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2015.03.23 Monday

森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(10)

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    前回までの連載はこちら反知性主義をめぐるもろもろ から。

    今日はチャールズ・フィニーについて

     チャールズ・フィニー先生については、過去にこのブログ記事 福音派が生まれたころの世界むかし話(4)でも取り上げた。

    「ギリシア語読めない、ヘブライ語読めない」の原型

     フィニー先生、ヘブライ語もギリシア語もやってなかったんだ。ふーん。ちょっと前の福音派の宣教師の原型ってのは案外この辺にあるのかもしれない。なお、ギリシア語読めない、ヘブライ語読めないキリスト教の献身者についての替え歌はこちら 宇宙戦艦ニートならぬ宇宙戦艦 KNSHNSHをうたってみたを参照。

     なお、この献身者(KNSHNSH)なり、宣教師類型が発生する原因の一つには、戦後米軍駐留兵のうち、かなりの人数が、自分の信仰による確信により、勝手連的に宣教師になって開拓伝道をはじめられた人々もおられるからである。
    フィニーは結局、神学も法律もほとんど独学で学んだ。彼の確信は聖書に由来するだけで、教会の教理問答すら、聖書的な裏付けに乏しいという理由で顧みなかった。牧師になるには、最終的には聖霊の導きだけが必要で、神学教育は無意味である。いくら小難しい神学を頭に詰め込んでも、そんなインテリ牧師の話しは聴衆の頭の上を通り過ぎていくだけである。昔日のピューリタン牧師は聖書解釈のためにヘブライ語やギリシア語を学んだが、フィニーはそれも学ばなかった。聖書は英語で読むことができるだけで、原典から独力で解釈するなどという作業はできない。それでも彼の説教は人々の心に届き、彼の生涯を通して50万人が回心を遂げたと言われている。(反知性主義 p.175)

     今、福音派の牧師先生たちのある程度の部分は、基礎教育として、ギリシア語とかヘブライ語とかはきちんと修めておられる方が多い。しかし、戦後すぐ日本に来られた人々の中には、これらの基礎教育のない方、特に米国系の宣教師の中には、これらの基礎訓練の経験のない方が結構混じっていたようである。

    レトリックが重要な法廷と説教?

     フィニーは弁護士(法律家)でもあったことが記載されていた。そして、相手を説得する能力が非常に説教に役に立ったことに関して、森本氏は次のように書いておられる。

    法律家としての訓練は、牧師となってからも役に立ったようである。法廷で弁護士が陪審員に向かって話す時には、できる限りわかりやすい言葉や身近な例を使う。聞いているものの心に届くように話し、完璧な証拠を示して、重要な点を何度も繰り返して強調する。彼らが陪審員質へと退出する時には、どんな評決を出すべきかがこころのなかではっきりと決まっている、、というところでもっていかなければなないのである。
     これは、リバイバル説教がなすべきことと同じであった。(中略)フィニーにとって、有能な説教家が養うべき能力は、有能な弁護士と同じ能力なのである。(同書 pp.175-176)
     この辺の説得のアルテ(技術)の説教での活用というのは本来的には結構あると思う。そこで用いられるのはレトリックであり、このレトリックの巧拙が、裁判の結果を締めることは、Law and Order等のテレビ番組を見ているとよくわかる。

     日本の刑事ものドラマは、犯罪捜査か、勧善懲悪か、人情劇のものが多いが(というのは議論を楽しみ、議論で用いられるレトリックを楽しむという文化が日本にはあまりない)、アメリカの刑事ものドラマというよりは法廷ドラマは、犯罪捜査そのものよりも議論を楽しみ、そしてそこで展開されるレトリックを楽しむという部分が多い。日本で、こういうのがなかなかはやらないのは、レトリックの巧拙を楽しむという文化、ディベートの文化といった、ことばで他者を納得させるというあり方そのものになじみが薄いからではないか、と思っている。

     日本でも英国の制度をまねて、Question Timeというものが導入されたが、あれが低調なのも、基本、日本の中にレトリックを楽しみ、レトリックの巧拙で議論をしているのを見て楽しむという文化がないからではないか、と思うのだ。その結果、あいての不正とか相手の失策を声高に責めあうだけの泥仕合になっているケースが多く、本格的な政策論争をレトリックを使って当意即妙な回答と議論で聴衆をうならせる、というところがあまりないように思う。

    レトリックはアメリカの文化的伝統

     このレトリックの伝統は、実はギリシア・ローマ時代のレトリックに端を発する。修辞学という学問が昔はあった。いまは目も当てられていないけど。そして、修辞学は、ギリシア・ローマ法体系での法廷論争やギリシア演劇に影響を与えたのではないかと思っている。そして、その影響はローマの遅れてきた子孫である英国の法体系と法廷論争に影響を与え、それがより先鋭化された形でアメリカで発展する。


    修辞学でお世話になっているシセロ(キケロ)先生

     以下の動画は、A Time to Kill(告発の時)という映画であり、ミーちゃんはーちゃんが初めてサンドラ・ブロックを個体認識した懐かしい映画であるが、この時の修辞が実に見事だと思ったのだ。事件自体は南部のある州でアフリカ系アメリカ人家庭の娘がレイプされ、そのレイプ犯が差別がゆえに無罪となったことに怒ったアフリカ系アメリカ人の父が、裁判所で銃を乱射しレイプ犯を公衆の面前で怒りのあまり殺したことに関する裁判事案を扱ったものである。

     裁判の中で、偏見や差別観なしに真実と公正を見つめることを求め、あえて、陪審員に目を閉じることを求め、ある少女が、レイプされる状況を描いて見せるのである。そして、しばらくの間沈黙の間を置く。そして、最後に「もし、そのレイプされた少女がヨーロッパ系アメリカ人の少女だったら?」と陪審員(ヨーロッパ系アメリカ人が多い)に問うのである。



    アメリカの弁護士の弁舌の例 A time to kill (評決の時)のシーン

     こういうレトリックのうまさ、そして分かりやすさのための演劇性が求められるのがアメリカの法廷劇であり、このために、検事も弁護士もありとあらゆるレトリックの手段を尽くし、最終弁論に臨む。このあたりは、Law and Orderのシリーズ中のエピソードでもレトリックに悩むADA(検事補、実際の訴追をする役職者)の姿がちらっと出てくる。

     Law and Orderやレインメーカーといった裁判ものの映画などは、このレトリックのうまさ加減を楽しむところがある。このレトリックのうまさがは統領選挙などにも持ち込まれる。そのためにはアメリカにはスピーチライターという職業があって、このスピーチライターも政治家の演説の際には、これでもか、というほどのレトリックの技を繰り出してくる。

     この辺りについては、うまい。うますぎる でも、キリスト教の伝統 でもお書きしました。

    魔術か宗教か

     宗教と呪術の違いに関するフレイザーさんの議論を記載した後、森本先生は次のように述べておられる。

    かつてある日本の新興宗教の教祖が、座禅を組んだまま空中浮遊をして見せた。信者たちはその光景を目の当たりにして盲信的な弟子となり、結局は地下鉄サリン事件を起こすに至ってしまった。しかし、フレイザーの区別からすると、あれは奇跡ではなく、宗教でもない。(中略)どんな手法を使ったかはともかく、特定の手段により、特定の結果を実現させただけなので、それは科学であり呪術である。いずれも、何かしらの種明かしがあるという意味では合理的である。そういう行為は、奇術といってもよい。ちなみに、英語では呪術も奇術も同じ「マジック」である。(同書 pp.178-179)
     あの地下鉄サリン事件、阪神大震災直後に発生しただけに忘れられない思い出である。しかし、空中浮遊が魔術であり、それがきっかけになって信仰に入ったインテリたち、そして、そのインテリたちが、その科学技術の粋というのか、錬金術あるいは魔術で鍛えられあげた科学の粋を使って、サリンを作り上げていくというこの残念さ加減。何とかならないのかなぁ、と思う。

     技術者のはしくれとして思うが、確かに技術は魔術的な魅力を持つのだ。この辺りのことは『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (7)『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (10) の記事においてもすでにふれたところである。

     アメリカの有名なバスケットボール・プレーヤーの一人にその華麗なプレイスタイルで知られた、ロスアンジェルス・レイカーズのマジック・ジョンソンがいるが、しかし、この場合、マジックという意味は、鮮やかな、神業の、というような意味でのジョンソンであり、呪術とかではない。しかし、『呪術ジョンソン』だと、なんだかなぁ、になってしまう。



    Magic Johnson(『呪術ジョンソン』って俺のこと?)

    社会に対する預言者的存在であった実践家フィニー

     いまでは、社会的福音というとすぐリベラルというラベルを張っていただけるが、もともとフィニーのように福音派でもかなり弱者への目線、社会の現状を前提としない姿があったことに関して、以下のように書いておられる。

     フィニーの実践思考は、奴隷開放や禁酒運動や障がい者扶助などといった社会改革にも道を開いていった。彼は、女性や黒人の社会的進出を積極的に応援した。神に祈ることや、福音の宣教をすることは、男だけの仕事である必要はないし、白人だけの仕事でもない。フィニーは、男女混合の集会で女性が前に立って祈りをささげることを奨励したが、これは当時の慣習からすると画期的なことであった。(pp.182)
     このような弱者への対応をフィニー先生がなさっていたことは、不勉強にして知らなかった。ただ、そもそも、このフィニー先生の行動の根源はこの聖書の言葉にあるのだろうと思う。

    口語訳聖書マタイによる福音書
     25:34 そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
     25:35 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
     25:36 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
     25:37 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。
     25:38 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
     25:39 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
     25:40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
     25:41 それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。
     25:42 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、
     25:43 旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。
     25:44 そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。
     25:45 そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。
     こういう社会において預言者的役割を果たすのは、リベラル派の専売特許ではなかったし、こういう社会において最下部で紹介しているブルッゲマンが『預言者の想像力』で指摘するような預言者的枠割を果たした人として、典型的な福音派的人物としてのフィニーさんがおられたことはもっと知られてもよいことではないか、と思う。






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