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2015.02.18 Wednesday

『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (9)

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     本日も引き続き小山晃佑 著『富士山とシナイ山』の「宇宙的生成論およびイデオロギー的中心」から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ 『富士山とシナイ山』に学ぶ を参照されたい。

    中心性と全体性が誘導する偶像崇拝

     大日本帝国時代、日本は世界の中心であるというのは、これまで何度か触れてきたし、富士は世界の中心であるという概念が天皇制の確立と共にあらわれてきた、ということを前回ふれた。

     では、世界の中心であるということはどういう意味を持つのだろうか、ということに関して、小山先生は、このようにお書きである。 

     したがって、「わたしは万物の中心に立つ」ということは、「わたしは全体性と完全性を手中にしている」ということと何ら変わりはない。(中略)それは己の栄光をいや増す為に他の人々を管理し、操作し、食い物にしてしまう暴力的状況である。リベラリズムのはらむ危険、とりわけ宗教と政治の領域におけるそれは、「…を手中にしている」〔意のままに出来る〕という錯覚的状況を作り出すことである。「わたしは全体性と完全性を意のままにしている」「わたしは万物の中心に立つ」と主張することは、「私は神を自由に操れる」ひいては、「私は神である」というのと変わらない。端的に言って、これは偶像崇拝そのものである。(『富士山とシナイ山』 p.150)
     確かに、
    「わたしは万物の中心に立つ」ということは、「わたしは全体性と完全性を手中にしている」ということと何ら変わりはない。
    という部分を読みながら考えてみれば、ある国家が中心になった時代があった。PAX ROMANA、PAX BRITANICA、PAX AMERICANA (ローマ帝国よる平和 大英帝国による平和 アメリカ合衆国による平和)が代表例であるが、これらのいずれにしても PAXの後につく言葉がその世界観の中での中心となってきたことは論を待たない。軍事的にも、政治的にも、経済的にも。そして、PAX ○○が成立している時代には、その中心となる○○に向かって、人とモノとカネが集まってきたような気がする。

    また、
    リベラリズムのはらむ危険、とりわけ宗教と政治の領域におけるそれは、「…を手中にしている」〔意のままに出来る〕という錯覚的状況を作り出すことである。
    という指摘には、非常に思わされることが大きかった。リベラリズムと訳語があてられているが、人間中心、人間がなんとかできるという思想の危険性であろう。しかし、いくつかの面で教会を自分の手中にしている、意のままにできると思っている人々はいないだろうか。教会を意のままにしたいという思いはなくても、「斯くあるべきだ」と思い込んでいる人々はいないであろうか。それこそ、人間中心に自分の意のままに、自由に扱えるという意味において、これは、一種のリベラリズムではないだろうか。

    イデオロギーの危険性

     いかなる場合であっても、人間中心の思想(○○イズム)やイデオロギーが非常に問題を起こすことについて、小山先生は次のようにお話しておられる。

     人間の存在する所どこでもイデオロギーは存在する。我々は我々自身の生活現実と歴史に関するある種の包括的見解を持つことなしには生きていくことはできないのだ。

    イデオロギーとは、人間と社会、合法性と権威に関する情動性を帯びた、神話的要素の濃い、行動の引き金となりやすい信念及び価値体系で、日常的、習慣的強化の結果獲得されるものである。

     イデオロギーは人生、人間的実存、及び人間共同体に関して最終的発言をする能力を持っていると自負する傾向がある「情動性を帯びた、神話的要素の濃い、行動の引き金となりやすい信念、価値体系」である。イデオロギーはすさまじく強力な心理的、哲学的衝迫性を帯びている。他の全ての思想の中心に立つ構えをして、それらを威圧し服従させるのに有利な位置取りをする。(同書 pp.154-155)
     しかし、小山先生がご指摘のように、我々は、このイデオロギーから解放はされえない。人間であるがゆえに、この種のイデオロギーに束縛されており、閉じ込められているのだ。それこそ、罪の結果と言えよう。大和魂とか、日本精神とか戦時中に世上言われたもの(何を以て大和魂というのかも人によって違うようであるので、留意は必要であるが)も、このイデオロギーの一種ではないか、と思う。

     そして、イデオロギーが神話性を内在的に持っているという指摘は重要だろうと思う。神話性を持たざるを得ないのは、それが合理的な理性的なものでは、それを理論的に検証したり、その一部を否定することが可能となりやすいからかもしれない。しかし、イデオロギーがかなわないのは、他の全ての思想の中心に立つ構えをして、それらを威圧し服従させるのに有利な位置取りをする部分である。個人的には、毛主席がお元気で、中国での農産物の生産から、鉄工所までの生産をご指導しておられたころに、毛沢東思想にはまりかけたことがあるので、こういう他の全ての思想の中心に立つ構えをして、それらを威圧し服従させるのに有利な位置取りという部分はよくわかる。あのころは、クメール・ルージュが元気だったし、ソ連は共産主義国だったし、そういう国で何が起きたかを調べれば、イデオロギーがいかに事実を包み込み、同じものを見ながら、違う理解を与え、他者を威圧するか、ということはかなり明らかになるであろう。東西冷戦構造は、イデオロギー対決でもあった。



    今日のソ連邦の表紙。県立図書館においてあった記憶がある

    イデオロギーと宗教の類似性

    イデオロギーと宗教の類似性について、小山先生は次のように述べておられる。
     イデオロギーは、それが資本主義であろうと、共産主義であろうと、愛国主義であろうと、人種主義であろうと、あるいは皇帝崇拝だろうと、最後の言葉を発したい欲望を有する点で「宗教的」である。無神論的共産主義と有神論的資本主義を含むすべてのイデオロギーは、宗教のようにふるまう。モスクワのレーニン廟に群れなすロシア人は、マレーシアのクアラルンプールにある国立モスクに群れなすイスラム教徒に劣らず恭しくふるまう。「無神論的イデオロギー」すら、固有のイデオロギー的体制を厳粛な儀式の様にするそれ自身の「神」(god)を有している。このような文脈において「神」(god)は「中心性コンプレックス」を意味する。(同書 p.157)
     しかし、「無神論的共産主義と有神論的資本主義を含むすべてのイデオロギーは、宗教のようにふるまう。」ということは非常に面白い。社会システムであるはずの(無神論的)共産主義と同じく社会システムである(有神論的)資本主義はいずれもかなり唯物論的な社会システムであるのにもかかわらず、たしかに、宗教のようにふるまっている。政治と宗教の話を食卓でするな(食事がまずくなるので)、という話があるが、まさしく、どちらがよりまともか、という相対的な義でしかないことに関する競争が、自分たちの社会システムのものの見方(世界観)を巡ってそれがあたかも絶対的な義に関する競争として行われるからだろう。この絶対性が、イデオロギーの宗教性でもあると思う。

     これが、リアルな国際政治の場だと、ミサイルだの戦闘機だの、爆撃機を持ちて行われるからかなわん。最近、政治学関係者のカンファレンスに行くようになって思うのは、結局神学論争や宗教論争のようなことを具体的な政治経済的ツールで表現されている世界観で焼き直しているに過ぎないのではないか、というあたりのことであるのだ。

    二つの有神論的国家の争いとしての政治的闘争

     その意味で、1940年代前半に日本がアメリカと向き合った戦争は、クラウセヴィッツ風の表現をすれば、聖書型有神論的資本主義型軍国主義と日本型有神論的資本主義軍国主義の血を流す政治的闘争、あるいは血を流した外交であったといえるかもしれない。その意味で、両者の神の正義性をそれぞれの国民の血を流すことで、証明してみせようとした、壮大な人的・物的資源を浪費行為であったと思えてならない。厨2病が基本、能力の浪費行為であるということを考えると、厨2病患者が戦争ヲタクになりやすいのは、基本浪費行為であるからかもしれないと重篤な厨2病患者であるミーちゃんはーちゃんは思う。

     東西対立が激しかったころ、丁度モスクワオリンピックのボイコットをするじゃしないじゃ、ロサンゼルスオリンピックのボイコットをするじゃしないじゃ、があったころの映画として、下記のハドソン川のモスコーという映画を紹介しておく。当時の冷戦期の雰囲気と80年代、ディスコ音楽が流行り始めのころの雰囲気がよくわかる。サタデー・ナイト・フィーバーというジョン・トラボルタが、まだ、やせていて、りりしいころの、ジョン・トラボルタの出世作がつくられていたころを描いた映画である。そういえば、高校時代の体育教官の一人が、故 斉藤仁氏と大学時代同級生だったらしいので、何かというとこのモスクワオリンピックと斉藤仁がウンタラカンタラというお話に付き合わされたことを思いだした。



    Moscow on the Hudson ロビン・ウィリアムスが若々しい
    イデオロギー対決が華やかなりしロシアとアメリカの関係を背景に描いた名作

     次回 第11章 テクノロジーは能率性と意味との葛藤を引き起こす からご紹介したい。





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