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2015.03.18 Wednesday

森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(8)

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    前回までの連載はこちら反知性主義をめぐるもろもろ から。

     今回は、メソジストとバプテストがアメリカでも急伸したことが、述べられていた部分を中心にご紹介いたしたいと思います。

    メソジスト急伸!

     メソジストが急伸した背景に関して、森本先生は、巡回説教者が活用されたことに関して、次のように述べておられる。

     急成長の理由は、監督制と巡回牧師制という機動的なシステムである。監督制とは、教会は担任する牧師の上に「監督」という職務が存在して、いわばその上司が牧師を派遣したり移動させたりする制度のことである。ピューリタンはこのような上下関係をカトリック的であるとして嫌ったが、メソジスト教会はこの制度のおかげで数年ごとに新しい牧師を迎えることができた。
     また巡回牧師制とは、それまでのリバイバリズムで活躍した「自称」巡回説教者を正式に認めて採用したものである。(中略)そこで、馬に乗って各地を回り歩く牧師を任命し、広い地域を担当させることにしたのである。(反知性主義 p.147)
     巡回牧師というのは、Circuit Ridersと呼ばれたようである。雨が降ろうが槍が降ろうが、町から町へ、たどり着いたらそこの家庭で飯を食わせてもらいながら、伝道をしていったようである。まるで、伝道するホームレスのような生活だったに違いない。
     しかし、まぁ、このあるもんはなんでもつかっちまえ的な「自称」巡回説教者を正式の説教者にするという発想というのは、どうなんかなぁ、と思ってしまう。まぁ、「福音を語る」、すなわち「神の元に戻れ、神とともに生きよ」というだけであれば、自称だろうがちゃんとした叙階を受けた司牧であろうが、ミーちゃんはーちゃんのような平信徒だろうが、その「味わい」や「趣」は大きく違うとしても、メッセージそのものにはそう大きな違いがない。しかし、「味わい」や「趣」といった微妙なところはどう考えても、違うと思うのだ。


    メソジスト派の巡回説教者 Circuit Rider

     ただ、とにかく空腹な人には、この「味わい」や「趣」ということよりも、空腹を満たすことの方が重要で、うまかろうがまずかろうが、とりあえず食べられるものであればなんでもいいのだ。その意味で、アメリカ人の一部には、「味わい」や「盛り付け」と言ったことよりも、ボリュームど〜〜〜〜ん、ということが重要なのである。

    ファーストフード型の聖書理解・
    スローフード型の聖書理解

     ところが、社会が豊かになって、「味わい」や「美しさ」が求められると、さすがに、メガ盛り命では済まなくなってくる。

     その意味で、メソジストが伸びた時期は、福音に対する飢えが切実であったため、「味わい」「雅趣」と言ったことよりも、「早い、ボリューム満点、安い、うまい」のファーストフード型の福音が求められ、それを「自称」巡回説教者の説教が求められたようだ。

     別にファーストフード型のお手軽な福音が悪いとは言わない。だって、ファーストフード型のキリスト者集団にミーちゃんはーちゃんはいるから。ファーストフード型の聖書理解がダメと言ったら、自分に対してダメ、っていうことになる。

     ただ、ミーちゃんはーちゃんが思うに、ファーストフード型の福音や聖書理解はいずれ飽きられてしまう。人々や社会は変わるのだ。

     そして、人々はスローフード型の何かに回帰するのではないか、と思うのだ。そうしたら、ファーストフードしか提供しようとしないレストランは、人々から忘れられてしまう様に思うのだが。まぁ、それはそれで、一興ではあるが。

     現在のアメリカでの聖書理解の変容にも表れているような気がする。ファーストフード型のパターンにはまった教会運営に飽き足らない人々が出てきて、もっとかみごたえがあって、消化するのがかなり時間を要する聖書理解に移りつつあるのであり、古プロテスタントへの回帰やカトリックや正教会系、米国聖公会系への回帰がアメリカの30代から40代でおきているらしい。こちらの記事 Young Evangelicals Are Getting High を参照。

     「正教と、聖公会と、カトリックは、キリスト教界のスローフードやぁ。」(彦麻呂風で)


    永平寺の朝食              Y金井氏のある日の朝食 阪急そば朝定食

    アメリカのDinerでの朝食   ラーメン二郎 のメガ盛り(雅趣に欠けるなぁ)

    無学がよいとする伝統

     メソジスト派などで、巡回伝道者たちが無学がよいとする伝統の聖書的根拠に関して、森本さんは次のように書いている。

     彼ら(引用者注 メソジスト派の巡回牧師)の催す集会は、礼儀正しい人ばかりが集まるわけではない。中には乱暴を働くものや、初めから追っ払っているような連中もある。騒動になれば刃物も鉄砲も飛び出しす。それでも、開拓者の家族がまだ幌馬車から荷物を下ろしているころ、最初にやってきて挨拶してくれるのは、メソジストの説教師だった。
     そんな百戦錬磨の彼らであるから、話が面白くないはずがない。庶民的でわかりやすく話さなければヤジが飛んでくる。巡回伝道は駆け出しの説教者にとっては厳しい実地訓練の場であり、成功した説教者にとっては最高の晴れ舞台なのである。
     説教は、学校で勉強すればできると言うものではない。神学を学べば牧師が育つと考えるのは、牧師を教師や医者や弁護士のような世俗の職業と同列に考えることである。ペテロはイェール大学に通ったこともない、無学な漁師ではないか。(中略)だから神は、大学卒のジェントルマンではなく、私のように無学で素朴な自然人をお用いになるのだ!これが反知性主義の心意気である。(同書 p.148)
     これ、うちの人たちが神学教育を否定する論拠とほぼ同じである。まぁ、うちはセクト主義的な教会群なので、こうなるのはある面理の当然ではあるが。

     まぁ、「無学でもよい」というくらいはまだよいと思うのだが、極端に突き進んでしまうと、「無学がよい」「無学であるべし」「教育などない方がよい」「教育などは純粋さを奪うので受けるべきではない」になってしまうのだ。

     本当にそうなのだろうか、と思う。日本のように大学の大衆化が進んでしまい、大学卒が30年前の高卒程度、高卒が同じく30年前の中学卒程度のあしらいを受ける(まぁ、実態的にも今の大学卒は、昔の高卒程度と思った方がよろしい。なぜ、そうなるかは諸説あるが)時代を迎えているのに、未だに大学への敵視や、学問そのものへの敵視がある向きも少なくない。

     そして、学問へのあるいは思考への軽視があるあまり、霊性というのか、聖霊の働きに急速に大きく舵を切る方がたもおられる。「聖霊に導かれました」「聖霊に示されました」「聖霊がお語りになりました」ということが正々堂々と言われる。それは否定はしない。それは重要なことである。しかし、パウロは次のようにも言うのだ。

    【新改訳改訂第3版】汽灰螢鵐
     14:12 あなたがたの場合も同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。
     14:13 こういうわけですから、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。
     14:14 もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。
     14:15 ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。
     この部分を文脈で読む限り、パウロは、御霊の賜物として、知性をも含めているように思えないだろうか。私には思えるが、それは多分、私の勘違いなのであろう。しかし、きわめて霊性の影響が強い祈りにおいて、賛美においても知性が言及されていることは無視されてはならないと思うが。

     この記事の最下部で紹介する心の刷新を求めて、という読みやすい本ではないが重要なことを説明しようとしている本がある。翻訳者が悪くて読みにくいのではない。内容が重大すぎて、安易に読めない本であり、じっくり読むべき本である。同書の中で、実は、知性、こころ、精神、魂が実に深く、かつ複雑に繋がっていることが示されている。それを、はい、これは、知性ですから駄目です、はい、これは知的だから魂の問題とは関係ありません、とする安易な分析的な思考法の限界がダラス・ウィラードの隠れた重要なテーマであると思うのだ。我等は安易に、この魂とまつわる世界を扱っているような気がしなくもない。

     ところで、私のいる教会群の別の教会に過去おられた、この教会群生え抜きの現在日本の旧約学界でも重鎮の方がおられるのだが、この方は、実は教会群の中でもかなり古い信徒さんの2世さんでもあるのだが、結局、私のいる教会群の中での「知的なもの」への冷遇に耐えかねたのだろうか、今は別の教会群に集っておられる。

     まぁ、私も講壇に立たせていただくことはあるが、過去には、「あなたの説教は学校の授業のようだ(大意)」というくらいの嫌味も言われたことは何度かある。といわれたところでスタイルはそうは変わらないし、変えられない。自分の与えられた賜物を生かすことは大事だと思うからである。それこそ、知性も神の与え給うた賜物であると思うからである。

     ファーストフードフリークは、それはそれで素晴らしいと思う。しかし、世の中、ファーストフードしかない世界なんて、個人的には面白くない、と思うのだ。ファッションだってそうだろう。人民服や国民服しか着てはならなかったら、つままらんのだ。それは中学生の制服見てたらよくわかる。彼らは定められた範囲の中で、ぎりぎりの線をつきながら、自分のオリジナリティを出そうと努力しているのだ。それほど、神が人に与え給うた多様性への希求というのは、非常に強いものだと思う。

    メソジスト、それは読み書きのできるバプテストw

     メソジストとバプテストの違いについて、19世紀のアメリカ人がどう思っていたかのエピソードをリバー・ランズ・スルー・イットの中から、森本さんは拾っておられる。
     前述の「リバー・ランズ・スルー・イット」にとても面白いシーンがある。幼いノーマンが「メソジストって何?」と尋ねると、父は「読み書きのできるバプテストさ」(Baptists who can read)と答えるのである。つまり、バプテストは読み書きもできないが、メソジストはもうちょっと上で読み書きくらいはできる、ということである。もちろんこれは、長老派というインテリ牧師から見た話で、バプテストもメソジストも同じくらいバカにした言い方である。
     実はこれは映画館で見るバージョンにしか出てこない(中略)アメリカ人はこういうジョークが大好きである。自分がバカにされたそのバプテストやメソジストだと、一層喜んで大笑いする。(p.149)
     しかし、「メソジストって何?」と尋ねると、父は「読み書きのできるバプテストさ」(Baptists who can read)ってまぁ、すごい表現であるが、案外、この種の自虐的なネタはアメリカ人は大好きなのである。まぁ、自分たちの仲間だ、という信頼のある範囲で、ではあるが。しかし、これをアメリカ南部(特にDeep South)で英語もおかしい日本人は言わない方がよい。命が危なくなりかねないからである。
     バプテスト教会には、メソジストのような中央集権的全国組織がない。そこには牧師を任命する監督もいなければ、任命されるべき巡回牧師もいない。西部で彼らの伸長に貢献したのは、普通の開拓農民である。彼らは他の入植者と同じく自分で働くうちにある日神の「召し」を受けて仲間に説教を始めるのである。終日は自活しているために、経済的には誰の負担にもならない。プロテスタントの教会では原則的に教会員が牧師の給与を負担するが、信徒であるまま伝道するものは開拓地に最適だった。初期のバプテストは、牧師が教会にやとわれて給料をもらうのはおかしい、と主張していたからである。
     その代わり、彼らは説教者となる訓練や準備を受けたこともなく、本を読むようなゆとりもない。仲間に認められてその教会の牧師になるだけなので、牧師の肩書はすぐ隣の教会でも通用しない。これを「各個別教会主義」とよぶ。(中略)自分の教会外から干渉されるのを好まず、中央からの統制を思わせるような事には同意しない。自分の知らない中央からの権威は、教会であろうと政府であろうと、認める理由がないのである。ここにもラディカル・セクトの遺伝子が生きている。(同書 p.150₋151)
     この部分を読みながら、あぁ、うちのキリスト教会群と同じだ、と思った。うちで生きにくくなった人のアメリカでの行先は、バプテストらしいですが、そら、精神世界が基本同じで、平信徒主義(その結果、牧師が教会を雇うのはおかしい、という御主張の向きも今なおおられる)という点でもよく似ているなぁ、とこの部分を読みながら思った。まさしく、うちにもラディカルセクトの遺伝子を受け継いでいるのだと思う。

    牧師のなり方

     このことで、思い出した。当時高校生であった長男から「牧師ってどうやってなるのか?」って聞かれたことである。別に牧師への召命観があるわけではなく、世間の牧師と呼ばれる人がどうやってなっているのか、を聞かれただけである。

     カトリックでは、かなり長期間の哲学の訓練、そのあとにまたかなり長い神学の研鑽があり、プロテスタントでも、原則は、3年から4年の神学研究、望むらくは別分野の大学在学経験がある方がよく、さらに言えば、神学硬は二つ程度は出ておいた方がよいだろう。しかし、ある教派群では、「示されました」といえば、それで牧師になれるところもないわけではないと思うけど、とは話した。

     「そんな簡単なところもあるのか?」と聞かれたので、「ないわけではないけど、そういう方の中には牧師になってから困る人もいるみたいねぇ」と話したら、息子殿、「明日から、学校行って『あ、実は、牧師なんで…』って遊ぼうかなぁ」と返答があった。しょうがない奴である。

    アメリカの教会事情
     アメリカの現在の社会と教会とのかかわりに関して次のようにお書きである。

    今日アメリカのキリスト教には、多くの教派が入り乱れて存在するが、それは教理上の違いによるものではない。教派の性格を決定するのは、伝道の方法や対象、伝道者が活動した地域、成員の社会階層や教育程度などである。(同書 p.153)
     この構造は日本でも同じである。特に戦後から伝道が始まり、定着したキリスト教群は、どのグループが伝道したかに大きく依拠している。戦後間もなくの段階で、いくつかのグループが同時に入ってきたときに、地域割を自分たちで決めて伝道するという方針を定めた形跡(実物テキストは現在捜索中)があり、日本の都道府県レベルで、教派の分布には明らかな特徴がみられる。その定量的研究もしてみたいという希望があるのであるが、やること多すぎで、こちらにまで手が回らない。一度、西部の福音主義神学会(非会員)で青田(実が取れないタダ見の客)をした時に、雑談でこのネタを提供したことはある。

     アメリカの教会で案外重要なのは、書かれてないけれども、住民のEthnicityというのは案外重要な要件であると思う。地域住民にどの国の出身者の住民が多いかで、特定の教派の教会が存続できるかどうか、ということが決まる模様である。

     アメリカにいたときに行っていた教会では、スラヴィック・バプテストの教会とキャンパス(敷地)を共有していた。一度、スラヴィック・バプテストとの共同聖餐式があったが、ロシア語でパスターが語るのを逐次通訳で英語で聞いていたり、お隣の席に座られた女性信徒の方は、見るからにロシアのおばあちゃん、という感じの身なりの方であった。公的な差別はないものの、言語による障壁や生活の差というのは影響が少なくない模様である。なお、彼女は英語はわからなかった。

     ちなみに、自分が何度か通った散髪屋さんは、ロシア系住民の理容師の方が多い散髪屋さんであった。そしたら、教会のキャンパスである日バッタリ。それで、ディスカウントがあったわけではないけど。

    所属教派ごとの会衆の違い
     アメリカの教会のドアの付近に立つと、その教会ごとに人々の服装や顔つきが違うし、また、しゃべっている言語も違う。アメリカには明確な社会クラスはないが、人種と職業と収入からなる漠然としたクラスは存在する。それについて、このようにお書きである。
     もともとプロテスタントは、聖書のみを掲げて出発しているが、アメリカではこれが特定の教義を掲げない「神学なし」「信条なし」という意味になる。それに代わって各教派の違いを色分けするのが、所属会員の収入や学歴である。(中略)長老派は「大学に進学したメソジスト」、アングリカン派は「投資の収益で暮らす長老派」などという序列で語られた。
     それっでも、信仰復興運動は教派を超えてアメリカのキリスト教に一つの共通感覚を醸成したということができる。それを「福音主義」(エヴァンジェリカル)と呼ぶことは、すでに紹介したとおりである。素朴な聖書主義、楽観的な共同体志向、保守的な道徳観がその特徴で、今日でもそれは健在である。(中略)これらの陣営に数えられる人々は、プロテスタント・カトリック・ユダヤ教など宗派間の垣根を越えて日常的な価値観を共有しており、政治や投票でも似通った動きを見せることが多いからである。(p.152₋153)
     たしかに、長老派は「大学に進学したメソジスト」、アングリカン派は「投資の収益で暮らす長老派」という部分はあるだろう。それを序列というならば。うちはさしずめ、高級なアメリカ製の鉄の馬車(リンカーンとか)に乗るアーミッシュである。
     アメリカでは乗る車の車種、メンテナンスの状態、年式によっておおむねその人の年収<可処分所得>がわかる。まぁ、中には趣味で、60年代のフォードのボンネットトラックに乗っている人もいるけれども、よほどの主義主張がない限り、金持ちは、基本、ラグジュアリータウンカーと呼ばれるリンカーンコンティネンタルやレクサスやアキュラ(ホンダの上級ブランド)に乗るのであって、まかり間違ってもカローラやシヴィックに乗ってはならないような雰囲気がある。というのは、場違いな服を着るのと同じで、まともな対応が受けられないからである。


    Lincoln Town Car Sedan


    Ford の1950年代のSUV

     次回へ続く


    評価:
    価格: ¥2,592
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:やさしい本、読みやすい本ではないが、考える手がかりはくれる。おすすめである。

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