<< 説教天国、信徒天国 | main | 『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (7) >>
2015.02.11 Wednesday

『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(6)

0


    Pocket

     これまでの連載


    『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(1)

    『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(2)

    『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(3)

    『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(4)

    『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(5)


    では、第1回でヘッシェルからの小山さんへの影響とその視点から考え始めた問題、第2回第3回で、「富士山とシナイ山」の本による精神世界の比較の中での神への関係性の違い(聖書では、神と人との断絶、神が降りてくる、人間側に神が近づく、に対し、アジア的な信仰では、神(仏)と人間との連続性、人間側が神に近づく、人間側から神の世界へ移る)をふれてきた。

     そして第4回、第5回では、大日本帝国末期の戦争前後移行から、日本の多神教世界が変質し、日本特有の型の一神教型の信仰となったことを『シナイ山と富士山』からご紹介し、それと同じような自己義認構造が、日本のキリスト教界にあるかもしれない、ということをご指摘した。

     本日は、『シナイ山と富士山』の第3章「荒地と化した東京」からご紹介したい。

    我が国が経験した二つの超大国との戦争

    まずは本文からのご紹介を致したい。 

     日本は長い歴史において二度超大国との戦争に従事した。第1は13世紀の蒙古民族との戦争、そして今は20世紀における合衆国との戦争である。前者がアジア内での戦争、文化的には地域内戦争であったのに対して、後者は、文化、宗教、文明のいずれにおいても極めて異なる国同士の戦争であった。(中略)660年を隔ててこれら二つの国際的戦争が起こった時、日本政府は国民に神社と寺院に「敵国の降伏と神国の勝利」を祈願するように要請した。13世紀には国家あげての祈りが応えられたかのように見えた。実を言うと戦後戦士(ミハ氏註 武士)たちの間では神々や仏たちに対する強烈な嫉妬的感情があった。(中略)私は思うにあらゆる戦争的状況は「戦士集団」と「神々」との間にこの種の緊張感を醸し出したのではないだろうか。総国民的祈願は合衆国相手の戦争では功を奏さなかった。「神風」は吹かなかった。皇祖たちの霊は日本国を保護することができなかった。その結果国は滅ぼされた。建国以来初めて日本民族は自分たちの部族的神々への信頼を深刻なほど揺さぶられたのである。(富士山とシナイ山 pp.57₋58)

    古代の神々と戦争

    この部分を読みながら、ダビデとゴリアテの対峙を思い出した。

    サム上【口語訳】
     17:43 ペリシテびとはダビデに言った、「つえを持って、向かってくるが、わたしは犬なのか」。ペリシテびとは、また神々の名によってダビデをのろった。
     17:44 ペリシテびとはダビデに言った、「さあ、向かってこい。おまえの肉を、空の鳥、野の獣のえじきにしてくれよう」。
     17:45 ダビデはペリシテびとに言った、「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう
     17:46 きょう、主は、おまえをわたしの手にわたされるであろう。わたしは、おまえを撃って、首をはね、ペリシテびとの軍勢の死かばねを、きょう、空の鳥、地の野獣のえじきにし、イスラエルに、神がおられることを全地に知らせよう。
     17:47 またこの全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである」。

     古代の戦闘においては、神の名において戦闘がなされることが多い。古代ローマ帝国においてもそのような側面があったと思う。軍事的勝利は、太字で示したように、即ちその集団が拝する神の勝利であり、軍事的敗北は、即ちその集団が拝する神の敗北であった。このあたりのことは、エリヤとバアル神殿の祭司たちとの対峙(列王上18章参照)にも表れている。

     恐らく多くの古代人はこのような世界観で生きていたものと思われる。

    嫉妬する武士、手放せない引退牧師?
     しかし、この部分を読みながら、あれ?と思ったのは、武士たちが抱いたとされる嫉妬的感情のことである。南無八幡大菩薩と言いながら、いざ、それがかなってしまうと、割とあっさりと、自分たちの頑張りはどうしてくれるのだ、という思いにとらわれる姿である。意外とこういうことは多いのではないかなぁと思う。

     我々も、信仰面で類似のことを感じることがあるかもしれない。例えば、ある人が神との関係との回復があるように(福音派的な物言いをすると「救われる」ように)と祈る。しかし、いざそれが起きてしまうと、「あれ、なんだったんだろう。自分の努力はどうしてくれるのだ」というような思いにとらわれることはないだろうか。

     もっというと、開拓時代から苦労されて、非常に大きい教会になった教会の開拓牧師がおられるとする。熱心に働かれたであろうし、苦労もされたであろう。そして、熱心に神にその関与というか支配があることを求められただろうと思う。しかし、いざ、ある時期が来てて、その教会から離れる(引退する)べき時期が来ても、なかなか引退できない、様々な手段を使って、院政のように引退牧師として権勢を誇るということはないだろうか。まぁ、多くの教会ではそういうことはないと思うが。

     こういうような状況は、上記の武士たちの神々への嫉妬と似たようなものではないだろうか。自分自身の評価を気にしていることが背景にあるのではないだろうか。

    自己義認の課題

     自己義認と偶像崇拝の関係について、戦争中の例をとりながら、小山さんはこのように書いておられる。

     神聖な神話の専制的支配の下で、国中が麻痺したようになった。日本人学者中最良の人たちの著書が発禁処分にされた時、理性の行使は罪とされたも同然となり、国民は「日本は正義の国、それに敵対する国は悪魔の手先」という不合理なスローガンを日々の糧のように聞かされ、読まされた。世界は善き民と悪しき民というに陣営に分割された。つまり日本人は善良で、合衆国の国民はあらゆる悪の要だというのである。そんな大雑把で反理性的な見地の妥当性を問い直そうとするいかなる理性的な試みも、かの神話を擁護する政府によって即座に社会の反愛国的危険分子の仕業として処分された。自分が属する国を義の国と決め込むのは偶像崇拝にほかならない。使徒パウロの次の言葉は国家的及び個人的自己義認を鋭く告発している。

     すでに指摘したようにユダヤ人もギリシャ人も、すべての人は罪の力の下にあります。いかに記されているように。「義人はいない、一人もいない。〔神意を〕悟るものはなく、神を探し求めるものもいない。みないずれも道に迷い、無益なものとなった。善をなすものはいない。一人もいない。」
        (ローマの信徒への手紙 3章9-12節)
                        (同書 p.59)

     これを見ながら思ったことは、同様なことは教会で起きているのではないか、ということである。こう書き換えれば、ほぼ同じではないだろうか。黒太字部分が書き換えた部分である。

     神聖な聖書理解という名の神話の専制的支配の下で、キリスト教会中が麻痺したようになった。過去のキリスト者中最良の人たちの著書が禁書処分にされた時、理性の行使は罪とされたも同然となり、教会員は「自分たちの教会群は正義の教会、それに敵対する教会群は悪魔の手先」という不合理なスローガンを日々の糧のように説教で聞かされ、読まされた。世界は善き民と悪しき教会というに陣営に分割された。つまり自分たちの教会群は善良で、他の教会群はあらゆる悪の要だというのである。そんな大雑把で反理性的な見地の妥当性を問い直そうとするいかなる理性的な試みも、かの神話を擁護する信徒や牧師たちによって即座に社会の反キリスト的危険分子の仕業として処分された。自分が属する教会群を義の国と決め込むのは偶像崇拝にほかならない。使徒パウロの次の言葉は教会的的及び個人的自己義認を鋭く告発している。

    とすれば、思い当たるキリスト教界の一部の人々はいるのではないか。日本のキリスト教会は3.1運動(日本支配下の韓国における独立運動)が起きた当時、韓国に対して、このようなことを言わなかっただろうか。そのあたりのことを知りたい方は、当ブログの記事を見てほしい。

     あるいは、ミーちゃんはーちゃんは、上記のように子供時分から、そう教えられていたので、大学に行くまで、このような無知と誤解と、自派に対する偶像崇拝を行っているキリスト者でありながら、素朴に持っていたことは告白したい。一部のキリスト教会群では、似たようなことを教えていないであろうか。

     自派に対する自信はあってよい、と思う。しかし、それを偶像とするのはいかがなものであろうか。自派だけが完全無欠の信徒とか自派だけが完全無欠のキリスト教とか、思っていないだろうか。

    カルト化とのかかわり

     これが行き過ぎると、教会はカルト化するのではないか。他者を認めず、他者の声に耳をふさぎ、他者を排除する。自派の教会以外に行けば、間違った教理を含んでいるので行くべきではない、とか、平気で言ってないだろうか。そして、閉鎖性を持った社会を構成してはいないだろうか。

     また、この話の中に、善か悪か、白か黒か、1か0かという極端な二項対立の中に問題をおしこめ、表面的な理解で、全か悪か、白か黒か、1か0かで考えていることは多いのではないか。Facebookやツィッターで流れてくるニュースとニュースのコメント見ていると、キリスト教クラスターの中で、この種の表面的な親イスラエルか、そうでないか、反現政権かそうでないか、反原発かそうでないか、という2項対立的な表明をする方々はいる。それはそれでその人の立場であるのでかまわないのだが、割と単純な考えだと思うし、そして、こういう単純化された思いが、カルトの教会につながるのではないか、と思う。そういえば、オウム真理教も毒ガスサリン噴霧されたと主張した事件で言っていたような気がする。


    オウム真理教のサリン事件に関する動画


     なお、オウム真理教事件の終末論は、キリスト教の一部の現存するグループの特殊な終末論の影響を受けていることは、念のため言及しておく。

     同様の事件は、米国のカルト ブランチダヴィディアンでも起きている。


    ブランチダビディアンに関するCNNの特集プログラムの一部



     キリスト教が本来禁じる偶像崇拝をしているキリスト教ってどやさ、って感じなのだが、案外こういうこと、結構あるんじゃないかなぁ、とは思う。自分自身に対する自己正当化(自己義認)、それも偶像崇拝、そして、表面的なことで判断して、黒か白かということは本当に考えねばならないことではないか、とこういうことをやりやすいのではないだろうか。
     政治的な神話によって理性から逸脱する行為が及ぼす破壊的影響は、間もなく倫理が追放されるにいたることである。倫理は個人的及び集団的な人間の行為の理解に関心を有する人間から発生する。人間の行為について批判的に省察することは、隣人の存在を真剣に受け止めることを要求する。他者の存在を無視する倫理即ち人間の道徳性は、何であれ、人類の共通善に逆らう自己中心的な思想体系である。(中略)日本の神話的倫理は、日本国民にとって良いことを有利なことを目指していた。最終段階ではおそらく指導者層にとって都合のよいことのみを目指していた。その結果が日本の道徳的な堕落であった。自己中心的な倫理は ーこれを若し倫理と称しうるとしての話だがー 偶像崇拝的である。(同書 p.59)
    なんか、こういうことを見ていると、カルト化した教会ってのは、指導者層にとって都合のようことを目指すカルト的倫理、ってことではないかと思う。それは 大日本帝国カルトが、道徳的に堕落した、と小山先生がご指摘されていることと似ているのだろう。そして、自己正当化、自己義認が起きることが多いキリスト教カルトが道徳的に堕落しやすいことと深い関係にあるのだろうと思う。

      カルト的キリスト教が非常に具合が悪いのは、そうなっていく出発点においては、カルト化しようなんぞという悪い意図がまずあるのではなく、まともに福音を一生懸命伝えようとしているうちに、自分たちが持っている信仰や聖書理解が正しいという政治的な神話を集団内に形成されるのであろう。そして、その挙句の果てに隣人の存在を受け止めず、その聖書とのずれが拡大していった結果として、道徳的な堕落に陥っていきやすくなるのではなかろうか。その結果として、カルト教団内に不道徳が、倫理の名のもとに、倫理と誤解されて、広がっていくところにあるのではないか、とも思うのだ。そして、出来上がっていくものは、キリスト教の名を騙る偶像崇拝的な疑似キリスト教的なものを核に据えた、疑似キリスト教的な社会集団になってしまうのかもしれない。

     何とも残念なことである。


     次回 「第4章 聖なる神は偶像崇拝を拒否する」 へ続く。



    コメント
    コメントする








     
    Calendar
    1234567
    891011121314
    15161718192021
    22232425262728
    2930     
    << September 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM