMのその飛躍の出発点となったことが、国勢調査の調査の事務処理の効率化であったことを思い出した。ホレリスの名前は、未だに一番最初に覚えたプログラミング言語であるFortranでの文字処理定数のホレリス定数として、その名を残す。

    http://www-01.ibm.com/support/knowledgecenter/SSGH4D_14.1.0/com.ibm.xlf141.aix.doc/language_ref/hollerith.html?lang=ja

     なお、下記に示すパンチカードは、数度だけ使ったことがある。可搬型ハードディスクやUSBメモリなどは、想像すらつかなかった。このころは、漸くTSS処理可能な機械の中で割り当てられたディスクスペースにプログラムを保存するのが、精いっぱいであった。なお、紙テープに書いたマシン語くらいは昔読めた。


    Fortranの時にはこんなパンチカードを使った


    ホレリスのパンチカード

    ホレリスのタビュレーティングマシン(集計機)

     巡回セールスマンの記述を読みながら、あぁ、巡回牧師が原型になって、巡回セールスマンになったというのはわかる話である。まぁ、基本的に農業集落が多く、密集して住んでいる訳でないために、本来必要なサービスが提供されず、それを補うのが巡回セールスマンであったわけである。いまで言う行商である。しかし、行商と行っても、日本でちょっと前に見られたような生鮮品の行商ではなく、割と耐久度の高い、服や写真、靴、農具や調理具といった耐久度の高いものから、チョコレートのようなちょっと高級品まで、巡回セールスマンが販売していた。


    退役したら奥さんと離婚する羽目になった元米兵のチョコレートの
    巡回セールスマンが出てくる「雲の中で散歩」

     この映画の中には、もともとカリフォルニアに住んでいたメキシコ系ワイナリーのオーナーが、娘を大学まで行かせるのではなかったというような話が出たり、息子が大学で学んだ計数主義をもとにワイナリーを経営しようとして、ワイナリー一筋で、伝統と経験に基づいて経営してきた父親と対立するような話が出てくる。なかなか、面白いアメリカの現実が物語としてあちこちにちりばめられている。

     ところで、巡回セールスマンといえば、アメリカでは移動遊園地というような産業が結構ある。まぁ、これは中世のサーカスの伝統であり、ロマ人的なにおいがしなくもない。下記の動画は「シャーロットの贈り物」 のワンシーンであるが、County  Fair(農産物やパイの品評会などがある)での楽しみの一つが、この移動遊園地である。


    シャーロットの贈り物のワンシーン

     巡回セールスマンは、次いつ現れるのかよくわからないし、落語家よろしく口八丁手八丁で物を販売するその話芸を楽しむという側面もある。つまり、いい方は悪いがほら話を聞かせて、人の意識をほら話に集中させながら物を販売するという側面があるようだ。そういうほら話を語り続けた親と子供の確執を父親の死去と共に思い出しながら、その真実性、ものがたりに含まれる真実性を見直していくという非常に良い映画が以下に紹介するビッグフィッシュである。非常にアメリカ的な社会状況を描いた映画でもある。


    巡回セールスマンのほら話を扱った映画

    アメリカ社会でのリバイバルと
    アメリカのキリスト教会の特徴

     アメリカ社会における教会の意味、ということに関して、森本先生は非常に重要な指摘をしておられる。
    リバイバリストの方では、そういう(引用者注:リバイバル集会がやってくると突然入会希望者が増える)結果を残念に思うふうでもなかった。これは、アメリカのキリスト教が神学や教理といった原理的な違いで切り分けられているわけではない、ということを示す大きな証拠である。多くのアメリカ人にとって、教会とは当時も今も、社会的な交流の場なのである。(同書 p.209)
     このご指摘の中で、重要だと思うのは、教会そのものがアメリカ社会では、「教会とは当時も今も、社会的な交流の場」というご指摘である。なぜ、この指摘が重要かというと、基本的にアメリカ社会を支えているのは、この社会的な交流の場で生み出される議論やサービスや行為だったりするからである。アメリカ社会の民主主義の原型ということが、この教会運営の中で培われている側面があるからである。「おらが教会=おらが社会=おらが街」という側面が非常に強い。特に会衆派ではそうではないかと思うのだ。この辺りのことは、『孤独なボーリング』で、社会資本の形成に教会が果たした役割をロバート・パットナムは非常に明快に紹介している。

     この社会的な交流の場という別の側面に関して、平田オリザ氏が「福音と世界」誌においてインタビュー記事として掲載されていた「市民の魂(ソウル)について」中でふれられていた、教会のもつ劇場的側面ということを思い出した。劇場や映画館も社会的交流の場である側面を持つのと同様に、教会も「人が集まる」という点で類似の側面を持つというのは、非常にアメリカ的な側面であるように思う。

     あと、ここで印象的だったのは、「アメリカのキリスト教が神学や教理といった原理的な違いで切り分けられているわけではない」という表現である。旅行中にサンディエゴ近郊の教会に訪問した時、その説教の中で、割と若いパスターが、自分の配偶者の母親が、改革長老派の信徒で、自分はバプティストの神学校に行き、自分の奥さんはもともと会衆派に大学時代に行っていて、ということを話していたことを思い出した。世代によっても、場所によっても、そして、家系的な民族性の違いによって、一つの家族の中でも多様なキリスト教が戦国時代のように林立しているアメリカの宗教事情の中では、もはや神学や教理的な味わいの違いでは切り分けられず、民族のるつぼであると同時に宗教のるつぼにもなっており、もう、宗教自体が民衆宗教あるいは市民宗教というのか家族関係を通してのアマルガム(合金)になっており、教理や神学では分けられなくなっており、「なんとなくキリスト教」という感じになっているのが、他国との違いであるように思う。その意味で、宗教間の教理の相互乗り入れも激しく、混乱も起きやすいかもしれない。

    テレビ局のようなMoody先生と日本
     ムーディについて、この本の中で一番印象的な表現は、以下の部分である。
    ムーディは、反知性主義の翼に実利思考のビジネス精神という強力なエンジンを備え付けた人物として記憶される。ホフスタッターの表現では、リバイバリズムが反知性主義の「種を植え付け」、ビジネス的な実用主義それを「最先端まで推し進めた」、ということになる。アメリカの反知性主義に特徴的なのは、この宗教的な平等理念と経済的な実用主義の奇妙な結びつきである。(同書 p.218)
     このムーディ、社会的にも非常に影響が大きかった。神学的にも彼は一種の頭陀袋というか、米兵がもって移動するダッフルバッグの中身みたいに何でも入っているという感じの神学的な混在が見られたのだと思う。

     現在福音主義神学の世界でも一部にこのブログで、批判的視線を向けているディスペンセイション神学(特にLeft Behindに代表されるクラッシックなディスペンセイション仮説)が福音派、特に米国福音派で一気に広がったのは、このムーディという一種の神学的ダッフルバッグというか超人気テレビ番組の一部にディスペンセイション仮説が入って行き、それがあちこちでばらまかれて以降である。その辺の過程に関しては、

    福音派が生まれたころの世界むかし話(7)

    D.L.Moodyの後方乱気流

    で既にお伝えしてきたとおりである。

     そして、このダービー先生の神学がMoody先生の説教の中に入り、アメリカの福音派のかなりの部分に入り、当時アメリカにいた中田重治先生にも影響し、最新の神学的動向として日本に持ち込まれ、一時期とはいえども、あの内村鑑三先生にまで影響する。大規模なイベント施設を活用したサーカスもさながらの伝道は、まさに、ビジネス的実用主義の当時の技術与件のもとでの極みとなり、その後、自家用車の普及に伴い、大スタジアムでの大動員型のリバイバル集会、フ○ンク▽ン・グ○ハ△伝道大会などの伝道大会の流れにつながっていく。別メディアの発展と普及、即ち、ラジオの普及、テレビの普及、ネットの普及にともない、ラジオ伝道者、テレビ伝道者、インターネット伝道者の系譜へとつながっていく。いまだに、アメリカではラジオ伝道者という職業というのか役割が存在する。その意味で、非常にこのMoodyという人物の役割は少なからぬものがある。

    日本の教育における平等理念と
    経済的実用主義の不幸な果実

     この中で非常に印象的だったのは、「アメリカの反知性主義に特徴的なのは、この宗教的な平等理念と経済的な実用主義の奇妙な結びつき」という表現である。これ、アメリカの世界観なのである。実は、アメリカの世界観は、1945年以降、日本の初等中等教育にこの概念が持ち込まれ、(宗教観抜きの)平等主義(あるいは、フランス人権思想に基づく平等主義)と経済的な実用主義の奇妙な結びつきに基づく小学校教育思想が独自に日本で発展した形となっている。

     「全ての個性を大切に」というお題目を唱えつつ、北朝鮮のようなマスゲームや日本の旧陸軍式の行進でそろえてみたり、音楽発表会で同一楽器で揃えて発表させるために大量の音楽嫌いを生みだしたり、給食を食べないと食べ終わるまで一人覚めた給食を食べるための居残りが待っているという人身拘束をしてみたりと、「フランス人権思想」が聞いたら発狂しそうな罰ゲームをやる。

     給食で思い出したが、これから日本が移民を受け入れるなら、イスラム圏の移住者の子弟のための制服の改変(肌を露出しない夏服)、給食への配慮も求められることになるが、給食では、安価な豚肉がたんぱく源として使われているが、それも利用できず、厳密に言えば、イスラムにとって適切な処理法に則り適切な方法で処理した肉しか食べさせられないことになる。この辺りのことは、理解して移民政策を組まないと、大東亜共栄圏が失敗した原因と同じ愚を繰り返すことになるのではないか、と心配している。

    繁栄の神学の原因はやはりアメリカ発か?

     個人的には、繁栄の神学は違うかな、と思っている。なぜかというと、神が出発点であるものが、人が出発点になるからである。より具体的に言えば、「私が○○だから、神様が祝福してくださる。」、「もし、私が○○したら、神様が祝福して下さらない」というのは、私がが中心であり、重点があり、神に重点がないからである。この現世利益的な繁栄の神学に関して、次のような記述があった。
     
    かつてトクヴィルは、アメリカ的な宗教の特徴として、宗教と現世的な利益との直接的な結びつきを指摘した。中世の聖職者たちは、来世のこととしか語らなかったのに、アメリカの説教者はいつも信仰が現世でどのような益をもたらすかを語る。アメリカ人は、利益に引かれて宗教に従うが、その利益を来世ではなく徹底して現世に求めるのである。そこに、反知性主義の息づく空間が広がっている。(同書 pp.218-219)
     一番気に入ったのは、「アメリカの説教者はいつも信仰が現世でどのような益をもたらすかを語る」と「アメリカ人は、利益に引かれて宗教に従うが、その利益を来世ではなく徹底して現世に求める」という部分である。無論、すべてのアメリカ人というわけではないが(J.H.Yoder先生や、Hauerwas先生もアメリカ人になっちゃいますから)、相当部分のアメリカ人の説教者は、現世での幸福追求として神の福音を語ることは多い。この辺りは、シンプソンズのLoveJoy牧師の説教などがその典型的といえよう。


    11分50秒からHauerwas先生のご講演 America's God この人はまとも
     
     しかし、「利益を来世ではなく徹底して現世に求めるのである。そこに、反知性主義の息づく空間が広がっている」というご指摘は非常に重要だと思う。一時期「壺」やら「印鑑」やらを売り歩いていたキリスト教まがいの東アジアの新興宗教団体やら、「最高ですかぁ~~」と言っていた新興宗教団体やら、本をビジネスモデルにしておられる新興仏教系の某公党(政府に認められた政党の意)と関係の深い新興宗教組織、それをビジネスモデル的にまねした某総裁の団体やら、駅前で朝夕の通勤時間に辻立ちをしておられる皆様にしても(何パターンかある)、徹底した現世利益追求型であり、また、反知性主義、反権威主義なのだ。その極みがオウム真理教であったように思う。そして、現世でのヴァジラヤーナの実現を目指し、武力革命の実現を真理党が一人も当選させられなかったために志向することになったような気がする。その意味で、オウム真理教が引き起こしたもろもろは、非常にアメリカ型の文化的反知性主義が日本でさいた結果であり、習合型宗教としてのあだ花(被害に遭われた方には、衷心よりお見舞いを申し上げるたい)だったような気がしてならない。

     
    「最高ですかー」 にあらわされた現世中心主義 反知性主義的だなぁ。
     


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    価格: ¥7,344
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:高いけど、社会の構成と社会資本の関係を知るにはよい本。

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