<< 『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(6) | main | 『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (8) >>
2015.02.14 Saturday

『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (7)

0


    Pocket

     本日も引き続き小山晃佑 著『富士山とシナイ山』から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ 『富士山とシナイ山』に学ぶ を参照されたい。

    フェティシズムと偶像崇拝
     偶像崇拝とフェティシズムの類似性について、小山先生はこのようにお書きである。非常に印象的であるので、ぜひご紹介したい。


     木や石、銀や金で作られた偶像は、ものでできているがゆえに神ではありえない。イェヘスケル・カウフマンによれば、フェティシズムとしての偶像崇拝は、聖書が偶像崇拝について述べる第一義的見解である。「フェティッシュ」という語は、「巧みに造られた」を意味するポルトガル語「フェティコ」を語源とする。フェティシズムは、ある種の自然的あるいは人工的なものが超自然的価値を付与されており、したがって崇拝の対象とされてしかるべきであると考える魔術的な宗教態度である。偶像と偶像崇拝に対するこうした聖書的な位置付けは、複雑な現代世界における複雑を極める社会的及び政治的現象を記述するには、余りにも単純かつ静態的で適合しないと、我々は考えるかもしれない。恐らくティリッヒが偶像崇拝に与えた定義は、この問題の本質を一層明らかにする概念的なイメージを与えてくれるであろう。ティリッヒによれば、すでにみたように、偶像崇拝が生じるのは、「本質的に制約されたものが無制約的なものと理解されるときであり、本質的に有限なるものに無限の義が付与されるときである」。例えば、人間の文化は制約されたものであるが、ある特定の文化が無制約的なものと理解された時、偶像崇拝が発生する。たとえば日本文化が「神」がかりのような振る舞いを始めたときがその一例である。テクノロジーは部分的なものである。(中略)然しながら、テクノロジーへの執着が人間実存の普遍的意味を帯びるに至るや、偶像崇拝が生まれる。我々の心的能力は有限である。そうした限界を退けて、それに無限の意義を付与することが偶像崇拝である。(『富士山とシナイ山』 p.64)
     意外と印象が深いのが、「自然的あるいは人工的なものが超自然的価値を付与」という側面ではないかと思う。聖書は超自然的価値は、人に語り掛ける聖書の「神」のみであるとする。案外、人間は地球上のどこにいるか関係なく、自然的人工的なもの、本来永続性のないものを神としてきたのかもしれない。

     富士山は、今の富士山と江戸期の富士山では違う。阿蘇山もそうである。これらは比較的安定はしているが。富士山は、江戸期に宝永山という宝永の大噴火でできた山がある。本来、比較的安定的、という程度のものであり、山といっても流動的なものであり、ある時の姿は有界なものなのである。

     小山先生のティリッヒからの偶像崇拝に関する引用が痛い。

    「本質的に制約されたものが無制約的なものと理解されるときであり、本質的に有限なるものに無限の義が付与されるときである」
     こういうことをわれらは、よくやる。もちろん、伝道者や牧師への尊敬の念というのは重要であるし、また、聖書の研究者にも同じことが言える。しかし、それが、限界を越えて、有限(有界)なるものが無限の義をもち、無限の義なる存在となる時、偶像崇拝になるのだ。

     国家にしてもそうである。この「無限の義」ということは、時間的にも能力的にも関係することである。本来、われらが崇拝すべき神、あるいは畏れるべき神は時間的にも空間的にも能力的にも有限なる存在であるすべての被造物(より正確に言うと、有界である存在)を越えた存在(有界でない存在)であり、有界でない存在であるがゆえに、われらが崇拝するにあたる(畏れる)存在である、というのが現下の個人的な理解である。

     あるキリスト者グループでは、そのグループ内の指導者的存在に、無限の義が付与される場合や、グループ内の指導者的存在に無限の義を付与しようとする信徒の存在があることが多いらしい。いくらその指導者がすぐれているとしても、その指導者は、神ではないし、キリストでもないし、メシアでもない(基本的にメシアとキリストは、前者がヘブライ語由来であり、後者がギリシア語由来なので、同じことである)。そのようなものに無限なる義を付与しようとする動き(たとえば、絶対的な服従を強いるなど)をすること自体、ナンセンスなのである。

    技術と偶像崇拝

     ミーちゃんはーちゃんは、これでも技術者のはしくれ(そうは見えないという意見があるのは承知しております)であるので、技術の限界と技術がもたらす副作用を知っているつもりである。そして、どんどん提唱される技術が、その利用が開始された瞬間に呪いのように副作用を発生させ、その副作用に対応するために新しい技術がさらに開発される、ということになっているので、石川五右衛門の名言「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」ではないが、「技術屋や 浜の真砂はつくるとも 世に銭儲けの 種(仕事のネタ)は尽くまじ」である。マッチポンプと言うならお言い。それが技術であり、カイゼンであり、改良なのだろうと技術者のはしくれとしては、思う。


    また、つまらぬ物を斬ってしまった」で有名な石川五ェ門ではない。

     とはいえ、先を見ずにいろいろやってしまうのも技術者の一番悪いところ。こういう技術はごまんとあって、ご迷惑をおかけしている部分もあることは、存じ上げている。技術者のはしくれとして、お詫び申し上げたい。

     先日、ある方とのFBの板で、技術をめぐる話が出たときに、技術者には倫理が必要で、倫理や哲学を教え、技術を倫理や哲学の下に置かないとまずいのだ、ということに似た話になったことがあるが、まさに、それはそう思う。

    自文化中心主義という偶像崇拝
     ちなみに、大杉先生がお書きの自文化中心主義に関するあとがきは重要なので、ぜひご覧いただきたい。あえて言おう。自文化中心主義は、フェティシズムであり、偶像崇拝の懸念が濃いと。


    天皇の永続性、万世一系、君が代
     天皇の永続性と永遠と聖書のアイオーン(AEONって、イオンかい?そうです)ということについて、小山先生は次のように書いておられる。 

    天皇の永遠性は皇位継承によって維持される。日本人の理解では、「永遠」は長い継続的時間を意味している。それは「永久不滅」ではない。ギリシア語の単語アイオーン同様、具体的な語感を帯びた語である。アイオーンは元来「生命力」「生涯」を指す。それは人類固有の生物学的時間と関係はない。それゆえギリシア人はアイオーンを「存在者に割り当てられた相対的時間」として理解した。この「永遠」概念は日本人の「永遠」理解と類似している。なぜなら、日本語の「永遠」は生命力が途切れない長い連続的時間を暗示しているからである。この日本的哲学は明治憲法において「行為が連綿と受け継がれる万世一系」という言葉で厳粛に表現されている。
     無害な日本的永遠性となりえたかもしれないものが、ひとたび天皇に類のない聖の源泉という特権を付与する皇祖皇宗の諸霊の概念と結ばれた時、それは国民にとって有害なものとなった。日本の宗教史において皇祖の諸霊と穀物の霊とは結ばれている。最も神聖な日本帝国の祭儀の一つは、新たに即位した天皇が即位した季節の間中、穀物の霊と「交霊する」儀式である。日本国民の活力を表彰する穀物神は、神聖帝国の参加において日本の活力が聖なる国と概念と同一視されるや、前者はたちまち無垢性を喪失した。(同書 p.84 )

     日本での永遠概念が永久不滅ではない(むちゃくちゃ長いけど終わりがある時間概念)、というのは初めて知った。素朴に永久不滅のこと(有界性をもたない時間概念)だと思っていたが、そうではなく、一定の有界性をもった言葉だったらしい。しかし、戦争中絶対概念、絶対神聖の概念とこの「永遠」概念がくっつくとき、「万世一系」の「万世」がそもそもの有界性をもった「永遠」が無限性をもった「永遠」に代わってしまったのではないか、と思う。そして、はかなさが暴力性に変わった。その暴力性とはかなさの共存は、自殺型ジェット爆撃機にたおやかな「桜花」ってつけるほどであった。4月になると、必ずこの機体を思い出す。


    旧日本海軍の航空機 桜花


    皇祖の諸霊と穀物の霊

     小山先生は「日本の宗教史において皇祖の諸霊と穀物の霊とは結ばれている。」ということをご指摘であるが、これは存外重要なことかもしれないが、現在ほぼ忘れられている。
    下記に動画を張っておいたが、6月ごろにニュースで流れる皇居での田植えの儀式は、実は穀物の霊と酵素の諸例が結ばれていることを示す儀式であろうと思う。



    日本の伝統文化を表象する皇居における田植の儀式



    草食系日本男子の原型か?

      基本的に日本は、肉食系の祭祀制ではなく、草食性、穀物食性の祭祀性なのだということは思う。まぁ、近年の日本青年に草食系ばかりだという御意見もあるかもしれないが、もともとの日本文化が草食系なのであるので、本家帰りしたこととして、日本文化が大好きな全共闘時代の年長者の方には寿いでもらうべきこと かもしれない。

     いや、明治以降全共闘世代の皆さんが現役でった頃までが、肉食系が日本文化における例外的存在として、存在したのかもしれない。明治期以降、昭和60年代まで日本社会において、肉食系文化が幅を利かせた特異な時代であった時代のような気もする。

     余談はさておき。

    神聖帝国と国家神道

     小山先生のお書きになられた「日本国民の活力を表彰する穀物神は、神聖帝国の参加において日本の活力が聖なる国と概念と同一視されるや、前者はたちまち無垢性を喪失した。
    」という部分に関して読んでいると、本来無垢な草植(草食のもじり)系の神は、聖なる国と万世一系との概念で、突然変異をしてしまったのかもしれない、と思ってしまう。そして、そもそもの多様な自然物崇拝の世界のなかに、一種暴力的な帝国制度が導入され、神聖帝国が構想された結果、神聖性を担保するために無理矢理に国家神道という枠組みのをもちこもうとする中で、その中の最高神を定義せざるを得ず、その最高神としての天皇が構想され、その中で、一種のヨリシロというのか人柱としての中心性までも人間宣言が出るまで、天皇という存在に持たせてしまったのかもしれない。それも、本来の有界性を越えて。

     これは、しんどいだろうと思う。いかに明治帝や昭和帝が英邁であろうとも、勝手にその役割と中心性をその子孫に割り当てられたら、その子孫は、かなわんだろう、とは思う。

     そして、勝手に君が代は、千代に八千代位はいいかもしれないが、それを越えた永続性をある一家に求められるのは、その御一家にとってみれば、それは祝福というより、呪いに聞こえているかもしれない、と最近の情勢を見ながら思いたくなってしまう。昔の落語に「厄払い」というのがあるが、そこでの文句を思い出した。

    君が代と落語「厄払い」

     君が代の中に千代に八千代にと出てくるが、まぁ、ごろ合わせという部分も大きいが、まぁ、これは昔からの寿ぎの言葉と同じような類似性をもっている。日本における古典学の学識がないミーちゃんはーちゃんが思いつく唯一の例は、落語なので、落語の「厄払い」をご紹介して、日本に伝統的なこういう寿ぎの言葉の紹介としたい。

    あぁ〜ら目出度や、目出度やな。
    目出度いことで払おなら、鶴は千年、亀は万年。

    浦島太郎は三千歳、
    東方朔 (とぉぼうさく) は九千歳 (くせんざい) 、
    三浦の大介百六つ。

    かかる目出度き折からに、
    如何なる悪魔が来よぉとも、
    この厄払いが引っ捕え、
    西の海へさらり、
    厄払いましょ

    以下の動画の8分辺りから、上に示した昔の厄払いの口上が出てくる。


    昔の節分行事などを含む厄払い行事が触れられている桂米朝師匠の落語「厄払い」

     おあとがよろしいようで。

     次回、宇宙的生成論およびイデオロギー的中心から ご紹介の予定でございます。




    コメント
    コメントする








     
    Calendar
    1234567
    891011121314
    15161718192021
    22232425262728
    2930     
    << September 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM