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2015.03.13 Friday

Doing Being Becoming Creating そして Recreation

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     先月末のFuminaruさまのブログの引用で、「日本のクリスチャンがまず”Do”に走るわけ & クリスチャンのこれはアカンやろ発言」というおふざけ記事を書いた。あれはもともとおふざけ系の記事である。

     このブログ記事には、真面目系の記事とふまじめ系の記事が混じるので ー読者よ、悟れ ー 、読者の方はよくご留意されたい。

     「二つに分けたら?」
     すみません。面倒なので1つでさせてください。

    さちさんのコメントから

     そもそもは、ある面、おふざけ記事であったのだが、はちこさんという信仰良書の翻訳者の方が、次のようなコメントをあのしょうもないおふざけ記事に下さった。ありがとうございます、と再度申し上げたい。
    Doing vs. Beingはよく言われる対比ですが、私は、クリスチャンの特徴はBecomingではないかと、最近思うようになってきました。

    ナウエンのことばで言えば、Becoming God's Belovedでしょうか。。。

    ジョン・オートバーグは、クリスチャンとは?を考えるとき、これまでin/outという白黒の範疇で考えられることが多かったけれど(『福音の再発見」の 中でも「boundary maker」のことが出ていましたよね、確か) キリストの似姿に向かって変えられているか、キリストの似姿から遠ざかっているか、で考えることについて 語っていました。

    「悔い改める」とは、向きを変えてこれまでとは違う方向(イエスが指し示してくださっている方向)に進むことなのですよね? 

    What kind of a person are you becoming day by day? More like Jesus, or less like Jesus? そのことを、最近よく考えています。
    上記のはちこさんのコメントに対して、ミーちゃんはーちゃんは、

    そうですね。BeやDoではなくて、Becomingというか、re-creation つくりかえられる、だと思います。変容するといってもよいと思います。一方向の方向性が決められた形の成長ではなく。ある面、Telos(最終的な到達点)で実現する、神の愛の中に、神の義の中に、神の平和の中に一致するというんですか ねぇ、収束するって言うんですかねぇ、落ち着くって言うんですかねぇ、そいうことが実現するってことだと思うのですよ。Becoming God's Beloved、Becoming God's Peace、Becoming God's Justiceだと思うのです。Justiceにしても、Beloved(love)にしても、Peaceにしても、それぞれTelosの別表現でないの だろうな、ということが何となくわかってきました。それも、自分がなる、自分でなる、ではなくて、神の支配(神の王国や天の王国とも訳されますが)の中で 神の介在の中にあってそうなっていく、という側面をもうちょっと強調しないとまずいのかなぁ、と思うようになりました。
    とお返しした。

    はちこさんのブログ記事から
     すると数日後、はちこさまが、非常に面白い記事を書いてくださっていた。この記事とは

     こちら”Becoming” http://d.hatena.ne.jp/mmesachi/20150309#1425919265 

    である。以下、引用しておきたい。あまりに素晴らしいので。

    最近、"Becoming"が私の中でキーワードになっている。

     よく、Being vs. Doingという対比がなされるが、Becomingは、being でもdoingでもキャプチャできていない大切な側面を捉えているように思う。

     私たちのBeing(=いのち、who we are)はキリストとともに神のうちに隠されている。(コロサイ3:3)これはギフトであって、私たちが自力で得るものでもなければ、失敗することがあっても、外から圧力をかけられても、それで失ってしまうようなものでもない(ローマ8:35−39)。

     このBeingは、セキュア(安全)ではあるけれど、必ずしも静的なものではない。このBeingからは必然的にある種のDoingが出てくるだろうし、なによりも、私たちをBecomingへと招く。

    (中略)


     霊的形成のプロセスは、Becomingのプロセス。What kind of a person am I becoming day by day?

    More like Jesus? or less like Jesus? Am I becoming more like Jesus today than 10 years ago, 5 year ago, or a year ago?

     Doingは、内側の変化を伴わずとも、表面だけを取り繕って行うことができる。しかし、内側の変化を伴わないBecomingはあり得ない。

     「Become」と、イエスは招かれる。

     「Yes, I want to. But, good Lord, how? How do I become?」私の魂は問う。

     「By abiding in Me. By catching the vision of the good and beautiful Father and His Kingdom. And by letting My Spirit work freely in and through you.」

    Is Jesus beautiful to you, or merely useful to you? という問いかけが頭をよぎる。

     もしイエスが私にとって、アラジンの魔法のランプから出てくるジニーのように、便利なだけの存在であるなら、私は自分が望むものをいかにしてイエスから引き出すかばかりを考えるだろう。

     でも、もしイエスが私にとって美しいお方であるなら、私はこのお方の前にひざまずき、このお方が差し出す手をとって、導かれるままに共に歩むだろう。

     「Become」と、イエスは招かれる。

     「Yes, good Lord. I come with you with all my being so that I may become--become more like You.」

    と実に印象深い。

    ナウエンを読んでいたら
     そして、この部分を読みながら、先日明石市でやっているナウエン読書会で読んだナウエンの本の一部を思い出してしまった。

      Does powerlessness mean that we are doomed to be doormats for our power hunger society? Does it mean that it is good to be soft, passive, subservient - always allowing the powers of darkness to dominate our lives? Does it mean that economic weakness, physical and emotional weakness have now, suddenly, become virtues? Does it mean that people who are poorly prepared for their tasks can now brag about their poverty as blessing that calls for gratitude? When we read Paul's words, "My strength is made perfect in weakness"(2 Cor. 12:9), do we imagine that we are dealing with a weakling who uses his low self-esteem as an argument to proclaim the gospel?
      We touch here on one of the most dangerous traps of a theology of weakness. When we can become free from the enslaving powers of the world only by being enslaved by weakness, it seems a lot better to stay on the side of Satan than on the side of God. If a theology of weakness becomes a theology for weaklings, then such a theology is a comfortable excuse for incompetence, submissiveness, self-denigration, and defeat in all fields!
      This is far from a theoretical possibility. Not seldom is financial, intellectual, and spiritual weakness interpreted as a divine privilege; not seldom is competent medical or psychological help delayed or avoided in the conviction that it is better to suffer for God tha not to suffer; not seldom is careful planning, aggressive fundraising, and intelligent strategizing for the future frowned on as a lack of faithfulness to the ideal of powerlessness. Not seldom have the sick, the poor, the handicapped, and all those who suffer been romanticized as God's privileged children, without much support to free them from their fate.  (pp.37-40)

    Henri J. M. Nouwen (2001), Finding my way home : pathways to life and the spirit, The Crossroad publishing company, NY.
     ここで、ナウエンは弱さの神学theology of weaknessに何もしないこと、できないことに安住する言い訳に用いられる危険性があることを指摘したうえで、それは本当に聖書的かどうかを問うているように思う。

     そして、それが非常にまずい問題を信仰生活で、また、教会内そのものにもいろいろまずいことを生み出すことをもナウエンは指摘しているように思う。

    2項対立でとらえられるのか?

     それは、我々は、すぐDoingかBeingか、DoingかBecomingか、とか2項対立で問題を立てるのにあまりに慣れ過ぎてしまっていることに由来するのではないだろうか。そして、Doingでもあり、Doingでもあり、Becomingでもあり、Beingであることが共存していることを忘れてしまってはいないだろうか。

    美しいことは合理的であるし大事なことでは?

     Doingは何も神のためにすることだけには限らないと思う。趣味でもなんでもいいし、絵を描くことでも、美しい山を眺めることでも、自然の神秘を見ることでも、絵を描くことでも、詩をかくことでも、音楽を奏でることでも、讃美歌をうたうことでも、作曲をすることでも、句作でも、歌作することも、それは、神を賛美することの別の表現様式のような気がする。Artとは、一種のCreationであり、神に向かってのDoingの一形態ではないか、と思う。
     あるいは、美しいものを数式で表してみたり、連立微分方程式の解であることを確かめる、そのことでもいいはずだ。大体、美しいものは、割と少数のコンパクトな式で表せる連立微分方程式の解であることは広く知られていることなのだ。鳥類の羽や魚の形状が美しいのは、実は流体力学にそった連立微分方程式体系を解いた解であることが多い。無理のないものは美しいし、無理のないものは割と単純な数式で表せることが多い(簡単ではないという方が多いのは知っているけれども)。

     「一体何の話だ?」になっている。本論にもどそう。

    神のかたちに造られた我ら

     実は、皆、これは、神が我等を「神のかたち」におつくりになりたもうた結果、我らが何らかの形でCreatingであるが故のような気がする。それは、Beingでありつつ、Doingであり、Creatingであり、そして、我々にとっては、それは、本来の「神のかたち」へのRecreationとなるのではないか。

     Doingのかたちは、万人に共通するものや、万人がわかりやすい形だけではないと思う。ある人にとってのDoingそのものは、他の人にとってはなぜそれが神のためのDoingであるか、と思われるようなものかもしれない。しかし、それでも、ある人が息をしていることもDoingと結果としてなっている、ということもありうるとは思うのだ。

    神とともに生きるという完成に向かう我ら

     ある種、このCreatingは自分のためであったとしても、しかし、それは、神の支配のうちにあって、不完全な形ながらも将来の完成であるTelos(最終的な到達点)に向けてのもののような気がするのだなぁ。

     それは私の思いすごしかもしれない。 讃美歌282番の歌詞は英語版の歌詞とはかなり違うようだが、一点だけ、この歌詞がいいなぁ、と思うところがある。それは、

     十字架のもとぞ いとやすけき
     神の義と愛のあえるところ

    というところである。まさに、Telos 最終的な到達点では、人と神が一つになり、神の義と愛が一つになり、その中に我々も招かれているように思うのだ。そのためのBeingでもあり、Doingでもあり、Becomingでもあり、Creatingでもある生活を送りたいものである、と最近は、思っている。


     十字架のもとぞ(歌詞付きでまともなのがなかったので、これで我慢してね)
     





    評価:
    ジャン・バニエ
    新教出版社
    ¥ 2,052
    コメント:お勧めする。

    コメント
    ありがとうございます!

    ナウエンは「愛されている者の生活」の中で、Being BelovedとBecoming Belovedについて書いていますが、自分が「愛されている者である」という真理を受け入れたなら、次は「愛されている者になる」という招きに応えなくてはならない、というようなことを言っていましたね。

    おっしゃるように二項対立ではないのですよね。真にBeingのあるところにはDoingもあるはずだし、Doingを伴うBeingをBecomingと言うのかもしれません。そして、Becomingのあるところには自然なこととしてCreatingもあるのでしょうね!

    ただ、これらのことは、自分が主体的に行うことというよりも、主の前にサレンダーすることで、御霊に自分のうちで働いていただくことによってなされるものなのでしょうね。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」とあるように…(2コリ3:18)
    はちこさん

    コメントまで頂けるなんて。そうなんですよね。

    >自分が「愛されている者である」という真理を受け入れたなら、次は「愛されている者になる」という招きに応えなくてはならない

    これって、神に愛されることと、神を愛すること、両方があって初めて、「人間になる」ということだと思うのでうね。

    そして、

    >主の前にサレンダーすることで、御霊に自分のうちで働いていただくことによってなされるものなのでしょうね。

    これが、悔い改めであり、これがゆるしであり、そして、義の完成であり、神との平和なんでしょうねぇ。

    わざわざのコメント、ありがとうございました。

    よい週末と主日を
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2015.03.15 Sunday 07:05
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