2015.02.16 Monday
『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (8)
本日も引き続き小山晃佑 著『富士山とシナイ山』の第7章「宇宙的生成論およびイデオロギー的中心」から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ 『富士山とシナイ山』に学ぶ を参照されたい。
日本における富士山信仰と中心性
今日は、「富士山とシナイ山」における、宗教的思想の比較における富士講についての小山先生の記事を引用しながら考えてみたい。
民間宗教専門の日本人学者宮田登は富士講の豊穣神信仰的性格を指摘している。職業と弟子たちは男女の調和、宇宙世界における男性原理と女性原理との調和の大切さを強調した。(中略)最期に柴田花守(1809-80)は山岳崇拝の教えを国家主義的な皇帝崇拝と結び付けている。彼の説くところによると、富士山は国家の安全の土台であり、全地の脳髄である。花守の国家主義的な富士山信仰は、彼の晩年近くになって芽生え始めたばかりの天皇崇拝に強い影響を及ぼした。富士山な始原の子宮及び全地の脳髄と見られた。この富士信仰を通して人類救済成就の新時代が到来するであろう、と富士講の長の一人、伊藤六郎兵衛(1829-94)は言う。個人的には山岳修験道については詳しくもないし、富士講についても詳しくはない。茨城県の大学で都市計画の勉強をしていたころにフィールドワークとして都内を回った時や、濃地図をもとに江戸の都市計画をリサーチしていたころに都内にあるいくつかの人造富士山(せいぜい数メートルクラス)を見て、興味をもって富士講の研究のリサーチをちょろっとしたことくらいである。ちなみに、その関連でいうと、ええじゃないかは、伊勢講とちょこっとつながっていて、ということくらいしか知らない。
富士山は素朴な山岳崇拝から独特な歴史観へ、社会倫理から豊穣信仰へ、さらに政治思想へと展開していく、複雑な宗教的および心理的要素からなる山である。よりによってこの山において、日本民族は彼らの宗教的独自性を表現する機会を見出したのだ。
富士山の宗教史は富士山の世界とシナイ山の世界との相違点を浮き彫りにする。富士山は原初の夫婦神、世界の脳髄、両性の調和的関係性が成立する聖所、及び新たな弥勒時代の象徴であるといわれる。富士山は世界の基軸axis mundiである。他方、シナイ山にはこの種の「崇拝対象」といった属性は付与されていない。シナイ山の「大霊」とか「子宮」とか「脳髄」とかについて云々する人は一人もいない。シナイ山はそれ自体に備わる固有の宗教的価値をもたぬ山である。(富士山とシナイ山 pp.134-135)
本文から引用した中で(中略)と表示しているところには、かなり性的な事柄が、祭祀制と深い関係をもっていた旨の記述がある。日本における富士信仰は、かなり基本的なところで性交渉と深い関連要素をもっていることは知っていたが、ここまでとは知らなかった。「道祖神」で画像をググってもらうと、まぁ、すごいのが出てくる。これも日本の民俗信仰の一断面ではある。
道祖神の例(安曇観光タクシー 様のサイトより)
まぁ、古代神話はどこまで行っても豊饒性、子孫繁栄とつながっているので、当たり前といえば当たり前であるが。西洋で有名な豊饒神はアフロディテ、ウェヌス(ビーナス)、アシュタトテ(アシュタロテ)、フレイヤーなどがある。まぁ、この種のものには、事欠かない。
豊穣神としての筑波山と富士山と江戸
まぁ、茨城にいたころの筑波山は、男体山、女体山からなっており、まさにこの山岳信仰を絵にかいたような山である。関東平野は平たいので、これが目印の一つとして、過去利用された。東京の日本橋から北北西に延びるルート(国道6号線 旧水戸街道)は日本橋方向から筑波山が昔はヴィスタ(視線の先にある目標物)として利用された。同じく日本橋から南南西に延びるルート(国道1号線 旧東海道)は、富士山を向いている。
茨城県南部で車を運転しているときに迷ったら、とりあえず筑波山を探すことが一つの位置特定の方法であったことを思い出す。時刻と太陽の位置と筑波山さえ分かれば、ほぼ自分の10キロ精度で位置が特定できた(まるで航海術の世界だった)。
余談はさておき。
日本の天皇崇拝と日本の表象としての富士山
富士山と日本の天皇崇拝との関係について、小山先生は先の引用の中で、次のように書いておられる。
花守の国家主義的な富士山信仰は、彼の晩年近くになって芽生え始めたばかりの天皇崇拝に強い影響を及ぼした。
日本の象徴として富士山が使われ、その先に天皇崇拝があるような童謡というか歌は多い。「1年生になったら」「富士の山」「ま白き富士の嶺(これは替え歌「いつかはしらねど」が聖歌にある)」等、まぁ出るわ出るわ。全部が天皇崇拝とか富士崇拝とは言わないけれど、間接的に、サブリミナル風に天皇崇拝とつながっていなくはなさそうな気がするなぁ。
いつかはしらねど(ま白き富士の嶺)by ZouAzarashi さん(FB友 友情出演)
図像学的にも、硬貨ではないけれども、紙幣には、日本の象徴として富士山は使われている。そういえば、現行の5000円札にも(めったにお目にかからないので気がつかなんだ)、現行の1000円札にも、旧500円札(昔、お小遣ひをこれでもらっていた記憶が)にも、大々的に富士山が印刷されていた記憶がある。個人的には陰謀史観をもっていないので、1ドル紙幣に自由石工連合のマークがついているだの、いないだのとか言うことに興味はないが、もし、自由石工連合云々を言うなら、陰謀史観論者は日本と日本銀行は、富士講連合に仕切られているとか言わなければならないだろう。所詮、バンクノート(銀行券)は小切手の代用だと思っているので、個人的には気にならない。
昔懐かしの500円C号券(お小遣ひはこの紙幣で提供されていた)
富士を通した人類救済理論
しかし、
この富士信仰を通して人類救済成就の新時代が到来するってのは、結構、大きな影響をもっているような気がする。某オ○ム真理教が、参議院選挙に真理党という名前でご出馬していたころ、富士宮道場(当時総本部)が結構テレビに出ていたが、それもこのへんと関係するのかもしれない。また、3の平方根(富士山麓にオウム鳴く)で一躍有名になった、上九一色村にサティアンを置いた理由もこの富士信仰とつながっているような気がする。多分、関係していると思う。だって、ポアして人類救済とか称しておられたようだから。当時、尊師は。
世界の中心としての富士山
小山先生は、
富士山は世界の基軸axis mundiである。他方、シナイ山にはこの種の「崇拝対象」といった属性は付与されていない。とご指摘であるが、それはその通りだと思う。日本人にとって、どこか中心は富士山だと思っているところがありそうな気がする。なお、現在日本の人口重心は、岐阜の関市あたりにあるし、国土(土地)の重心は、新潟沖の日本海の中にある。個人的には、富士山が世界の基軸だと思ったことはなかった。
中世の地図では、世界の中心はエルサレムとなっている地図が古地図の世界には現存する。世にエルサレム図という。エルサレムは中心だけど、確かにシナイ山が中心になった地図や概念というのは寡聞にして聞いたことがない。ただ、日本人はあこがれで、シナイ山を特別視する向きの方々もおられるかもしれないけど。
「イエルサレムは世界の中心!」を主張するイエルサレム図。インドが最果て・・・
聖書の中心性は何とかかわりがあるか
エレミヤ書7章1-7節の引用があった後、次のように小山先生は続けておられる。
エレミヤの見地に立てば、エルサレム神殿の中心性を強調することはうなしい。ユダの民が国の安全を望んでそうしても、「欺きの言葉」出しかない。国に安全を与えるのは社会正義の確立である。ユダヤの民は神殿が象徴しているものの意味、すなわちお互い同士正義を実行しなければならない。ユダの中心的象徴は寄留の外国人、孤児、寡婦など共同体内の弱者に、周縁に押しやられている人々に親切と配慮を尽くすよう要求している。周縁の人々への配慮を示さなければ、中心的なものも「欺瞞的存在」と化す!民に住むべき場所を用意するのは社会的正義の行為である。「聖なる」中心的象徴物の名を唱えることでない。(同書 pp.147-148)聖書の中心である神は、ユダヤ社会の中心もさることながら、社会の周辺も視野に入れて、親切と配慮をつくするように要求している。下記の出エジプト記を一例として紹介しておきたい。
【口語訳】出エジプト記聖書の神とは、神と人との関係を重視されるとともに、人の中での義(Justice)を求めておられることは、極めて重要なことではないか、と思う。神だけ見て隣にいる人を見ない、自分たちだけ、ということを神は望んでおられないようである。人の中でもJustice(公義というか義)と平和が成立することを望んでおられるようである。
22:21 あなたは寄留の他国人を苦しめてはならない。また、これをしえたげてはならない。あなたがたも、かつてエジプトの国で、寄留の他国人であったからである。
22:22 あなたがたはすべて寡婦、または孤児を悩ましてはならない。
22:23 もしあなたが彼らを悩まして、彼らがわたしにむかって叫ぶならば、わたしは必ずその叫びを聞くであろう。
22:24 そしてわたしの怒りは燃えたち、つるぎをもってあなたがたを殺すであろう。あなたがたの妻は寡婦となり、あなたがたの子供たちは孤児となるであろう。
22:25 あなたが、共におるわたしの民の貧しい者に金を貸す時は、これに対して金貸しのようになってはならない。これから利子を取ってはならない。
22:26 もし隣人の上着を質に取るならば、日の入るまでにそれを返さなければならない。
22:27 これは彼の身をおおう、ただ一つの物、彼の膚のための着物だからである。彼は何を着て寝ることができよう。彼がわたしにむかって叫ぶならば、わたしはこれに聞くであろう。わたしはあわれみ深いからである。
実際、イエスもこのようにおおせである。
【口語訳】マタイこれらにあるように、神を一方的にあがめるのが大事なのではなくて、神を愛する(神と人とが一致するというか調和的な関係に入る)ことと隣人(含む外国人)を愛することが重要であり、一方的に礼拝することよりも儀式を守ることよりも、何よりも大事であるとおっしゃっておられる。
12:28 ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。
12:29 イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。
12:30 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
12:31 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。
12:32 そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。
12:33 また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。
なお、聖書の中に示されている神は単なる義の神ではなく、憐れみの神であることは、もっと認識されるべきことだ、と思っている。
しかし、多くのキリスト教国と分類される国家で「神のイエスが福音として宣べたこと、とらわれ人に開放が、貧しいものへの回復が、虐げられた者の回復、といった義が実現」しなかったことは、正直残念ながら認めざるを得ないと思う。実に残念なことだが。しかし、これが神ならぬ人間の現実なのだろうと思う。
次回、同章から、中心性とイデオロギーについて触れたい。
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