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2015.03.02 Monday

森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(1)

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     本当は、「富士山とシナイ山」の連載をする予定だったのだが、本日は若い友人が紹介してくださった森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 からご紹介してみたい。これは、日本の多くのキリスト教会(日本キリスト教団、及び福音派を含めた日本のキリスト教会)の固有事情を読み解くために、本書で森本あんり氏が示唆しておられる補助線なしには、あまり意味をなさないからである。

    アメリカという無意識の宗教国家
     以前、この記事でも紹介してきたように、明治期以降の日本のキリスト教は基本東回りではなく、アメリカ合衆国というフィルターを通して流入したキリスト教であり、その意味で、その影響はいまだに続いている。最初に覚えたものからなかなか抜け出せないのは、人の習い、世の習い、でもある。

     そして、アメリカ人のある一定の部分は、あまり自覚的に意識していないことが多いようのだが、アメリカという国家における文化とキリスト教というのは不可分であり、アメリカ合衆国は政教分離と日本人は思い込んでいるが、ところがどっこい、アメリカ合衆国は日本型の政教分離ではなくアメリカ型の信仰のスタイルが政治にどっぷりと流れ込んでいるタイプの政教分離なのである。それは当たり前である。アメリカ型の信仰者が政治をし、投票行動するので、なだれ込まない、と思う方がどうかしている。その意味で真の民主主義国家において政教分離というのは、壮大な虚構だと思った方がよい。なぜなら、宗教的コンテキストもその人を作り、政治に微妙な影響を及ぼすからである。

    反知性主義とは何か
     森本氏は反知性主義の代表的な定義として佐藤優の定義
     実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度
    を引用(反知性主義 p.4)した上で、次のように続ける。

     しかし、この言葉は、単なる知性への反対というだけでなく、もう少し積極的な意味を含んでいる。(中略)本ら、反知性主義は、知性そのものではなくそれに付随する何かへの反対で、社会の不健全さよりもむしろ健全さを示す指標だったのである。(同書 p.4)
    と紹介されている。地勢に付随する何か、というのは豊かさであったり、社会を支配しているその権威性だったり、神の名の下に平等といいながら、人を人とも思わない東部の金持連中の態度だったり、社会の不正義だったりするのである。アメリカ人にとって重要な概念は、Pledgeと呼ばれるアメリカ国民の統一の象徴でもある国旗への忠誠の文句

    I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.
    の最後の部分、with liberty and justice for all がものすごく重要なのである。それが知性を持つ人々(たとえば、関税をかけてきた英国国王やそのお取りまきを含め)がたびたびアメリカ史上で、本来公平に扱われるべき人々を踏みにじってきたという経験があるがゆえに権威あるものに逆らい、このwith liberty and justice for allの実現を求めるのである。その意味で、社会の健全さを表すとアメリカ人は素朴に感じるようである。

    反知性がアメリカで言われ始めた背景
     
     どうも、この背景にはマッカーシズムがあるらしい。まさしく、マッカーシズムは、アメリカの文化人であるハリウッドやマスコミ関係者を目の敵にして、アカ(共産党員)認定をしてきたし、共産党員であること告白し他の人が共産党員だと報告した場合、Munityを根拠に無罪放免されるという司法取引制度を活用しながら、他人を共産党員として告発し、社会を不安に陥れるような膨大な罰ゲームをしてきた。このあたりのことは、Good Luck and Good NightというGeorge Crooneyの映画やJim Carry 主演のThe Majesticを見ると分かりやすい。



    Geoge CrooneyのGood Luck and Good Night
     クルーニーの父(アナウンサーだった)が思い起こされる名画


    Jim CarryのThe Majestic これも「ショーシャンクの空に」の監督作品で、おすすめ

     反知性主義が言われ始めたそのオリジナルについて、森本先生は次のように書いておられる。
     反知性主義(anti-intellectualism)という言葉には、特定の名付け親がある。それは、「アメリカの反知性主義」を著したリチャード・ホフスタッターである。1963年に出版されたこの本はマッカーシズムのあらしが吹き荒れたアメリカの知的伝統を表の裏の表面から辿ったもので、直ちに大好評を博して翌年のピュリッツアー賞を受賞した。日本語訳がみすず書房から出たのは、40年後の2003年であるが、今日でもその面白さは失われていない。(中略)
     だが、もしそんなに名著であるのなら、これが40年間も訳出されずに放っておかれたのだろうという問いも出てくる。理由の一端は、この本の内容が日本人には理解しにくいアメリカのキリスト教史を背景としているところにある。(中略)決して難しい本ではないが、日本人になじみの薄い予備知識が必要なため、本筋のところが敬遠されてしまうのである。(中略)アメリカの反知性主義の歴史をたどることは、即ちアメリカのキリスト教史を辿ることに他ならない。(同書p.5)

     最近教会に来ておられる信仰者でない方から誘われて、アメリカ政治学者の研究会に顔を出していて思うのだが、実は、日本だけでなくヨーロッパ人を含めアメリカ史、特に政治史の研究者のかなりの部分は、このアメリカ史におけるキリスト教史、とりわけ反知性主義のかかわりが分かっておられない方が多い。アメリカの政治史において、実は、このキリスト教的な精神性とそれから導かれる反知性主義、また、このキリスト教的な一種の冒険主義や理想主義がわからないと、国際社会におけるアメリカの政治的行動が見えないことが多いのではないか、と思うのである。

    アメリカ社会と契約と英国の改革派神学
     アメリカ社会の中で、当初ニューイングランド(新しいイングランド、神から祝を受けるべきまともなイングランドという印象がある語)を建設しようとしたのは、イギリスで非国教会の信徒でなかったために嫌な目にあったピューリタンが建設しようとした一種のキリスト者による理想郷の建設である。

     はじめ大陸の改革派神学の中で語られた「契約」は神の一方的で無条件の恵みを強調するための概念であった(引用者注 これは、ちょっと乱暴かも)(中略)ところが、ピューリタン(引用者注 英国国教会分離派としてのピューリタン)を通してアメリカに渡った「契約神学」は、神と人間の双方がお互いに履行すべき義務を負う、という側面を強調するようになる。いわば対等なギブアンドテイクの互恵関係である。(同書 p.23)

     この神と人が対等であるという概念自体が、 I don't know who I amというブログこれ言ったら要注意クリスチャン認定、な台詞を考えてみたで大丈夫か、という指摘を受けている対象になっている、「神様を友達感覚で呼ぶ」、「私が祈ると神様がきいて下さるのです」という行為(これを言っている人に対する敵意や批判ではなく、その行為そのもの)ような一種自己中心的で、かなり困ったちゃん的な神理解に基づく行為につながっているのではないか、と思う。

     超簡単なアメリカ建国史は下記のBowling for Columbine(コロンブスの土地へのボウリング)の中のアニメーションで見ると分かりやすい


    Bowling for Columbineの中の挿入されたアメリカ略史のアニメーション

     レーガン大統領のあるスピーチの概略を

     見よ、アメリカは栄華を極めている。それは自分たちが努力したからであり、その努力を神が祝福してくれたからである。我々のくらし向きは以前よりずっと良くなっている。それは神が我々を是認し祝福してくれたからに違いない。だから我々のやってきたのは正しいのだ。(p.28)

    とご紹介された上で、次のように続けておられる。

    幸福の神義論?
     時々出会うキリスト者とおっしゃる方の中に、祝福されていることをキリスト者は成功することで確認できるという方もおられるが、何で、こうなるのか、ということは何となくはわかるが、それに関して、幸福の神義論という言葉でご消化しておられる。
     これは、「幸福の神義論」である。「神義論」は、もともと人間の不幸を神学的に説明する論理として知られてきた。もし、神が愛と正義の神であるのなら、なぜ我々はこんな不幸で苦しまねばならないのか、という問いに答えようとするのが信義論である。(p.28)
    と、本来の神義論から神義論が逆転してしまっていて、「信仰者が神に祝福を迫る」その論理を求める議論になってしまいかねないことを、つまり、「ねぇ、ドラえもん」といい神におねだりするような「のび太型の信仰者」の背景をご紹介しておられる。つまり、「信仰者は神の中に苦難の中におられても共にいるということで神がともにおられる、即ちインマヌエルとして義を実現される」という神義論ではなく、「義が実現したところには、祝福があり、地上での豊かさを通しての祝福があることがすなわち義であり、(地上の豊かさで感じることができる)祝福がないところには義がない」「貧しいのは、その人が正しくないからではないか」というタイプの神義論である。このタイプがまずいのは、イエスがそのような理解を否定する直接的な文言があるからである。

    【新改訳改訂第3版】
    ヨハネ福音書
     9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
     9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
     9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
     明らかに、この場所は、伝統的な神義論の根拠の一つであろうし、逆転した「幸福の信義論」と矛盾を生じる様な神義論である。

    2分方的な思考法の原点
     アメリカの単純化した考え方の背景に正しいか、間違いか、という非常に単純化して考える思考法の背景に、2分方的な概念がいまだにアメリカに働いている。例えば、裁判でも、有罪でなければ、無罪とするような考え方であり、白黒はっきりつけるようなアメリカで主流を占め続けてきた考え方である。

     この国(引用者注 アメリカ)と文化の持つ率直さや素朴さや浅薄さは、皆この2分法(引用者注 いのちと幸いの道 VS 死と災いの道)を前提にしている。明瞭に善悪を分ける道徳主義、成功で尊大な使命意識、揺らぐことのない正統性の自認、実験と体験を無縁とする行動主義、世俗的であからさまな実利志向、成功と繁栄の自己慶賀−こうした精神態度は交差も逆転もなく青年のように若々しいこの歴史理解に根差している。20世紀アメリカの産物である「ファンダメンタリズム」も、進化論を拒否する「創造主義」も、終末的な正義の戦争を現実世界で実現してしまおうとするアメリカの軍事外交政策も、みなその産物といってよい。
     本書の主題である「反知性主義」も、このような単純な倫理意識や使命感をその成分要素の一つとしている。第1章では、まずその前提となったピューリタニズムの極端な「知性主義」を振り返ってみよう(p.29)

     ということで、次回は、反動として生まれることになる、反知性主義の原因となった、知性主義の背景ともなったピューリタンとその学術中心主義、厳密な思惟を求める性質について、陳べていこうか、と。

     次回へと続く。


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    コメント:買って損はしない。それでも、お金が惜しい人は、図書館へどうぞ。読んで損はない本です。

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