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2015.03.07 Saturday

森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(3)

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    今回は、第3回目。

     初回
    森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(1)

    では、アメリカの反知性主義というものと、その社会への現れ、集団ヒステリー化しやすい土壌、そして、最初のピューリタンたちが持っていた改革派神学(それが悪いとはこれっぽっちもミーちゃんはーちゃんは思っていない)について触れた。

     第2回
    森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(2)


    では、アメリカがそもそも出発点からして高学歴社会であり、そして特に、初期の段階で改革派神学の影響もあり、非常に知性に傾倒した神学的傾向があり、そこに大量に大英帝国からの移民の流入があったこと(現在も確認できる証拠の一部)、その知性主義の応じるためのメディアなどの社会システムの成立に触れてきた。

     今回は、その知性主義への反動として起きた、リバイバリズムについて、森本先生のご著書の記載をもとに考えていきたい。このリバイバリズムには複数の主要な登場人物がいる。一人は、アメリカ土着化し始めていた団塊のピューリタンの系譜に属するジョナサン・エドワーズである。このジョナサン・エドワーズに関しては、はじめてのジョナサン・エドワーズという森本あんり氏が翻訳した本があるので、それをお勧めしておきたい。あと、リバイバル期の初期に活躍した人物としては、本日紹介するホイットフィールド先生と、フィーニー先生この記事参照)先生を忘れるわけにはいかない。

    メソポタミアで感激?

     このジョージ・ホイットフィールド先生は、「メソポタミア」と話しただけで群衆が感動したという(森本先生ご指摘のように、この段階ですでに集団ヒステリーもどきであるが)逸話付きのお方であるが、このホイットフィールド先生の説教で何が起きたか、について、次のようにお書きである。



    「メソポタミア」で群衆を狂喜させたGeorge Whitefield先生(Wikipediaの画像)

     移住してきたばかりのあるドイツ人女性は、英語が一言も分からないのに、ホイットフィールドの説教を聞いて感極まり、「人生がこれほど啓発されたことはありません」と叫んだとか。この逸話は、リバイバリズムの底の浅さを揶揄して語られたものだが、大都市で当て所もなく彷徨っていた移民たちの不安と宗教的需要をよく物語っている。そして、定住者による安定した社会の維持を願っていた当時の既存教会には、こうした不安な大衆を受け入れる準備が全くできていなかった。人々の潜在的な宗教的需要は、かつてないほどに膨れ上がっていたのである。(反知性主義 p.70)
     しかし、わけわからなくなってあらぬことをしゃべるのは、ペテロ君だってそうである。変貌山上の出来事に直面した時、彼は、「せ、先生方のためにテントを作ります。作らせてください」ってしゃべっている。

    初期植民地固有の社会の不安定さ

     当時のアメリカ社会が不安定な状況であったことは、以下のThe Crucibleという映画にも出てくる。以下の映画は、セイラムの魔女裁判というアメリカの黒歴史にまつわる事件を取り上げた映画である。ピューリタンで社会を構成しつつも魔女だと騒ぎが起きて、キリストの名のもとに人を気づ付けた事件である。このDVDの開設によれば、この映画自体、20世紀において赤(共産主義者)狩りと称する魔女狩りをしたとされるマッカーシズムへの批判として描かれた側面もあるらしい。

     この中のワンシーンで、ピューリタンの男性信徒の老人が、その夫人が「聖書以外のものを読んでいる(けがらわしい)」と悪口を言いふらかすシーンがあるが、これなどは、現代の福音派や、カルト化した教会などで時に聞かれる表現ではないだろうか。




    一種の集団ヒステリーであったセイラムの魔女事件を扱った映画「クルーシブル」

     アメリカの黒歴史としてのセイラムの魔女事件は、アメリカのドラマや、子供向け番組やThe Simpsonsなどでもチラッとだけではあるが、批判的に取り上げられることも多いほど、この世界に行きやすいアメリカの文化はある程度あるかもしれない。

    実利家フランクリンとの出会い
     フランクリンは、雷が電気であることを明らかにした科学者というか発明家であり、エジソン先生の大先輩のような方であるが、実は、大英帝国から伝道しに来たホィットフィールドの同時代人である。

     実利家のフランクリンであるから、もちろん宗教などにかぶれるはずがない。彼は世間の評判に頼ることなく、何でも自分で実地に見聞してから確かめようとする科学的精神のもち主であったから、1739年にホイットフィールドがフィラデルフィアにやってくると、さっそく彼に会いに行っている。この二人は、低い身分の出自、豪放磊落な性格、不屈の企業家精神といった個人的な背景や気質でも、共通するところが多い。(p.71)
    と書かれていたが、まぁ、何と似た者同士であったらしい。まぁ、「豪放磊落な性格、不屈の企業家精神といった個人的な背景や気質」と書かれていたが、口の悪い言い方をすれば山師、あるいは一発屋のような性質であったようである。一時期一世を風靡したライブドアの創業者社長のような性格の人物だったかもしれない。なお、その人が山師だと言うつもりはない。まぁ、悪役キャラと同じようなタイプらしい。ミーちゃんはーちゃんは、基本悪役キャラなんで、親和性は高い。

    ■悪役の特徴
    1 大きな夢、野望を抱いている
    2 目標達成のため、研究開発を怠らない
    3 日々努力を重ね、夢に向かって手を尽している
    4 失敗してもへこたれない
    5 組織で行動する
    6 よく笑う



    100ドル札のフランクリン(まず、外国人がこれ使ったら偽札の検査をされる)

     なお、フランクリンが載っている100ドル札はどうも本物そっくりのSuperKというお札がアジアの某国で制作され、アメリカ国内でも流通している模様なので、アメリカ国内で使おうとすると、まずチェックされる。そもそも、アメリカの空港だと、10ドル札以外は嫌がられることも多い。しかし、因果な役回りのフランクリンである。

    メディアを活用したホィットフィールド
     キリスト教は日本でも割と印刷物系のメディアを活用してきた(上手にかどうかは別として)といえるだろう。18世紀初頭に当時のハイテク(今のインターネットのような)メディアであり、それを相当活用したらしい。その辺の背景に関して、次のような記載がなされていた。

     最初の渡米時にほとんど無名だったホイットフィールドは、二度目の時はすでに有名人になっていた。「説教しては印刷する」(preach and print)という独自の伝道方法の成功っである。彼は、自分の説教予定を新聞や雑誌と言う大衆メディアで次々と同時進行的に宣伝した。この新しい伝道方法は、先に述べたような印刷や出版の大きな進歩がなければできなかっただろう。この点で、彼は現代のテレビ伝道者のひな形といってよい。(p.74)
     まぁ、現在で言えば、ブログでステマをしたり、テレビに出たり、ラジオを利用したりという手近にあるメディアをうまく利活用したと言えよう。今でいえば、某「K福の科学」や某「SK学会」さんや「目ざめよ」をご配布いただいておられる皆さん方がお取りの方法であるが、実は、この原点というか出発点にあたるのが、このホィットフィールドさんという方のようである。その意味で、仏教系を含め日本やアメリカの新興宗教の原型を作った人物といってよいだろう。
     ただ、無料の配布物は、今では、紙が希少な資源でなくなったため、昔ほど大事にしてもらえない。昔は、ちょっとしたものを包むためや、焚きつけの素材として大変重宝されたりしたのだが、今では、廃品回収に直行になりかねない。
     さらに、現在ではテレビやネットがあり、新聞は発行部数を減らし、テレビは視聴率が下がるような情報過多時代であるので、よほど話題性や特徴、読者層がなければ見てもらえないし読んでももらえない。

    聖なる商品、聖なるステマw

     ホイットフィールドの説教や伝記を出版することで、ちゃっかりフランクリンも商売をしている。そのあたりに関して、このように森本先生はお書きである。

     あとで触れるが、こうした伝道方法は、地元の教会の牧師たちにはすこぶる評判が悪い。ところが、彼はそういう地元教界との軋轢すら逆手にとって、前評判を高めるのに利用した節がある。(中略)印刷業者フランクリンも、ちゃっかりこの新しいビジネスチャンスを利用し、ホイットフィールドの説教や自伝を出版して大きな収入を得ている。こうした業者たちにとり、ホイットフィールドは飛ぶように売れる「聖なる商品」だったのだ。
     つまり彼は、18世紀前半という商業化と消費革命の時代にふさわしい伝道者であった。(p.74₋75)
     しかし、このホイットフィールドさん、かなり炎上体質の御仁だったらしい。某雑誌ミニストリーの編集長以上に炎上体質だったらしい。マッチポンプというよりは、マッチガソリンだったようである。その意味で、ホイットフィールドは今の用語で言えば、「自演乙」だという批判を浴びかねないことをなさっておられたことも書いてあった。

     まぁ、炎上することで意識を喚起し、そして社会運動へとつなげていく、というのはこれ以降アメリカのキリスト教では習い性になる。典型的には公教育で進化論を教えることの妥当性が議論になったスコープス裁判である。あるいは、近時では中絶問題のロー&ウェイド事件(Roe v. Wade, 410 U.S. 113)、同性婚問題などが典型的である。それだけ、アメリカ社会がメディア依存だということなのだと思う。

    歴史の証人とその証人性について

     このニューイングランドのリバイバルは、自分自身の罪深さを否応なく感じなければならず、神の怒りの手が迫ってくるという妄想にかられ、自殺者が出たことによって急速に収束するのだが、ジョナサン・エドワーズが「誠実な報告」というタイトルでこの経緯をまとめたことが本書にも記載されている。そこも面白いのだが、一番気になったのは、この部分である。

     加えてここには、歴史の証人になるとはどういういことか、という本質的な問いが浮かび上がっている。出来事の報告者たちがその出来事の登場人物でもある、ということは、実はすべての神聖な歴史証言に必須の事態である。なぜなら、商人であるということの中には、当事者であるということが含まれるからである。(中略)物語る証言者は、必ずその物語中の登場人物でもある。この「出来事内在性」が、証言者の証言者たる資格を与えるのである。証言者は、自分を語ることなくして歴史を証言することはできない。歴史はすべて、誰かによって語られた歴史である。(同書 p.79)
     この辺、下記で紹介するボウカム先生の義論と関係しそうなのだなぁ。ボウカム先生は福音書作家の目撃者性を「イエス入門」で(おそらくタイトルからするに「イエスとその目撃者たち」でも)議論しておられるけど、歴史性の問題を扱う上では、この種の問題はなかなかむつかしいのである。近年の義論で言えば、文化人類学のEthnography研究に妥当性がどこまで付きまとうのか、という問題ともよく似ている。文化人類学や経営学では、その対象の内部に身を置き、そこで観測された知見をもとにその対象や組織に関する研究をするのであるが、その対象のそばに観測者がいると、観測者の持つ固有の文化的行動が対象や組織に影響を与えてしまうことや、観測者自体がその組織から影響を受けてしまい、間主観性の根拠となる主観にバイアスが生じてしまう、という問題があることは文化人類学の基礎中の基礎でもある。歴史学の場合、証言者ないしその関係者が残した資料に依拠して研究を進めるので、この間主観性の問題は、実物の対象に影響は与えないというものの、実物の対象からの直接資料ではなく間接資料に依拠しないといけない、あるいは、遺物を通しての推定が入るという意味で、研究に誤差というのか余分なものが入り込みやすいという欠点を生じる。

     いずれに場合にせよ、歴史学というのは非常に科学的客観性を備えた学として、悩ましいものを出発点のところで内包せざるを得ないし、そのあたりのことは少し考えないといけないけれども、その部分が歴史学の面白さだなあ、と思った次第。


     次回 リバイバリストたちと既存教会とのかかわりをご紹介する予定。



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    コメント:非常に良い。おすすめである。多分、上の「イエスとその目撃者たち」本を短く分かりやすくした本。

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    コメント:著者の博士論文を一般向けに書き直した本。目撃者証言性を考えるうえで参考になるかも。

    コメント
    >歴史性の問題を扱う上では、この種の問題はなかなかむつかしいのである。

     茶々入れのように感じる人もいるとは思いますが、如何なる場合であろうとも物理原則からは逃れることは出来ないようで・・・
     結局(薬局)、監視対象に影響を与えずに観測することは不可能であるのが真実ではと思います。
     また、位置情報と運動情報を同時に精度良く観測するのも不可能なのではと・・・当然精度の問題ですが、古典力学で同時観測しているように思いこんでいるのは、確からしさの値が実用上無視できる程度に収まっているからに過ぎないのではとが・・・ストアで云われている「飛ぶ矢は動かず」の矛盾も、単に誤差を監視できないだけでは・・・って・・・
     もっとも、小生今時珍しいエーテル学派なもので((〃⌒∇⌒)ゞヘヘッ♪)
    • ひかる
    • 2015.03.07 Saturday 22:17
    それはそうですね。客観的な基準となるものが定義できるかどうなのか問題ですね。古典物理の問題にしても。結局位置を固定しようとすると時間が動き始めるし、時間を固定しようとすると位置が今度は動き始めてしまいますから。クロノグラフ以来の問題ですねぇ。

    まぁ、人間の世界はええ加減で出来ているので、その辺、どの程度で我慢できるか、ってところでしょうね。どこまで実用上有効とするか、ってことで。

    監視対象と観測者は、結局相互独立ではありえない、ですねぇ。どう考えても。多分それは出来ないという印象を持っていますが、じゃしなくていいかというとそうでもない。観察者が存在する限りにおいては、客体に影響するし、客体は観測者に影響を与えてしまうのでややこしいすね。

    コメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2015.03.07 Saturday 23:22
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