<< 2015年1月のアクセス記録とご清覧御礼 | main | 『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(5) >>
2015.02.02 Monday

『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(4)

0


    Pocket

     これまでの連載


    『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(1)

    『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(2)

    『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(3)


    では、第1回でヘッシェルからの小山さんへの影響とその視点から考え始めた問題、第2回第3回で、「富士山とシナイ山」の本による精神世界の比較の中での神への関係性の違い(聖書では、神と人との断絶、神が降りてくる、人間側に神が近づく、に対し、アジア的な信仰では、神(仏)と人間との連続性、人間側が神に近づく、人間側から神の世界へ移る)をふれてきた。

    国家と国民に関する
    ミーちゃんはーちゃん的理解

     今日から数次にわたり、いよいよ戦争中に起きた問題について触れる。これに関しては、山崎ランサム様が公開しておられるし、伊那谷牧師様もきちんと資料をご提示してくださっている。国策(国家の政策)としての方針があるからと言って、それに国民が粉骨砕身すべきというような理念系は持ち合わせていないので、当時ならば、ミーちゃんはーちゃんは非国民と呼ばれたであろう。国家より大事なのは、個であり、個人であり、個人からなる国民であると思っている。国家を守るために国民があるのではなくて、国民を守るために国家があるのだとおもっているし、それをしない国家は見捨てられる。それが投票による革命であろうと、国外脱出という足による投票であろうと。

     世界史を見てみればわかるが、国民国家なんてのは、この300年くらいのたわごとである。一応、現在社会通念上、与件となっているので、一応の評価はしている。ただ、国家が国民を守る装置というのは、世界史で普遍的にみられる概念だと思う。

    異教的エキュメニズムとしての
    日本の国粋主義イデオロギー

     1931年日本が満州に軍隊を派遣して開戦し〔満州事変〕1945年の敗戦まで続けた15年間、日本の指導者たちはアジアとアジア以外の自国国民及び他の諸民族に対して悪魔的な激越さに達する暴力をふるい続けた。政府の政策に批判的だった日本国民は地位から追放されたり、暗殺すらされた。右翼的指導者たちが絶対権力を掌握し、天皇崇拝の慣例が全国民に強制された。「世界の果てまで及ぶ天皇の御稜威(みいつ)」、つまり異教エキュメニズムの一種が国粋主義イデオロギーの本質であった。その結果、〔国民の〕精神的および身体的諸力のすべてが天皇制の力によって呑み込まれ、後者は傍若無人に勢力を拡大していった。それはまさしく異教的「栄光の神学」であった。(『富士山とシナイ山』 p.34)

     これミーちゃんはーちゃんが書いたわけではないですから。小山先生が書いていらっしゃるのですが、個人的には、痛いほど、あたっていると思います。まさに、小山先生がご指摘のように、キリスト教界が異教的エキュメニズムに飲み込まれたからこそ、「日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰」等という重篤な厨2病患者的言辞に満ち溢れた文書を日本のキリスト教会が、ホイホイとアジア諸国に送るという黒歴史が生まれたのだと思います。

     戦争期にこれらのことの具体的事例を敬愛してやまない、伊那谷牧師先生がここの所ご紹介いただいております。なんとありがたいことか。


    第1回 70年前の戦時下における福音派教会の文書(1)「大東亜戦争と我等の覚悟」
       土山鉄二
    第2回 70年前の戦時下における福音派教会の文書(2)「皇道と基督教」
       亀谷凌雲(「仏教からキリストへ」の著者として有名)

    第3回 70年前の戦時下における福音派教会の文書(3)「海外伝道」
       喜田川 廣

    第4回 70年前の戦時下における福音派教会の文書(4)「新体制下における日本聖化基督教団の成立とその使命」
       土山鉄次

    第5回 70年前の戦時下における福音派教会の文書(5)「兵隊さんへ ヨイコドモの慰問文」
      これはきつかった。


      
    日本のキリスト者がした宣言
     こういう文書を読んで、反省するのも面白いのですが、それはまた別の機会に。小山先生の文章に戻りましょう。青山学院に2万人のキリスト教徒がいる前で、次のような宣言がされたらしい。(原文はカタカナ交じり文の句読点なしらしいので、翻訳者の森泉さまが直してくださったものを採録したい。

    神武天皇国を肇めたまひしより茲に2600年皇統連綿として弥弥光輝を宇内(=世界)に放つ。この栄えある歴史を懐うて、吾等転た感激に耐えさる者あり。本日全国にある基督教徒相会し、虔んて天皇陛下の万歳を寿き奉る。惟うに現下の世界情勢は極めて波乱多く、一刻の偸安(=かりそめの安心)を許ささるものあり。
    西に欧州の戦禍あり。東に支那事変ありて、今たその終結を見す。この渦中にありて我が国は能くその針路を謬ることなく国運国力の進展を見つつあり。是れ寔に天佑の然らしむる所にして、一君万民尊厳無比なるわが国体に基くものとして信して疑わす。今や此の世界の変局に処し、国家は体制を新たにし、大東亜秩序の建設にまい進しつつあり。吾等基督教徒も亦之に応し、教会教派の別を棄て、合同一致以て国民精神指導の大業に参加し、進んて大政を翼賛し奉り尽忠報国の誠を致さんとす。
    依て茲に我等は此記念すへき日に方り左の宣言をなす。
    1.吾等は基督の福音を伝へ、救霊の使命を完ふせんことを期す。
    1.吾等は善キリスト教会合同の完成を期す。
    1.吾等は精神の作興、道義の工場、生活の刷新を期す。

    右宣言す。
    昭和15年10月17日
    皇紀2600年奉祝全国キリスト教信徒大会
    (昭和15年10月24日「キリスト教世界」第2951号)(前掲書 p.37-38)


    でも、これでもわからりにくいでしょうから、ローラ語風に翻訳してみたいと思います。
    神武天皇ってひとがねぇ、なんか日本って国を始めたってことになっている年から、大体今年でさ、2600年になるらしいんだけど、天皇さん家はさ、ずーっと続いているらしくって、それってすごいじゃない。世界でもめったにないことなんで、すごいんだから。こういうすごいことを思っていてると、ネぇ、みんな、感激しない?あのねぇ、今日日本全国のキリスト教の関係者の人があつまってね、天皇陛下さん家がさぁ、長く続くといいなぁ、とお祝いしたいのよ。いろいろ考えてみるとねぇ、よくわかんないけどぉ、今の状態ってのは、いろいろごたごたしてるじゃない。ちょっとの間だってさぁ、安心もできないくらいに。
    西の方見たら、ヨーロッパで戦争してるでしょ。東のほうではさぁ、品事変があって、未だに固唾居ちゃったりしてないじゃない。でも、こんな時でもさぁ、日本の国はうまくやってるんで、國がうまくやれてるじゃない。これは、きっと点が助けてくれているんだけど、その背景には、天皇を中心とした国があって、それがものすごーく立派からで、日本の国のあり方が立派なものだからなんだと思うんだよね。今ね、世の中が変わっているでしょう、だからぁ、國はやり方を変えて、アジアのみんなのための望ましい在り方を作り出そうとしてんじゃん。だから、キリスト教のみんなも、これに合わせて、教会とか、教派とかなんかに関係なく、みんな一緒になって、日本人全体のさぁ、精神的なことをよくすることを一緒にやって、自分自身から天皇を中心とした政治に協力してさぁ、天皇さんたちのために、国のために何かやるために一生懸命してみよっかなぁ、と思うんだよねぇ。

     だから、今この特別のいい日にね、こんな宣言してみよっかなぁ、って思ちゃってね。

    湊川神社で参拝された神戸高商(現神戸大学)の皆さん
    神戸大学様のサイトから


    国家への忠誠とは何か

     この部分に続いて、小山先生は次のように書いておられる。

     カトリックとプロテスタントを含む日本のキリスト教界は、「カエサルの物はカエサルに、神のものは神に返せ」(マルコ12章17節)というイエスの言葉が突如のっぴきならぬ重大性を帯びるに至る危機的な状況に置かれた。イエス・キリストの名と天皇の名が対立した。日本のキリスト教徒たちは自ら発した宣言に一抹の不安を感じた。国家が国民に天皇への絶対的忠誠を要求するということは、カエサルの名において本来神に属する事柄に対する支配権を簒奪する行為を意味するのではないかと。全ての事柄が国家に属する全体主義の下では、イエス・キリストの御名は日本帝国の栄光をたたえる国家主義的イデオロギーに従属させられる。(前掲書 p.37)

     この部分を読みながら、国家への忠誠ということを考えた。本来、国家に対する忠誠は無条件的忠誠なのだろうか、と。あるいは、キリストあるいはメシアに対する忠誠と何が違うのだろうか、と。そもそも、絶対的忠誠ということがありうるのだろうか、ということを。

     何、国家を転覆してみたい、とか、反逆してみたいというのではない。

     国家が国民を守るための装置であるとするならば、それが国民を守らないことを知りながら、それに無条件に忠誠を果たすことは意味があるのだろうか、ということを考えたいだけである。仕事先に対しても同じことである。

    ブラック企業ならぬブラック国家
     以前、働くことについていくつか書いているが、個人が労働時間と才能を提供してその対価としての賃金(給与という)を得るという対等の関係であるはずのものに、過剰な思い入れをすることを求め、本来以上の関係性を強いて、特定の企業に忠誠を果たすことを求めた企業を、人はブラック企業と呼ぶのだろう。

     その伝でいえば、国家が個人に絶対的忠誠を求めることができるのか問題で言えば、それを求めた瞬間にその国家はブラック国家となるのではないだろうか。

    国家を維持するということ

     諸賢の内には、アメリカで市民権を獲得するときの誓いOath 

    "I hereby declare, on oath, that I absolutely and entirely renounce and abjure all allegiance and fidelity to any foreign prince, potentate, state, or sovereignty, of whom or which I have heretofore been a subject or citizen; that I will support and defend the Constitution and laws of the United States of America against all enemies, foreign and domestic; that I will bear true faith and allegiance to the same; that I will bear arms on behalf of the United States when required by the law; that I will perform noncombatant service in the Armed Forces of the United States when required by the law; that I will perform work of national importance under civilian direction when required by the law; and that I take this obligation freely, without any mental reservation or purpose of evasion; so help me God."


    の中に I will support and defend the Constitution and laws of the United States of America against all enemies, foreign and domestic; とあるではないか、という向きはあろうが、このall enemiesのうちにDomesticが含まれること、また、アメリカ憲法修正第2条には、武装する権利、また、民兵を形成する権利が記載されているが、これは、国民に対して牙をむく国家に対する抑止力という側面もある。大体、アメリカ独立戦争は、国民に対して牙をむく英国という国家からの独立を目指して、国家システムを護持しようとした革命でもあるといってよいのではないだろうか。

    国家システムを何が何でも
    守らないといけない国民は幸せか
     他国のことはよく知らないので、何とも言い難いが、何が何でも国家を守らないといけないとするというのは、本当に国民にとって幸せな国家であろうか、というと、そうでもないように思われる。それが、トウの国家の皆さんにとってお幸せだというなら、そうなのだろう。ミーちゃんはーちゃんはそうは思わないが。

     と書いてきてふと思った。そもそも、全能者である神に絶対的忠誠すら果たせない我らが、他のものに絶対的な忠誠を果たせるという想定そのものが問題だとは思うが。

     余談に行き過ぎた。本論に戻す。

    何に価値を置くか問題
    何を愛するか問題

     問題は国家への忠誠というよりは、何に我々が価値を置くか、というところが問題なのだと思う。キリストが先なのか、日本という国家の栄光が優先なのかが問われたのだと思う。聖書は神を超えて、国家を優先することがよいのか?と言っているような気がする。特に旧約聖書は。次の箇所を思いめぐらしている。皆さんよくご存じの申命記6章である。

     6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。
     6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。(口語訳聖書申命記から)
    尽すのは、国家ではなく、私の神、主のような気がするが。「主」を「アメリカ合衆国」に変えたり、「日本国」に変えたら、モーセ爺さん大激怒してきそうな気がする。小山先生は、そのことをシナイ山と富士山いう言葉で表彰しておられるような気がする。

    神社参拝は国家的慣習?


     神社参拝令について小山先生は次のように書いておられる。

     神社参拝令の布告は、とりわけ日本の植民地だった朝鮮においてあの対立〔イエス・キリストの名と天皇の名の〕を先鋭化した。日本政府によって提案されたプロテスタント側の指導者層の一部によって受け入れられた解釈は、どちらかといえば単純だった。そもそも神道は宗教の範疇には入らない。国家的慣習であると。即ち天皇の御真影に敬意を払うことを宗教的行為とみなす必要はない。日本国民の国家的慣習の一部であるというのである。こうした解決法は天皇の御真影に頭を垂れながら教会においては神に礼拝をささげるという矛盾を理論上除外する。当時の日本キリスト教団統理、富田満は、はるばる朝鮮にまで足を延ばす全国旅行をして、政府は教会を迫害してはいない、日本人の通常の生活様式の一部であるもの、即ち神社で皇室に対して臣従の例をささげることをキリスト教徒に要請しているにすぎないと説得した。こうした主張は朝鮮では最も無力であった。かの地のキリスト教とは天皇崇拝とイエス・キリストを主として崇めることは両立不可能であると力説してやまなかったからである。この確信ゆえに朝鮮では殉教者の血が流れた。(pp.37-38)

     この部分の記述を見ながら、また、この連載の発端となった「日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰」を見ながら思うことであるが、この人たちは、意図的かどうかは別として、呪文のように「国家神道は習慣である」「国家神道は日本の文化である」「国家神道は宗教的行為ではない」と人々に言い聞かせながら、自分にも言い聞かせることで、自分たちもだまそうとしていたのではないか、と思うのだ。

     ここに朝鮮に富田さんという方が出かけて行った時の話が出ているが、朝鮮半島で「国家神道は習慣である」「国家神道は日本の文化である」と言ったら総スカンを食ったという話が出てくる。

    韓国独立運動とキリスト教

     現在の韓国のキリスト教の隆盛の背景には、もちろん他の要因も多数あることは事実であるが、実は反日独立運動とキリスト教が、国家神道の神社参拝令への反対ということとダイレクトに結びついたからではないか、と思うのだ。朝鮮半島のキリスト者たちが気骨を以て、神社崇拝、宮城遥拝に断固たる態度を示したからこそ、それが反日独立運動ともつながっていったのであろうし、戦後その姿が評価されたようにも思えてならない。ただ、学生時分の大韓民国出身の友人によれば、韓国のキリスト教にも、儒教なのではないかと思われる節が多々あるようにもあるらしい。それは日本のキリスト教でも先祖崇拝のところが出てないだけで、年功序列型の長老(年長者)支配と年長者の思い付きで教会や教団が振り回される姿などは、基本的に同じではないかと思えてならない。

     次回開戦時期をめぐる記述から神と人の関係を考えるへそして、偏狭な神をどう考えるか、ということへと続く。

     
     

    コメント
    コメントする








     
    Calendar
    1234567
    891011121314
    15161718192021
    22232425262728
    2930     
    << September 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM