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2015.02.04 Wednesday

『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(5)

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    『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(1)

    『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(2)

    『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(3)

    『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(4)

    では、第1回でヘッシェルからの小山さんへの影響とその視点から考え始めた問題、第2回第3回で、「富士山とシナイ山」 の本による精神世界の比較の中での神への関係性の違い(聖書では、神と人との断絶、神が降りてくる、人間側に神が近づく、に対し、アジア的な信仰では、神 (仏)と人間との連続性、人間側が神に近づく、人間側から神の世界へ移る)をふれてきた。そして、戦争がはじまったころ、日本のキリスト者が国家に対してした宣言とそこで抱えた不安、その背景にある神道理解について触れてきた。
     戦争のころ、現人神(あらひとがみ)と呼ばれた方が開戦に関してどのようであったのかということを示した部分から考えてみたい。

    黙って聞く神、その意図を推測し、
    自分に引き寄せ理解する民
     ところで、東條英樹の開戦直前の御前会議を締めくくることばとして、臣民は責任を自覚しており、陛下の開戦のご英慮に従い、戦争での勝利に邁進し、陛下の御心を平安にし奉るべく粉骨砕身する旨の所見を以て締めくくったことが記されている。

     そして、次のような小山先生による表現がある。

      記録によると、その日の会議中「天皇陛下は声明がなされるごとに同意のしるしにうなづかれ、不機嫌そうな表情は見せなかったという。陛下はご機嫌うるわし くあらせられ、我々は畏れ多い気持ちに満たされていた!」出席者は「畏れ戦き」、「恐れ多い気持ちで満たされていた!」神聖な天皇は人の言葉を話さず、黙 してうなずいた!神聖な方であるゆえに、天皇は歴史を超えている。(『富士山とシナイ山』p.39)

     こういう精神があったことを小山先生は伝えておられる。だからこそ、国民に向かって天皇がラジオで終戦の詔勅が流れたとき、あり得ないことが起きたことを国民は悟ったのである。神は人間の言葉をしゃべることはなく、静かに聞き取る存在として想定されていたのだと思われる。丁度、神社の神が、祈る我等の言葉にいちいち反応すると想定していないように。

    国家の責任者の責任回避と御聖断

     その段階での政府担当者たちの態度と責任に関して次のようなことを記載しておられる。かなり激しい言葉ではあるが引用する。

     この危機的瞬間において、国家の指導者たちはまともな人間として持つべき責任感を棄てた。この運命的決断を下すために集まったにもかかわらず、彼らの一人が「人間性を超えた方」であるがゆえにその決断に対して責任を感じたものは一人もいなかったのである。人間の水準を超え、歴史を超え、人間的道徳を超えた存在としての天皇が、決断を下したのだ。指導者たちは必要に応じて自己正当化のためにこの超歴史的人物を引き合いに出すことができた。彼らは「畏れ戦いた」が、同時に同胞国民に対して責任を取る義務から解放されたのである。天皇崇拝を強制されたが自らの福祉のために天皇を用いえぬ国民は苦難にさらされた。(pp.39-40)

     なんだかなぁ、であるが、結局当時の指導者の皆さんは、「おまわりさん、決断したのはこの人です」と天皇のご聖断を持ち出し、自らは責任逃れをし、天皇のご聖断に面倒なことを全部おっかぶせ、そのうえで、適当に自分の思いをビシバシとはめていったということなのではないだろうか。しかし、そういうことのできない人々は割を食ったということなのだろう。とは言いながら、民の中にもうまい汁を吸った人はいたような気がして、そのあたり、指導者と民、みたいな単純な理解はまずいかなぁ、と思う。

    教会における「おこころ」と御聖断

     しかし、私たちも同じことを教会の中でしているかもしれない。天皇を聖書あるいは聖書の神に置き換え、指導者たちを自分(信徒)たちに置き換えれば同じことではないか。聖書の言葉に責任をおっかぶせ、「聖書がこう語っている」と聖書を担ぎ出し、さも信仰深い顔をしながら、自分の利益を誘導するように「神様からのお導きがありました」といい、本来神の前にとるべき責任を放棄し、神を引き合いに出して、自己の責任を回避していないだろうか。正直に言う。ミーちゃんはーちゃんはこれをやったことがある。反省することしかできないが。

     〔見解や視野の狭さを意味する〕parochialism の語源は、人間の現実感が自分の教区の範囲内に限定されていることを意味する地理的な概念であるが、その重大な意味があらわになるのは、その精神的及び知的含意を念頭において理解されるときである。(中略)全ての国家は独善的である。こうした根本的な意味において、すべての国は偏狭な世界観を持っている。(p.43)
     しかし、「parochialismの語が、(中略)精神的及び知的含意を念頭に理解されるところである」というところを見て、これ、今日の日本のキリスト教界を見るように思った。これを現代の日本のキリスト教界に合わせると、キリスト者の現実感が、自分の教会ないし自分の教会を含むキリスト教軍の範囲内に限定されていることを示す概念である。つまり、教会が独善に陥ることの原因が、実は、無知、相対化ができないこと、他者を知らず、他者を尊敬できないところにあるのではないか、と思う。そして、教会は独善的になっているのかもしれない。そうでないところや、そうでない方を存じ上げているが、それがどれほどあるかに関しては、少し疑問。そのいみで、すべてのキリスト教とキリスト者は、偏狭な世界観を持っているのかもしれない。このあたりの反省は非常に重要ではないか、と思う。

    世界の中心でおこころを叫ぶ
    そして他者を断罪する
     最期が、この第2章のタイトル「偏狭な土俗神ー魅力的だが破壊的な神」のイメージと深くかかわる言葉で締めくくられている。

     私は神について二つのイメージを持っている。一つは地方限定の偏狭な神、もう一つは普遍的な公正な神である。どうやら両者には緊張関係があるらしい。この緊張関係はヒロシマ以来私にとって生命をかけた精神的戦いとなり続けた。地方限定の偏狭な神に対する崇拝は、〔日本の場合〕天皇への強制的献身の形式をとった。多神教的日本が一神教的国家となったのである。国民は徐々に自分たちも神聖な民だと感じるようになった。国家神という制度の下では、おのずから日本は世界の中心に位置するようになる。日本のすることはなんであれ「正しき天の御旨」の表現と考えられるようになり、したがってこれを疑う者はだれであれ国賊となった。
     (中略)

    日本の神は日本語しか話せない。国際的経験がないので、当然、視野が狭くなる。指導者たちが日本精神と「正しき天の御旨」とを同一視したとき、この偏狭な自国中心主義が世界誌の地平に姿を現した。ここでは本質的に有限なるものが無限の意義を与えられたのではないだろうか。(p.44)

     一部の方は、地方限定の偏狭な神、とか、「視野が狭い」とか、大激怒を誘発しかねない表現が見られるが、文句があるなら、故小山先生におねがいしたい。ミーちゃんはーちゃんがこれを取り上げているのは、実は、この構造が、現在の日本のキリスト教界に時に見られるように思うからである。というのは、自分自身の御旨(お心)を、神の御心とし、自分は本来全くせいではない罪あるもの、かけあるもの、不完全なものでありながら、「自分たちも神聖な民」であると思い込んでいないだろうか。また、われわれが「本質的に有限なるもの」であることを忘れ、「無限の意義」があると思い込んでいないだろうか。

     そして、自分と自分たちの教会をキリスト教界の中心に位置させてはいないだろうか。挙句の果てに、自分たちや自分の教会がすることはなんであれ、「正しき神の御こころ」の表現と考えこれを疑う者はだれであれ悪魔の手先としていないだろうか。仮に自分の考えを疑うものが牧師や教会のメンバーであっても、牧師やメンバーが不信仰であると責め、悪魔の手先呼ばわり、けがれている呼ばわりしていないだろうか。神の愛の家で。実に残念なことである。

     何、これは、日本だけの特性でないことは、イエスの言葉に明らかである。まぁ、日本ではまだ顕彰碑が立っている人はいないかもしれないが。

    ルカ

     11:47 あなたがたは、わざわいである。預言者たちの碑を建てるが、しかし彼らを殺したのは、あなたがたの先祖であったのだ。
     11:48 だから、あなたがたは、自分の先祖のしわざに同意する証人なのだ。先祖が彼らを殺し、あなたがたがその碑を建てるのだから。
     11:49 それゆえに、『神の知恵』も言っている、『わたしは預言者と使徒とを彼らにつかわすが、彼らはそのうちのある者を殺したり、迫害したりするであろう』。
     11:50 それで、アベルの血から祭壇と神殿との間で殺されたザカリヤの血に至るまで、世の初めから流されてきたすべての預言者の血について、この時代がその責任を問われる。
     11:51 そうだ、あなたがたに言っておく、この時代がその責任を問われるであろう。

    【口語訳による】

     次々回に第3章にはいるよ予定。しかし、当面終わりそうにないですね。なんか、大連載になりそうな予想。この本は、ジョン・H・ヨーダーの神学を読んで以来の知的興奮状態なんですなぁ。まぁ、それもきっついので、次回は軽めの話題を適当に休み入れようか、と思っています。



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