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2015.02.28 Saturday

日本のクリスチャンがまず”Do”に走るわけ & クリスチャンのこれはアカンやろ発言

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     いつも拝読している、I don't know who I amというブログで、面白い記事「クリスチャンはまず"do"なのか、あるいは"be"なのか」を見つけたので、少し思うところを書いてみたい。クリスチャンは、”do”に支配されすぎていて、”be”であることが許されていないのではないか、という疑問をご提示のようである。

    できない人はどうすれば?

     読んでいる中で、主催させていただいているナウエン研究会で身体障害をお持ちの方から、「障碍があり人並みのことができない私はどうすればいいのだ」という同じような思いをお聞かせいただいたことがあるので、「あぁ、この種のことは、どこでも結構あるのだろうなぁ」と思った。そのブログの記事で印象に残った部分を引用したい。

      けれど一方で、行動が全てと言ったら言い過ぎになる。たとえば何らかの障害があって人の役に立つ行動が何もできない人は存在意義がない、という話になってしまうからだ。
     もし行動が全てなら、行動できない人に価値はない。じゃあその人たちはどうしたらいいか。死ぬべきか。でも一体誰がその線引きをするのか。という話にもなる。
     
     それに誰にでも大切な人はいると思うけれど、その人が「大切」なのは、何かしてくれるからとは限らない。いてくれるだけでいい、という人も中にはいる。
     
     だから人の価値とは行動だけで決まるものではない。現実には決まりやすいけれど。
     
     そういう視点で昨今の福音派・聖霊派の教会を見てみると、どうもbeでいることができず、いろいろdoをして自らの存在意義を表そうとしているように思える。
     
     たとえば宣教活動にしても、「今神様が〇〇に行けと命じておられる」というのが続いてアチコチ行く羽目になるし、集会にしてもやれ青年大会だ賛美集会だ癒しの聖会だで休む間もなく、そうかと思えば新会堂を建てることが御心だとか、福祉事業を始めることが御心だとか、何やかやでイベントのない月がない、いやイベントのない週がない、みたいな状況になっている。
     それで「時間がない」「忙しい」「ここは御心の教会だから」とか言うのだけれど、自ら忙しくしておいて「神に用いられている」と酔っているだけではないだろうか。
     あるいは、doに憑りつかれているのではないだろうか。
     とお書きである。個人的には福音派と分類されるキリスト教の片隅で暮らしているのだが、まぁ、この記事でご指摘のほどまでDoに取りつかれていることはない。また、何人かの福音派の牧師さんともお付き合いさせていただいているが、Doにとりつかれているという感じはない。

     いまは、個人的には、Doではなく、Do’ohに取りつかれているが。


    Homer SimpsonによるHomer Face 

     まぁ、過去の一時期は、DOに取りつかれているといわれてもしょうがないノリであったこともないわけではないが、現在通っている教会は、割と初期の段階から、「この教会は、ジャグジーのような教会ですねぇ」という悪口なのか褒め言葉のなのか判然としないコメントを巡回説教者の方からは頂いている。

     さらに、この教会は、高齢者が増えてきたこともあり、現在ではBEにかなり重心が移っている(というよりは、もう、Beしか実際には、できなくなっているといってよいだろう)。

    Do指向型の背景
     この背景には、日本のキリスト教会の多くが、基本、アメリカ経由の西廻りのキリスト教に大きく依存していること、とりわけ、アメリカの伝道団体の支援と影響を大きく受けていることにあるのかもしれない。

     アメリカのキリスト教は、もともとジョナサン・エドワーズをはじめとするリバイバル運動の影響を受けているというよりは、リバイバル運動が教会の理念系に組み込まれている関係で、野外伝道や、伝道大会や様々なイベントをすることが理念系の基礎にどこか埋め込まれていて、聖書理解と不可分になっているため、その点での切り離しができなくなっているように思われる。このあたりのことは、最下部で紹介する森本あんり先生の近著『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』に詳しい。

     また、これが日本ではびこる背景には、和魂洋才の言葉にあるように、キリスト教を神と共に生きつつ、神のことを味わう体系としてではなく、むしろ、一種の西洋型の社会倫理を実現する技術として受け入れたため、その外形基準である倫理的行動、社会的活動や伝道活動の枠組みとして受け止めてきた可能性もないわけでもないような気がする。このあたりは、以前紹介した「植民地化・デモクラシー・再臨運動」に詳しい。書評は、こちらから。

    日本固有のDo指向型の背景
     また、日本固有の背景として、いい悪いは別として「日本が、キリスト教国であった経験を持たない」という側面があると思われる。つまり、この150年間、とりわけ1945年以降のほぼ70年間にわたって、宣教地であり続けたために、新たに信徒を獲得するということが教会の主眼点であるとされ続けてきた傾向があるあまり、信徒の成熟と信徒間の共同体の形成を図れなかったということがDo指向型の教会を生み出してきたのかもしれない。

     工藤信夫先生(医師なので例外)のご指摘ではないが、「日本の教会がナウエンを知りえなかった」ということの悲劇なのかもしれない。個人的には、ナウエンというよりは、ジャン・ヴァニエの「コミュニティー―ゆるしと祝祭の場」に示されたような思想をキリスト教の中の概念として内在化できなかったということだと思う。このジャン・ヴァニエの本は非常に参考になる。

     工藤先生によれば、アメリカのプロテスタントが問題に直面した時にアメリカのプロテスタントが十分に持ち合わせていなかった共同体の思想をナウエンを通して再検討することになったらしい。ところで、日本のプロテスタント系の教会ではどうなのだろうか。カトリックの思想家あるいは神学者であるということで、無視したり、避けていないだろうか。

    近代という時代に構成された教会ゆえの悲劇
     近代の社会は、大量生産大量消費が可能になり、効率性が支配した社会である。テクノロジーがその能率性という可能性を社会において発揮し、その結果として、テクノロジーが社会における中心性を要求した社会である。このあたりに関しては、この記事『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (10)を参考にしてほしい。

     その結果、日本の教会でも産業化されたGolden Age(金ぴか時代)のアメリカを通過して(あるいはその影響を無意識的に受けて)日本に到着した結果、数量化、指標化を通しての定量化が無意識的に求められることとなり、西廻りで日本に到着したキリスト教はアメリカ型キリスト教、即ち「テクノロジーがシナイ山での金の子牛の役割を果たしている」キリスト教を無意識にキリスト教として受け取ってはいないだろうか。そして、Do型のキリスト教になってないだろうか。その反省もなく、自己が最初に出会い、自己の教会が重視しているキリスト教的なもの、あるいはキリスト教的な何かを「これがキリスト教です」と語っていないだろうか。キリスト教は、もっと多様で複雑で単純化に耐ええないものだと思うのだが、それを単純化して語ることをしていないだろうか。

     まぁ、恐らく、上記を読んで不愉快に思われた皆さん、とっくにDo型でキリスト教界で主流派を誇っておられる皆さん方には、どうぞ、「福音派でも、非主流派のリベラルで、エキュメニカルに狂ったキリスト基地外が勝手にほざいている戯言だ」と思っていただければそれでよろしいか、十分か、と存じます。

    キリスト教界要注意用語集www

     と思っていたら、またまた、面白い記事をあげておられた。これ言ったら要注意クリスチャン認定、な台詞を考えてみた である。何が個人的に疑義がある痛いかというと、結構こういうセリフを聞くからである。

    「私が祈ると、主が聞いて下さるんです」

     一見、敬虔ぽく聞こえるが、ここでの出発点は、神やではなく、私である。これまで当ブログで「富士山とシナイ山」で批判してきた自分(人間)が中心になっているからである。聖書の主張は一貫して、「神が中心」であるにもかかわらず。


    まさかこんな風ではないと思うが。


    「これは主からの特別な啓示です」


     「じゃ、聖書はいりませんね。」あなたへの啓示は聖書に優先するんですね。聖書より啓示に中心性を置いたら、もはや、キリスト教でなくなりかねないのですが。


    この方は近鉄バッファローズにとって特別な啓示であった。

    「目覚めよ!」

     こんな雑誌と同じですか?うちにもご恵贈くださる方がおられて、ありがたく研鑽の資料とさせてもらっておりますが。


    こんな絵見せられたら、寝てられない。


    「日本に新しい季節がやってくる!」


     大体、1年に4回くらいはやってこられておられるようですが。春夏秋冬、って。ちがうかぁ。


    文字通り、新しい季節が…

    New YorkのFour Seasons Hotelの入り口


    「次世代が鍵です」


     じゃぁ、ニュータイプは? 「見せてもらおうか、次世代の実力とやらを」といいたくなっちまうじゃないすか。

    AERAの表紙となった、赤い彗星 シャア閣下

    神様を友達感覚で呼ぶ

     神さまから、こういわれるかもね。

     ♪ 港のヨーコ、横浜、横須賀〜〜〜〜 (古ッ)


    「主は選択の自由を与えられましたが、それは私たちが主に喜ばれる道を選択する為です」


     じゃぁ、アブラハムは?ヨナは?人間のちょっとした選択で動じる様なお方ですか?それ、神様バカにしてません?

    憲法22条の歌 「職業選択の自由 あははん」 これ、シーナアンドロッケッツだったのか。

    「世の終わりが近いと思いませんか?」


     その根拠は?平安時代も末法思想が流行ったけど?流行り廃りじゃなきゃいいけどね。w



     とfuminaru k様に笑かしてもらったので、今日はこの辺で。

     次回、「富士山とシナイ山」に戻します。多分。




    評価:
    H.J.M.(ヘンリ・J・M) ナーウェン,太田和 功一
    あめんどう
    ¥ 1,687
    (1997-09-20)
    コメント:非常に良い

    評価:
    ジャン・バニエ
    あめんどう
    ¥ 1,296
    (2010-08-20)
    コメント:Beであることの意義を伝える本

    評価:
    価格: ¥0
    ショップ: ---
    コメント:非常に良い、アメリカ宗教史の視点から見たアメリカ史。こういうのいいですよ。知っとくだけでも。大絶賛。

    コメント
    目覚めよ! のポスター、超怖いですね。(汗)

    Doing vs. Beingはよく言われる対比ですが、私は、クリスチャンの特徴はBecomingではないかと、最近思うようになってきました。

    ナウエンのことばで言えば、Becoming God's Belovedでしょうか。。。

    ジョン・オートバーグは、クリスチャンとは?を考えるとき、これまでin/outという白黒の範疇で考えられることが多かったけれど(『福音の再発見」の中でも「boundary maker」のことが出ていましたよね、確か) キリストの似姿に向かって変えられているか、キリストの似姿から遠ざかっているか、で考えることについて語っていました。

    「悔い改める」とは、向きを変えてこれまでとは違う方向(イエスが指し示してくださっている方向)に進むことなのですよね? 

    What kind of a person are you becoming day by day? More like Jesus, or less like Jesus? そのことを、最近よく考えています。
    はちこさん 
    コメントありがとうございました。

    昨日の夜お答えしたと思っていたのに、お応えできていなかったようです。

    はい、確かに、目覚めよ!(の雑誌の表紙)おどろおどろしいです。1980年代の表紙なので、恐らくIRAではないか、と思います。

    そうですね。Be Doではなくて、Becomingというか、re-creation つくりかえられる、だと思います。変容するといってもよいと思います。一方向の方向性が決められた形の成長ではなく。ある面、Telos(最終的な到達点)で実現する、神の愛の中に、神の義の中に、神の平和の中に一致するというんですかねぇ、収束するって言うんですかねぇ、落ち着くって言うんですかねぇ、そいうことが実現するってことだと思うのですよ。Becoming God's Beloved、Becoming God's Peace、Becoming God's Justiceだと思うのです。Justiceにしても、Beloved(love)にしても、Peaceにしても、それぞれTelosの別表現でないのだろうな、ということが何となくわかってきました。それも、自分がなる、自分でなる、ではなくて、神の支配(神の王国や天の王国とも訳されますが)の中で神の介在の中にあってそうなっていく、という側面をもうちょっと強調しないとまずいのかなぁ、と思うようになりました。

    良いレントをお過ごしください。神の平和、神の愛、神の義、神の支配がはちこさんの上にあるように。


    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2015.03.03 Tuesday 14:20
    はじめまして。コメントさせていただきます。
    何かをするから良いというのではなくて、いちばん重要なのはその人の心ではないでしょうか。
    私はアメリカから帰ってきて、アメリカの良い教会に恵まれて、日本の教会に行くとギャップが大きくてびっくりしました。ちなみにそれ以前は日本の教会に行った事はありません。

    すごく形式ばっていますし、交流も浅はか、これをすれば良いというような感覚がとれました。私としてはちょっと疑問に思っているところでした。
    私は他の教会や他人を知らないので批評をしませんが、日本の教会にいったときには私がクリスチャンと認められるまで&#12316;をしらければならないというような圧力を感じました。

    神様が私をどうお使いになって、どの教会にいってほしいかはまだわかりませんが、慣れるのには時間がかかりそうです。

    それから痛い発言として神様を友達のように扱うというように書いていましたが、聖書には、ヨハネ福音書15:15など、友ですという表現もあります。確かに神様は高い尊い存在ですが、神様とは親密であることが大事であると思います。それは人によって違いがあってもいいと思いますので、痛いとは全く思いません。
    私の友達なんかは、Dear daddyなんかでお祈りをはじめることがあります。これはその人と神様との関係なので、私たちには判断したり批判したりする権威はないと思いました。

    突然のコメント、失礼いたしました。
    • R.Wood
    • 2015.03.11 Wednesday 21:31
    R.Wood様

    コメントありがとうございました。

    >いちばん重要なのはその人の心ではないでしょうか。

    このことを上の記事ではご指摘したつもりですが。心というと、非常に漠然としているので、神に対する向かい方というか、神との関係というか、神についてどう考えるか、ってことでしょうね。

    >日本の教会に行くとギャップが大きくてびっくりしました。

    これはよくわかります。私も、2度のアメリカの異なるグループでの半年以上の滞在経験で、日米の差でびっくりするとともに、教派的な環境というか雰囲気の違いが大きかったですから。

    >日本の教会にいったときには私がクリスチャンと認められるまで&#12316;をしらければならないというような圧力を感じました。

    これ、教派的な違いもあって、様々な教派によって、その教派の聖書理解のおおむねの傾向を知っていてほしい、というのはあるでしょうね。うちの教会は使徒信条の基準以外に、特に何もありませんが。日本では珍しいグループの中で、特に珍しい教会です。

    >どの教会にいってほしいかはまだわかりませんが、慣れるのには時間がかかりそうです。

    あんまり気にしなくても、すべてを支配しておられる方ですから、あまり気にしなくても大丈夫ではないか、と。まぁ、教会文化が結構ある教会も多いことは存じ上げているので、よい教会に出会えるとよいですね。

    >神様を友達のように扱うというように書いていましたが、聖書には、ヨハネ福音書15:15など、友ですという表現もあります。

    恐らく、友達扱いの根拠はご指摘のJohn15:15 ですが、しかし、聖書全体は、人とキリストの断絶(=罪)であり、最終的な完成の時に初めて、この断絶の完全な回復があるというのが、個人的な聖書理解ですし、これまでギリシア以来18世紀くらいまでのキリスト教の伝統だと思います。

    英語的な表現でのDaddy、アメリカ的な文化コンテキストの中でのこの表現は、表現の自由の枠内ですが、日本のほぼ日本人の礼拝の中で、これはないかな、という気がします。文化的コンテキストが違いますから。

    ただ、割と人間関係の水平思考の強い米国文化の中でも、私の個人的な聖書的な理解からはかなり厳しいでしょうね。
    というのは、これが日本的コンテキストで主張されるとき、自己を偶像とする偶像崇拝への道でもあるからです。差があることを前提とするヨーロッパ社会との違いに関してはこちらを。
    http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=753

    そして、日本型信仰(絶対者との連続性)の問題に関しては、まずはこちらをご覧ください。

    http://voiceofwind.jugem.jp/?cid=19

    コメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2015.03.12 Thursday 07:10
    コメント返しありがとうございました。
    たくさんの情報を提供してくださってありがとうございます。
    たいへん役にたちました。このような者のために長いコメントをくださってほんとうに感謝します。


    私は年齢が低いのですが、やはり神様は高いお方で畏れから信仰ははじまると言われていますが、私の友達にはそれを意識するがゆえに、神様との親密さをどう認識したらよいかわからない人たちもおります。だからI am a friend of Godという曲もあると思うのですが。
    日本人やアメリカ人や、文化で祈りの仕方についてこうしなければならないというものではないと思います。個人が神様と親密な関係を持って霊的に成長することが望まれていますから、それは痛い発言というふうにとらえることについて不快に思われる方もいらっしゃると思います。それがあなたの狙いでしょうか?神様はあなたにそのような発言をされることを望んでいますか?
    ”友達扱い”という言葉も曖昧で理解しにくいですが、その一言からはいろいろな誤解が生まれると思いましたので私は明白にしたかっただけです。極端にそう思い込むのは危険ですが、そういうふうにおっしゃられてるのかはわかりませんでした。

    さまざまなことを語ることはできますが、お祈りのほうほうや個人が神様とどう関係を築くか等は、個人の神様との関係ではないでしょうか。誰も他人の関係に口出しは出来ないし判断もできません。クリスチャンであっても、あなたの信じていることが、つねに神の意かどうか問い続けることが必要であると思います。

    楽しく読ませてもらいました、ありがとうございます。
    R.Wood
    • R.wood
    • 2015.03.12 Thursday 16:11
    R.Woodさま 
    コメント、ありがとうございました。

    >私の友達にはそれを意識するがゆえに、神様との親密さをどう認識したらよいかわからない人たち

    以前、私自身も、同じものを感じておりました。なんか、ミシガン湖を挟んで神と向かい合っている感じ、とでも申しましょうか。しかし、ある時、ヘンリー・ナウエンの著作「いまここに生きる」「傷ついた癒し人」に出会い、この感覚は一変いたしました。

    その方たちが、R.woodさんと同じように近くナザレのイエスという方を、身近に感じられるとよいですね。

    いくつかご確認いたしたきことがございます。

    1)まず、本記事の後半部分は、実は、オリジナルのfuminaru様のオリジナルブログのテキストに依拠しております。そちらのコンテンツをお読みの前提で本歌取り(パロディともうしますかそれを受けての)ブログの進行となっております。そこはご了解いただいておりますでしょうか?

    2)友達扱い
    これは、R.wood様の友達のような扱いという表現を短縮表記したまでであり、「友達のように扱う」というR.wood様の用いられた正確な表記をしなかったことにご不満でしょうか。意図はさほどかわらないとおもいましたので、短縮させていただきました。もし、失礼をしておりましたらお許しくださいますように。

    3)祈りのあり方
    個人的に、fuminaru様の文脈から考えてミーちゃんはーちゃんが記した際には、公の祈り、ということを想定しており、個人の(密室)での祈り、ということは想定して居りません。

    個人的には、カトリックの故井上洋治司祭様のように祈ることができない人に『南無アッバ』と祈ることを勧める方も井上司祭の論理背景を熟知したうえで、その受容は可能です(形式だけまねておられる方は…ですが)。

    しかし、日本の公の祈りにおいて、My Daddyという語からは、『Daddy 俺の祈りを聞いてくれ』の様な祈りが連想されたものですから、斯様な祈りが適切かどうか、という点において個人的に疑念が残っております。近年、その様な祈りをされる方も、中にはおられることをFuminaru様のブログで知るところとなりましたが、個人的には、あまり楽しくない、という意味で『痛い』と申し上げております。

    個人的には、このような祈りになる背景のことを申し上げているまでで、『痛い』を撤回せよとおっしゃるなら、撤回いたし、より正確に『個人的には疑念がある』に変更いたしますが。

    このブログは『何かが正で、何かが邪である』と断定するような2元論的な論理構成で記載しているつもりはさらさらなく、ただ、「個人としていかがか、と思う部分がある」、そして「その背景はこうではないか」ということを申し上げておるブログとして運用しております。

    どなた様の信仰も基本的な使徒信条にあるキリスト教の枠組みである限り、共通土壌を持つ方々と存知運用しております。

    4)主の祈りの重要性
    個人的には主の祈りは極めて重要な祈りと存じます。それをお題目のように唱えるのではなく、その意義や語義を味わいながら、一語一語大切に、祈ることはキリスト者にとって、極めて有益かと存じます。もしよろしければR.wood様の主の祈りに関するご高識をご教示賜れば、幸甚に存じます。

    もし、可能でしたら、ご回答、御教示賜れば、幸甚に存知候。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2015.03.12 Thursday 22:24
    丁寧なご回答ありがとうございました。すごく丁寧な敬語を使ってくださって、まだまだ未熟なわたしに説明してくださってありがとうございます。あなたがそういう目的でこのブログをかかれたのは知りませんでしたし、私はただインターネットサーフィンでみつけた一つの記事でしたので、そういうものがあるのは全くわかりませんでした。読みたい記事を読むというのもリーダーというものですので、私みたいに読んでる方もたくさんいると思いますが、議論を困惑させてしまったのであれば申し訳なかったです。


    もし、あなたが聖書を重要とされるならば、この聖句を読んで頂き考えて頂きたいと思います。

    マタイの福音書6:5&#8722;15
    「また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
    あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
    また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。
    だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。]
    これがあなたの求めている回答ではないでしょうか。

    また聖書は公かプライベートかは言っていません。
    公でお祈りをするときに、他の人が聞いていることを考えることはあたり前ですし、神様を尊敬してないように見えるのは疑問かもしれませんが、それはいちばん大事なことではないはずです。
    それと、敬語を使うとか、何を言うとかそこにたくさんフォーカスされる方が多いですが、本当に心で思っていることを神様はいちばんに知っておられますので、それを忘れないようにしなければなりません。つまり、自分がどう神様に向かって喋るかよりも、何を喋るか、それよりもあなたの心が大切なのじゃないのでしょうか。
    もし誰かが敬語や正しい言葉を使わずに神様にお祈りをして、神様はそれを失礼と捉えるでしょうか。

    聖書はサムエルが王を選ぶ時に、
    「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(サムエル16章7)
    主は心見るとおっしゃられており、たしかに日本は文化的にそういう方法で人を尊敬しますが、でもそれが最重要事項でしょうか。他人を気にして言葉を選んでお祈りをするのか、それとも神様に向かってお祈りをするのでしょうか。神様に向かってお祈りするのであれば、いちばん大事なのはかたちでもなく、どうやっていうのでもなく、あなたの心ではないでしょうか。
    私なんかはいろんなカルチャーにふれて、日本語もあまりうまくありませんが、お祈りをするときは心から神様に言葉をいうことを第一に考えていますので、こうあるべきとかこういうべき(そうでないと失礼になる)という発想をいちばんに持ってくることはしません。それはあなたも十分わかってらっしゃると思います。
    ローマへの手紙12:17ですべての人が良いと思うことを図りなさいと書いてあるので、確かに教会のみなさんがそれが正しいと思うならそれでいいのではないでしょうか。しかしそれが第一ではないはずです。
    教会のなかではそれぞれがファミリーのように愛することが神様が求められている事で、お互いのことを愛し理解する姿勢ならばみなさんである程度の言葉の使い方やお祈りのしかたなどは理解できるのではないでしょうか。残念ながらそういう人が繋がった教会は少ないのかもしれませんが。
    また、「痛い」というコメントはただ、クリスチャンとしてあまり人を思いやったコメントじゃないのではないでしょうか。私たちはそういう人と実際に出会い、その方々を知る事で理解ができるかもしれませんし、その人が神様を間違えて捉えてしまっているのなら聖書理解の助けやその方にむけてお祈りができます。私ならそういう方がいても、その人のことをまずは知ろうとします。そしてから発言をします。そうでなければ知ったかぶりの一般化されたような意見に聞こえてしまうからです。

    そして、前のコメントに補足しますが、
    >恐らく、友達扱いの根拠はご指摘のJohn15:15 ですが、しかし、聖書全体は、人とキリストの断絶(=罪)であり、最終的な完成の時に初めて、この断絶の完全な回復があるというのが、個人的な聖書理解ですし、これまでギリシア以来18世紀くらいまでのキリスト教の伝統だと思います。

    これはよくわかりませんでした。友達扱いと断絶はどう繋がっているので
    • R.wood
    • 2015.03.14 Saturday 01:09
    R.Woodさま

    >議論を困惑させてしまったのであれば申し訳なかったです。

    あまりお気に召されず。

    祈りの区別について

    牧会者や長老などの役職にある方は好むと好まざるとにかかわらず、公的な祈りの場に招かれます。その場の祈りは、一種の公的な側面をもたざるを得ません。私の意図は、見せるための祈りでなく、世の中で時に起きる、見られてしまわざるを得ない祈り、というコンテキストで発言いたしました。

    しかし、役職にある方の祈りのスタイルは、長いキリスト者生活の中で、広く会衆とその祈りのスタイルに影響を与えざるを得ません。そのことのコンテキストであることを御理解下さいますように。

    >「痛い」というコメントはただ、クリスチャンとしてあまり人を思いやったコメントじゃないのではないでしょうか。

    では、痛いは撤回し、『個人的に疑義がある』と訂正いたしましょう。

    >お互いのことを愛し理解する姿勢ならばみなさんである程度の言葉の使い方やお祈りのしかたなどは理解できるのではないでしょうか。

    個人的に多様性における許容の範囲内にあると思いますが。ただ、「天パパ」「聖霊っち」などはないかなぁ、と思います。

    >友達扱いと断絶はどう繋がっている

    断絶というのは、神と人とはこの地上では一つになりえない、ということでございます。

    具体的には、シナイ山の記事を思い出していただくとよろしいか、と思います。Fuminaruさまのもともとの記事では友達扱いというのは、割と一体感とのつながりが強い表記なので、違和感を覚えるということです。

    この記事はすでにお読みいただけましたでしょうか。

    http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=726

    ぜひ、ご高覧賜り度。

    コメント、感謝。

    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2015.03.15 Sunday 07:36
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